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カスバの女 

目次

砂塵の港に消えた約束

 有名な『カスバの女』をモチーフにしてみました。エト邦枝以外にも多くの方が歌っています。中でもちあきなおみさんの歌う『カスバの女』は特に哀愁あふれていると思います。

 歌詞の引用をすることによってさらに作品としての完成度が上がると思いましたが、著作権に触れる恐れがあるので歌う行為と情景の描写で表現しています。

第一章 雨の港町

 昭和四十八年、冬。
 横浜港を吹き抜ける夜風は、まるで剃刀の刃のように冷たく、人々の肌を容赦なく刺した。
 その風は、岸壁に係留された巨大な貨物船の鉄の腹を撫で、剥き出しのクレーンの骨組みの間を縫い、積み上げられた木箱の隙間を低く鳴らしながら、海から街へと這い上がってくる。潮と、重油と、どこか錆びた金属の匂いを孕んだ風だった。
 当時の日本は、高度経済成長の熱気に沸き返っていた。テレビからはきらびやかな流行歌が絶え間なく流れ、街は消費と建設の喧騒に満ちている。けれど、その華やかな中心街の輝き――まばゆいネオンと、真新しいビルの灯と、行き交う人々の靴音から、蜘蛛の巣のように複雑に入り組んだ路地をいくつも隔てた裏通りには、まるで時代から取り残されたような暗がりが、ぽっかりと広がっていた。表通りの繁栄が、一滴も染み込んでこない一角。
 その忘れられた片隅に、煤けたネオンが冬の長雨に濡れ、頼りなげに明滅する小さな酒場があった。看板には掠れた文字で「マロニエ」とある。もとはフランス語で、あの大きな葉を広げる街路樹の名だ。誰がつけたのかも、なぜその名なのかも、もう店の誰も覚えていない。文字は半分が剥げ落ち、夜になると、赤いネオンの「マ」と「ニ」だけが、雨に滲みながら点滅していた。
 重い木製のドアを押して中に入ると、昼間でも薄暗い店内の空気が、まず鼻をついた。安煙草の紫煙と、安価なウイスキーのツンとした匂い。それは長い年月をかけて、壁や天井にべっとりと染みついている。掃除や換気でどうにかなるものではない。この店そのものに沁み込んだ、酔いと孤独の体臭のようなものだった。煤けたベニヤ板の壁には、いつか寄港した外国船の乗組員が書きつけたらしい異国の文字の落書きが、消されもせずに残っていた。
 客層は、お世辞にも上品とは言えなかった。世界中の海を巡り、この港に束の間腰を落ち着けた外国船の荒くれ乗組員たち。そして、一日の重労働で油と汗、潮の塩分にまみれた地元の港湾労働者たち。陽に焼け、塩で荒れた厚い手のひら。安酒を一気に呷る喉。言葉の通じない異国人たちが飛び交わせる、怒号にも似た濁った声。それに混じる、分厚いガラスのロックグラスがぶつかり合う鈍い音。誰かが投げる下卑た冗談と、それに応える嗄れた笑い。テーブルを叩く拳。――それらが渾然一体となって、この店の日常のBGMを作り上げていた。
 誰もが、明日のことなど考えていなかった。ただ今夜の酔いだけを求めて、ここへ流れ着く。明日になれば船はまた海へ出て、男たちは港から消えていく。だからこそ、この店に流れる時間には、いつもどこか刹那の匂いがした。
 その喧騒の奥。数段高くなった、人ひとりがやっと立てるほどの狭いステージがあった。色褪せた赤いビロードの幕を背に、止まり木のような古い丸椅子がぽつんと一つ。そこに腰掛け、夜な夜な古い金属製のマイクを握る女がいた。
 美緒、三十五歳。
 艶のある黒髪を緩く結い上げ、肩の出る臙脂色のドレスを纏っている。その顔立ちには、二十代の娘が持つような瑞々しい若さは、もうなかった。だが、その代わりに――幾多の夜をくぐり抜けてきた者だけが持つ、特有の翳りと、どこか冷ややかな、人を寄せ付けない色香が漂っていた。笑うときでさえ、目の奥のどこかが笑っていない。男たちは、そういう女に惹かれる。手の届かない場所で寂しげに微笑む女に、自分の寂しさを、そっと重ねるのだ。
 客たちは、誰も彼女を本名で呼ばなかった。いつからか、この店の荒くれ者たちは、畏敬と親しみを込めて、彼女をこう呼ぶようになっていた。
「カスバの女」と。
 毎晩、壁に掛けられた古時計の針が日付を変え、閉店の時刻が近づくと、彼女は決まって同じ曲を歌った。大戦後の動乱期に流行した、北アフリカの港町アルジェの場末を舞台にした、哀しい歌だ。砂と汗にまみれた異国の酒場。そこへ流れ着いた女の、行き場のない恋心と、諦め。なぜかその歌は、この港町の片隅で生きる者たちの胸に、深く沁みた。
 美緒がハスキーで、それでいてどこまでも伸びやかな声を響かせると、それまで耳を劈くようだった店内の騒がしさが、嘘のように、水を打った静けさに包まれる。フランス語や英語、あるいは出所のわからぬ言葉で怒鳴り合っていた男たちが、グラスを置く手を止める。乱暴に絡み合っていた肩を離す。煙草の煙を吐き出すことさえ忘れて、誰もが、自分でも気づかぬうちに、じっと彼女の歌声に耳を傾けていた。立ちのぼる紫煙だけが、ゆらゆらと天井へ昇っていく。
 異国の砂塵の町を歌うその一節――地の果てまで流れてきた者の、明日をも知れぬ命を嘆くその哀切な調べに差しかかると、不思議なことに、美緒の胸は、いつも引きちぎられるように締めつけられた。
 澱んだ空気の向こうを見つめる彼女の瞳には、歌の舞台である北アフリカの乾いた砂塵ではなく、自分自身のうらぶれた半生が、ありありと映り込んでいた。
 若い頃は、本気で歌手を夢見ていた。喉には自信があった。地元の歌自慢の大会で何度も賞をさらい、いつかは東京の、きらびやかなステージに立ち、スポットライトを浴びる自分を、信じて疑わなかった。大勢の客が、自分の歌に酔いしれる――そんな未来が、すぐ手の届くところにあると思っていた。
 だが、現実というものは、あまりにも残酷だった。
 優しく自分を支えてくれていると信じていた恋人には、デビューのために二人で貯めた資金ごと裏切られて、逃げられた。男は美緒の貯金を持って、別の女と東京へ消えた。涙が涸れるほど泣いた頃、追い打ちをかけるように、故郷の母が脳溢血で倒れた。右半身の自由を失い、言葉もうまく出なくなった母を、美緒は一人で支えた。歌の道は、そこで断たれた。それからの十数年は、夢を追うことなど到底許されない、終わりの見えない介護の日々だった。
 昼は内職と病院の付き添い、夜は酒場で歌って日銭を稼ぐ。ふと鏡を見れば、いつのまにか目尻に皺が増え、笑い方を忘れた女が、そこに立っていた。
「私、何のために生きてるんだろう」
 深夜、眠る母の枕元で、そう自問自答を繰り返すうちに、やがてその母も静かに見送り、気づけば、人生の半分をとうに過ぎた三十五歳になっていた。葬式の翌朝、誰もいなくなった家でひとり茶を啜ったとき、悲しみよりも先に、ぽっかりとした空虚さが胸を満たしたのを、今でも覚えている。守るべきものも、目指すべきものも、もう何ひとつ、残ってはいなかった。
 かつて抱いた夢の残骸のような、この薄暗い港町の片隅で、夜な夜な、他人の寂しさを紛らわせるための歌を歌う。それが、今の彼女のすべてであり、辛うじて生きている証だった。
「ごちそうさん。今夜もいい歌だったよ、カスバの姉ちゃん」
 最後の常連客である年老いた船員が、赤らんだ顔の頬を緩め、千鳥足で千円札をカウンターに置いて出ていった。冷たい夜気がドアの隙間から忍び込み、煙草の煙をひとしきり揺らして、また閉じる。
 美緒は小さくため息を吐き、重い木製の扉に歩み寄って、内側から鍵を閉めた。鈍い金属音が、誰もいなくなった店内に、妙にくっきりと響いた。
 壁の古時計は、午前一時を少し回ったところだった。
 彼女は照明をいくつか落とし、手早く店内を片付け始めた。テーブルに散らばった空のグラスを集め、灰皿の山のような吸い殻を捨て、濡れた布巾でカウンターを拭く。洗い終えたグラスを一つひとつ磨いては、棚に伏せて並べていく。カラン、と、製氷機の中で氷の塊が崩れる音が、静まり返った空間に、妙に大きく響いた。手は慣れた動きで動き続けていたが、頭の中は、いつものように、どこか遠い場所をさまよっていた。
 すべてを終えた美緒は、カウンターの端の、自分の指定席である丸椅子に腰掛け、すりガラスの窓から外を覗いた。
 夜の底で、冬の雨が、静かに、容赦なくアスファルトを濡らしている。
 すりガラス越しに、街灯の鈍い橙色の光が滲んでいた。その光に照らされた雨粒が、ガラスの表面に幾筋もの細い線を引いて、滑り落ちていく。それはまるで、誰かの流す涙のように、何かをつぶやきながら伝い落ちていくようだった。雨脚の向こう、人影の絶えた港町は、ひたすら深い静寂に支配されている。遠くで、停泊した船の汽笛が一度だけ、低く尾を引いて鳴いた。
 美緒は煙草に火をつけようとして、やめた。ただ、滲む窓の向こうを、ぼんやりと眺めていた。
 その時だった。
 ――カラン、コロン。
 消灯したはずの入り口のドアに取り付けられた、真鍮のベルが、頼りなげな音を立てた。
 美緒は思わず顔を上げた。確かに鍵を閉めたはずだ――いや、古いラッチが、うまく噛み合っていなかったのかもしれない。冷たい夜気と、雨の匂いが足元から滑り込んでくると同時に、一人の男が、音もなく店内へ足を踏み入れてきた。
「すいません、もう閉店時間を過ぎているんです」
 美緒は少し声を尖らせ、迷惑そうな表情を作って、椅子から立ち上がりながら振り返った。――しかし、男の姿をその目に収めた瞬間、続けようとした次の言葉が、喉の奥でぴたりと止まった。
 見慣れない男だった。
 常連の労働者でも、船乗りでもない。この店には、およそ似つかわしくない、異質な気配を纏っていた。年の頃は、五十代の半ばを過ぎただろうか。仕立ては非常に良いが、随分と着古されて角の擦り切れた、白いトレンチコートを着ている。もとは上等な生地だとわかる。だが袖口は擦れ、肩のあたりが雨で色濃く濡れていた。白髪の混じり始めた髪は、雨に濡れてなお几帳面なほどきっちりと後ろへ撫でつけられ、深く刻まれた目尻の皺が、彼がこれまで歩んできた激動の人生の長さを、無言で物語っていた。
 男は、美緒の制止を気にする風でもなかった。詫びるでも、ためらうでもなく、足音も立てずに、カウンターの中央の席へと歩を進めた。そこは、さっきまで一番声の大きな労働者が陣取っていた場所だった。男は被っていた中折れ帽を脱いで傍らの席にそっと置くと、まるで、もう何十年も前からそこが自分の席だったかのような自然な所作で腰を下ろし、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐに美緒の目を見つめた。
「一杯だけ、いいですか」
 低く、ひどく落ち着いた声だった。まるでオーケストラの奥で鳴り響くチェロの低音のように、耳の奥に心地よく、しかし重々しく沈んでいく響き。声高に何かを主張するのでもなく、媚びるのでもない。ただ、長い沈黙の果てに、ようやく口を開いた――というような、慎ましく、それでいて有無を言わせぬ静けさがあった。
 美緒は、一瞬躊躇した。いつもなら、色よい返事などせず、追い返すところだ。閉店だと、もう一度言うべきだった。
 だが――言えなかった。
 男の瞳の奥に沈む、底知れない、あまりにも深い孤独の色を、見てしまったからだ。それは、美緒自身が毎晩、鏡の中に見ているものと、よく似ていた。同類の匂い、とでも言えばいいのだろうか。彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。
 棚から、安価なスコッチウイスキーのボトルを取り出す。新しいグラスを一つ選び、丸く削った氷を、コトリと落とす。琥珀色の液体を静かに注ぐと、氷の角がゆっくりと溶けて回り、グラスの中に、ちいさな渦を生んだ。
 その渦を見つめる男の横顔を、美緒はそっと盗み見た。日に焼けた肌。荒波と機械を相手にしてきたであろう、節くれだった無骨な手。けれど、その佇まいのどこかには、この港町の荒くれ者たちには決してない、都会的で、洗練された寂しさが漂っていた。
 この、白いコートを纏った初老の男との出会いが――凍りついたように膠着していた美緒の人生を、そして、四十年の時を超えた哀しい運命の歯車を、大きく回し始めることになるとは。
 外の雨の音だけが響く、深夜の小さな酒場で。
 この時の彼女はまだ、知る由もなかった。

