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【成人向き】蜜の朝餐(デジュネ)~氷の女帝、理性の崩壊~【中編】

目次

【成人向き】おはよ♡昨日はすごかったね、朝ごはん作ったよ♡チュッ♡【中編】

前編→


第六章 午後三時の情熱(エラー)――雌としての論理崩壊

……最悪だ。 三杯目のブラックコーヒーを喉に流し込んでも、脳髄に立ち込めた桃色の霧が晴れない。 二日酔い? いいえ、これはもっと質の悪い、遅効性の恋という名の熱病だ。
私はモニターに映るエクセルシートを睨みつける。 本来なら美しい秩序であるはずの数字の羅列が、今はただの無意味な記号に見える。脳のメモリを不当に占拠しているのは、昨夜の居酒屋の映像――いや、あの「感触」だ。
琥珀色の液体に溶かされた私の理性。だらしなく唇を緩める自分。 そして――あまりに近い距離で、私の太腿に触れた、若い雄(おす)の体温。
(ありえない。……システム・エラーよ)
私はこめかみを指で強く押さえる。 勤務中に、部下の体温を思い出して股間を熱くする三十四歳の管理職? 社会通念(コンプライアンス)というフィルターを通せば、即座に削除(デリート)対象だ。
それなのに。 ――「……玲子さん」 私の名を呼んだ彼の、あの低く掠れた声だけが、壊れたレコードのように脳内でリフレインし、そのたびに私の奥をきゅん、と甘く締め付ける。
(言わせてない。私の辞書に、部下に名を呼ばせて悦ぶような項目はない)
私はこれまで、職場という戦場で常に「一線」を引いてきた。 三十四歳という年齢の崖っぷち、上司という孤独な立場、そして《氷の女帝》という鎧。 なのに、なぜか彼の前でだけ――その鉄壁のファイアウォールが、あまりに簡単に、ぬるりと突破されてしまう。
(あれは、単なる人的資源管理(マネジメント)の一環) (放っておくと、彼は栄養失調で倒れるから) (貴重な戦力を維持するための、メンテナンス)
理由は完璧だ。論理も通っている。 ……なのに。
『この顔、私だけのものだから』
昨夜、自分が口にしたであろうそのフレーズが、呪文のように蘇る。 (……最悪) そんな独占欲丸出しの台詞、重すぎる。質量保存の法則を無視するほどの重力で、彼を縛り付けようとしている。
私は「ババあ」だ。自覚はある。 若い果実のような張りはないかもしれない。けれど、腐る寸前の果実だけが持つ、芳醇で危険な香り(フェロモン)が、今の私にはあるはずだ。 心が、身体が、彼を求めてエラーを吐き続ける。
昼休み、給湯室で彼に声をかけた時。 周囲の視線を気にして、声を潜め、上目遣いで彼を見た自分。 まるで、社内恋愛に溺れる発情した女子社員のような振る舞い。 (……何をやっているのよ、私は) 職場では誰も寄せ付けない孤高の華。それが私の生存戦略だったはずだ。 なのに彼は、その冷たい仮面の下にある、だらしなく濡れた「女」の部分を知っている。
朝五時半のキッチン。 彼のために、白身がなくなるまで入念に撹拌(かくはん)した卵液。 彼が起きる時間に合わせて、秒単位で計算して焼き上げたトースト。 あれは、ただの料理ではない。私の体液を分け与えるような、一種の儀式。
(……あれは、単に暇だっただけ) (誰にでもやる、ただのホスピタリティ)
――嘘だ。 特別すぎる。 だからこそ、私は今、こんなにも甘い自己嫌悪に溺れているのだ。

午後の会議。 彼が提出した資料に目を通す。 ……悔しいけれど、よくできている。私の思考回路(ロジック)を完全にトレースし、私が欲しい答えを先回りして用意している。まるで、ベッドの中で私の性感帯を熟知しているかのように。
「……ここは、よくできてるわ」
喉の奥から、想定よりも遥かに甘く、粘着質な声が滑り落ちた。 しまった、と思った瞬間、彼と視線が絡み合う。 一瞬。永遠にも似た、ほんの一瞬の交錯。 眼鏡の奥の彼の瞳が、オスの色を帯びたのを私は見逃さなかった。
(……気づかないで。私の動揺を、その下半身で読み取らないで)
私は慌てて視線を逸らし、冷徹な上司の仮面を貼り直す。けれど、スカートの中の太腿は、小刻みに震えていた。

