柳ケ瀬ラスト・ワルツ
【登場人物】
美佐子(みさこ・34):柳ケ瀬の裏通りにある小さなスナック「あどけなさ」のママ。過去の恋に傷つき、どこか影がある。
修平(しゅうへい・36):東京の広告代理店勤務。あるプロジェクトのため、10年ぶりに故郷である岐阜に戻ってきた。美佐子の元恋人。
夜の柳ヶ瀬を舞台に織りなす男と女の物語。寂れた柳ケ瀬と孤独感だけが漂うかっては賑やかだった夜の街。

第一章 プロローグ:夜の柳ヶ瀬、再会
雨が降っていた。
岐阜の街に降る雨は、東京みたいに急ぎ足じゃない。どこか遠慮がちで、静かで、街の古い記憶をじっと洗い流すような、重く濡れた降り方をする。
柳ヶ瀬のアーケードには、色あせたネオンがぼんやりと滲んでいた。 かつては夜になると地響きのような人波が押し寄せ、酔客たちの豪快な笑い声が路地の隅々まで溢れていた街だ。深夜になってもタクシーが長い列をなし、客引きの威勢のいい声が飛び交い、誰かの野心と誰かの欲望が、熱を帯びて渦を巻いていた。
けれど、今は違う。 昭和の栄華を置き去りにしたまま、シャッターの降りた店が目立ち、通りを歩く人影もまばらだった。かつての賑わいを知る者にとっては、それはまるで巨大な演劇の幕が降りた後の、静かすぎる舞台裏のようでもあった。
それでも、夜の柳ヶ瀬には、決して消えないものがある。 色褪せてもなお、健気に灯り続ける古びた看板。 雨に濡れて、鈍い光を反射する石畳の匂い。 そして、どこへも行き場のない人間たちが、そっと持ち寄る剥き出しの孤独。
裏通りのさらに奥。 「スナック あどけなさ」と書かれた小さな行灯看板が、冷たい雨の中で淡く揺れていた。
店内はカウンターが七席に、小さなボックス席がひとつ。 店の隅には、今の時代には珍しい古いレコードプレーヤーが据え置かれている。そこから流れる昭和歌謡の擦り切れたメロディが、何年、何十年と積み重なった煙草の残り香や、ウイスキーの甘苦い香りと溶け合い、狭い店内に静かに染みついていた。
美佐子は、カウンターを白い布巾で丁寧に拭いていた。 三十四歳の彼女は、すれ違う誰もが振り返るような、派手な美人ではない。けれど、一度その視線に捕らえられたら、どうしても忘れられなくなるような独特の空気を持った女だった。
少し伏し目がちな、濡れたような瞳。 困った時に、自分を隠すように無理に笑う癖。 そして、その笑顔の奥には、どんなに親しくなっても決して触れさせない、どこか遠く届かない場所があった。
常連客はよく、グラスを傾けながら言ったものだ。
「ママ、あんた時々、えらく遠くを見とるな。ここにおって、ここにおらんみたいや」
そのたび、美佐子は決まって少しだけ口元を緩める。
「そう?」
それ以上は何も話さない。誰にも、そして自分自身にさえも、心の鍵を開けて見せることはなかった。十年前のあの夏から、ずっと。
カラン……。
ドアに取り付けられた真鍮のベルが、静かな店内に高めにとおった音を響かせた。 美佐子はいつものように、営業用の笑みを浮かべようと顔を上げた。
「いらっしゃ――」
言葉が、喉の途中で凍りついた。
暖簾をくぐって入ってきたその男は、雨粒の無数についた傘を静かに閉じ、記憶の中にあるのと同じ、少し困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「……久しぶり」
一瞬、世界のすべての音が消え、時間が完全に止まった。 自分の心臓だけが、肋骨の裏側で嫌なほど大きく、ドクンドクンと脈打つのがわかる。
見間違えるはずがなかった。 十年。長い歳月だ。それでも、人間は本当に大切なものを忘れることなどできない。どれだけ記憶の底に沈めようとしても、一瞬で鮮明に蘇る顔というものがある。
修平だった。 二十代の頃の尖った若さは削ぎ落とされ、少し痩せたように見える。髪にはほんの少し大人の疲れが混じり、纏う空気も昔よりずっと落ち着いていた。 けれど、笑う時、右の口元だけがわずかに上がるあの癖だけは、あの頃のままで。
美佐子の喉が、急に砂漠のように乾いた。 何か言わなきゃ、いつものママとしての言葉を返さなきゃと思うのに、声がどうしても出てこない。
なんで。 なんで今さら、私の前に。 どうして、この街に、この店にいるの。
10年前、何も言わずにこの街を去り、東京へ行った男。 いや、正確には何も言わなかったわけじゃない。言葉はたくさんあった。浅い未来の話もした。青い夢も語り合った。けれど、一番肝心な、お互いの核心にある言葉だけを、二人はどうしても口にしなかった。
「待ってて」
その一言も。
「行かないで」
その一言も。
お互いに傷つくのが怖くて、プライドが邪魔をして、綺麗に手を振って別れた。だから終わったのだ。いや、終わったことにしたのだ。そう自分に言い聞かせ、この十年間をやり過ごしてきた。
美佐子は耐えきれず、咄嗟に修平から目を逸らした。手元の布巾をきつく握りしめる。
「……何飲む?」
自分でも驚くほど、低く冷たい声が出た。
修平は怒る風でもなく、少しだけ寂しそうに笑った。
「昔と同じので」
その言葉に、美佐子の手がぴたりと止まる。 昔と同じ。そんな言い方、あまりにもずるい。まるで、二人の間に流れた十年の空白なんて、最初から存在しなかったかのようじゃない。
美佐子は無言のまま棚へ手を伸ばし、一本のボトルを取った。 バーボン。 昔、修平が「これが一番格好いいから」と背伸びをして、いつも好んで飲んでいた安酒の銘柄だ。 グラスに丸い氷を入れ、琥珀色の液体を静かに注ぐ。