第二章 白いコートの男

 男の名は、高城修一といった。
 年齢は五十八歳。長年、世界中の海を巡る外国航路の機関士として、巨大な貨物船の薄暗い底で、油にまみれながら、その心臓部を守り続けてきた男だった。
 もっとも、そのことを美緒が知るまでには、少しばかりの時間が必要だった。
 あの最初の夜、男はウイスキーを一杯、ゆっくりと時間をかけて飲み干すと、グラスの底に残った氷をしばらく見つめ、それから財布から皺の寄った紙幣を一枚、カウンターにそっと置いた。釣りはいらない、というように軽く手を振り、帽子を被り直して、来たときと同じように音もなく店を出ていく。名乗りもせず、美緒の名を尋ねることもなかった。ただ、扉を閉める前に一度だけ振り返り、「ごちそうさま。いい店だ」と、低く言い残して。
 あの冬の雨の夜以来、高城は月に一度ほど、きまって「マロニエ」に姿を見せるようになった。
 彼が訪れるのは、決まって他の客がすっかり引き払い、美緒が表のネオンを消す直前の時間帯だった。まるで、賑わいを避けるように。あるいは、その賑わいが引いて、店がようやく素顔に戻る、その瞬間だけを狙っているかのように。重い木製の扉を静かに押し開けて入ってくると、彼は黙って中折れ帽を脱ぎ、いつも決まってカウンターの中央――あの最初の夜と寸分違わぬ席に、静かに腰を下ろす。
 注文するのも、いつも同じだった。
「スコッチを、ロックで」
 ただそれだけ。氷は、丸い大きなものを一つ。水は足さない。三杯目を頼むことは決してなく、たいてい二杯を、ゆっくりと舐めるように飲んだ。
 高城は、多くを語らない男だった。
「外はまだ降っているんですか」とか、「今夜は少し冷え込みますね」といった、美緒の他愛のない世間話に、彼はただ短く、しかし拒絶の色は見せずに応じるだけだった。一度、美緒が二杯目を注ぎながら「お仕事は、船の関係で?」と水を向けたとき、彼はわずかに目を細めて、「ええ、まあ。機関のほうを、長く」とだけ答えた。それ以上の問いを、彼の佇まいがやんわりと拒んでいたので、美緒もそれ以上は踏み込まなかった。だが、その短い言葉と、彼の手のひらを見れば、おおよそのことは察せられた。
 日に焼けて節くれだった、無骨な手。指の関節は太く、手の甲には消えない油染みと、いくつもの古い傷痕が刻まれていた。それは、何十年も荒波と高温の機関室で、轟音を上げる鉄の塊だけを相手にしてきた、人生の年輪だった。けれど不思議なことに、その荒んだはずの手で、彼はグラスを実に丁寧に扱った。乱暴に呷ることは決してなく、まるで壊れ物にでも触れるように、そっと持ち上げては、そっと戻す。
 そしてその静かな佇まいには、この港町の荒くれ者たちには決して見られない、どこか都会的で、洗練された寂しさが漂っていた。背筋はいつも真っ直ぐで、安酒場の止まり木に座っていてさえ、どこか場違いなほど端正だった。だが、その端正さは、人を寄せつけるものではなかった。むしろ、自分の周囲にぐるりと見えない線を引き、その内側には誰一人入れまいとしているような――孤独の作法のように見えた。
 そして彼は、美緒が歌う『カスバの女』を、じっと目を閉じて聴き入るのだった。
 他の客が歌に聴き入るのとは、何かが違っていた。荒くれ者たちが歌に聴き惚れるのは、つかのまの安らぎを求めてのことだ。だが高城は――聴いている、というより、耐えている、ように見えることがあった。目を閉じ、グラスを握る指にわずかに力をこめ、まるで歌の一節一節が、心の柔らかいどこかを刺してくるのを、黙って受け止めているような。歌い終えて店内が静寂に包まれると、彼はしばらくそのまま目を閉じ、それから長い息を一つ吐いて、ようやく瞼を開けるのだった。
 美緒にとっても、月に一度、閉店間際にやってくるこの初老の男のために歌うことが、いつしか密かな――そして、かけがえのない習慣のようになっていた。
 彼が来ない夜は、最後の一曲を歌い終えても、どこか張り合いがなかった。彼がカウンターの特等席で、目を閉じて耳を傾けていると思うだけで、マイクを握る指先に、いつもとは違う熱がこもるのを、美緒ははっきりと自覚していた。誰のために歌うのか――そんなことを意識したのは、本当に久しぶりのことだった。それが少しばかり気恥ずかしくもあり、けれど、忘れかけていた何かが胸の奥でほのかに灯るような、不思議な心地よさでもあった。
 他人の寂しさを紛らわせるためだけの歌が、その時だけは、高城という一人の男の魂に、直接語りかけるための言葉に変わる――そんな気がしたのだ。
 二人の間に、特別な会話があったわけではない。高城は相変わらず多くを語らず、美緒もまた、彼の沈黙を尊重した。けれど、言葉のない時間というものが、かえって人と人とを結ぶことがある。雨の夜に、誰もいなくなった酒場で、ただ歌う者と、聴く者として。二人は静かに、ゆっくりと、互いの存在に馴染んでいった。
 凍てつくような冬がゆっくりと去り、横浜の夜風が、少しだけ生温かさを帯び始めた、ある春の夜のことだった。
 その日も店には、高城と美緒の二人だけだった。
 遅い時刻のせいか、あるいは翌日に大きな船の出航が控えていたせいか、その夜は早くから客足が引いて、日付が変わる前には、もう二人きりになっていた。窓の外では、この季節には珍しい、生温かい霧雨が、音もなく降っていた。
 最後のフレーズを歌い終え、美緒がステージの照明を落としてカウンターへと戻る。高城の前には、時間をかけて中の氷がすっかり溶け、薄まった琥珀色のグラスが置かれていた。
 いつもなら、ここで彼は「ごちそうさま。今夜もいい歌だった」と低く言い、紙幣を置いて帰っていく。美緒はその一言を待ちながら、布巾でカウンターを拭く手を止めた。
 ――だが、その言葉は、いつまで経っても、降りてこなかった。
 ふと、美緒は息を呑んだ。
 高城は、言葉を失ったように、ただ静かにグラスを握りしめていた。その無骨な指先が、白くなるほど強く強張っている。視線は、グラスを通り越して、どこか遠い――この店のどこにもない場所を見つめていた。
 そして、その深く刻まれた目尻を、一筋の涙が、静かに、伝い落ちていた。
 男は声をあげなかった。肩を大きく揺らすこともなかった。ただ、ほんのわずかに肩を震わせ、頬を伝うその雫を、拭おうともしなかった。気づいてさえ、いないのかもしれなかった。涙はゆっくりと顎の先まで流れ、そこから、カウンターの上に、ぽつりと落ちた。それは、長年張り詰めていた何かが、美緒の歌声によって、とうとう静かに決壊してしまったかのような、そんな涙だった。
 いつも毅然としていた、海の男の。あまりにも脆く、痛々しい姿だった。
 美緒は、胸を激しく突かれた。
 慌ててかけるべき言葉も、見つからなかった。何か言えば、この張り詰めた何かを、壊してしまう気がした。彼女はただ、新しいグラスに冷たい水を注ぎ、そっと、彼の手元に置いた。氷がグラスに触れて、チリン、と小さな澄んだ音を立てた。
「……その歌、本当にお好きなんですね」
 美緒は、彼の張り詰めた心をこれ以上傷つけないよう、できるだけ柔らかい、包み込むような声で話しかけた。沈黙を破るというより、ただ――彼を一人に、しておけなかった。
 高城はハッとしたように顔を上げた。自分が泣いていたことに、いま初めて気づいたかのように、戸惑った表情を浮かべる。それから自嘲気味な苦笑を浮かべると、大きな手のひらで、手早く目元を拭った。
「いや……好きじゃないんだ」
「え?」
 美緒は意外な答えに、目を丸くした。嫌いな歌を聴くために、毎月わざわざこの場末まで足を運び、あんなにも真剣に耳を傾けていたというのだろうか。
「じゃあ……嫌いなのですか?」
「いや、嫌いというのとも、もっと違うな……」
 高城はそう言うと、視線をふたたびグラスの底へと落とした。氷の破片が、彼が指を動かすたびに、カラン、と儚い音を立てる。
 店内を、長い、重密な沈黙が支配した。霧雨が窓を撫でる、かすかな音だけが聞こえている。その向こうから、遠い船の汽笛が一度、小さく響いてきた。美緒は急かすことなく、布巾を握ったまま、彼が自分自身の心の奥底から言葉を紡ぎ出すのを、じっと待った。
 やがて、高城はぽつりと言った。
「忘れられないんだ。どうしても」
 その目は、目の前にあるウイスキーのグラスではなく、何十年も前の、遠い遠い昔の景色を見つめているようだった。瞳の奥に、彼が長いあいだ沈めてきた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくる気配があった。心の奥底に澱のように沈んでいた記憶が、美緒の歌声という鍵によって、いま静かに、揺り起こされようとしていた。
 美緒は、その横顔から、目が離せなかった。
 この男が、いったい何を「忘れられない」というのか。なぜ、嫌いだという歌を、涙を流してまで聴きに来るのか。問いたい気持ちは、あった。けれど、それを尋ねるには、二人の間に流れた時間は、まだあまりに短かった。
 ただ――この夜、美緒は確かに感じていた。
 高城修一という男の、固く閉ざされた心の扉の前に、自分は今、立っているのだということを。そしてその扉の向こうには、長いあいだ誰にも明かされることのなかった、深く、哀しい何かが、静かに眠っているのだということを。
 窓の外では、生温かい霧雨が、いつまでも降り続いていた。