定時が近づく。 帰り支度をしながら、私はひとつの決断を下す。 (今日は、距離を取る) 昨日の失態は、思い出さない。触れない。なかったことにする。 記憶のフォーマット。それが大人の女の処世術だ。これ以上深入りすれば、私が私でいられなくなる。
「……今日は早く帰りなさい」
自分でも耳を疑うほど、慈愛に満ちた、母性的な響きだった。 彼が、ふわりと笑った。 (……だめ) その無防備な笑顔は、ルール違反だ。部下が上司に向ける顔ではない。それは、飼い犬が主人に向ける、全幅の信頼と愛情の顔だ。 私が必死に構築してきた防衛線を、彼は土足で、しかも無邪気に踏み越えてくる。
オフィスを出る時、私は意識して彼との距離を開け、歩幅を広げた。 逃げるように。拒絶するように。 ……なのに。 すれ違いざま、彼の肩に、私の肩を――いや、私の胸の膨らみを、ほんの一瞬、擦り付けた。
(……わざとじゃない。引力に負けただけ)
そう言い訳する自分の心が、一番信用ならない。 私の肉体は、彼の残り香を求めて、勝手に動いてしまうのだから。

夜。 ひとりきりの広いベッド。 冷たいシーツに包まり、自分の太腿を抱きしめながら、天井を見つめる。
「……ずるい」
昨夜、彼に向けた自分の声が、耳の奥で熱を帯びて蘇る。 (本当に、ずるいのは――) 誘ったのも、甘えたのも、料理で胃袋を掴みにいったのも、全部私だ。
私は目を閉じる。 明日になれば、また完璧な鬼上司に戻る。 部下を指導し、数字を管理し、氷の微笑で男たちを支配する。 それでいい。それが正しい。
……でも。
(明日の朝ごはんは、  ……昨夜(ゆうべ)酷使させた胃を癒やすために、  出汁をたっぷりと含ませた、優しい卵雑炊にしよう)
「距離を取る」と誓った舌の根も乾かぬうちに、明日の餌付け(メニュー)を考えている自分。 彼を私の味で満たし、支配し、私なしでは生きられないように作り変えたいと願う自分。
そんな救いようのない、愛すべき愚かな雌(わたし)に、私は静かに、そして甘やかに絶望した。


『第七章 午前八時五十五分、氷の女帝の不器用な撤退戦』

その朝、オフィスの空気は、南極のクレバスの底のように凍てついていた。 いや、正確には彼女の半径一メートル以内だけが、絶対零度の結界によって外界から遮断されていたのだ。
「おはようございます」 「……」
返ってきたのは、言葉ですらない、冷ややかな視線の一瞥(いちべつ)。 いつもなら、「ネクタイが歪んでいるわよ」と指先で直し、その残り香で俺を惑わせるはずの時間帯。だが今、そこにあるのは完全なる「無視」という名の暴力だ。
――来たな。 俺は冷静に、だが下腹部の奥で微かな興奮を覚えながら戦況を分析する。 昨夜の「記憶の奔流(フラッシュバック)」地獄を経て、彼女はひとつの結論を導き出したのだ。 『距離を取る』。 それは、あまりに分かりやすく、そしてあまりに不器用な、三十四歳の防衛本能だった。
彼女の行動は徹底していた。 まず、物理的な接近を拒絶する。 質問があっても、口頭ではなくチャットツールを使用。しかも、その文面はAIが生成したかのように無機質かつ冷淡だ。
『左記の件、至急確認されたし』 『プロセスを進行せよ』
……誰ですか、あなたは。 俺の知る、昨夜「名前で呼んで」と涙目で懇願し、俺の肩に涎(よだれ)の跡を残して眠った淫らな女性はどこへ消えたのか。 だが、その冷たい文字列を打ち込んでいるのが、昨夜俺を求めたあの熱い指先だと思うと、俺は奇妙な被虐の悦びに震えた。
午前中の会議でも、その「プレイ」は続いた。 「具体性に欠けるわ」 「論拠が薄弱」
指摘は鋭利なナイフのように的確だ。だが、その声には体温がない。 新入社員たちは「今日の先輩、機嫌が良いですね(怒鳴らないから)」と安堵しているが、俺には分かる。 これは冷静なのではない。彼女は今、俺との間に引くべき境界線を、ミリ単位で測量し、必死に理性という名の堤防を築いているのだ。

