怨歌情死考『夜啼き鳥のように』
序章 冷たい雨と、遠い灯り
亜子が東京へ向かう新幹線の窓にもたれていた時、外は鉛色の、冷たい雨に煙っていた。
十一月の終わりだった。
ガラスの内側に、息のたびに白い曇りが広がる。指先で拭うと、向こう側の景色が滲んで現れた。流れていく田畑。傾いた電柱。色を失った山。すべてが、溶けかけた水彩のように、灰色へと混じり合っていた。
窓を伝う無数の雨粒は、ぶつかり、ひとつになり、また別の粒へと吸い込まれていく。亜子は、そのうちの一つを目で追った。けれど追いついたと思った瞬間、それはもう別の粒と混ざり、どれが最初の粒だったのか、分からなくなる。
まるで、故郷を離れていく自分の記憶が、一つずつ、洗い流されていくようだった。
車内には、乾いた暖房の唸りが、絶え間なく低く響いている。空気が、喉の奥を、かさかさと撫でた。通路を挟んだ向こうでは、出張帰りらしい男が、上着を枕にして眠っている。誰もが、行くべき場所を、知っている顔をしていた。
だが、亜子の胸の奥は、暖房のなかにいても、芯まで冷え切ったままだった。
膝の上には、古びたギターケース。
角の革は擦り切れ、留め金の真鍮は、もう光を返さない。胸を病んで逝った父が、たった一つ残してくれた形見だった。中の、弾き込まれた古いギターよりも、亜子は、このケースの匂いが好きだった。蓋を開けると、湿ったベロアと、父の吸っていた煙草の、ひどく古い残り香がした。とうに消えたはずのその匂いだけが、亜子の知る、父のすべてだった。
歌手になる。
その、呪いにも祈りにも似た夢だけを頼りに、彼女は、逃げるように、故郷の港町を飛び出してきた。
母には、何も言わなかった。
パートのエプロンを掛けたまま、台所で背を丸めていた、あの小さな後ろ姿。卓袱台の上に、書いては破り、書いては破りした置き手紙を、一枚だけ残してきた。朝になれば、母はそれを見つけるだろう。皺を伸ばし、何度も読み返すだろう。
怒るだろうか。
声を殺して、泣くだろうか。
いや。きっと母は、何も言わずに、ただ窓の外の海を、見るだけだ――そう思うたび、喉元に、鉄の味の罪悪感がせり上がってきて、亜子は膝のケースを、そっと撫でた。冷たい革の感触だけが、指先に返ってきた。
その時だった。
コートのポケットの中で、型落ちの携帯電話が、低く震えた。
画面を開く。青白い光が、雨に乾いた亜子の唇を、ほの白く照らした。
短いメッセージが、一行だけ届いていた。
『君の声、聞こえている』
送り主は、蓮だった。
二つ後ろの車両に、彼が乗っている。たった、それだけの事実が、不思議なくらい、冷え切った亜子の指先に、わずかな熱を呼び戻した。
亜子は、口元をほどいた。
窓に映った自分の顔も、少しだけ、明るくなった気がした。けれど、その顔の向こうでは、雨は、やむ気配もなく降り続けている。流れる雨粒のなかで、亜子自身の輪郭は、いつでも消えてしまいそうに、頼りなかった。
蓮と出会ったのは、わずか半年前、初夏のことだった。
海沿いの町で開かれた、誰も足を止めないような、寂れた街頭の音楽イベント。亜子は、カビ臭いスピーカーの脇、ステージの隅で、喉を絞るようにして歌っていた。その最前列で、地べたに直接座り込み、膝の上にボロボロのスケッチブックを広げていたのが、蓮だった。
イベントが終わり、湿った海風の吹くなかで、偶然見せてもらった一枚の鉛筆画の中に、亜子がいた。
夕暮れの防波堤、錆びた手すりの横で、ギターを抱えて歌う少女。荒いタッチで描かれたその表情は、亜子自身さえ気づいていなかったほど、深い孤独を、たたえていた。
「私……こんな顔して、歌ってた?」