第三章 約束の桟橋

 高城は、震える手で、ウイスキーのグラスを包み込むように触れた。氷はもう完全に溶け去り、薄まった琥珀色の液体が、ただ静かに揺れている。彼は、遠い記憶の重い扉を、一枚ずつ抉じ開けるように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。その声は、長い年月、潮風とエンジンの爆音に削られてきた岩のようにかすれていながらも、聴く者の胸の奥に深く突き刺さる、確かな重みを持っていた。
 美緒は布巾を置き、カウンターの内側に立ったまま、ただ静かに耳を傾けた。
「昭和二十八年……。まだ、この港の周りにも、戦争の生々しい傷跡が、あちこちに残っていた頃の話だ」
 焼け跡の闇市はようやく姿を消しつつあったが、街にはまだ物資が乏しく、人々の顔には、飢えと不安の影が差していた。海の向こうから入ってくる豊かさと、足元の貧しさ。その残酷な落差の中で、誰もが必死に、その日その日を生きていた。
 十八歳の修一は、身寄る辺もなく、その港で、その日暮らしの日雇い荷役労働者として働いていた。
 毎日、まだ夜も明けきらぬうちに桟橋へ出て、巨大な貨物船の腹から吐き出される重い物資を、背負って運び出す。米俵、鉄材、麻袋に詰まった豆や砂糖。肩に食い込む荷の重さに歯を食いしばり、泥と汗、そして重油の匂いにまみれながら、日が暮れるまで働き続ける。指の皮は擦り切れ、手のひらは豆だらけになり、潰れてはまた固くなった。夜になれば、全身の筋肉が悲鳴を上げた。まともな娯楽もなく、荒くれ者たちが明日の見えない不満をぶつけ合う、その日暮らしの港の片隅で――若き修一にとって唯一の救いであり、生きる意味そのものだったのが、佐和子という名の娘だった。
「佐和子……」
 その名を口にしたとき、高城の声が、わずかに揺れた。グラスを持つ手に、また力がこもる。
 佐和子は、港の波止場近くにある小さな定食屋で働く、つつましくも芯の強い娘だった。歳は、修一より二つ下。早くに父を亡くし、母と弟妹を支えるために、朝から晩まで働いていた。色白で、笑うと、右の頬にだけ小さなえくぼができる。修一が昼飯に通ううち、いつしか言葉を交わすようになり、やがて惹かれ合った。
 二人は、ひどく貧しかった。
 映画を観る金もなければ、小洒落た喫茶店に入って珈琲を啜る余裕すらない。デートといえば、仕事帰りの夕暮れ時、冷たい潮風に吹かれながら、桟橋の縁に並んで腰掛けることだった。修一が屋台で買ってきた一つの焼き芋を、小銭を出し合って、半分こにして分け合う。熱くて、甘くて、立ちのぼる湯気の向こうで、佐和子が笑う。たったそれだけのことが、修一には何ものにも代えがたい時間だった。
「いつか――」
 ある夕暮れ、夕陽に染まる海を見つめながら、佐和子はぽつりと言った。赤く火照った焼き芋を両手で包み、白い息を吐きながら。
「いつか、大きな家じゃなくていいから。二人で静かに、誰も私たちを知らない場所で、暮らせる部屋が欲しいね。小さくてもいいの。あなたの帰りを待って、温かいご飯を作って、それで……」
 そう言って、はにかんで俯く佐和子の横顔を、修一は今でもはっきりと覚えていた。茜色の光に縁取られた、頬のえくぼ。そのささやかな夢を語る声の、震えるような優しさ。
 その笑顔を見るだけで、修一は、どんな理不尽な重労働にも、明日の見えない貧しさにも、耐えることができた。彼女を守り、いつか二人で温かい家庭を築くこと。それだけが、若き修一の――ささやかな、けれど人生のすべてを賭けた、たった一つの夢だった。
 やがて、人一倍真面目な働きぶりが認められた修一に、人生を大きく変える転機が訪れる。
 いつも荷役を頼んでくる海運会社の現場監督が、ある日、修一を呼び止めて、思いがけない話を持ちかけたのだ。外国航路の巨大な貨物船に、機関員見習いとして乗らないか――という誘いだった。
「お前は真面目だし、機械にも強い。陸で芋を運んで一生終えるより、海に出てみんか」
 一度海に出れば、半年は日本の土を踏むことができない、過酷な仕事だ。家族とも、恋人とも、長く離れて暮らさねばならない。狭い船底の機関室で、轟音と熱に焼かれながら働く日々。けれど――当時の外国航路がもたらす給料は、陸上での泥にまみれた日雇い労働とは、比べものにならないほど破格だった。何年か辛抱すれば、小さな家の一軒くらいは、十分に建てられるほどの金になる。
(これなら、佐和子を本当に幸せにできる。何年か辛抱して金を貯めれば、あの娘に約束した、小さな家だって……。戻ってきたら、すぐにでも結婚しよう)
 修一は、迷った末に、その誘いを受けることを決めた。
 出航を数日後に控えたある夜。修一は意を決して、いつもの桟橋で、佐和子にすべてを打ち明けた。海に出ること。半年、いや、ことによっては一年近く会えないかもしれないこと。だが、必ず金を貯めて、戻ってくること。
 そして、なけなしの貯金をすべて叩いて買った、安物の、けれど精一杯に輝く銀の指輪を、差し出した。屋台の指輪屋で、何日も迷った末に選んだ、細い細い一本だった。
「待っててくれるか。……俺と、所帯を持ってくれるか」
 佐和子は、驚きに目を見張った。それから、その指輪を愛おしそうに胸に抱きしめ、大粒の涙をポロポロとこぼしながら、何度も、何度も頷いた。
「待ってる。……何年かかっても、私、修一さんを、ここで待ってるから。だから……身体に気をつけて、往ってきてね。無事に帰ってきてくれることだけ、毎日、祈ってるから」
 月のない夜だった。波の音だけが、静かに二人を包んでいた。
 二人は、出航の日の朝、港の最も外れにある古びた第三桟橋で、待ち合わせる約束をした。本来、家族でもない者が、見送りに来られるような場所ではない。だが、その桟橋の隅なら、人目につかず、船に乗り込む直前に、もう一度だけ顔を見られる。離れても変わらぬ互いの愛を、最後にもう一度だけ確かめ合ってから旅立つ――それが、二人の約束だった。
「指輪、ずっとつけてるね。あなたが帰ってくる、その日まで」
 別れ際、佐和子はそう言って、左手の薬指に光る細い銀の輪を、そっと撫でた。
 そして、運命の出航の日が、やってきた。
 その日は朝から、どんよりとした灰色の曇り空だった。冬を先取りしたような、肌を刺す冷たい海風が、灰色の海から容赦なく吹き荒れていた。
 修一は、約束の時間の二時間も前から、着替えだけを無理やり詰め込んだ小さな破れ鞄を一つ提げて、冷え切った第三桟橋に立っていた。出航の準備に追われる船員たちの怒声、巻き上げられる錨の軋み、積み込みのクレーンの唸り――港じゅうが慌ただしく動いている中で、彼だけが、佐和子の現れる方角を、じっと見つめていた。
 胸は、これから始まる未知の遠い航海への、言い知れぬ不安と。それを遥かに上回る、佐和子と共にある未来への、眩い希望とで、パンパンに膨らんでいた。半年我慢すれば、また会える。一年経てば、まとまった金になる。何年か続ければ、あの娘に約束した小さな家が買える。そうしたら――。修一は寒さに手をこすり合わせながら、頭の中で、何度も二人の未来を思い描いていた。
 しかし。
 約束の時間を過ぎても、佐和子は現れなかった。
 三分、五分、十分……。
 腕時計の錆びかけた針が、無情に刻みを進めるたび、修一の心は、じりじりと焦燥に焼かれていった。
「何か急な用事ができたのだろうか」「いや、店の仕込みが、長引いているのかもしれない」「道を間違えるはずはない。この港は、彼女の庭のようなものだ」――。自分にいくつもの都合の良い言い訳を必死に言い聞かせるが、時間は、冷酷に過ぎていく。冷たい風が、彼の頬を打ち続けた。
 一時間が経った。二時間が経った。
 やがて、鈍く垂れ込めた雲を震わせ、港に、巨大な貨物船の汽笛が長く響き渡った。
 ボォォォォ――。
 腹に響くその音は、出航の刻が迫っていることを告げる合図であり、修一にとっては――幸福な世界の終わりを告げる、葬送の鐘のようだった。
「おい、高城! 何をグズグズしている、早くタラップを上がれ! 置いていくぞ!」
 甲板から、先輩船員たちの怒鳴り声が、風に乗って聞こえてくる。
 それでも、修一の視界に――遠くの波止場の、どこを探しても。愛しい彼女の、あのつつましい姿が、飛び込んでくることは、ついになかった。
 冷たい桟橋から、人影が途絶えていく。見送りの者たちは皆、船を見上げて手を振っている。その中に、佐和子だけが、いなかった。
 その時。
 ついに人影の絶えた桟橋の上で、修一の若く未熟な心の中に、どす黒い絶望と、それを覆い隠そうとする激しい怒りが、ゆっくりと鎌首をもたげた。
(……裏切られたんだ)
 その思いは、一度芽生えると、たちまち修一の胸を呑み込んだ。
 貧しい日雇い荷役の男。一生の大半を、海の上で暮らすかもしれない、不確かな未来。半年も一年も帰らない男を待つ、当てのない歳月。――その厳しすぎる現実に、いざ直面して、彼女は怖くなったのだ。恐れをなして、逃げ出したのだ。土壇場になって、自分を捨てることを選んだのだ。あの涙も、あの「待ってる」という言葉も、その場限りの嘘だったのだ。そうとしか、思えなかった。
 修一は、若かった。そして、貧しさゆえに、あまりにもプライドが高く、傷つきやすかった。
 真実を確かめるために彼女の家へ走ることも、出航を遅らせてくれと頼むことも、せめて誰かに伝言を託すことも――彼はしなかった。傷ついた自尊心が、それを許さなかった。捨てられた男が、なお縋りつくような真似だけは、どうしてもできなかった。
 ただ、信じていたものに裏切られたという激しい憎しみと、張り裂けんばかりの絶望だけを胸に抱いて。彼は、二度と振り返ることもせず、船のタラップを駆け上がった。
 船がゆっくりと岸壁を離れ、黒い海に、白い引き波を立てていく。
 遠ざかっていく横浜の、灰色に霞む街並みを、修一はデッキの手すりに掴まって、じっと睨むように見つめていた。やがて彼は、ポケットの奥に忍ばせていた、もう一つの指輪――佐和子に渡したのと対になる、自分の分の銀の輪を、取り出した。それを、しばらく手のひらの上で転がし、それから、冷たい風の中へ、力いっぱい、灰色の暗い海へと投げ捨てた。
 ぽちゃん、という、そのささやかな音さえ、波と風にかき消されて、もう聞こえなかった。
「それが、すべての始まりだった」
 高城は、長い回想を終えて、深い息を吐いた。グラスの中の氷は、いつのまにか、すっかり溶けていた。
「真実を確かめることもしなかった、若さゆえの、あまりにも愚かな過ち。……あの日を境に、俺の心は、硬く凍りついた。それからは、ただエンジンの爆音と、波の音だけを聴く、長い長い孤独の航海さ。どこの港にも――帰る理由なんて、なかった」
 美緒は、何も言えなかった。
 ただ、目の前の老いた男の中に、灰色の海に向かって指輪を投げ捨てた、十八歳の少年の後ろ姿が、はっきりと見えた気がした。その背中があまりに哀しくて、彼女はそっと、新しいグラスに、水を注いだ。
 ――だがこの時、美緒はまだ、知らなかった。
 高城が四十年ものあいだ「裏切り」だと信じ込んできたその出来事の裏に、彼の想像も及ばない、もうひとつの残酷な真実が隠されていたことを。そして、その真実が、やがて――自分自身の血の中にまで、繋がっていくことを。
 窓の外の雨は、いつのまにか、止んでいた。