昼休み。 いつもなら給湯室で鉢合わせ、湯気の中で視線が絡み合う、秘密の情事の時間。 ――彼女は、来ない。
俺がコーヒーを淹れ終わり、諦めて部屋を出ようとしたその時、遅れて彼女が入ってきた。 「……」 沈黙。 狭い密室で、一瞬だけ視線が交錯する。だが、それは瞬きする間に遮断された。
「……お疲れさまです」 「ええ。……どいて」
それだけ。あまりに余所余所しい、ガラス越しの会話。 (ああ、これは完全に鉄のカーテンを下ろしたな) そう確信し、すれ違おうとしたその瞬間だった。彼女の唇が、蚊の鳴くような音量で震えた。
「……ちゃんと、昼……食べた?」
囁くような小声。 周囲の気配を過剰に警戒しながらの、密やかな問いかけ。
「はい?」 「聞こえないなら、いいわ」 「いえ、聞こえましたけど」
先輩は一瞬、スカートの中を見られたかのようにビクリと肩を跳ねさせた。そして慌てて、もっともらしい理由を早口で並べ立てる。
「……業務に支障が出るからよ。あなたが倒れたら、私の管理責任になる」 「昼食の有無でですか?」 「そうよ。……それに」
彼女は視線を彷徨わせ、言い訳を探すように唇を噛んだ。その唇は、血が滲むほど赤い。
「朝、……重かったでしょ? 胃が」 「……先輩、覚えてます?」 「覚えてないわよっ!」
即座の否定。だが、声のボリュームが制御できていない。 周囲の視線を感じたのか、彼女は小さく咳払いをし、耳まで熟れた色に染めてうつむいた。
「……あの愛(りょうり)は、ただの栄養補給よ。他意はないわ」 「ええ、分かっています。重すぎて、まだ俺の中に残っていますけどね」
俺の言葉に、彼女はハッとして顔を上げた。その瞳が、一瞬だけ潤む。 「……仕事、戻るわね」
逃げるように去っていくその背中。 きつく締め上げられたタイトスカートのヒップラインが、彼女の動揺を物語るように揺れていた。 (先輩、全然距離取れてませんよ)

午後。 提出した資料が、光の速さで修正されて戻ってきた。 内容は的確で、完璧なロジックだ。 だが、そのチャットの末尾に添えられた一文が、全てを台無しにしていた。
『追伸:無理してないか。体調は自己管理すること。……顔色が悪い』
――ただの業務連絡にしては、湿度が高すぎる。 どうやら彼女の指先は、脳の指令よりも正直に、俺への執着を綴ってしまうらしい。
定時前。 俺が席を立とうとした瞬間、背後から凛とした、しかしどこか濡れた声がした。
「……今日は残業、許可しないわ」
振り返ると、先輩が立っていた。 いつもより一歩分、意識的な距離を保って。 「珍しいですね。嵐でも来ますか?」 「効率がいいからよ。それだけ」
嘘だ。その瞳が、揺れている。
「先輩」 「なによ」 「もしかして、俺と距離、取ろうとしてます?」
一瞬、世界の時が止まった。 図星を突かれた彼女は、視線を泳がせ、そして強がった。
「……取ってない」 「今、致命的な間(ま)がありましたけど」 「気のせいよ」
耳が赤い。夕日のせいではない。内側から湧き上がる情熱が、彼女の皮膚を染め上げているのだ。 「仕事と私情は、分けてるだけ。……私は、プロだから」 「つまり、私情はあるんですね」 「……っ、言葉尻を捕まえないで」
完全に動揺している。 氷の女王の仮面は、すでにヒビだらけで、その隙間から甘い蜜が溢れ出していた。
「先輩」 「なに」 「無理しなくていいですよ。そのままで」
俺の言葉に、先輩は驚いたように目を見開き、そして少しだけ目を細めた。 それは、諦めにも似た、甘美な敗北の表情。
「……あなたが、無防備すぎるのよ」 「俺ですか?」 「そう」
ぽつり、と彼女が零す。 「……放っておけない顔、するから。……食べたくなっちゃうじゃない」
最後の言葉は、聞き取れないほどの独り言だった。 自分の発言の危険さに気づいたのか、彼女は弾かれたように背を向けた。
「……今日は、もう帰りなさい」 「はい」