カラン、と氷がガラスの壁に当たって高い音を立てた。 その音だけが、やけに誇張されて店内に響く。
修平は、美佐子から一番遠いカウンターの端の席に腰を下ろした。 二人の間には、物理的にはわずか1メートルもない距離。なのに、重く冷たい10年分の時間が、目に見えない壁となってその間に居座っていた。
「……元気だった?」
修平が、グラスを受け取りながら静かに切り出した。
「まあね」
「そっか」
会話が続かない。 昔は違った。ただ一緒にいるだけで、箸が転がってもおかしいくらい、くだらない話ばかりをしていた。 好きな歌のコード進行。新しく公開された映画の文句。いつか叶えたい大きな将来の夢。夜が明けて東の空が白むまで、狭いアパートの部屋で笑い合っていた。 なのに今は、互いの境界線を探るように、何を話せばいいのかさえわからない。
美佐子は、すでに十分に綺麗なグラスを、何度も何度も磨くふりをした。 修平の顔をまっすぐ見たら、絶対に駄目だと思った。見た瞬間、心の奥底のダムが決壊して、あの頃の記憶が濁流となって押し寄せてきそうだったから。
長良川の河川敷で見た、火花の弾ける音。 冬の凍える商店街で、ひとつのポケットに合わせた手。 終電を逃して、あてもなく歩き続けた始発までの夜。 そして、すべてが崩れていった別れの日。 全部。全部が昨日のことのように。
店の外では、雨が容赦なく降り続いていた。 色褪せたネオンが、濡れたアスファルトの上でゆらゆらと不規則に揺れている。
修平はグラスを傾け、窓の外を見つめながら、ぽつりと言った。
「……柳ヶ瀬、変わったな」
美佐子は自嘲気味に、少しだけ口元を歪めた。
「人も減ったしね。夜なんて誰も歩いてないわよ」
「寂しくなった」
「そう?」
「うん」
少しの間が空いて、雨の音だけが店を支配した。 修平はグラスを見つめたまま、今度はさらに静かな、祈るような声で言った。
「……でも、まだあったんだな」
「え?」
「ここ」
美佐子は言葉を失い、息を呑んだ。
「あどけなさ」
その、古臭くて少し気恥ずかしい店名を、修平の口から再び聞いた瞬間。 十年間、鍵をかけて絶対に開けないと誓っていた胸の奥の扉が、錆びついた音を立てて小さく軋んだ。
外の雨は、まだ当分止みそうになかった。 そして美佐子は、この雨の夜が始まった瞬間から、せっかく止めていた自分の人生の歯車が、再び音を立てて狂い始めてしまうことを、まだ知る由もなかった。
第二章 過去の傷
修平が「あどけなさ」に再び顔を出すようになってから、1週間が過ぎた。
毎日来るわけではなかった。 2日に一度。あるいは3日ほど間を空けて、忘れた頃にふいに現れる。 まるで移り変わる5月の天気みたいだった。
「今日行くよ」
と連絡でもあれば、それなりの心の準備もできるのに、修平は昔からいつもそうだった。前触れもなく突然現れては、こちらの心にさざ波を立てて、平然とした顔でそこにいる。
その夜も、しとしとと陰気な雨が降っていた。 柳ヶ瀬の夜は、不思議と晴れた日よりも雨の日のほうが似合う。 全盛期の輝きを失った街のネオンは、鋭さを欠いている分、濡れた路面に反射すると少しだけ優しく、幻想的に見えるからかもしれない。アーケードの向こうで、赤や青、緑の灯りが水溜まりの中でゆらゆらと溶け合っていた。
店には先客の常連が2人いた。 市役所の仕事帰りだという眼鏡をかけた中年男と、長年この街で夜を走らせているタクシー運転手の佐伯だ。どちらも街の酸いも甘いも噛み分けた、昔気質の客たちだった。
「ママ、今日は一段と冷え込むな。ちょっと温かいもんが欲しいわ」 「ほんとねぇ。急に季節が戻ったみたい。今、お湯割り作るから待っててね」
美佐子はプロの笑みを絶やさず、手際よく焼酎の湯割りを作っていく。 笑顔はいつも通り。声のトーンもいつも通り。 けれど、胸の奥のざわつきだけは、どうしても抑え込むことができなかった。
カウンターの奥にある古びた掛け時計に、どうしても目が向いてしまう。 十時二十分。 別に、あの男を待っているわけじゃない。そんなわけがない。ただの営業的な関心だ。自分にそう言い聞かせるのに、一度意識してしまうと、数分刻みで針の動きを追ってしまう。
そして、十時二十五分。 カラン……。
真鍮のベルが鳴り、店の重い扉が開いた。 美佐子の手が、一瞬だけ硬直する。
「どうも」
入ってきたのは、やはり修平だった。 まるで昨日も当たり前にこの席に座っていたかのような、気負いのない顔で傘をたたむ。その、10年の空白をいとも簡単に飛び越えてみせるような自然さが、美佐子にはたまらなく腹立たしかった。 10年だ。私たちは10年もの間、お互いを見失っていたくせに。
「いらっしゃい」
美佐子は努めて感情を排し、目も合わせずにグラスとおしぼりを出した。 その様子を見ていたタクシー運転手の佐伯が、悪戯っぽくニヤニヤと笑う。
「なんやママ、最近このお兄ちゃんが来ると急に機嫌が悪うなるな。いつもより声がツンとしとるがや」
「そんなことないわよ。誰に対しても平等よ」
「いやいや、目が笑ってへんて。怖い怖い」
狭い店内に、男たちの呑気な笑い声が響く。修平も否定することなく、申し訳なさそうに苦笑いしていた。 美佐子だけが、どうしても一緒に笑うことができなかった。
時計の針が日付を回った頃、ようやく常連客たちが席を立った。
「じゃあな、ママ。お兄さんも、あんまりママを怒らせんようにな」
と佐伯が言い残し、二人は夜の闇へと消えていった。