亜子が、掠れた声で尋ねると、蓮は、不器用に笑った。
「してた。――鳴きたいのに、鳴けずにいる鳥みたいな顔だ。だから、描かずにいられなかった」
その一言が、なぜか、胸の奥に長く残った。
誰にも見抜かれたくなかったものを、初めて、見抜かれた気がした。怖いはずなのに、それは、安堵に近かった。
その日から、二人の境界は、急速に溶けていった。
誰にも理解されない夢の話をした。この閉じた町で、ただ腐っていく将来の恐怖を語った。夜の海に足を浸しながら、家のこと、誰にも言えない暗いことまで、少しずつ、吐き出し合った。
気づけば、互いが、互いの傷をかばう、ただ一枚の包帯になっていた。ほかの誰とも、取り替えのきかない存在に。
新幹線が滑り込んだ東京駅は、コンクリートと、人いきれと、排気熱で、満ちていた。
扉が開いた瞬間、湿った冷気と、嗅いだことのない街の匂いが、流れ込んでくる。鉄と、雨に濡れたコンクリートの匂い。故郷の、潮と魚と木の匂いとは、何もかもが、違った。
巨大な駅舎の、迷宮。行き交う、顔のない無数の人々。歪んだスピーカーから降ってくる、冷たいアナウンス。傘の波。
誰一人として、亜子の顔を見なかった。これだけの人間がいるのに、誰も、彼女がここにいることを知らない。それは、海辺の町では決して味わったことのない、種類の孤独だった。
押しつぶされそうな人波の向こう、自動改札の近くに、安物の黒いコートを着た蓮の姿を見つけた瞬間、亜子の胸の奥が、熱くなった。
蓮もまた、視線の網を掻い潜るようにして、彼女を見つけ出していた。傘も差さず、髪を濡らしたまま、人混みのなかに、立ち尽くしている。
二人は、言葉もなく、吸い寄せられるように歩み寄った。
そして、周囲の冷ややかな目も構わず、互いの身体を、強く抱き締めた。
蓮の身体からは、安い煙草と、雨に湿ったウールの匂いがした。上着は冷たかった。けれど、その下の体だけは、確かに、温かかった。亜子は、その温度に、思わずしがみついた。ほんの数秒だった。それなのに――ずっと前から知っている人に、ようやく再会したような、いや、これでもう二度と離れられなくなってしまったような、奇妙な予感が、走った。
「着いたな」
蓮が、亜子の髪に口元を寄せたまま、掠れた声で言った。
「うん」
「怖いか?」
亜子は、彼の胸に額をつけたまま、小さく、けれど深く、頷いた。
「……少しだけ」
蓮は、低く笑った。その振動が、額に伝わってくる。
「俺もだ。足が、震えてる」
その言葉に、亜子は、かえって救われた。
強い人だと思っていた。迷いなく夢を描き、まっすぐ前を見ている人だと。だが、彼もまた、自分と同じ深さの暗がりに、立っていた。失敗することを。何者にもなれないことを、怯えていた。それでもなお、前へ進もうとしている。その弱さごと、亜子は、彼を抱きしめ直した。
二人なら、生きていける。
その確信だけが、見知らぬ街の、足元を支えていた。
二人は、駅を出て、ネオンの滲む駅前の歩道橋へと上がった。
手すりは、雨に濡れて冷たく、触れた掌に、その冷たさが染み込んだ。橋の上から、雨の東京が、見渡せた。
無数の、赤と白のテールランプ。
濡れたアスファルトに滲む、けばけばしいネオン。
空を突き刺す、巨大なビル群。
どこまでも途切れることのない、人と灯りの流れ。
遠くの灯りは、雨に滲んで輪郭を失い、まるで、水の底に沈んだ街のように、揺れていた。美しかった。けれど、その美しさは、どこか遠かった。あれだけの灯りがあるのに、自分たちのための灯りは、そのなかに、一つもないような気がした。
「ここで、俺たちの声を、認めさせるんだ」
蓮が、濡れた手すりを白くなるほど握りしめて、呟いた。
亜子は、頷いた。