エレベーター前。 偶然を装って、俺たちは並んだ。 沈黙。だが、それは冷たい沈黙ではなく、互いの体温とフェロモンを感じ合うための、濃密な静寂だ。
「……明日から」
鉄の扉を見つめたまま、先輩が呟く。 「明日から?」 「……もう少し、ちゃんと距離取るから」
高らかな宣言。 チン、と音がして扉が開き、俺たちは鉄の箱という密室に閉じ込められる。 重力が俺たちの体を下へと運ぶ中、独特の浮遊感の中で、彼女は消え入りそうな声で付け加えた。
「……だから、明日の朝ごはんは、軽めにする」
――距離とは、一体。 俺は危うく吹き出しそうになるのを堪え、下半身の疼きを抑え込んだ。 「距離を置く」と言いながら、明日の朝、俺の部屋に来てエプロンを纏うことは確定事項なのだ。
「……分かりました。楽しみにしています」 「……勘違いしないでよ。ただの、健康管理だから」
一階に到着する。 扉が開く。 先輩は先に降り、カツカツとヒールを鳴らして歩き出す。 そのリズムは、昼間の冷徹なそれとは違い、雄を誘うように艶かしく、そしてゆっくりと、俺が追いつくのを待っていた。
今日も東京の夕方は慌ただしく、街は発情した恋人たちで溢れている。 俺はその愛おしい背中を見つめながら思う。 この人が必死に制御しようとしている一番手強い相手は、俺ではなく―― 崩壊寸前の、彼女自身の理性(ダム)なのだと。