第四章 四十年の誤解

 季節が、何度目かの巡りを見せていた。
 高城が初めて回想を語った、あの春の夜から。夏が過ぎ、秋が来て、横浜の夜の帳(とばり)に、ふたたび身を切るような冷たい風が混じり始めた頃。彼は相変わらず、月に一度の頻度で「マロニエ」に姿を見せ続けていた。あれから二人の間に、佐和子の話が出ることはなかった。高城はあの一夜きりで再び口を閉ざし、美緒もまた、その傷にあえて触れようとはしなかった。ただ、彼のために歌い、彼はそれを目を閉じて聴く。二人の静かな習慣は、何も変わらずに続いていた。
 ――その夜までは。
 その夜の高城は、いつもとは明らかに違う、重苦しい雰囲気を全身からまとって、「マロニエ」のドアを押し開けた。
 常はパリッと立っている白いコートの襟が、だらしなく乱れていた。几帳面に撫でつけられているはずの髪も、どこか乱れている。そして何より、その足取りが違った。まるで、見えない足枷を引きずっているかのような、心ここにあらずの歩み。彼はふらりと店内に入ってくると、いつものカウンターの定位置に、崩れ落ちるように腰を下ろした。
 美緒は、ただならぬものを感じて、すぐにスコッチのグラスを差し出した。だが高城は、それに目もくれなかった。
 彼は、凍えた手でコートの内ポケットを探ると、ひどく古びた一通の封筒を、そっと取り出した。
 経年変化でセピア色に変色し、四隅が擦り切れた封筒だった。何度も取り出しては仕舞われたのだろう、折り目には白く擦れた線が幾本も走っている。そこに書かれた差出人の名は、達筆な、けれど少し震えた女文字で記されていた。高城にとっても、それを受け取った美緒にとっても、まったく見覚えのない、見知らぬ女性の名前だった。
「……これを、読んでみてくれないか」
 高城の声は、まるで砂を噛むように、乾ききっていた。差し出すその手が、わずかに震えている。
「私が……読んでも、いいんですか」
 美緒が戸惑いながら問うと、高城は静かに頷いた。
「自分の口からは、もう一度なぞる気力がない。……すまないが、声に出さず、君が一人で読んでくれ」
 美緒は、カウンターの薄暗い灯りに封筒を傾け、中から便箋を引き抜いた。丁寧に三つ折りにされた薄い紙を開くと、そこには万年筆による、かすれがちで細い文字が、几帳面に並んでいた。一筆一筆に万感の思いを込め、震える手を必死に抑えて書かれたことが伝わってくるような、そんな文字だった。
 それは――佐和子の最期を、ずっと看取っていたという、彼女の数少ない知人からの手紙だった。
 その女性は、ようやくのことで高城修一の所在を探し当て、半ば諦めかけながらこの手紙をしたためた、と前置きしていた。そして本文には、四十年もの長い間、高城が頑なに、そして呪いのように信じ込んできた「裏切り」のすべてを根底から覆す、あまりにも残酷な真実が、記されていた。
 美緒は、文字を一行ずつ、目で追った。読み進めるうちに、便箋を持つ指先が、次第に冷たくなっていくのを感じた。
 ――昭和二十八年の、あの運命の出航の日の朝。
 佐和子は、決して逃げてなど、いなかった。
 彼女は、修一から贈られた大切な銀の指輪を左手の薬指にしっかりとはめ、心を弾ませて、約束の第三桟橋へと、今にも走り出しそうな足取りで急いでいた。少しでも早く彼の顔を見たくて、定食屋の朝の仕込みを、いつもより早く切り上げてきたのだという。修一の新しい旅立ちをにこやかな笑顔で見送り、「何年でも、ずっとここで待っている」と、もう一度だけ、直接伝えるために。
 しかし。
 桟橋まで、あと数ブロックという交差点に差し掛かった、その時。悲劇は起きた。
 急いでいた佐和子が、横断歩道に足を踏み出した、その刹那。鳴り響く強風の音にかき消され、視界の端から、猛烈な勢いで泥まみれの大型トラックが突っ込んできたのだ。戦後の復興景気に沸き、貨物を満載して港を走り回っていた車だった。運転手が居眠りをしていたとも、ブレーキが利かなかったとも言われたが、もはや確かめようもない。
 鈍く、重い衝撃音。
 佐和子の小さな身体は、容赦なく宙へ撥ね飛ばされ、冷たいアスファルトへ叩きつけられた。
 大量の血を流したまま意識を失った彼女は、通りすがりの労働者に抱えられ、駆けつけた救急車で、すぐさま近くの病院へと担ぎ込まれた。集中治療室のベッドの上で、彼女は何日も、生死の境をさまよい続けた。
 ――修一が乗った貨物船が、彼女への絶望を乗せた汽笛を港中に響かせ、横浜港を離れていった、まさにその時刻。
 佐和子は、白い病室の天井を見ることもできず、何重もの管と酸素マスクをつけられたまま、死の淵で、孤独に戦っていたのだ。彼女が、裏切ったのではない。彼女は、彼のもとへ駆けつけようとして、その途上で、命を奪われかけていたのだった。
 美緒は、一度便箋から目を上げ、唾を飲み込んだ。喉の奥が、ひどく渇いていた。それから、続きを読んだ。
 佐和子は、奇跡的に、一命を取り留めた。
 だが、彼女に残されたのは、もう以前のようには――自力で歩くことさえままならないほどの、重い後遺症だった。
 そこから始まったのは、気が遠くなるほど長く、苦しいリハビリの日々だった。松葉杖にすがり、引きずる足を、一歩ずつ前に出す。痛みに歯を食いしばり、何度も転びながら、それでも彼女は、懸命に生きようとした。――それでも、と手紙は記していた。それでも佐和子は、自分を置いて旅立っていった修一を、ただの一度も、責めることはなかった、と。
 それどころか。
 彼女が病床で気に病み続けたのは、まったく逆のことだった。約束の場所に現れなかった自分のことを、修一はどれほど傷つき、どれほど恨みながら海へ出たのだろうか――と。
『修一さんに、本当に申し訳ないことをした。私は決して裏切ったわけじゃないと、いつか伝えたい。もう一度だけでいい、あの人に会いたい……』
 佐和子は、自分の身体の不自由よりも、修一に与えてしまったであろう心の傷ばかりを、案じ続けたのだという。そしてその言葉を、彼女は生涯、祈りのように、あるいは呪文のように、繰り返していた。
 けれど、彼女は、修一が乗ったあの船が、どこの会社のものだったかも、彼がどこの誰の縁で海に出たのかも、詳しくは知らなかった。事故の後、わずかな手がかりを頼りに彼の行方を探そうともしたが、半年も帰らぬ外国航路の船乗りを、一人の不自由な娘が、混乱期の中で見つけ出すことなど、できるはずもなかった。
 そして佐和子は――左手の薬指の、あの銀の指輪だけは、生涯、決して外さなかった。
 歳を重ね、指輪がきつく食い込むようになってもなお、彼女は、それを外そうとはしなかったという。やがて彼女は、修一の行方を探し出すことも、その誤解を解くことも叶わぬまま、北の小さな港町で、天涯孤独の身のまま、ひっそりとこの世を去ったのだと――手紙は、静かに、そう結ばれていた。
 美緒は、手紙を読み終えた。
 しばらく、言葉が出なかった。
 万年筆の青いインクの文字が、自分の目から溢れ出た涙で、みるみるうちに滲んでいく。自分が泣いているのだと気づくまでに、少しの時間がかかった。手紙を持つ指先が、小刻みに、しかし、止めることができないほど激しく、震えていた。
 カウンターの向こうで、高城は、両手で顔を覆っていた。
 その無骨な指の隙間から、押し殺したような、傷ついた獣の呻きにも似た、低い声が漏れ聞こえていた。
「四十年だ……」
 高城は、ゆっくりと顔を上げた。血の気の引いた唇を激しく震わせる彼の瞳は、後悔と慟哭で、真っ赤に充血していた。
「俺は四十年もの間――あいつが俺を捨てて、どこかで別の男と、幸せに暮らしているんだと、ばかり思っていた」
 声を絞り出すように、彼は続けた。
「あいつを憎んで、裏切り者だと呪って……。そうすることで、自分の惨めな孤独に理屈をつけて、生きてきたんだ。佐和子が悪い、裏切った佐和子が悪いんだと、自分に言い聞かせて……。そうでもしなけりゃ、あの長い航海を、俺は生き抜けなかった」
 高城の声が、激しく裏返った。
「だが――違った! あいつは、佐和子は……あの日のまま、ずっと、ずっと、俺を待っていてくれたんだ……っ! あの指輪を、薬指にはめた、まま……!」
 ドン、と、高城の拳が、激しくカウンターを叩いた。
 グラスが跳ね、中の琥珀色の液体が、まるで二人の失われた時間を惜しむ悲しげな涙のように、静かにカウンターへこぼれて散った。だが、誰も、それを拭おうとはしなかった。
「なぜ、あの時、船を降りてでも、確かめに行かなかったんだ……! 一時間でいい、半日でいい、出航を遅らせてくれと、なぜ頼まなかった……! 彼女の家へ走れば、誰かが教えてくれたはずなんだ。佐和子が事故に遭って、病院にいると――! なぜ、たった一日、いや、たった一時間だけでも、信じてやれなかった……っ!」
 彼の言葉は、もはや美緒に向けられたものではなかった。四十年前の、あの冷たい桟橋に立つ、十八歳の自分自身へ向けて、叩きつけるように吐き出される、激しい呪詛だった。
「俺が……俺の若さと、俺の傲慢さが……佐和子を裏切ったんだ。あいつじゃない。裏切ったのは――この、俺のほうだったんだ……っ!」
 言い終えると、高城はふたたび顔を伏せ、肩を大きく震わせて、泣いた。
 四十年。
 一人の人間が生まれ、成長し、成熟し、そして人生の黄昏を迎えるほどの、あまりにも長すぎる歳月。そのすべての時間が、たった一つの哀しい誤解によって、支配されていた。確かめさえすれば。走りさえすれば。たった半日の猶予さえ、あれば――解けたはずの、誤解だった。けれど、それは解かれぬまま、二人の人生を、それぞれ別の方角へと、永遠に引き裂いてしまった。
 高城の目から止めどなく流れる涙は、失われた四十年への凄まじい悔恨と、もう二度と詫びることのできない亡き恋人への申し訳なさで、見ていられないほどに、暗く、黒く濁っているように、美緒の目には思えた。
 美緒は、何も言えなかった。
 どんな美しい慰めの言葉も、この四十年の歳月が持つ重みの前では、あまりにも軽薄な塵に等しかった。「あなたのせいじゃない」と言ってやることも、「彼女もきっと幸せだった」と嘘をつくことも、できなかった。そのどちらも、この男の痛みを、何ひとつ救いはしないと、わかっていたからだ。
 ただ静かに――カウンター越しに泣き崩れる初老の男の傍らへ回り込み、その背に、そっと手を添える。共に、冷たい冬の夜が明けるのを待つことしか、今の彼女には、できなかった。
 店の灯りの下で、二人の影が、長く、寄り添うように、床に伸びていた。窓の外では、その夜もまた、冷たい雨が、音もなく降り始めていた。