だが、その時だった。胸の奥を、冷たいものが、すっと通り過ぎた。
理由は、分からなかった。ただ、滲んだ灯りの、そのもっと向こう――雨雲の奥のほうに、まだ顔を見せない「何か」が、大きな口を開けて、静かにこちらを待っているような気が、してならなかった。
それは、二人が望んだ、輝かしい未来だったのか。
運命だったのか。
それとも、抗うことのできない破滅への、最初の秒読みだったのか。
まだ、誰にも、分からない。
亜子は、無意識に、蓮の手を探した。指が触れる。蓮は、握り返してくれた。けれど、その手も、雨に冷えていた。互いの冷たさを確かめ合うように、二人はしばらく、手を握っていた。
降り続く冷たい雨は、容赦なく、二人の体温を奪っていく。
この時の二人は、まだ、何も知らなかった。
これから先、この街のシステムに、どれほど無残に、自尊心を切り刻まれることになるのかを。
奪われる言葉も。
互いの存在さえ、生きるための餌として、差し出さざるを得なくなる、底のない裏切りも。
そして、最後には互いを失い、雪の残る山奥の、崩れた屋根の下で、身を寄せ合うことになる、その夜のことも。
ただ一つだけ、確かな予感が、あった。
この冷たい雨の夜から始まる恋が、二人の人生そのものを、もう取り返しのつかないところまで、骨の髄まで、連れていってしまうということだった。
歩道橋の下を、また一台、ライトを滲ませた車が、通り過ぎていく。
遠い灯りは、相変わらず、手の届かないところで、きれいに濡れて、光っていた。
第一章 桃色の部屋と、歪む日常
| 東京へ来て三日目の夜だった。 雨は、まだ、しつこい油のように、街を濡らし続けていた。 亜子には、それが信じられなかった。故郷では、雨は、いつか終わるものだった。降り出せば、いつ晴れるかを、みな空の色で言い当てた。けれど、東京の雨には、終わりというものが、見えなかった。ただ、街全体が湿ったまま、いつまでも乾かずにいた。 高架を走る電車の轟音。どこか遠くで鳴り続けるサイレン。そして、無数の人工の光。 夜になっても、空が、暗くならない。 亜子は、窓辺に立って、しばらくそれを見ていた。雲の底が、街の灯りを吸って、うっすらと赤茶けて光っている。星は、どこにもなかった。 故郷の夜は、もっと深かった。 灯りを消せば、ほんとうの闇が来た。その闇のなかに、海鳴りが聞こえた。風が松を鳴らす音が、聞こえた。耳が痛くなるほどの、静けさだった。けれど、その静けさのなかでなら、亜子はいつでも、自分の輪郭を、はっきりと感じることができた。 だが、東京の夜には、何もなかった。 あるのは、絶え間ない遠い騒音と、眠ることを知らない人々の気配だけだった。窓の下を、夜更けだというのに、いくつもの車のライトが、滲みながら流れていく。あの一台一台に、行く先を持った誰かが、乗っている。亜子だけが、どこへも、向かっていなかった。 亜子が身を寄せたのは、同じ港町出身の、三学年上の先輩、ユイだった。 高校時代、「こんな狭い町で腐りたくない」と言い残して、町の誰よりも早く上京した人だった。卒業式の日、校門の前で、「絶対にテレビに出る」と笑った横顔を、亜子は今でも覚えている。地元の若者たちのあいだで、ユイは、一種の伝説であり、神格化された憧れだった。 きっと、きらびやかな世界で、成功しているのだろう。 そう、信じて疑わなかった。 しかし、案内された新宿区外れのマンションの一室に、足を踏み入れた瞬間、亜子は、玄関で靴を脱ぐ手を、止めた。 部屋は、異様なほど、広かった。 だが、そこに充満していたのは、「桃色」の、奇妙な違和感だった。 くすんだピンクの壁紙。場違いなほど高価な、脚の細い革のソファ。