『第八章 三日目の陥落 ――禁断症状と、甘い白旗――』

結論から言おう。 彼女が高らかに築き上げた「距離を置く」という名の氷の城壁は、三日ともたずに崩落した。歴史に残るスピード決着である。
初日は完璧だった。 彼女は鉄のカーテンを下ろした。業務連絡は全てチャットツールという無機質な回線を通し、口頭での会話には必ず第三者という「立会人」を同席させる徹底ぶり。 視線はモニターに固定され、俺の存在はオフィスの背景(モブ)と同化した。 「最近の先輩、クールで素敵ですね」と新入社員たちは目を輝かせていたが、俺は知っている。 あれはクール(冷静)ではない。あれは、必死(デスパレート)だ。 彼女の太腿は、デスクの下で貧乏ゆすりのように震え、俺という「栄養素」が断たれたことによる禁断症状に耐えていたのだ。
二日目。 鉄壁の要塞に、早くも亀裂が入った。
「……その修正、悪くないわ」
ぽつり。 俺のデスクの横を通り過ぎざまに、吐息と共に落ちてきた独り言のような称賛。 言った直後、彼女自身が「しまった」という顔をして、慌てて咳払いで誤魔化した。 だが、すれ違いざまに残された香水の香りは、いつもより強く、そして甘ったるかった。それは、彼女の発情を隠すための過剰な演出(カモフラージュ)。 「……業務効率的な意味で、よ」 意味の補足はいりません、先輩。そのテンプレートのような言い訳が、むしろ愛おしい。
そして、運命の三日目の朝。 それは決定的だった。 出社した俺の視界に飛び込んできたのは、デスクの上に鎮座する小さな紙袋。 中身は――高級菓子ではない。 コンビニで売られている、とろりとしたヨーグルトと、一本のバナナ。 そこには、几帳面な文字で書かれた付箋が貼られていた。
《昨日、昼が軽そうだったから。……ちゃんと、中に入れて》
――距離とは、一体。 「中に入れて(食べて)」という言葉の響きに、俺は物理法則の崩壊を感じながら、背後に忍び寄った。
「……先輩」 「ひゃっ、な、なによ」
彼女は過敏に反応し、小動物のように肩を跳ねさせた。そのうなじには、じっとりと脂汗が滲んでいる。
「これ」 「……いらないなら、捨てていいわよ」 「距離、取るんじゃなかったんですか?」 「……取ってるわよ。これは、遠隔操作(リモートコントロール)よ」 「ヨーグルトとバナナで、俺の何を操作するつもりですか?」 「……肉体管理よ! 貴方の身体が衰弱するのは、私の損失だから!」
無理がある。投資先がピンポイントすぎる。 そして何より、その二つの食材のセレクトが、彼女の深層心理にある「何か」を雄弁に物語っていた。
午前中の会議。 俺が説明の途中で、言葉に詰まった瞬間だった。
「……あ」 「そこのデータは、前回の事案(ケース)を参照。……2ページ目の4行目よ」
俺が声を出すよりも速い、光速のフォロー。 それは思考するよりも先に、彼女の身体が勝手に反応したかのような、反射レベルの援護射撃だった。彼女は常に、俺の呼吸、俺の間合い、俺の困惑を、まるで自分の臓器のように感じ取っているのだ。
会議後、ハッとした表情で、紅潮した顔を扇ぐ先輩。 「……今のは、偶然。反射神経の誤作動よ」 「はいはい、そういうことにしておきます。愛の誤作動ですね」
昼休み。 「……ちゃんと、食べた?」 三日連続の安否確認。もはや生存確認だ。 「先輩、距離とは」 「うるさい!」 声は鋭いナイフのようだが、その耳朶は熟れたイチゴのように真っ赤に充血している。
午後。 静まり返ったオフィスで、俺が小さく咳き込んだ、その時だった。
「……っ、大丈夫!?」
彼女は椅子を蹴る勢いで立ち上がりかけて、ハッと我に返り、そして糸が切れたようにデスクに突っ伏した。
「……だめだ、私……」
小さな、しかし絶望に近いその濡れた呟きは、俺の鼓膜にしっかりと届いた。 彼女の理性(システム)は、俺の生体反応に対してエラーを吐き続けている。俺の咳ひとつで、彼女の子宮が疼き、母性が暴走するのだ。
定時後。 残業のベルが鳴る頃。 先輩は観念したように、重い足取りで俺のデスクの横に立った。その瞳は、三日間の禁欲でとろんと濁っていた。
「……三日、我慢したわ」 「最短記録ですね。カップラーメン並みです」 「うるさい。……褒めてほしいくらいよ」
しばらくの沈黙。彼女は、絡まった糸を解くように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……距離、取ろうとすると」 「はい」 「逆に、おかしくなるの」
ようやく、言語化された真実。
「あなたがちゃんと食べてるか、誰か他の女と話してないか、私のことを忘れてないか……。意識しないようにすればするほど、私の五感があなたを探知してしまう」 「……先輩、それ、もう」 「言わないで」
彼女は俺の言葉を遮断し、俺のデスクの縁を強く握りしめた。爪が白くなるほどに。
「分かってるから。……論理的じゃないってことは。……女のヒステリーだってことは」 「分かってるけど?」
先輩は深く、熱い溜息を吐いた。それは、三日分の我慢を放出するような、甘い匂いがした。
「……私、無理なのよ。あなたを、放っておくの。……飼い殺しにしておかないと、気が済まないの」
それは、彼女なりの歪んだ愛の告白であり、完全なる降伏宣言だった。 俺は思わず口元を緩めた。
「じゃあ、放っておかないでください。俺も、貴女に飼われたいので」 「……簡単に言うわね。……この、マゾヒスト」
彼女は唇を尖らせたが、その瞳からはもう、迷いの色は消えていた。あるのは、獲物を再び檻に入れた捕食者の安堵だけだ。
帰り道。 ネオンが揺れる東京の夜道。 俺たちは、当たり前のように肩を並べて歩いていた。そこに、もう見えない壁はない。
「……明日からは」 「はい」 「無理に距離取るの、やめる。……監視体制を強化するわ」
一拍置いて、彼女は俺を見上げ、人差し指を俺の胸板に突きつけた。
「でも」 「でも?」 「調子に乗ったら、お仕置きだから。……そこは勘違いしないように」
ツン、復活。 だがそれは、甘えるための口実であり、今夜の情事へのスパイスだ。
「それでいいです。怒って、乱れる先輩も好きなんで」 「……ほんと、ずるい男」
小さく呟いたその声は、都会の喧騒に溶けていった。 夜風が心地よい。 俺は確信する。 この人は、距離を取ってクールに振る舞うよりも、俺の世話を焼き、嫉妬に狂い、感情を揺さぶられて濡れている姿のほうが、ずっと「自然」で、美しいのだと。