第五章 叔母の写真

 高城が涙ながらに、あまりにも切ない真実を語った、あの夜から数日が過ぎた。
 しかし、美緒の頭からは、あの夜の彼の痛切な叫びが、そして擦り切れた手紙に幾度も記されていた「佐和子」という名前が、どうしても離れなかった。
 日中、内職の手を動かしているときも、カウンターを拭いているときも、ステージでマイクを握っているときも。ふとした拍子に、その名前が胸の奥でこだまする。佐和子。佐和子。――それは、ただ哀れな話を聞いた、というだけでは説明のつかない、もっと根の深い疼きだった。まるで、忘れていたはずの何かが、記憶の底で、かすかに身じろぎしているような。微かな、けれど無視できない重みを持って、その胸騒ぎは、彼女の心を支配し続けていた。
 昭和二十八年。横浜。交通事故。生涯独身。北の港町。――手紙の中の断片が、なぜこれほどまでに、自分の心をざわつかせるのか。
 その正体のわからない衝動に突き動かされるようにして、美緒は店の休みを使い、久しぶりに、横須賀にある実家の門をくぐった。
 主を亡くして久しい実家は、冬の澄んだ空気の中で、しんと静まり返っていた。母を見送ってからは、年に一度、墓参りのついでに風を通すくらいで、ほとんど足を向けていなかった。主のいない座敷はひんやりと冷たく、どこか寂しげな匂いが漂っている。雨戸の隙間から差し込む細い光の中で、無数の埃が、静かに舞っていた。
 美緒は、薄暗い座敷の押し入れを開けた。母の遺品の多くは処分してしまったが、どうしても捨てられなかったものが、まだ奥のほうに残っている。古い行李、色褪せた着物、そして――黒い布張りの、古いアルバム。表紙の角が擦り切れ、埃をかぶったそれを、彼女は両手で、そっと引っ張り出した。
 畳の上に正座し、膝の上にアルバムを広げる。冷えた指先で、一ページずつ、ゆっくりと、ページをめくっていった。
 台紙に貼られた写真は、どれもセピア色に変色していた。若き日の両親が、神社の前で硬い表情を並べている婚礼の写真。襁褓(おむつ)姿の自分が、縁側で笑っている写真。七五三の晴れ着。小学校の入学式。――めくるたびに、過ぎ去った日々の匂いが、立ちのぼってくるようだった。母の声が、父の咳払いが、もうこの家には響かないのだと思うと、胸がきしんだ。
 さらに、何枚もの家族の歴史をめくっていった、その時。
 美緒の指が、ぴたりと止まった。
 そこに、一枚の古いモノクロ写真が、まるで他の写真から少し隠れるようにして、挟まれていた。
 背景には、昭和二十年代のものと思しき、まだ復興しきらない、舗装もまばらで地味な横浜の街並みが写っている。トタン屋根の続く通り。そして、その手前に――二十歳前後の若い女性が、ぽつんと佇んでいた。
 粗末なワンピースを着て、片手で軽く髪を押さえている。少しはにかんだような、遠慮がちな微笑を浮かべるその女性は、どこか寂しげでありながらも、決して後ろを振り向かないような、芯の強さを感じさせる、まっすぐで美しい瞳をしていた。そして――笑った右の頬に、小さなえくぼが、浮かんでいた。
 その顔を見つめた瞬間、美緒の脳裏に、生前の母が何度も、愛おしそうに語っていた言葉が、突然、鮮やかによみがえった。
『美緒。この人はね、お前の叔母さんにあたる人だよ』
 いつだったか、母がこのアルバムを開いて、まだ幼い美緒に、そう話して聞かせたことがあった。
『本当に綺麗で、優しい人でね。私の、すぐ下の妹だったの。でもね……若い頃に、ひどい交通事故に遭ってしまってね。一命は取り留めたんだけど、それからはずっと足が不自由で、身体も弱くて、ろくに働くこともできなかった』
 母の声は、いつもそこで、少し湿りを帯びた。
『お見合いの話もいくつかあったんだけど、あの娘は、首を縦に振らなくてねえ。お迎えが来るまで、とうとう生涯、独身を通した。寂しい人だったよ。最後は、縁あって北のほうの町で、世話になる人のところに身を寄せて……。いつも、なんだか遠くを見るようにして、空を眺めていたっけ。誰か、待っている人でも、いるみたいに』
 ――誰か、待っている人でも、いるみたいに。
 美緒の全身に、ざわりと、粟立つような鳥肌が立った。
 心臓が、嫌な音を立てて打ち始めている。彼女は震える指で、台紙からそっと写真を剥がし、その裏を返した。そこには、見慣れた母の筆跡で、けれど、どこか震えるような色褪せたインクの文字で、こう記されていた。
 ――「妹・佐和子、二十歳の頃」
「……まさか」
 美緒は、口元を両手で覆った。
 頭の芯が、激しく揺さぶられた。めまいがするほどの衝撃が、彼女を襲う。母の言葉と、高城の語った話と、あの手紙の文面とが、頭の中で次々に重なり合っていく。
 昭和二十八年。横浜。若い頃の、すべてを奪った大事故。生涯独身。北の港町で、息を引き取った。誰かを、ずっと待っているような瞳。そして――佐和子という、名前。
 これまでバラバラに散らばっていた、すべての点と、点が。
 あまりにも綺麗な、そして、あまりにも残酷な、一本の細い線で、繋がっていく。
 高城が四十年間、灰色の海の上で恨み続け、真実を知ってからは狂おしいほどに悔やんでいる、あの「佐和子」。彼が、約束の桟橋で待ち続けた、あの娘。
 それは――美緒の、母の、妹。
 美緒にとっての、実の叔母だったのだ。
 そして、その叔母のために、自分は毎晩、知らず知らずのうちに、あの歌を歌っていた。叔母が生涯ただ一人愛した、あの男のために。
 美緒の身体は、部屋の寒さとは違う理由で、止めどなく震えていた。畳の上に座り込んだまま、彼女は、色褪せた写真の中の叔母の顔を、いつまでも見つめていた。寂しげに、けれど芯の強い瞳で微笑むその顔は――不思議と、鏡の中の自分自身に、どこか似ているような気がした。
 *
 翌夜。
「マロニエ」のカウンターに、いつものように高城が座っていた。
 あの手紙の夜以来、彼はめっきり痩せたように見えた。ほんの数日のうちに、頬がこけ、肩のあたりが一回り小さくなり、まるで影が薄くなったかのようだった。スコッチのグラスにも、ほとんど口をつけていない。
 美緒は、その夜、客がすべて引けるのを待った。最後の一人が出ていき、表のネオンを消し、扉に鍵をかける。それから彼女は、何も言わず、ハンドバッグの中から、丁寧に布で包んだあのモノクロ写真を取り出した。
 そして、カウンターの高城の前に、そっと差し出した。
「高城さん。……これを、見ていただけますか」
 高城は怪訝そうに眉をひそめ、ウイスキーのグラスをコトリと置いた。何の写真だろうという、いぶかしげな顔のまま、彼はそれを手に取った。
 カウンターの薄暗い、煤けた灯りの下で。彼が写真に視線を落とした――その瞬間だった。
 高城の時間が、完全に停止した。
 あんなに日に焼けて頑なだった彼の顔から、みるみるうちに、血の気が引いていく。蝋のように白くなった唇が、何かを訴えるように痙攣しはじめる。写真を持つ大きな手が、紙が破れんばかりに、ぎりぎりと強張った。瞳は限界まで大きく見開かれ、まるで――この世のものではない、信じられない幽霊でも見ているかのように、激しく動揺していた。
「あ……、あ……」
 声にならない声が、彼の喉の奥から、ひゅう、と漏れた。
 彼は、写真から目を離せなかった。何度も瞬きをし、それでも信じられないというように、写真を顔に近づけ、また遠ざける。その手は、もう、はっきりとわかるほど激しく震えていた。
 やがて、こらえきれなくなったように、高城の身体が傾いだ。
 ガタン、と音を立てて、彼は止まり木からずり落ち、そのままコンクリートの床へ、膝から崩れ落ちた。それでも写真だけは、決して離さなかった。両手で、破らんばかりに強く握りしめ、胸に、強く、強く押し当てる。
「佐和子だ……」
 絞り出すような、震える声だった。
「間違いない……。俺の、俺の佐和子だ……っ!」
 高城は、写真を胸に抱きしめたまま、子供のように声を上げて泣き伏した。床に額をつけ、肩を激しく揺らしながら、その嗚咽が、店の静寂を引き裂いた。
 四十年間、自分を捨てた裏切り者として憎み続け――そして真実を知ってからは、狂おしいほどに、もう一度だけでも会いたいと、その行方を探し続けた、最愛の女性。
 その人が、まさか。
 毎晩、自分のために歌ってくれていた、この美緒の――実の叔母だったとは。
 運命、という言葉を使うには、あまりにも残酷で、あまりにも出来すぎた悪戯だった。佐和子は、自分の血を分けた姪の歌声を通して、四十年ぶりに、かつての恋人のそばへと、帰ってきていたのだ。けれど――当の本人は、もう、この世のどこにも、いない。
 美緒は、床に泣き崩れる高城を見下ろしながら、自分もまた、頬を伝う涙を、拭おうとしなかった。
 店の外では、またしても、冷たい雨が、静かに降り始めていた。
 二人の間に流れていたのは、四十年の歳月を経て、ようやく巡り合えた奇跡の歓喜などでは、決してなかった。それは――もう二度と、どれほど願っても、本人には触れることも、詫びることも、抱きしめることもできないという、底知れない絶望の、静寂だった。

第六章 残された時間

 凍てつくような長い冬がようやく去り、横浜の港町にも、うららかな春の光が降り注ぐようになった。
 路地裏の「マロニエ」の、すりガラスの窓から差し込む昼下がりの陽光は、昼間でも薄暗い店内の床を、ほのかに、優しく照らし出していた。だが、そこに流れる空気は、あの叔母の写真をめぐる衝撃から冷めやらぬまま、雪解けの後の凍てついた水のように、ひっそりと静まり返っていた。
 美緒と高城は、もはや「歌手と客」という、ただそれだけの間柄ではなくなっていた。二人は、言葉にこそ出さずとも、奇妙な、けれど確かな一本の糸で結ばれた存在として、互いを認識するようになっていた。
 高城にとって、美緒は――最愛の佐和子の面影を、その血と歌声の中に宿す、唯一の姪だった。彼女の歌う声の中に、あの笑った右頬のえくぼの中に、彼は四十年探し続けた人の気配を見ていた。そして美緒にとって、高城は――叔母が生涯をかけて愛し、祈るようにその名を呼び続けた、悲運の恋人、その人だった。
 二人は、佐和子の話を、少しずつ、するようになった。
 高城は、十八歳の頃の佐和子がどんな声で笑ったか、焼き芋をどんなふうに半分こしたかを、まるで昨日のことのように語った。美緒は、母から聞いた叔母の晩年を――手仕事が器用だったこと、童謡をよく口ずさんでいたこと、誰にも弱音を吐かなかったことを伝えた。二人で一人の女性の記憶を持ち寄り、繋ぎ合わせると、断片だった佐和子の生涯が、ひとつの、長く哀しい物語として立ち上がってくるのだった。それは、二人にとって、痛みであると同時に、わずかな救いでもあった。
 高城が店を訪れ、美緒がマイクを握るとき、そこにはまるで、亡き佐和子の魂までもが、そっと席を並べているかのような――静かで、厳かな空気が、満ちるようになっていた。
 だが――運命という名の神は、どこまでもこの二人に過酷だった。
 桜の、頼りない花びらが、湿った港の風に舞うようになった、ある夜のことだった。
 高城は、いつもより一段と足取りを重くして、胸を押さえ、激しく咳き込みながら「マロニエ」のドアを押し開けた。看板のネオンを消す直前の店内へと滑り込んできた彼の顔色は、泥を含んだような土色に、深く翳っていた。かつて世界中の荒波を相手にし、海の男として鳴らした、あの逞しい背中は、心なしか、小さく丸まっているように見えた。コートの肩が余り、首が痩せて、襟の中で頼りなく揺れている。
 美緒は、嫌な予感に胸を掴まれながら、それを顔には出さぬよう、いつものようにスコッチのグラスを差し出そうとした。
 だが高城は、それを手で軽く制した。そして、いつものカウンターの中央の席に腰を下ろすと、小さくため息をついて、ふっと微笑んだ。
 その笑みには――自分の運命のすべてを、あらかじめ受け入れているような、ひどく静かな諦念が、混じっていた。
「美緒ちゃん」
 彼が美緒を、初めてそう呼んだのも、この夜のことだった。
「……今日ね、病院へ行ってきたんだ」
 美緒は、胸の奥を、冷たい氷の刃で突き刺されたような感覚を覚え、グラスを拭く手を止めた。
「病院、ですか……? どこか、お身体の調子でも……。最近、咳がひどかったですものね」
 声が、わずかに上ずった。
 高城は、ゆっくりと顔を上げ、美緒の目を見た。そして、まるで明日の横浜の天気を予報するかのように、淡々と、あまりにも静かに言った。
「肺癌だそうだ」
 その一言が、店の空気を、ぴしりと凍りつかせた。
「それも、もう、随分と進行していてね」
 高城は、美緒の反応を確かめるでもなく、淡々と続けた。
「あちこちに散らばっていて、今さら手術をするのは、難しいらしい。医者には……持って、あと半年、と言われたよ」
 半年。
 その二文字が持つ、あまりの重さに、美緒の手から、危うくダスターが滑り落ちそうになった。彼女は咄嗟に、カウンターの縁を掴んだ。耳の奥で、ゴーン、と、世界の終わりを告げる除夜の鐘のような、鈍く重い音が、鳴り響いた気がした。
「そんな……、嘘でしょう……?」
 ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど、掠れていた。
「だって……、あんなにお元気そうだったのに。ただの風邪が、長引いているだけかもしれないじゃないですか。確かに、最近少し痩せられたとは思っていたけど……。きっと、何かの間違いです。別の病院で、もう一度ちゃんと診てもらえば、きっと……っ!」
 動揺を隠せず、すがるように言い募る美緒に対し、高城は、ただ穏やかに、ゆっくりと首を横に振った。
 そして、深く刻まれた目尻の皺を、さらに深くして、どこか遠くを見るような目で、静かに笑った。
「いや、いいんだよ」
 その声は、不思議なほど凪いでいた。
「今さら、死ぬことなんて、何も怖くはないさ。長く海の上で生きてきた男だ。死ぬときは海のどこかで、誰にも看取られず、それきりだろうと思っていた。それに比べりゃ――」
 高城は、一度言葉を切り、それから言った。
「四十年もの間、佐和子を裏切り者だと恨み、憎みながら、何も知らずに孤独に死んでいくことに比べれば。……真実を知ることができ、あいつの本当の心を、この胸に抱きしめることができた今の俺は、十分すぎるほどの、果報者さ。神様がくれた、出来すぎたご褒美だと思っているよ」
 高城の言葉は、痩せ我慢ではなく、本心なのだろうと、美緒にはわかった。
 あの手紙の夜、あれほど濁っていた彼の瞳には、もう、恨みに囚われていた頃の暗い澱みはなかった。そこにあるのは、長い旅の果てに、ようやく荷を下ろした者の、透き通るような、穏やかな色だった。許されたのだ、と――彼の目は、静かに語っていた。
 だが――。
 美緒の心は、彼のようには、凪いではいなかった。
 激しい感情の波が、彼女の胸の奥で、行き場を失って、黒く渦巻いていた。
(なぜ……? どうして、こんなことが許されるの?)
 高城と知り合ってから、まだ、ほんの一年と少ししか経っていない。ほんの数ヶ月前までは、夜の底に紛れ込んできた、無口で風変わりな常連客の一人にすぎなかった男。それなのに――その彼が、まもなくこの世界から永遠に消えてしまうという事実が、美緒には、耐えがたいほどに苦しく、理不尽に思えてならなかった。
 いや、苦しいのは、それだけではなかった。
 叔母の佐和子が、その生涯のすべてをかけて愛し、待ち続けた男。そして高城自身もまた、四十年という途方もない回り道の果てに、ようやく「裏切られたのではなかった」という真実に――救いという名の港に、たどり着いたばかりなのだ。引き裂かれた二つの魂が、長い時を経て、ようやく安らぎを得た。その、まさにその瞬間に。
 肉体のほうが、滅びていくなんて。
 あまりに、惨い。
 美緒は、奥歯を強く噛み締めた。目頭から溢れ出そうになる涙を、必死に堪える。ここで自分が泣き崩れてしまっては、いけない気がした。穏やかに死を受け入れようとしているこの人の前で、取り乱してはいけない。けれど、堪えれば堪えるほど、喉の奥が、熱く震えた。カウンターに置かれた高城の手は、病魔のせいで、どこか頼りなく震えていた。
 神様は、なぜ。
 これほどまでに、残酷な仕打ちをするのだろう。
 一人の女に、報われぬ生涯を歩ませ、一人の男に、四十年の誤解と孤独を背負わせた。そしてようやく、その魂の片方が、真実を取り戻したと思った、その途端に――今度は、命を奪おうとするのか。
 人生の最期に、四十年の時を超えて、ようやく真実の愛を取り戻した男に。残された時間は、あまりにも、あまりにも短すぎた。
「……美緒ちゃん」
 高城が、静かに声をかけた。
「そんな顔を、しないでくれ。俺は本当に、もう、何も悔いてはいないんだ。……ただ、一つだけ」
 彼は、ふと、遠くを見るような目をした。
「一つだけ、わがままを言わせてもらえるなら……。動けるうちに、佐和子に、会いに行きたい。あいつの眠っている場所へ。この足で行って、この口で、詫びたいんだ。……それだけが、俺の、最後の願いさ」
 美緒は、堪えていた涙が、とうとう一筋、頬を伝うのを感じた。
 彼女は、それを拭いもせず、ただ、深く頷いた。
「……はい。お連れします。必ず、私が」
 春の生ぬるい夜風が、開け放った窓から吹き込んできて、二人の間の重苦しい沈黙を、ただ虚しく揺らしていた。散りかけた桜の花びらが一枚、その風に乗って、薄暗い店の床に、ひらりと舞い落ちた。