外の雨は、いつの間にか霧雨のように細くなっていた。 閉店間際の柳ヶ瀬は、まるで世界から静かに取り残された孤島みたいになる。人通りは完全に途絶え、色褪せたネオンだけが虚しく浮かび、遠くの路地裏から誰かの微かな笑い声が風に乗って流れてくるだけだ。
美佐子は無言でグラスを洗い、修平はカウンターの端で珍しく黙り込んでいた。 静まり返った店内に、修平のグラスの中で氷が小さく溶ける音だけが、チリンと切なく響く。
やがて、修平がグラスを見つめたまま、低く呟いた。
「……なあ」
美佐子は蛇口から出る水を見つめたまま、返事をしない。
「怒っとる?」
岐阜の言葉だった。 東京へ行って長いはずなのに、二人きりになると、不意に昔のイントネーションが混じる。 ずるい。そういう無防備な姿を見せるのは、反則だ。
美佐子はスポンジを動かし続けた。
「別に」
「嘘や」
「何が」
「昔から、美佐子は本当に怒っとる時は、声がえらく静かになる。突き放すみたいな声になる」
美佐子の手が、完全に止まった。 嫌だった。そんな些細な、自分でも忘れていたような癖を、彼が今でも覚えていることが。そんなことを、10年間も放置しておいて、今さら何食わぬ顔で口にすることが。
美佐子はきゅっと蛇口を閉めた。 激しい水音が消え、店は一瞬にして静寂に包まれる。彼女は修平の方を振り返らないまま、冷徹な声を絞り出した。
「……何しに来たのよ」
修平は答えを窮したように、口を閉ざした。
「仕事でしょ? 岐阜に戻ってきたのは」
「うん、まあ……大きなプロジェクトがあってな」
「じゃあ、その仕事だけを完璧にこなして、さっさと東京へ帰ればいいじゃない。どうして、わざわざここに来るの」
沈黙が二人の間になだれ込む。 美佐子は意を決して、ゆっくりと修平を振り返った。
修平はカウンターの木目をじっと見つめていた。昔からの、本当に言いづらいことがある時に相手の顔を見ようとしない、悪い癖だった。 その、十年前と何も変わらない卑怯で愛おしい姿を見た瞬間、美佐子の胸の奥に澱のように溜まっていた感情が、急激に疼き、沸点へと達した。
10年前。修平が「東京へ行く」と切り出した、あの夏の終わりを鮮明に思い出す。 長良橋の近く、鵜飼いの船が係留されている川沿いのベンチだった。 夜風が生ぬるく、花火大会のあとのような、少し焦げ臭い寂しさが漂う空気の中で、修平は真っ直ぐ前を見据えて言ったのだ。 「俺、東京の広告代理店で勝負したい。もっと大きな世界で、自分の力を試してみたいんだ」
あの時の修平の目は、未来への希望でキラキラと輝いていた。 その輝きが眩しすぎて、美佐子は何も言えなくなってしまったのだ。 「行かないで」 「私を置いていかないで」 たったそれだけの一言が、どうしても言えなかった。言えば、彼の大きな夢を私の小さなエゴで縛り付け、邪魔してしまう気がしたから。 だから、物分かりのいい女の振りをして、無理に口角を上げて笑ってみせた。
「そう。すごいじゃない、頑張りなよ」って。
そして修平もまた、最後まで言わなかった。 「待っていてくれ」とも、「一緒に付いてきてくれ」とも。
二人とも、距離という現実を、そして約束という未来の重さを怖がっていたのだ。どうせ遠距離なんて長続きしない、どうせいつか心が離れて終わる。そんな臆病な予感が最初からあったから、傷つく前に、先に自分たちから諦めたのだ。 お互いを、狂おしいほど好きだったくせに。愛していたくせに。 傷つくことから、二人して逃げたのだ。
気づけば、修平が椅子から立ち上がり、美佐子の目の前に立っていた。カウンター越しの距離が、急に縮まる。
「美佐子」
「……何よ」
「会いたかった」
その一言が、美佐子の鼓膜を震わせた。
時間が、また止まる。 遅い。あまりにも遅すぎる。10年も経ってから言う言葉じゃない。 胸の奥底に頑丈に押し込めていたはずの、ドス黒い未練と怒りが、一気に堰を切って溢れそうになる。だから美佐子は、皮肉を込めて笑った。笑うしかなかった。ここで泣いてしまったら、自分の負けだと思ったから。
「今さら何よ……!」
声が、どうしても震えてしまう。
「今さら……どの面下げてそんなこと言うのよ……!」
修平は何かを言い弁明しようと、微かに唇を動かした。けれど、美佐子の感情の奔流はもう止まらなかった。10年間、誰にも言えず、この薄暗いスナックのカウンターで一人で抱え込んできた呪詛のような言葉が、容赦なく溢れ出す。
「あんなに私を傷つけて、都合よくいなくなっておいて……!」 「……」
「連絡の一本もよこさなかったくせに……!」
「……」
「私は……私はこの10年間、どんな気持ちで……!」
言葉が、涙の熱さで喉に詰まった。 言えるわけがなかった。あなたがいなくなった後、心が死んだようになっていたこと。街であなたに似た背中を見るたびに、心臓が跳ね上がっていたこと。本当は、ずっとずっと、あなたを忘れられずに待っていたなんて。そんな惨めな告白、絶対にできるわけがなかった。
修平は、ただ黙って美佐子の怒りと悲しみを受け止めていた。 店の掛け時計が、午前一時を告げる。カチ、カチ、と規則正しい秒針の音だけが、感情の嵐が去った後の店内に虚しく響く。
やがて、修平は視線を落とし、消え入りそうな声で言った。
「……ごめん」
その、一言だけだった。 見苦しい言い訳もしない。大人の事情を並べ立てて理由を話すこともしない。ただ、子供のように静かに頭を下げた。 その誠実さが、その不器用さが、今の美佐子には余計に苦しく、残酷に胸を刺した。