『第九章 白昼の漏洩(リーク)――衆人環視下の蜜月』

最初に、その「異変」という名の背徳に気づいたのは、当事者である俺ではなく、鼻の利く観客たちだった。
「……ねえ」
昼休み。隣の席の同期が、コンビニ弁当のフィルムを剥がしながら、下卑た笑みを浮かべて切り出した。
「最近さ、お前とあの女帝……距離感がバグってないか?」
俺の箸が、空中で停止する。 「……そうですか? 業務上の連携ですが」 「いやいや。物理的距離もだけど、精神的距離(メンタル・ディスタンス)がゼロ距離なのよ」
具体的すぎる指摘。同期はニヤリと口角を上げ、残酷な一言を放った。
「前は『鬼上司』って感じだったけど、今はなんか……お前の『匂い』がするんだよ、あの人から」
違う。断じて違う。 だが、全否定できない自分が恨めしい。 毎朝、彼女の作った食事で俺の細胞が作られ、毎晩、彼女の想い(ねんちゃく)を受け止めている俺たちだ。フェロモンのレベルで、すでに混ざり合ってしまっているのかもしれない。

午後の会議でも、その濃密な空気は澱(よど)みのように漂っていた。 俺がプレゼンの最中、ふとロジックの継ぎ目で言葉に詰まった刹那。
「――その点は、補足すると、前四半期のB案を参照すれば明白です」
一拍も置かない、神速の援護射撃。 それは単なる業務フォローではない。俺の呼吸、俺の間合い、俺が次に何を欲しているかを、まるでベッドの中で肌を合わせているかのように完璧に予知した、魂の交合(シンクロ)。
会議室にいた数名が、同時に俺たちに視線を向けた。 「……息、合いすぎじゃないですか? 夫婦(めおと)漫才みたいで」
誰かの冷やかしに、先輩の完璧な背筋が一瞬、ビクリと硬直する。
「……業務上の、効率的な連携です! 深い意味はありません!」
即答。だが、その声の周波数は明らかに平時より高く、上気したような潤みを帯びていた。

会議室を出て、並んで歩く廊下。 彼女は周囲を警戒しながら、唇を動かさずに、熱っぽい吐息だけで囁いてきた。
「……さっきの、中に出しすぎたかしら」 「言葉のチョイスがおかしいです。……フォローしすぎです」 「バレてないわよ。……あくまで、上司としての挿入(アシスト)よ」
否定が早すぎる。その過剰反応こそが、何よりの証拠だというのに。 給湯室に逃げ込んでも、包囲網は狭まっていた。 コーヒーを淹れていると、別部署の女性社員が、獲物を狙う雌豹のような目で近づいてきた。
「最近、あの先輩……貴方の前だと、匂い立つわね」 「そうですか? いつも通りの香水ですよ」 「ううん。香水じゃない。……発情期の雌の匂いよ。絶対零度の氷が溶けて、春の小川になってる」
彼女は信じていない。 女の直感(シックス・センス)は、FBIの捜査網よりも残酷で、そして正確だ。

そして、運命の瞬間(クライマックス)は定時前に訪れた。 俺が同僚と雑談中、「あ、少し喉が痛いかも」と小さく咳き込んだ、その瞬間。
遠くの席にいたはずの先輩が、風のような速さで――いや、テレポーテーションでもしたかのような速度で、俺の背後に立っていた。
「……! ちょっと、無理してない!?」
白く細い手が、躊躇なく俺の額と首筋に伸びる。 その瞬間、オフィスの時間が停止した。 キーボードを叩く音、コピー機の稼働音、話し声。すべてが消え失せ、真空のような静寂が支配する。
全員の視線が、俺の首筋に触れる先輩の手に集中する。 その手つきは、部下を案じる上司のものではない。愛玩動物(ペット)の不調に怯える、所有者の愛撫そのものだった。
「……先輩?」
俺の呼びかけに、ハッとした彼女が、自分の手の位置と、周囲の視線に気づく。 数十の瞳に見守られている事実に気づき、彼女の美貌が蒼白から、完熟したトマトのような深紅へと変わっていく。
「……っ」 「先輩、完全に、漏れてます」 「ぶ、部下の体調管理は!! 資産(アセット)を守るための、上司の最重要ミッションです!!」
フロア中に響き渡る、悲痛な叫びのような言い訳。 「へえ」「そうなんだ」「ご馳走様」――無言の声が、オフィスに木霊した。 誰も、一ミリも信じていなかった。ただ、彼女のあられもない所有欲に、生温かい視線を送るだけだった。