第七章 北の墓標

 高城の身体が、まだ動くうちに。
 何としても、彼を佐和子のもとへ連れて行かなければならない――。美緒を激しく突き動かしたのは、姪としての義務感などではなかった。それは、もっと深いところから湧き上がる、切実な祈りに近い衝動だった。文字通り命を削りながら、静かに消え去ろうとしている初老の男と、その男を生涯なじることなく待ち続けた叔母。その、二つの引き裂かれた魂に、背を押されるような。会わせてあげたい。たとえもう、声も交わせず、手も握れなくても。せめて、同じ土の上に、立たせてあげたい。
 佐和子の遺骨は、彼女が過酷な療養生活の果てに身を寄せ、誰にも看取られることなく静かに息を引き取ったという、北国の小さな港町に眠っていた。手紙の差出人――佐和子を看取った知人の女性に、美緒は手紙を書き、墓の場所を尋ねた。返事には、町の名と、海の見える丘の墓地の名が、丁寧に記されていた。
 美緒は、「マロニエ」のマスターに、数日間の暇を乞うた。
 そして、高城の着古された白いトレンチコートのポケットに、医師から処方された何日分もの強い鎮痛剤と、汗を拭うための手拭いをそっと詰め込み、彼の腕を支えながら、上野駅から夜行列車に乗り込んだ。
 夜の上野駅は、独特の煤煙の匂いと、それぞれの故郷や目的地へと向かう人々の足音とで、混沌としていた。二人は、その人混みを縫うようにして、北へと向かう夜行列車に乗り込んだ。
 ガタゴト、ガタゴト――。
 重い鉄の車輪がレールを叩く、規則正しい振動が、足元から伝わってくる。夜の闇をひた走る列車の煤けた窓ガラスには、車内の薄暗い灯りに照らされた、二人の疲れ切った顔が、ぼんやりと浮かんでいた。車内はすきま風が冷たかった。
 高城は、時折、肺の奥から絞り出すような激しい咳に襲われ、苦しそうに胸を強く押さえた。咳の合間に、ひゅう、ひゅう、と、苦しげに息を継ぐ。美緒が案じて顔を覗き込むと、彼は決まって、糸のように細い目で、無理に口角を上げてみせるのだった。
「大丈夫だ。……汽車に乗るのも、久しぶりでね。なんだか、若い頃に戻ったみたいだ」
 そう言って窓の外の闇を見つめる彼の瞳には、しかし――かつて世界中の荒波を巡り、数々の巨大な船を動かしてきた航海士としての、最後の目的地を見据えるような、凄絶なまでの光が宿っていた。痛みも、衰弱も、その光だけは消せなかった。彼は、生きるためにではなく、ただ佐和子に逢うためだけに、その細い命の灯火を燃やし続けているように見えた。
 夜が更けるにつれ、高城は、うとうとと眠りに落ちた。眠っていてもなお、その眉間には、浅い皺が刻まれている。美緒は、毛布代わりに自分のコートを彼の膝にそっとかけてやり、向かいの席で、揺れる車窓の闇を、ただじっと見つめていた。
 *
 翌日。
 何度も各駅停車を乗り継ぎ、どんよりとした雲の下を揺られ続けて、ようやく辿り着いたのは、鉛色の荒々しい海から、容赦なく冷たい風が吹きつける、寂れた北の港町だった。
 駅舎は小さく、降り立つ客もまばらだった。暦の上では、すでに初夏を迎えようとしていたが、この陸の果てのような町には、まだ冬の名残が色濃く残っていた。日の当たらない建物や道路の隅には、煤けて黒ずんだ頑固な残雪が、まるで地面にへばりつく白い斑点のように、こびりついている。空は低く、灰色に垂れ込めていた。駅舎を出た瞬間に美緒の頬を打った風は、横浜のそれとは比べものにならないほど冷たく、潮の匂いの中に、どこか凍てついた山の気配を孕んでいた。横浜とは、まるで別の国のようだった。
 佐和子が眠る墓地は、人通りの絶えた町外れの、遮るものなく外洋を一望できる、小高い丘の上にあった。
 駅から続く一本道を、二人はゆっくりと歩いた。途中から道は舗装も途切れ、泥と、解けかけた雪の混じる、ぬかるんだ急な坂道になった。
「高城さん、無理をしないで……。私の肩に、捕まってください」
 美緒は、よろめく高城の腕を取り、自分の肩を貸した。
「すまないね、美緒ちゃん……。足が、どうにも、思うように動かなくて」
 高城は、息を切らしながら、それでも詫びることを忘れなかった。
 一歩、また一歩。
 泥に足を取られ、滑りそうになりながら、二人は這うように坂を登っていった。かつて巨大な貨物船のエンジンを、その両腕で支え、荒くれ者たちを黙らせてきた高城の肉体は、美緒の肩にかかる重みを通じて、驚くほど軽くなっていることがわかった。まるで、枯れ枝のようだった。骨と皮ばかりになってしまったその身体で、ゼーゼーと喉を鳴らし、荒い息を吐き散らしながらも、彼は決して、足を止めて引き返そうとはしなかった。
 やがて、遮るもののない丘の頂へと、辿り着く。そこには、何十年もの間、容赦ない塩害と厳しい吹雪に晒され続け、角が丸く削り取られた無数の古い石碑が、不規則に並ぶ、寂しい墓地が広がっていた。訪れる者も少ないのだろう。供花の枯れた跡や、苔むした墓石が、海風の中に、静かに佇んでいる。
 美緒が、母の手記と知人の手紙の記憶を頼りに、乱立する墓石の間を探し歩く。その一番奥。荒れ狂う外洋に向けて、まるで誰かの帰りを待つように、ぽつんと佇む、一際小さな墓標が見つかった。
 近づいて、表面を覆う苔を払う。粗末な墓石には、佐和子が縁あって身を寄せた、その家の名が刻まれているばかりだった。だが、その側面に、爪で引っ掻いたような細い文字で、小さく、彼女の俗名と戒名とが、確かに彫り込まれていた。
 ――佐和子。
 高城は、その名前が視界に入った瞬間。
 それまで縋り付いていた美緒の肩から、すっと、離れた。
 まるで、目に見えない強力な磁石に吸い寄せられるように。一歩、また一歩と、ふらつく足取りで、墓前へ進み出る。だがその足取りは――先ほどまでの衰弱が嘘のように、不思議なほど、確かなものだった。
 高城はゆっくりと、泥に汚れるのも構わずに、その場へ膝を突いた。そして、震える無骨な手のひらを伸ばし、冷え切った墓石の表面を、まるで愛しい人の頬に触れるかのように、そっと撫でた。
 四十年という、気が遠くなるほどの歳月の重みと、北国の潮風の容赦ない冷たさとが、石を通じて、彼の乾いた肌へと、ひたひたと伝わっていく。彼の指は、彫られた佐和子の名前の上を、何度も、何度も、確かめるように、なぞった。
「……ごめんな」
 高城のひび割れた唇から漏れたのは、あまりにも短く、そして風にかき消されそうなほど掠れた、一言だった。
「ごめんな、佐和子。……本当に、本当に、ごめんな……」
 それ以上の言葉は、彼の喉からは、何も出てこなかった。
 彼女を裏切り者だと罵り、呪い続けた、四十年の歳月。そのすべてが、己の若さと傲慢さゆえの誤解だったと知ってからの、狂おしいほどの後悔。会いたかったという思い。詫びたかったという思い。――そのすべてを語るには、人間の作った言葉というものは、あまりにも無力で、今の彼の胸に渦巻く感情を表現するには、あまりにも軽すぎた。だから彼は、ただ「ごめんな」と、それだけを繰り返した。
 高城は、墓石に己の額を強く擦りつけるようにして、ただじっと、祈るように座り続けた。
 十分が過ぎた。
 三十分が過ぎた。
 やがて、一時間が、過ぎていく。
 丘の上を、冷え冷えとした北風が、絶え間なく吹き抜けていく。風は、墓地にわずかに植えられた松の梢を鳴らし、二人の髪や衣服を、激しくなびかせた。遥か眼下の断崖からは、ザザーン、ザザーン、と、重い波が岩を砕く激しい海鳴りが、不気味なほど低く、腹に響いて聞こえてくる。
 それはまるで――あまりにも残酷にすれ違ってしまった、二人の人生を哀れむ、海そのものの、慟哭のようだった。
 美緒は、少し離れた場所から、寒さに震えながら、その小さな背中を、じっと見守っていた。
 声をかけることも、近づくこともしなかった。これは、二人だけの時間だった。四十年の果てに、ようやく辿り着いた、二人だけの逢瀬だった。そこに、自分が立ち入るべきではないと、美緒には、わかっていた。
 ふと、気がつくと。
 墓石に額を押し当てた高城の頬を、幾筋もの涙が、絶え間なく伝い落ちていた。
 声をあげて泣くわけでもなく、肩を大きく揺らすわけでもない。ただ、長年硬くせき止められていた心のダムが、とうとう決壊してしまったかのように。透明な雫が、次から次へと、後から後から溢れ出し、彼の顎を伝い、冷たい地面の泥の中へと、音もなく吸い込まれていった。
 それは――。
 彼が、凍てついた孤独な海の上で、四十年のあいだ、ついぞ流すことのできなかった、悔恨の涙だった。
 佐和子を憎むことでしか、自分の壊れた心を支えて生きられなかった、一人の男の。その憎しみという鎧を、ようやく脱ぎ捨てた、魂の懺悔だった。海の男は、決して人前では泣かない。泣いてはならないと、自分を律してきた。だが今、この北の海を望む丘の上で、彼はようやく、四十年分のすべてを、流し尽くしていた。
 ふいに、風の向きが変わった。
 その瞬間。美緒には、冷たい風の中に、確かに――叔母・佐和子の、あの写真のような優しい気配を、感じた気がした。
『もういいのよ、修一さん』
 そんな声が、潮風に乗って、聞こえてくるような気がした。あなたを、一度も恨んでなんかいなかった。私は、ずっと分かっていたから。ずっと、待っていたのよ。だから――もう、いいの。もう、泣かないで。
 そんな幻聴が聞こえるほどに。
 高城の流す涙は、どこまでも悲しく、そして、四十年の呪いを解き放つかのように、どこまでも清らかだった。
 やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。涙に濡れた目で、外洋を――水平線の彼方を、しばらくのあいだ、まぶしそうに見つめていた。その横顔は、不思議なほど穏やかで、まるで長い航海を終えて、ようやく我が家の港の灯りを見つけた、船乗りのようだった。
 美緒は、そっと近づき、彼の傍らに膝を突いた。そして、二人で並んで、佐和子の墓に、静かに手を合わせた。
 北の海は、いつまでも、いつまでも、低く鳴り続けていた。