壁の半分を占める黒いテレビ。床には、ハイブランドの紙袋が、いくつも乱雑に転がっている。間接照明の灯りが、そのすべてを、淡い桃色に染めていた。 壁も。天井も。ユイの頬も。並んだ酒瓶の硝子も。その桃色は、やわらかく、甘く、見るからに、温かそうだった。けれど、亜子が一歩、足を踏み入れても、その色から、温度は、まるで伝わってこなかった。 生活の匂いが、しなかった。 台所からは、何の匂いもしない。誰かがここで、米を炊いたり、魚を焼いたりした気配が、ない。洗面台には、使い古された高級化粧品に混じって、男物のカフスボタンが、ひとつ、転がっていた。 まるで、誰かが別の場所で作り上げて、そっくりそのまま運び込んだ、舞台装置のようだった。 「どう? 東京らしい部屋でしょ」 ユイは、振り向いて笑い、煙草に火をつけた。 細い指。派手に盛られたジェルネイル。だが、その爪の隙間には、なぜか、落としきれない黒い汚れのようなものが、染み付いている。濃すぎるファンデーションの下からは、土気色の肌が透けて見え、その笑顔は、今にも崩れ落ちそうなほど、疲れていた。唇の桃色も、部屋の灯りと同じ、作り物の色だった。 「ユイさん……歌は?」 亜子が、恐る恐る尋ねると、ユイの乾いた唇が、一瞬だけ、歪んだ。 「歌? ああ……そんなの、上京して三月でやめた。喉を、潰されちゃってね」 短い間があった。 「……それより、こっちのほうが、ずっと割がいいの」 それ以上は、聞いてはならないのだと、直感が告げていた。 亜子は、抱えていたギターケースを、そっと壁際に立てかけた。擦り切れた革の角が、桃色の壁に、ぴたりと寄り添う。その古びた茶色だけが、この部屋で、ただ一つ、本物の色をしているように見えた。 夜が深まると、その「桃色の部屋」には、まるで見えない手で開け放たれたように、さまざまな人間が、出入りした。 自称・芸能プロデューサーの、油ぎった顔の中年男。素性の知れない、やたらと声の大きい投資家。若く身綺麗だが、目だけが完全に据わった男たち。 彼らは、亜子が故郷で見たこともないような、一本数万円のシャンパンを、ラッパ飲みした。下品な言葉で、「夢」や「利権」を語り合った。誰かの名前を出しては、知り合いだと言って、笑った。グラスの縁には、ユイのものと同じ、桃色の口紅が、いくつも残されていった。 だが、誰一人として、幸せそうには、見えなかった。 笑っているのに、目だけが、笑っていなかった。皆、何かに追われている人間の、目をしていた。 「この街じゃ、純粋な奴から順番に、消えていくんだよ」 男の一人が、そう言って、壁際の亜子のギターケースを、泥のついた靴先で、軽く蹴った。鈍い音が、した。亜子は、膝を抱えたまま、それを見ていることしか、できなかった。父の形見が、見知らぬ男の靴に、汚されていく。 煙草の煙が、桃色の灯りの中を、ゆっくりと漂っていく。 ふと、故郷の海を、思い出した。 静かな波の音。夕暮れの防波堤の、潮で湿ったコンクリートの感触。父のギターを抱えて、誰に聴かせるでもなく、歌った日々。 あの頃の自分は、貧しかった。月末にはいつも、母が、通帳を見てため息をついていた。けれど――今、目の前で札束の飛び交うこの部屋よりも、何千倍も、自由だった気がした。 深夜三時を過ぎ、男たちが、ユイの肩を無遠慮に抱き寄せ、テーブルに金を置いて帰っていくと、部屋には、急に、ひどい静寂が戻ってきた。 ユイは、高級なソファの上に、糸の切れたマリオネットのように、崩れ落ちた。化粧の崩れた横顔が、桃色の灯りの中で、急に、十も年老いて見えた。 「……亜子。東京は、どう?」 天井を見つめたまま、ユイが、掠れた声で呟いた。 