定時後。 人気のない薄暗い会議室(カンファレンス・ルーム)。 呼び出された俺の目の前で、先輩は深く椅子に沈み込み、長い髪をかきむしっていた。
「……完全に、見られたわよね?」 「ええ、たぶん。オフィス公認の『情事』になりましたね」 「どの辺から? 今日の喉?」 「いいえ。あのバナナとヨーグルトをデスクに置いた時点で、手遅れでした」
先輩は長い、色っぽい溜息をつき、天井を仰いだ。 「……私、そんなに分かりやすい?」 「全裸で歩いているくらい、分かりやすいです」
しばらくの沈黙。 彼女の声が、弱々しく、しかし甘く震えた。
「……噂になるのは、困るわよね」 「まあ、業務に支障が出ない限りは」 「あなたの立場もあるし……出世に響くかも」
彼女は、傷ついた少女のような濡れた瞳で俺を見た。 「……距離、また取ったほうがいい?」
その言葉は、前回の強気な宣言とは違い、肉体の一部を引き剥がされることを恐れるような、切実な響きを持っていた。 俺は少し考えてから、静かに答えた。
「周りが気づくくらいなら」 「なら?」 「もう、隠すような距離じゃない気がします。……今更、俺の身体から貴女の味は抜けませんし」
先輩が、弾かれたように顔を上げる。 「……それ、身体目的みたいでズルい言い方」 「よく言われます」
彼女は苦笑し、そして諦めたように、しかしどこか嬉しそうに立ち上がった。その頬は、安堵で火照っていた。 「……今日は、まっすぐ帰るわよ」 「はい、お供します」

エレベーターホール。 また二人で並ぶ。 鋼鉄の扉が閉まり、世界から切り離され、二人きりの密室になった瞬間。 重力に引かれる浮遊感の中で、彼女が小さく、けれどはっきりと俺の耳元で囁いた。
「……でも」 「はい」 「明日の朝ごはんは、作りすぎないから。……匂いがつくといけないし」
周囲には完全にバレている。 「上司と部下」という仮面は、もうボロボロで、下着が見えているような状態だ。 それでも―― 「愛している」という一番肝心な言葉だけは、まだ誰にも、そして互いにも、明確な形としては捧げられていなかった。
ただ、明日の朝も彼女がエプロン姿で俺を待っているという事実だけが、今夜の情事への招待状として、甘く確かな予感と共に俺たちの間に横たわっていた。


第十章 最終定理への序章 ――熟れた果実の堕ちる音

都会の喧騒が、遠い潮騒のように聞こえる。 店の重いドアが閉まる音と共に、俺たちは「社会的な死」と「秩序ある日常」を店内に置き去りにしてきた。
「……見たでしょ」
先輩は、華奢な背中を向けたまま、夜風に向かって独りごちた。 うなじの後れ毛が、恥辱の汗で肌に張り付いている。
「周りの目、全部。……あの、生暖かい視線」 「はい。完全に、交尾(アレ)を見る目でしたね」 「……最悪」
彼女は小さく震えていた。それは夜風の寒さのせいか、それとも自身が築き上げた完璧なキャリアに、自らの情欲で泥を塗った羞恥心のせいか。 だが、その後に続いた言葉は、俺の鼓膜を甘く、そして残酷に震わせた。
「……でも、否定できなかった」
その一言は、破壊的だった。 彼女は、公衆の面前で「部下への特別な感情」を認めたのだ。いや、正確には「否定する気力もないほど、身体が彼を求めている」と白状したに等しい。
「……明日」 彼女は小さく、けれど決意を込めて言った。 「明日、シラフで、ちゃんと話すから」
逃げない宣言。あるいは、最後の悪あがき。 俺は、その震える背中を見つめながら、ひとつの答えを出した。
「明日じゃ、遅すぎます。俺の身体が持ちません」 「……え?」
振り返った彼女の瞳が、街灯の灯りを映して濡れている。その瞳孔は、あからさまに開いていた。 俺は右手を挙げ、流しのタクシーを強引に止めた。
「乗ってください」 「ちょっと、どこに行くつもり?」 「『ちゃんと話す』場所です。……ここは、愛を語るには寒すぎる」
強引なエスコート。 普段なら「生意気よ」と一蹴される場面だ。 だが、今の彼女は、糸が切れた操り人形のように、素直に俺に従った。 彼女の雌としての本能が理解していたのだ。今夜、このまま別れることなど、もう不可能だということを。