第八章 最後の航海

 北国への痛切な旅から戻ると、季節はまた、急ぎ足で移り変わっていった。
 梅雨の鬱陶しい長雨が明けると、横浜の港には、ねっとりとした真夏が訪れた。容赦なく照りつける太陽が、アスファルトをじりじりと焼き、街全体が、熱を孕んだ陽炎の向こうに揺れている。港湾地区に漂う重油と潮の匂いは、湿気を含んだ生温い南風に混ざり合い、人々の呼吸を重く塞いだ。世界が、生命の輝きを謳歌するかのようにぎらつく、その一方で――高城の病状は、坂道を転がり落ちる石のように、急速に悪化していった。
 癌の病魔は、確実に、そして残酷に、彼の身体を蝕んでいた。
 かつてあれほど逞しかった海の男の肉体は、今や見る影もなく痩せ細り、衣服の下に、骨の輪郭が浮き出るほどになっていた。自力で歩くことさえ困難になり、激しい痛みを抑えるための医療用麻薬の量だけが、日を追うごとに増えていく。美緒が見舞いに訪れるたび、彼の頬はこけ、骨と皮ばかりになった手は、震えながら、水の入った湯呑みを支えるのが、やっとだった。
 それでも――高城は、「マロニエ」へ来ることを、決してやめなかった。
 ある夜のことだった。
 バケツをひっくり返したような激しい夕立が、ようやく上がったばかりの、蒸し暑い路地。そこに、一台の個人タクシーが、ゆっくりと停まった。
 速度を落としたワイパーの奥から、後部座席のドアが開く。中から、杖を突き、運転手と、美緒の差し出した細い肩にすがりつきながら、高城が、時間をかけて、ゆっくりと降りてくる。かつてパリッと糊の利いていた、お気に入りの白いトレンチコートは、もはやこの暑い夏の夜には、まるでそぐわないものだった。汗ばむ陽気だというのに、彼は頑なにそれを羽織り、痩せた身体に巻きつけるようにしている。そして、車中で乱れた白髪を、骨ばった指先でそっと整えてから、店に入ってきた。
「高城さん、無理をなさらないで……。今日はお店なんて休んで、病院のベッドで横になっていらしたほうが、ずっと……」
 美緒が、汗の滲んだ彼の横顔を心配そうに覗き込み、声をかける。
 だが、高城は、死人のように青白い顔に、微かな、しかしとても優しい笑みを浮かべた。そして、いつものカウンターの中央――あの最初の雨の夜から、ただの一度も変えることのなかった、あの席へと、ゆっくり腰を下ろした。
 呼吸をするだけでも、喉がヒューヒューと鳴り、ひどく苦しそうだった。一息ごとに、ひゅう、と細い音が、胸の奥から漏れる。それでも――彼の眼差しだけは、あの雨の夜に出会った頃と少しも変わらない、静かで、深い光を、失っていなかった。
「いや……、ここへ来ないとね、美緒ちゃん」
 高城は、ゆっくりと言った。
「どうも……俺の、長い長い航海が、終わらない気がしてね」
 彼は、美緒が差し出したグラスの、冷たい水に口をつけた。かつて彼が愛したスコッチウイスキーは、もう医師から、固く止められていた。あれほど好きだった琥珀色の香りを嗅ぐことさえ、今の彼には叶わなかった。丸い氷がカランと音を立てるが、そこにあるのは、ただ透明な水だけだった。
 その夜、店内には、いつものように、二人の他には、誰もいなかった。
 まるで、世界が二人だけのために、そっと扉を閉ざしてくれたかのようだった。窓の外では、夕立の名残の雨だれが、軒先から、ぽつり、ぽつりと、滴り落ちている。
 美緒は、これが――現世で彼と過ごす、本当に最後の時間になるかもしれないという、逃れようのない予感に、胸が、押し潰されそうになっていた。
 カウンターの向こうに座る高城の姿は、もはや、今にも夏の夜霧の中へ、すっと溶けて消えてしまいそうなほど、儚く、透明に思えた。輪郭が、薄れていくようだった。彼女は、込み上げてくるものを必死に抑えながら、ゆっくりと、自分の足音を噛み締めるようにステージへ上がり、古い金属製のマイクを、両手で握りしめた。
 高城修一のために歌う、人生で最後の――あの歌。
 美緒は、深く、息を吸い込んだ。
 そして、歌い始めた。
 ハスキーな歌声が、湿気で澱んだ店内に、深く、重く、ゆっくりと響き渡っていく。彼女は、自分のすべての魂を、これまで生きてきた三十五年の半生すべてを、この一曲に絞り出すようにして歌った。
 この歌はもう、彼女にとって、単なる異国の場末を舞台にした、哀しい流行歌などではなかった。
 それは――目の前で、静かに命の灯火を消そうとしている、一人の老航海士の物語だった。約束の桟橋で、そして病床の白い部屋で、ただ一人の人を信じて待ち続けた、一人の女の物語だった。すれ違い、傷つけ合い、四十年もの歳月を隔てて、ようやく許し合った、二つの魂の物語だった。歌の一節一節に、佐和子の祈りが、修一の悔恨が、そして美緒自身の、行き場のない悲しみが、すべて溶け込んでいた。
 高城は、そっと目を閉じて、その歌声に、その一言一言に、じっと耳を傾けていた。
 音を立てて溶けていくグラスの氷を見つめることもせず、ただ歌声の海に、その身を委ねている。その表情からは、病がもたらす激しい苦痛も、かつて四十年間その胸を焼き続けた悔恨の念も、すべて消え去っていた。そこに浮かんでいるのは、ただ――凪いだ海のような、穏やかな安らぎだけが、満ち満ちていた。長い長い航海の果てに、ようやく凪いだ海にたどり着いた者の、満ち足りた表情だった。
 歌い終えた。
 最後の悲しいフレーズの余韻が、ゆっくりと、店の空気に溶けて消えていく。
 美緒がステージを降り、彼の前のカウンターへと戻ったとき、高城は、ゆっくりと目を開けた。その目には、小さな涙の雫が、たまっていた。
「不思議だな……」
 高城は、ぽつりと言った。その声は、これまで美緒が聞いたどの言葉よりも、優しく、温かかった。
「君の歌を聴いているとね……。すぐ隣に、佐和子が、座っているような気がするんだ」
 彼は、自分のすぐ横の、誰もいないはずの止まり木に、そっと視線を向けた。
「あの日、俺が勝手に置いていってしまったと、ずっと思い込んでいた、あの冷たい桟橋でね。……あいつが、昔のままの綺麗な笑顔で、何も言わずに、俺の手を、ぎゅっと握ってくれているような。そんな気がするんだよ。なあ、美緒ちゃん。歳を取ると、ありもしないものが、見えるようになるのかね」
 美緒は、目頭から溢れ出しそうになる熱い涙を、奥歯を噛んで必死に堪えた。そして、まるで叔母に代わるようにして、できる限り優しく、微笑んでみせた。
「いいえ。……きっと、叔母も、ここにいます」
 声が、震えないように、と祈りながら、彼女は言った。
「高城さんの、すぐ隣で。あなたの体温を感じながら、一緒に、聴いていますよ。ずっと、そばにいるんです。もう、どこにも、行きません」
「そうか」
 高城は、ゆっくりと、満足そうに頷き、ふう、と静かに息を吐いた。
「……そうか。なら――俺の最後の航海も、どうやら、そう寂しくは、なさそうだ」
 二人とも、それ以上は、言葉にしなかった。
 しかし、これが――この世界で交わす、本当に最後の会話になるのだということを。二人は、口に出さずとも、痛いほどに、そして静かに、解り合っていた。だからこそ、互いに、ありふれた別れの言葉を、口にしなかった。「また来てください」とも、「お大事に」とも。それは、この夜には、あまりにそぐわなかった。
 やがて、高城を乗せたタクシーが、夜の路地を、静かに走り去っていった。テールランプの赤い灯りが、雨上がりの濡れたアスファルトに長く尾を引いて、やがて角を曲がり、見えなくなった。
 美緒は、その場所を、いつまでも、いつまでも見送っていた。
 その時。
 夜の港の彼方から、遠く、大きな貨物船の汽笛が、ぼうっと響いてきた。
 ボォォォォ――。
 それは、低く、長く、夏の夜の闇へと、ゆっくりと溶けていった。まるで――一人の老いた航海士の、長かった孤独な旅路の終わりと、新たな旅立ちを、静かに告げる、餞(はなむけ)の音のように。
 美緒は、夜空を見上げた。雨上がりの空には、いつのまにか、滲んだような細い月が、浮かんでいた。
 その汽笛の音が、彼女には、どうしても――ただの船の汽笛とは、思えなかった。