美佐子は耐えかねて顔を背け、窓の外へと視線を逃がした。 外の雨は、もう完全に止んでいた。 ただ、柳ヶ瀬のくすんだネオンだけが、冷たく濡れた夜道にどこまでも深く、滲み続けている。
10年前の、あの夜と全く同じ景色だった。 この街も、傷ついたままの自分も、本当は何一つ変わっていなかったのだ。 忘れたふりをして大人の顔をして生きていただけ。二人の過去の傷は、あの日の鮮血を失わないまま、今もそこにあった。
第三章 交錯する想い
季節は、足早に少しだけ進んでいた。
柳ヶ瀬の夜風にも、じっとりとした盛夏の熱気ではなく、夏の終わりのどこか乾いた湿り気が混じり始めていた。 昼間はアスファルトが焼けるほど蒸し暑いのに、日が落ちて夜が深まると、急に風の冷たさが肌を刺すようになる。人の心をそわそわと落ち着かなくさせる、そんな季節の変わり目だった。
修平は相変わらず、「あどけなさ」の扉をくぐり続けていた。 週に二度。あるいは三度。 激しい感情をぶつけ合ったあの雨の夜を経て、何かが吹っ切れたのか、それともお互いに諦めがついたのか。気づけば修平がそこにいる風景は、美佐子にとっても、店にとっても、静かな日常のひとコマとして溶け込みつつあった。
美佐子は、頑なにそれを認めたくはなかった。 十時を過ぎると、無意識に店の掛け時計に目をやってしまうことも。 入り口の真鍮のベルが「カラン」と鳴るたび、胸の奥を小さな期待で跳ね上げながら顔を上げてしまうことも。
「別に、あの人を待ってなんかない。ただの客よ」 何度心の中で呪文のように唱えても、彼女の裏腹な心は、まったく主人の言うことを聞いてはくれなかった。
その夜の店は、とりわけ静かだった。 木曜日。 昔から、木曜日の柳ヶ瀬は驚くほど人が少ない。賑やかな週末を前にして、街全体がふっと息を抜き、少しだけ疲れた顔を見せるエアポケットのような夜だ。 十一時を過ぎた頃、最後のお座敷帰りの客が帰り、店には再び二人きりの時間が訪れた。
外では、アーケードの隙間を秋の手前の夜風がヒューと通り抜けている。 その風に煽られて、古い看板のネオンが小さく揺れていた。
修平はいつものカウンターの端で、今夜は珍しくバーボンではなく、芋焼酎のロックをゆっくりと口に含んでいた。
「今夜はバーボンじゃないの?」
グラスを拭きながら、美佐子が何気なく声をかける。
修平は自嘲気味に、少しだけ目元を緩めた。
「……年かな」
「何言ってるの、まだ三十六でしょ」
「東京は、色々と疲れるんだよ。酒の味くらい、落ち着いたものが良くなる」
「似合わないわね」
「何が?」
「弱音吐くところ。昔はもっと、世界を相手にするみたいに肩肘張ってたじゃない」
修平は
「そうだったかな」
と呟き、嬉しそうに少し笑った。
昔なら、こんな中身のない会話がいくらでも、どこまでも続いた。 そして最近、本当に少しずつではあるけれど、そんな時間が戻りつつあった。 10年の断絶を埋めるような大層な話ではない。どうでもいい、本当に何でもない話だ。 修平の携わっている広告の泥臭い裏話。東京の、人間が押しつぶされそうな満員電車の憂鬱。久しぶりに帰ってきた岐阜駅前が、すっかり綺麗に様変わりしていて迷子になった話。昔二人でよく通った、裏通りの汚いラーメン屋がいつの間にか潰れていた話。
どれもこれも、明日になれば忘れてしまうようなことばかりだ。 でも、恋人同士だった頃も、本当に大切だったのはそういうことだったのだ。 何を話すか、どんな高尚な会話をするかじゃない。 ただ、この心地よい空気の中で、誰と話しているか。それだけが、世界のすべてだった。
美佐子は手元のグラスを磨きながら、ふと視線を感じて顔を上げた。 修平がグラスを置いた手をとめ、じっと自分を見つめている。
「……何よ」
「いや」
「何、気持ち悪い。顔になんか付いてる?」
「違うよ。美佐子、よく笑うようになったなって思って」
美佐子の手が、ぴたりと止まる。
「前は……ここに戻ってきたばかりの頃は、もっと無理して、ママの顔をして笑ってたから。今の笑顔、昔みたいだ」
ドクン、と心臓が少しだけ大きな音を立てた。 見抜かれていた。隠し通せていたつもりだったのに、この人には最初から全部お見通しだったのだ。昔から、美佐子がどんなに強がって平気な振りをしても、修平だけはいつもその嘘を優しく剥ぎ取ってしまった。
美佐子は気恥ずかしさを隠すように、わざと冷たい嫌そうな顔を作ってみせた。
「……本当、気持ち悪いわね。何よ、観察しないで」
「職業病かな」
「直しなさいよ、そんな迷惑な癖」
「善処します」
クス、とお互いに小さな笑い声が漏れた。 その一瞬だった。 本当に、呼吸をするのを忘れるほどの一瞬。10年前の、あの眩しくて、ただお互いだけを見ていればよかった無敵の日々が、この狭いカウンターに滑り込んできたような気がした。 何も変わっていない。私たちは何も失っていない。そんな、甘く切ない錯覚。
けれど、それはあまりにも儚い、一瞬の白昼夢だった。 修平が氷の浮かぶグラスを指先で弄びながら、静かに、しかし遮るように言った。
「……あと、一ヶ月なんだ」
美佐子の胸が、冷たい氷水を注がれたように凍りついた。 「何が」 聞かなくても、そんなこと分かっていた。分かっていたのに、聞かずにはいられなかった。
「今回のプロジェクト。俺の岐阜での仕事、来月で一区切りがつくんだ。その後は、東京の本社に戻る」
沈黙が、重く店内に居座る。 チリン……と、まるで終わりの合図のように氷が溶けて鳴った。