タクシーの後部座席。 そこは、世界から切り離された走る密室(サンクチュアリ)。 流れる東京の夜景が、ストロボのように彼女の横顔を照らし出す。
会話はない。あるのは、互いの荒い呼吸音と、衣擦れの音だけ。 シートの上で、彼女の手が俺のジャケットの裾を掴んでいる。 ぎゅっと。指の関節が白くなるほど強く。それは、溺れる者が藁をも掴む必死さであり、同時に獲物を逃がさない捕食者の爪だった。
「……怒ってる?」
不意に、彼女が湿った声で囁いた。 「なにをですか?」 「……私の、管理不足。あんな……あんな恥ずかしい痴態を晒して」 「佐藤さんの暴走は不可抗力です。それに」
俺は、裾を掴む彼女の手に、自分の手を重ねた。その手は、驚くほど熱かった。 「俺は、興奮しましたよ」 「……は?」 「先輩が、俺への欲情を否定しきれずに、赤くなっている姿を見て」
先輩は息を呑み、そして深くうつむいた。 耳まで真っ赤に染まっているのが、暗がりでも分かる。 「……この、変態」 「よく言われます」
タクシーが減速し、見慣れたマンションの前で停まる。 俺の部屋。 すべての「事件(朝ごはん)」の現場であり、彼女が「素」に戻れる唯一の巣窟。
部屋に入り、鍵をかける音が、ガチャン、と重く響いた。 その音は、俺たちを「上司と部下」という関係から、決定的に断絶させる鉄格子の音だった。
靴を脱ぎながら、先輩が呟く。 「……私、もう、あの席には座れないわね」 「そうですね。あの場にいた全員が証人です。『あの二人はヤっている』と」 「……どうしてくれるのよ」
彼女が顔を上げる。 その瞳には、もう迷いも、強がりも、冷徹な仮面もなかった。 あるのは、ただ一人の、愛に飢え、理性を手放した三十四歳の女の姿だけ。
「責任、取ってください」 俺が言うと、彼女は泣き笑いのような、卑猥で複雑な表情を浮かべた。
「……逆よ。責任を取らされるのは、私」
彼女は一歩、俺に近づいた。 いつもの香水の香りに、微かなアルコールの匂いと、彼女自身の甘酸っぱい体臭が混じる。
「私が……我慢できなかったんだから」 「何をですか?」 「言わせないでよ……!」
彼女は俺の胸に額を押し付けた。 震える声が、シャツ越しに心臓へと直接響いてくる。
「あなたを放っておくこと。……距離を取ること。……ただの上司でいること。全部、無理だったの」 「……はい」 「理屈とか、効率とか、全部どうでもよくなるくらい……私の身体が、あなたを欲しがって、痛いの」
論理の崩壊(システム・ダウン)。 それは、彼女が俺に捧げた、最高の愛の言葉であり、敗北宣言だった。
「……ババぁだけど、いいの?」
最後の最後に、まだその呪縛を持ち出すのか。 この期に及んで、自分の鮮度を気にするその愛らしさ。 俺は彼女の背中に腕を回し、その柔らかな体を力任せに抱きしめた。 抱きしめて、その問いを物理的に封じ込める。
「三十四歳だろうが、鬼上司だろうが、関係ありません」 「……んぁっ」 「俺には、世界一淫らで、可愛い、俺だけの雌(せんぱい)ですから」
彼女の体がビクリと跳ね、そして力が抜けていく。 俺の腕の中で、彼女は深く熱い息を吐き、とろんとした目で俺を見上げ、小さく呟いた。
「……明日、会社行けないかも」 「行かせませんよ。……朝まで、寝かせませんから」 「……鬼」 「お互い様です」
東京の夜は、まだ長い。 明日の朝、憔悴しきった身体で作る彼女の朝ごはんは、きっと今までで一番、とろとろに甘く、逃げ場のないほど重い味がするだろう。 そして俺は、その重たい愛を一生、咀嚼し続ける覚悟を決めて、彼女の唇を塞いだ。

後編→

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