第九章 遺された手紙

 あの夏の夜の「最後の航海」から、数日後。
 高城は、ついに、自力で起き上がることが、できなくなった。
 港の見える高台の病院へと、彼は静かに入院した。もう、「マロニエ」のあの席に座ることは、二度と叶わなかった。美緒は、店の開店前や、夜の仕事終わりの合間を縫って、何度も病室へ見舞いに訪れた。痩せ細った彼の手を握り、他愛のないことを話しかける。だが、季節が移ろうごとに、高城の意識は混濁していく時間が長くなり、かつてのように、あのチェロの低音に似た声で言葉を交わすことも、次第に難しくなっていった。彼はただ、眠りの中で、遠い海の夢を見ているかのように、静かに息を刻んでいた。
 それでも、ごくたまに、彼が美緒のほうへ顔を向け、かすかに微笑むことがあった。何かを言おうとして、口を動かす。美緒が耳を近づけると、ひゅう、という細い息の音に混じって、「さ……わ……」と、聞こえることがあった。佐和子。意識の最も深いところで、彼はもう、あの約束の桟橋へと、帰り着いているのかもしれなかった。
 そして、秋の終わり。
 街路樹の銀杏が、黄金色に色づいた葉をアスファルトに散らし、冷たい北風が、いよいよ次の冬の到来を告げるように、街を吹き抜ける頃。
 高城修一は、静かに、その生涯を閉じた。
 それは、雲ひとつない、ひどく張り詰めて澄んだ、秋の朝のことだったという。
 病院の窓からは、朝の光を浴びて、きらきらと銀色の光の鱗を散らす、横浜の海が、どこまでも広がって見えていた。かつて彼が、若き日に荷を背負い、その後の四十年を、機関士として何度も何度も往復し、愛し、そして憎み続けた、その海。――最期の瞬間だけは、その海は、まるですべてを包み込む母親の腕のように穏やかに凪いで、彼を優しく迎え入れているようだったと、看取った看護師は語った。
 見守る親族もいない、あまりにも静かで、あまりにも孤独な、旅立ちだった。だが、その死に顔は、長く苦しんだ病人のものとは思えぬほど、安らかだったという。
 *
 数日後。
 美緒は、病院を訪れ、年配の看護師から、高城が遺した、わずかばかりの小さな遺品を手渡された。
 身寄りのない彼の身辺は、もうほとんど整理されていた。衣類も寝具も、あらかじめ処分されており、最後まで残されていたのは、たった二つだけ。あの、季節外れの、着古された白いトレンチコートと――一通の、白い封筒だった。
「高城さんが、もし自分に何かあったら、必ずこの方に、と。何度も、何度も、おっしゃっていました」
 看護師は、そう言って、封筒を美緒に託した。
 封筒の表面には、病床の震える手で、けれど、最後の力を精一杯に振り絞ったのであろう、掠れた万年筆の文字で、ただ一言、こう書かれていた。
 ――『美緒ちゃんへ』
 美緒は、その封筒を、しばらく胸に抱いたまま、動けずにいた。
 *
 その夜。
 美緒は、まだ客を入れる前の、誰もいない「マロニエ」の、いつものカウンターの端の席に、一人で腰掛けた。あの席――高城がいつも座っていた、カウンターの中央の止まり木が、今夜も、ぽつんと空いている。
 ひんやりとした静寂の中で、彼女は、震える指先で、そっと封を破った。
 中から出てきたのは、病院の備え付けの、簡素な薄い便箋だった。万年筆の青いインクで書かれた文字は、ところどころ大きく乱れ、線が震えていた。それでも、一字一字に込められた力強さだけは、はっきりと伝わってくる。短くはあったが、そこには、彼の人生のすべてが、凝縮されているようだった。
 美緒は、声に出さず、心の中で、その文字を、一行ずつ読んだ。
 *
『美緒ちゃんへ
 これを君が読んでいる頃、俺はもう、新しい船に乗って、遥か遠い海へと旅立っていることだろう。
 振り返れば、俺の人生は、後悔と誤解ばかりの、ひどく無骨で、寂しい航海だった。あの日、桟橋で、佐和子を信じきれなかった自分の弱さと浅はかさを、俺は死ぬまで許すことができないだろうと、ずっと心を閉ざして生きてきた。人生というものは、どうあがいても、やり直しがきかない。あいつとすれ違ったまま失ってしまった四十年の歳月は、二度と、戻ってはこないのだから。
 だがね、美緒ちゃん。
 人は、人生をやり直せなくても、「許される」ことがあるのだと。それを、君が、俺に教えてくれた。
 君の店で、あの歌を聴いたあの夜。俺の胸の中で、凍りついて止まっていた時間が、確かに、音を立てて、もう一度動き出したんだ。そして君のおかげで、佐和子の本当の想いを知ることができた。あいつが、最後まで俺を、恨んでなどいなかったことを。あいつの眠る、あの北の海辺で、四十年分の涙を、流すことができた。
 俺の寂しい人生の、最期の最期に。
 佐和子は、君という素晴らしい姪を、この横浜の港町に遣わしてくれたのだろう。そうとしか思えないんだ。あいつが、最後に俺にくれた、贈り物だったのだと思う。
 君の歌声のおかげで、俺の汚れた魂は、四十年もの、暗く長い放浪の果てに、ようやく――本当の港へと、帰り着くことができた。
 君のおかげで、私は、救われた。
 本当に、ありがとう。
 どうか、佐和子の分まで。
 君がこれから、仕合わせに、なってくれることを。遠い、遠い海の上から、ずっと祈っている。
                     高城修一』
 *
 手紙の、最後。
 彼の、無骨な署名の、すぐ横に。
 紙が、わずかに湿って、小さく丸く波打った跡が、残っていた。
 それは――病床の彼が、消えゆく意識の中で、最後の力を振り絞ってこの手紙を書きながら、こらえきれずに落とした、ただ一滴の。美緒への万感の感謝を込めた、彼の最後の涙の跡だった。
 美緒は、便箋を、そっと胸に抱きしめた。
 目を閉じる。
 便箋からは、かすかに――けれど確かに、高城が愛した安煙草の匂いと、あの懐かしい潮の匂いが、漂ってきた。コートにいつも染みついていた、あの匂い。それは、彼が確かに、この世界に生きていた証だった。そして、苦しみの果てに、ようやく救われて旅立っていった、何よりの証拠だった。
「……高城さん」
 美緒は、誰もいない店内に、ぽつりと呼びかけた。
 そして、少し迷ってから、言い直した。
「……ううん。修一、おじさん……」
 その瞬間、堪えていたものが、ぷつりと、切れた。
 美緒の目から、堰を切ったように、熱い涙が、ぽろぽろと、便箋の上へとこぼれ落ちていく。彼の最後の涙の跡の隣に、新しい涙の染みが、いくつも、いくつも、滲んで広がっていった。
 四十年前の桟橋では、別々の場所で流された二人の涙が。今、一枚の便箋の上で、ようやく寄り添うように、混じり合っていた。
 悲しかった。
 けれど――どこか、言葉にできない温かさを孕んだ、秋の終わりの、ひんやりとした静寂が。主を亡くした、まだ誰もいない小さな酒場を、優しく満たしていた。
 窓の外では、銀杏の葉が一枚、また一枚と、街灯の光の中を、金色の蝶のように、ゆっくりと、舞い落ちていた。

最終章 カスバの女

 季節は、巡った。
 ふたたび、横浜の港に、凍てつくような冬が訪れた。
 昭和四十九年、初頭。
 あの夜――着古された白いトレンチコートを着た初老の男が、初めて「マロニエ」の重い木製の扉を押し開け、雨と共に滑り込んできた、あの冬の夜から。ちょうど、一年が経とうとしていた。
 港を包み込む冷たい冬の雨は、夜が更けるにつれて、しだいに底冷えのする濃い霧へと、その姿を変えていった。海から這い上がってきた乳白色の霧が、裏通りという裏通りを満たし、街灯の光を、ぼんやりと白く滲ませている。船の輪郭も、岸壁の影も、すべてがその霧の向こうに溶けて、世界はどこか、現(うつつ)とも夢ともつかぬ、おぼろげな様相を呈していた。
 「マロニエ」の店内には、いつもと変わらない、騒々しい光景があった。
 安煙草の煙が、相変わらず紫色の層をなして、天井に淀んでいる。一日の重労働を終えた港湾労働者や、寄港したばかりの外国船の船員たちが、安酒を煽りながら、他愛のない怒鳴り合いに興じている。グラスが触れ合う鈍い音と、いくつもの言語が混ざり合った雑音。一年前と、何ひとつ変わらない、場末の酒場の、いつもの夜だった。
 ただ――ひとつだけ。
 何かが、決定的に、違っていた。
 カウンターの中央。あの席。
 今夜は、顔を真っ赤に上気させた見知らぬ若い船員が腰掛け、仲間と大声で、笑い声をあげている。かつてそこに静かに腰掛け、琥珀色のスコッチのグラスを愛おしそうに傾けていた、高城修一という名の男の姿は――もう、どこにもなかった。月に一度、看板のネオンを消す頃にやってきて、美緒の歌を、目を閉じて聴いていた、あの白いコートの男は。もう、二度と、あの重い扉を開けることは、ない。
 時計の針が、深夜の零時を指そうとした、その時。
 美緒は、静かに、椅子から立ち上がった。
 いつものように、薄暗いステージへと、ゆっくり歩を進める。色褪せた赤いビロードの幕を背に、使い古された金属製のマイクを、両手でしっかりと握った。客たちは、その姿を見ると、それを合図と心得て、一人、また一人と、声を潜めていく。グラスを置く音さえ控えめになり、騒がしかった店内に、まるで魔法がかかったかのような――奇妙な、けれど厳かな静寂が、ゆっくりと広がっていった。
 美緒は、深く、息を吸い込んだ。胸の奥の痛みを、堪えるように。
 そして、もの哀しいイントロのメロディに合わせて、歌い始めた。
 ハスキーで、けれど一本の芯が通った美緒の歌声が、紫煙の澱む空気の中を、どこまでも、まっすぐに突き抜けていく。異国の港町に流れ着いた女の、行き場のない恋心と諦めを綴った、あの哀切な調べが、店じゅうに満ちていく。
 今夜の彼女の歌声には、かつてないほどの哀切と――そして、それを優しく包み込むような、深い慈愛が、満ち満ちていた。荒くれ者たちは、誰もがグラスを持つ手を止め、煙草の煙を吐き出すのさえ忘れて、ただ彼女の唇から溢れ出る言葉に、釘付けになっていた。
 誰も、知らない。
 いま、目の前で歌っている、この女の歌声の中に。
 四十年もの歳月ですれ違い、互いを誤解し、傷つけ合い、そして人生の最期の最期に、ようやく許し合うことのできた、ひとつの切ない恋人たちの人生が――静かに眠っているということを。それが、たった一通の古びた手紙と、たった一枚のモノクロ写真とによってもたらされた、あまりにも残酷で、あまりにも美しい奇跡であったということを。この店の、誰一人として、知る由は、なかった。
 美緒は、歌いながら、すりガラスの窓の向こう、白い霧に煙る夜の港を、見つめていた。乳白色の、闇。
 ――その時。
 激しく滲む彼女の瞳の奥に、ふと、ひとつの幻影が、鮮やかに浮かび上がった。
 霧の向こう。常夜灯に照らされた、白っぽい光の中に。
 二人の、若い男女の姿が、見えた気がしたのだ。
 一人は、少しはにかんだような、無骨な笑顔を浮かべる青年。十八歳の、修一。荷役の汗を、まだ拭いきらぬような、まっすぐな目をした若者。そしてその隣には――あの古い写真の中の姿そのままに、二十歳の、佐和子。色白の頬に、笑うと右側にだけ、小さなえくぼを作る、芯の強い、優しい娘。
 二人は、互いの体温を確かめ合うように、大きな手と、小さな手とを、しっかりと繋いでいた。指を絡め、寄り添いながら、霧の中を、ゆっくりと、ゆっくりと、歩いている。
 そこにはもう、何もなかった。
 二人の行く手を阻む、泥まみれの大型トラックも。絶望を告げる、貨物船の冷酷な汽笛も。四十年もの長きにわたって、男の胸を焼き続けた、孤独な憎しみも。死の淵で戦った、白い病室も。冷たい北の海を望む、寂しい墓標も。――もう、何ひとつ、存在しなかった。あるのは、ただ、二人が並んで歩いているという、その事実だけだった。
『もう、離れることはないよ』
『ええ。……もう、二度と、すれ違うことも、ないわ』
 そんな二人の静かな囁きが、霧の中の冷たい潮風に乗って、美緒の耳の奥に、確かに聞こえた気がした。若い二人は、顔を見合わせて笑い合いながら。並んで、ゆっくりと――白い霧の、奥の光へと、溶けるように、消えていった。
「……っ」
 美緒の目から、堰を切ったように、熱い涙が溢れ出した。
 視界が、激しく歪む。喉の奥が、震える。
 それでも、彼女は、マイクを決して離さなかった。涙を流しながら。声を、枯らしそうになりながら。背筋をまっすぐに伸ばして、彼女は、歌い続けた。
 この歌を、私は、歌い続けなければならない。
 生涯、ただ一人だけを愛した人を、あの約束の桟橋で、そして病床の白い部屋で、信じて、待ち続けた――叔母・佐和子のために。
 最愛の恋人を誤解したまま、凍てついた孤独な海の上で、恨みを抱えて四十年を生き、そして人生の最期に、ようやく許しと安らぎという名の、本当の救いへと辿り着いた老航海士――修一おじさんのために。
 そして――。
 長い人生のどこかで。理不尽に、突然に、何の前触れもなく。かけがえのない、大切な誰かを失ってしまった、この夜の底に生きる、すべての傷ついた人々のために。
 美緒の、魂を絞り出すような歌声は、冬の夜の港町の底へと。深く、深く、染み渡っていった。
 それは、もはや、一人の女の歌では、なかった。失われたすべての約束への――鎮魂の、調べだった。
 最後のワンフレーズを、美緒は、ありったけの想いを込めて、歌い上げた。
 悲しいメロディの余韻が、ゆっくりと空気に溶けて、完全に消え去っても。
 店内には、しばらくの間、誰も――拍手すら、できなかった。
 荒くれ者たちさえ、ただ黙って、俯いて、それぞれの胸の奥にある、何か遠い記憶に、静かに思いを馳せているようだった。それほどに、深い静寂が、店を満たしていた。
 美緒は、溢れる涙を拭いもせず、静かに、深く頭を下げた。
 そして、ステージの照明を、そっと落とした。
 *
 窓の外では。
 今夜もまた、冷たい雨が、霧の中に、音もなく降り続いている。
 それはまるで――遠い異国の、砂塵にまみれた、あのカスバの町に降る、幻の雨のようだった。
 すべてを、洗い流すように。
 行き場を失った、すべての孤独な魂を、それぞれの、あるべき本当の港へと、そっと還してやるように。
 静かに。
 どこまでも、どこまでも――静かに。

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