そうだ。この時間には、最初から明確な「終わり」が用意されていたのだ。 修平は東京の人間で、ただ数ヶ月の出張でこの街に流れ着いたに過ぎない。仕事が終われば、彼は元の華やかな大都会へと帰っていく。私は、ただその途中に立ち寄っただけの、古い途中駅。 分かりきっていたはずなのに、ここ最近の穏やかな日々のせいで、美佐子は一番大事な現実を忘れかけていた。
美佐子はゆっくりと目を伏せ、感情を殺した声で答えた。
「そう。……いよいよ帰るのね」 「うん」
それ以上、二人の間から言葉は生まれなかった。
閉店後、時計の針は午前一時を回っていた。 美佐子は店の入り口の鍵を閉め、「あどけなさ」の行灯看板の灯りをパチリと消した。
外へ一歩踏み出すと、柳ヶ瀬のアーケードは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。遠くの交差点で、暇そうに客を待つタクシーのハザードランプが寂しく明滅している。 夜風が、さっきよりも少しだけ冷たく感じられた。
並んで歩き出した時、修平が前を向いたまま、ぽつりと言った。 「……少し、歩かないか」
昔みたいに、とは言わなかった。 けれど、美佐子の耳には確かにそう聞こえた。
二人はどちらからともなく、狭い路地へと足を進めた。言葉は少なかった。ただ、二人の靴音が静かなアーケードに規則正しく響くだけだ。 昔、何度も手を繋いで歩いた裏通り。今はもうシャッターが錆びつき、閉店してしまったブティック。空き店舗のガラス窓。その一方で、新しくできた無機質な全国チェーンの居酒屋。 街は、少しずつ変わっていた。 けれど、変わらない場所も確かにそこにあった。
昭和の面影を色濃く残す、重厚な扉の古い喫茶店。 今はもう上映していない、色褪せたポスターの看板だけが残る映画館の跡地。 そして――二人が若い頃、夜通し語り合うために何度も座った、小さな公園の古びた木製ベンチ。
修平が、そのベンチの前で足を止めた。
「……覚えてる?」
美佐子は寂しげに、しかし愛おしそうに小さく笑った。
「忘れるわけないでしょ。馬鹿みたいに、いつもここにいたわよね」
高校生や大学生のような、青くて拙い恋をしていた。 お金もないのに夜中までここで将来の夢を語り合って、くだらない冗談で時間を忘れて笑って、そして、凍えるような夜にはお互いの体温を確かめ合うように、何度も何度もキスをした。 今思い出せば、胸が痒くなるほど恥ずかしい。でも、あの時の私たちは、間違いなく世界で一番幸せだった。
修平はしばらく、何も言わずに夜の空間を見つめていた。 乾いた風が、二人の髪を揺らして通り過ぎていく。 やがて修平は、決意を秘めたようにまっすぐ前を見つめたまま、声を絞り出した。
「美佐子」
その声のトーンが、いつもと明らかに違っていた。 美佐子の胸が、嫌な予感でドクドクと警報を鳴らし始める。
「……東京に、来ないか」
世界のすべての音が、一瞬で消え去った気がした。
「……え?」
修平は、ゆっくりと美佐子の方を振り返った。その瞳は、真っ直ぐで、どこまでも真剣で、決して冗談を言っている人間のそれではなかった。10年前の、あの現実から目を背けて逃げ出した若者の目ではない。大人の男の、退路を断った目だった。
「俺と一緒に、東京に来てほしい。もう一度、二人でやり直そう」
遠くの交差点で、信号機が青から黄色、そして赤へと静かに変わっていく。 美佐子は、何も言えなかった。
「冗談言わないでよ」って笑い飛ばせばいい。 「無理に決まってるじゃない、今さら」って、冷たく突き放せばいい。 そんなの、あまりにも身勝手よって、怒鳴りつければいい。 簡単なはずなのに、どうしてか言葉が喉の奥に張り付いて、一歩も出てこない。
胸の奥深くで、十年前の、傷つく前の若い自分が狂ったように叫んでいた。 『行きたい! 行く! 今度こそ、離れたくない!』って。
でも同時に、この十年間を泥水をすするような思いで生きてきた、34歳の現実の自分が、冷酷な声でそれを制止する。 『怖い。また同じ目にあう。また置いていかれるの?』
この10年、彼がいない暗闇の中で、美佐子がどれだけの時間をかけて、ボロボロになった自分を必死に立て直してきたと思っているのだろうか。 華やかな世界を諦め、この寂れた柳ヶ瀬の街にしがみついて生きて。あの小さなスナック「あどけなさ」を守り抜いて。ようやく、誰の力も借りずに、一人で立って歩けるようになったのだ。
今さらまた、誰かを盲目的に愛するなんて。誰かの隣に自分の人生を預けるなんて。 そんなこと、もう怖くてできるわけがない。 無理だ。絶対に、無理。
無理なはずなのに、目の前にいる修平の、少し目元に皺の増えた大人びた横顔が、たまらなく愛おしくて、懐かしくて、胸が引き裂かれそうになる。
美佐子は、きつく唇を噛み締め、修平から視線を逸らした。 そして、かすかに口元を歪めて笑ってみせた。声が震えてしまわないように。涙が溢れ出してしまわないように、精一杯の強がりを込めて。
「……二度としないわよ、私」
修平は、息を詰めて美佐子の次の言葉を待った。
「恋なんて。もう、お腹いっぱい」
夜風が、二人の間を冷酷に吹き抜けていく。 柳ヶ瀬の、古びて色褪せたネオンの光だけが、決決して交わることのない二人の足元を、静かに、ただ静かに照らし続けていた。
第四章 決断
修平に「東京へ来ないか」と告げられたあの夜から、一週間が過ぎた。
美佐子は返事をしなかった。できなかった、という方が正しい。 修平もまた、それ以上は答えを催促しなかった。美佐子を言葉で追い詰めることも、自分の熱意を何度も語って責め立てるようなこともしなかった。 ただ、これまでと全く同じように「あどけなさ」の扉をくぐり、いつものカウンターの端の席に腰を下ろし、いつもの酒を静かに飲んだ。
それが、美佐子にとってはかえって身を削られるように苦しかった。 もし強引に腕を引かれていたら。もし「頼むから一緒に来てくれ」と涙ながらに懇願されていたら。きっと、怒りに任せて跳ね除けることもできただろう。断る理由なんて、年齢や仕事、この街での暮らしを並べ立てればいくらでも用意できた。
けれど修平は、じっと待っていた。美佐子が自分自身の足で、自分自身の心で答えを出すのを。 10年前、お互いに向き合うことから逃げ出し、うやむやにしてしまったあの日の過ちを、今度こそ大人の男としてやり直そうとしている。 彼のその静かな覚悟が伝わってくるからこそ、美佐子の胸は引き裂かれそうに痛むのだった。
柳ヶ瀬の街にも、いよいよ確かな秋の気配が忍び寄っていた。 夜風は日に日に冷たさを増し、アーケードを歩く数少ない通行人たちも、心なしか肩をすぼめて足早に通り過ぎていく。 街は相変わらず、ひっそりと静まり返っていた。どれだけ季節が巡ろうとも、あの昭和の黄金期のような熱狂的な賑わいが戻ることは二度とないだろう。
けれど、美佐子は知っていた。 この一見、死にかけたように見える夜の街にも、人目には触れない、ささやかな灯りが息づいていることを。 昼間の仕事に疲れ果て、どこへも行き場のない孤独を抱えた誰か。 家庭にも社会にも自分の居場所を見出せず、夜の闇に紛れて寄り添いを求める誰か。 誰にも言えない傷や寂しさを、そっと懐に隠し持った誰か。
そんな、都会の華やかな光からはみ出してしまった迷い人たちが、最後にふらふらと流れ着くのが、この柳ケ瀬という街だった。そして、彼らがそっと雨宿りをするための場所が、自分の守ってきた「あどけなさ」なのだ。 だから、私はここにいる。この小さなカウンターの中で、傷ついた誰かを迎え入れるために、私は生きてきた。そう思い続けてきたし、それだけが自分の人生の誇りだった。
そのはずだった。
その夜、修平はいつもより早い時間に席を立った。グラスの中の氷が溶けきる前に、名残惜しそうにコートを羽織る。
「明日、朝が早いんだ」
修平はそう言って、いつものように少しだけ口元を上げる優しい笑みを浮かべた。
「じゃあな、美佐子」
たったそれだけの一言だった。 けれど、美佐子には直感で分かってしまった。明日が、彼の岐阜での仕事の最後の日なのだと。とうとう、来てほしくなかったお別れの日が、すぐそこまで来てしまったのだと。
修平が去り、店を完全に閉めた後、美佐子は一人きりでカウンターの中に立ち尽くしていた。 客の誰もいない、静かすぎる空間。 ついさっきまで修平が座っていた、温もりの残る無人の椅子。 ピカピカに磨き上げられた硝子のグラス。 回転を止め、静まり返ったレコードプレーヤー。
10年。 10年間、私はあなたなしで、この街で確かに生きてきた。 一人で暖簾を守るのが怖くて、夜中にシーツに顔を押し付けて泣いた夜もあった。経営が苦しくて、明日お店を開けられるだろうかと不安に押し潰されそうになった日もあった。 それでも、ここが私の居場所だった。修平がいない人生の年輪を、私はここで、自分の力で刻んできた。
なのに。どうして今さら、私の前に現れたの。どうしてまた、私の心をこんなにもかき乱すの。
美佐子は導かれるように、カウンターの奥の棚をゆっくりと開けた。その一番奥から、古びたビスケットの空き箱を取り出す。店を始める時、あなたの思い出の品はすべて捨てたつもりだったのに、これだけはどうしても捨てられずに隠しておいたもの。
蓋を開けると、中には何枚かの古い写真が入っていた。 長良川の花火大会。人混みの中で、お互いの顔を真っ赤にして笑い合う若い二人の姿。まだ何も失っていなくて、世界が自分たちを中心に回っていると信じて疑わなかった、青くて無鉄砲なあの頃。
そして、束の一番下にあったのは、10年前の夏の終わりの写真だった。 長良川沿い、二人が別れるほんの数日前の夕暮れ。修平がカメラに向かって、少し照れくさそうに笑っている。その隣で、美佐子もまた、何の衒いもない満面の笑みを浮かべていた。 そこには、無理をして作った「ママの笑顔」ではない、心から幸せだった本当の自分の姿があった。
気づいた時には、写真の表面にポツリ、と大粒の涙が落ちていた。 一滴、また一滴。 十年間、ずっと乾いていたはずの涙が、堰を切ったように溢れ出し、若かった二人の笑顔を歪めていく。
「……馬鹿」
美佐子は写真を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。 その言葉が、身勝手に去っていった修平に向けられたものなのか、それとも、10年間ずっと彼を待ち続けていた意気地のない自分自身に向けられたものなのか、もう分からなかった。
翌日の夜。 柳ヶ瀬のアーケードは、いつも以上に寂しく冷え切っているように感じられた。平日だからだろうか、それとも、自分の心の空洞がそう見せているだけだろうか。
美佐子は、開店前の薄暗い店内で、修平の携帯電話へ短いメッセージを送った。
『会いたい』
ただ一言、それだけ。そして、場所だけを書き添えた。 長良川へと続く、遮るもののない川沿いの遊歩道。10年前、二人が言葉を失くし、お互いから逃げ出すようにして別れた、あの始まりであり終わりの場所だった。
川面を渡る夜風は、凍えるように冷たかった。 広大な長良川の水面は、街の明かりを拒絶するように黒々と蠢き、遠くの岐阜駅方面のネオンが、水面で細く長く滲んでいる。
修平は、先に来ていた。 10年前と全く同じように、錆びついた手すりに両肘を預け、流れる川を見つめている。背後からの足音に気づき、彼はゆっくりと振り返った。 少しだけ、寂しそうに笑う。
「久しぶりだな、ここに来るのも」
美佐子は無言のまま歩み寄り、修平の少しだけ隣、わずかに肩が触れ合わない距離に立った。
「そうね」
それきり、二人の間に長い沈黙が降りた。聞こえるのは、川のせせらぎの音と、遠くを走る車の走行音だけ。 10年前のあの夜も、こうだった。言いたいこと、聞きたいことが山ほどあったのに、プライドと恐怖のせいで、何一つ言葉にできなかった。
でも、今夜は違う。私たちはもう、あの頃の子供じゃない。 美佐子は意を決して、修平の顔をまっすぐに見つめた。現実から逃げないように。自分の心に、嘘をつかないように。
修平もまた、美佐子の視線を受け止めた。 10年の歳月が刻んだ、少し大人になった目。けれど、あの優しくて不器用な、ずっと美佐子が愛し続けてきた眼差し。
美佐子は、小さく微笑んだ。 不思議だった。胸が張り裂けそうに悲しいはずなのに、不思議なほど心の中は凪のように静かだった。
「……修平」
「うん」
「私ね」
夜風が激しく吹き抜け、長良川の青臭い匂いを運んでくる。遠くでまたたくネオンの光。自分が生きる柳ヶ瀬の街。そのすべての景色が、今の自分という人間を作っている。
美佐子はもう一度、優しく微笑み、そして――ゆっくりと、静かに首を横に振った。
修平の瞳が、一瞬だけ悲痛に揺れた。
「私は、あの柳ヶ瀬の、少し寂しいネオンと一緒に生きていく」
言葉は、驚くほど滑らかに、自分の本心から溢れ出てきた。
「あなたには、東京の、あのどこまでも華やかで眩しい光が似合ってる。お互いに、自分の居場所を見つけて、そこで必死に生きてきたんだもんね」
修平は、何も言わなかった。ただ、美佐子の言葉を一つひとつ、体に刻み込むように黙って聞いていた。
「私ね、やっと分かったの」
美佐子の目から、今度は涙は出なかった。もう、泣く必要はなかった。
「10年前の私たちは、お互いを傷つけるのが怖くて、ただ現実から逃げた。でも、今夜の私は違うわ」
「……」
「お互いを好きだからって、一緒に行くことだけが正解じゃない。本当に相手を好きだからこそ……自分の人生を、自分の場所を捨てちゃいけないのよ」
夜風が、二人の間を遮るように通り過ぎていく。 長い、気の遠くなるような沈黙のあと。
修平は、ふっと小さく笑った。その笑顔には、どこか諦めきれない寂しさと、そして、美佐子の強い自立を讃えるような、深い安心感が混ざり合っていた。
「……そっか」
それだけだった。 東京へ行こうと無理に手を引くこともしなければ、美佐子の決断を責めることもしなかった。ただ、名残惜しそうに夜空を見上げ、ぽつりと言った。
「美佐子らしいな」
その言葉だけで、十分だった。その一言をもらえただけで、この十年間がすべて報われたような気がした。 今度はちゃんとお互いの目を見て、自分の足で立ったまま、大人の「さよなら」が言えた。
最終章 エピローグ:孤独な街
翌朝。 岐阜駅のホームには、遮るもののない柔らかな朝日が真っ直ぐに差し込んでいた。
昨夜までの肌を刺すような冷たい夜風が嘘みたいに、雲ひとつない青空が広がっている。秋の訪れを告げる朝の空気はどこまでも澄み切っていて、ホームの端から見渡す岐阜の街並みも、いつもより遠くの輪郭まで鮮明に望むことができた。
修平は、上り線のホームに一人で立っていた。 その手には、駅の売店で買ったのだろう、小さな紙袋が握られている。ささやかな岐阜の土産でも入っているのかもしれない。 相変わらず、彼の荷物は少なかった。 昔からそうだった。どこへ行く時も、まるでふらりと散歩にでも出るかのように、最低限の荷物だけを持って旅立ってしまう。その身軽さが、大都会で闘う彼の生き方そのもののようでもあった。
ジリリリリ……と、出発を告げるけたたましい発車ベルがホームに鳴り響いた。 重厚な音を立てて、名古屋行きの列車がゆっくりと滑り込んでくる。これに乗って名古屋へ向かい、そこから東海道新幹線に乗り換えて、彼は自分の主戦場である東京へと帰っていく。
修平は、開いた列車の扉に足をかける直前、一度だけ、未練を断ち切るように後ろを振り返った。 雑踏の中に、誰かの姿を探すように。 いや、探していたのだ。きっと。 美佐子が、もしかしたら駆けつけてくれているのではないかという、大人の男になりきれない淡い期待を抱いて。
けれど、朝のホームを埋め尽くしているのは、眠そうな顔をした通勤客と、賑やかに笑い合う学生たちの姿だけだった。 修平は、ふっと小さく笑った。どこか、その不在に納得したように。
「……らしいな」
誰の耳にも届かない小さな声でそう呟くと、彼は二度と振り返ることなく、列車の中へと歩みを進めた。
プシューと音を立てて、冷徹に扉が閉まる。 列車が静かに動き出した。ガタゴトと加速する振動とともに、窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。 一瞬だけ視界をよぎる、雄大な長良川の流れ。 見慣れた、けれどもう二度と戻ることのない岐阜の街並み。 遠くに連なる金華山の山並み。 そして――その街のどこかにひっそりと息づいている、あの古いアーケードと柳ヶ瀬の路地裏。
修平は窓の外を見つめたまま、静かに目を閉じた。
もしこれが10年前の若い頃だったら、きっとこんな風に納得などできなかっただろう。東京へ向かう列車を途中で飛び降りてでも、美佐子のもとへ引き返していたかもしれない。彼女の腕を強引に掴んででも、無理やり東京行きの列車に乗せていたかもしれない。 でも、今の二人はもう大人になりすぎていた。
人間は、どんなに愛していても、他人の人生まで丸ごと背負うことはできない。 本当にお互いを大切に想うからこそ、自分のエゴだけでは守れないものがあるのだと、知る年齢になっていた。 列車はスピードを上げ、修平を乗せて、岐阜の街を遠ざけていった。
そして、その夜。 柳ヶ瀬には、いつものように冷たい夜が巡ってきた。 いつものように、街のあちこちで色あせたネオンがぼんやりと灯り始める。
アーケードの古びた看板。雨の跡が黒ずんで残る石畳。固く閉ざされたままのシャッター。 全盛期の華やかさを失い、どこか寂しく、けれど同時に傷ついた者を優しく包み込むような、静かな夜の街。 何も変わらない。昨日とも、一週間前とも、そして十年前とも、何一つ変わらないはずの夜だった。
「スナック あどけなさ」
店の前に立った美佐子は、しばらくの間、静かに自分の店の看板を見上げていた。 その手には、使い古された真鍮の鍵が握られている。 彼女はふっと顔を上げ、星の見えない、厚い雲に覆われた夜空を仰ぎ見た。
「……よし」
小さく自分に気合を入れるように呟き、シャッターに手をかける。 ガラガラガラ、と金属の重い音が夜の路地裏に虚しく響き渡った。
店内に一歩足を踏み入れると、そこにはいつも通りの静寂が広がっていた。 誰もいないカウンター。 いつものタバコの残り香とウイスキーの匂い。 いつもの低い椅子。 なのに。たった一人の人間がこの空間から消えただけで、世界がガラリと色失ってしまったかのように、寒々として見えた。
美佐子はカウンターの中へと入った。無意識のうちに、視線がいつもの「あの席」へと向かってしまう。 カウンターの一番端。修平がいつも静かにグラスを傾けていた、指定席。 当然、そこには誰もいない。ただの無機質な空間が広がっているだけだ。 当たり前のことなのに、胸の奥の柔らかい部分が、じくりと痛んだ。
「……馬鹿ね、私」
自嘲気味に笑ってみる。けれど、その声は微かに震えていた。 静まり返った店内で、掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きくカチ、カチ、と時を刻み続けている。
美佐子は、感傷を振り払うように店の隅へと歩み寄った。古いレコード棚。何十枚、何百枚と並ぶジャケットの中から、迷うことなく一枚の盤を抜き出す。 長年の再生によって、少しだけ溝が擦り切れてしまった12インチのレコード。 何度も、それこそ擦り切れるほど聴いた、二人の思い出の一枚。
プレーヤーのターンテーブルにそっと置き、静かに針を落とす。
――ザザッ……、ザッ……。
特有の、温かいレコードのノイズ。 そして、スピーカーからゆっくりと哀愁を帯びたメロディが流れ出してきた。
『夜の柳ヶ瀬』
あの日、二人が恋に落ちた夜と同じ曲。 けれど、10年前のあの日とは全く違う、深みを持った音が店内に満ちていく。
美佐子はカウンターの中から重厚なロックグラスを取り出した。 製氷機から丸い氷を入れ、琥珀色のバーボンを、ほんの少しだけ注ぐ。
カラン……。
氷がグラスの壁に当たり、澄んだ音を立てた。その高い音が、やけに店内に響き渡る。 美佐子はグラスを手に持ち、誰もいないはずのカウンターの端の席へと、そっと視線を向けた。 やっぱり、誰もいない。
けれど、不思議だった。 寂しい。胸にポッカリと大きな穴が空いてしまったかのように、たまらなく寂しい。 けれど、その寂しさは決して冷たいだけのものではなかった。どこか、心の奥底がすっきりと晴れ渡っているような、不思議な充足感があった。長い間、重い鉄の鍵をかけ、閉め切っていた心の窓を、ようやく自分の手でガラリと開け放つことができたような、そんな清々しさ。
美佐子は、窓の外の景色に目をやった。 柳ヶ瀬の、色あせた赤や青のネオンが、静かに揺れている。 かつては人で溢れ返り、欲望と熱気に満ちていた街。今はすっかり寂れてしまい、孤独だけが漂う夜の街。 けれど、だからこそ、この街にはまだ「夜」が必要なのだ。
都会のスピードに置いていかれ、行き場をなくした人たちの夜。 どうしても忘れられない過去を抱えながら、それでも今日を生きる人の夜。 そして、他の誰のものでもない、自分自身の人生を歩むための、私の夜。
美佐子は、手にしたグラスを、目の前の誰もいない空間に向かって静かに掲げた。 誰に見せるでもない、ささやかな乾杯。 かつて狂おしいほど愛した、あの人へ。 もう二度と戻ることのない、眩しかったあの時間へ。 そして――これからこの街で力強く始まっていく、私だけの新しい人生へ。
「……元気でね、修平」
誰もいない、音楽だけが流れる店内に、彼女は小さく、祈るように呟いた。
レコードは、ゆっくりと回り続ける。 ネオンの光は、変わることなく夜の街を照らし続ける。 柳ケ瀬の夜は、今日も少しだけ寂しくて、そして、どこまでも優しい。
美佐子もまた、愛おしい思い出を胸に抱いたまま、その夜の闇へと静かに溶け込んでいった。 この孤独な街の、決して消えることのないネオンの光の中へ。
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