亜子は、答えに迷った。 まだ、何も始まっていない。それでも、希望だけは、胸の奥に、固く握りしめていた。 「私……頑張ります。お父さんのギターも、あるし。ここで、絶対に」 ユイは、小さく笑った。 それは、憐れみと、冷たい諦めに満ちた、耳を塞ぎたくなるような、笑い声だった。 「みんな、最初はそう言うの。自分だけは特別だって、そう信じて、この街の口に、飛び込んでくる」 ユイは、煙草の灰を、絨毯の上に、直接、落とした。 「でもね、亜子。東京は、夢を叶える場所じゃない」 「え……?」 「夢を、諦めさせる場所よ。――それも、いちばん残酷なやり方で、ね。あんたも、すぐに気づく」 その声には、妙な重みがあった。怒りでも、後悔でもない。もっと静かな、すでに済んでしまったことを語る、声だった。 亜子は、何も言えなかった。言い返したかった。そんなことはない、と。けれど、桃色の灯りに照らされたこの部屋のすべてが、ユイの言葉を、黙って、肯定していた。 その夜、亜子は、リビングの片隅に敷かれた、薄い毛布の上で、横になった。 眠れるはずが、なかった。 知らない街。知らない天井。間接照明を消しても、カーテンの隙間から、街の灯りが、滲んで入ってくる。完全な闇は、どこにもなかった。 絶え間なく窓を叩く雨の音。換気扇から流れてくる、酒と煙草と香水の入り混じった、饐えた匂い。それらが、亜子の鼻腔を、麻痺させていく。 毛布は、少しも、体温を返してくれなかった。亜子は膝を抱えて、自分の腕に、自分の指を回した。指先は、冷たかった。故郷の闇が、海鳴りが、無性に、恋しかった。 目を閉じるたびに、ユイの言葉が、桃色の灯りとともに、浮かんでくる。 ――夢を、諦めさせる場所よ。 耐えかねて、携帯電話を開いた。青白い光が、暗い天井に、小さく映る。 蓮から、メッセージが、一件、灯っていた。 『生きてるか』 それだけだった。たったの、五文字。 だが、その無骨で、血の通った文字を見た瞬間、胸の奥の冷えた場所が、ほんの少しだけ、ほどけた。 亜子は、暗がりの中で、文字を打った。 『なんとか。生きてる』 送信ボタンを押してから、しばらく、画面を見つめた。返信を待つ数分が、ひどく、長かった。 やがて、灯りが、また光る。 『俺もだ』 その短い言葉に、なぜか、涙がこぼれた。 拭おうとしたが、間に合わなかった。涙は、耳のほうへ流れて、毛布に、小さく吸い込まれていった。声は、一切、立てなかった。隣の部屋で、ユイが眠っている。泣いていることを、誰にも、知られたくなかった。 この冷たい迷宮の中で、自分を「亜子」として呼んでくれる、ただ一人の人間が、同じ滲んだ灯りの下の、どこかにいる。彼も今、狭い部屋で、孤独という怪物を飼い慣らしながら、耐えているのだ。 そう思うと、少しだけ、勇気が、湧いた。 壁際のギターケースが、桃色の灯りの中に、黒い影になって、立っている。父の、ただ一つの形見。さきほど、男の靴に蹴られた、その輪郭を、亜子は、見つめていた。 しかし、亜子は、まだ知らなかった。 あの『俺もだ』の二文字の裏で、蓮もまた、別の街の狭い部屋で、自分と同じように、少しずつ追い詰められ――生きるために、自分の魂の一部を、切り売りしはじめていたことを。 そして、二人の運命が、すでに静かに、後戻りのできない方向へと、歯車を、回しはじめていたことを。 窓の外では、雨が、降り続いていた。 まるで、この街そのものが、声を立てずに、泣いているかのように。 桃色の灯りは、夜が明けても、ずっと、点いたままだった。 |
第二章 闇の絵師と、最悪の純愛
冬が、容赦なく、牙を剥いていた。
東京の空は、毎日、同じ灰色だった。
雨は降らなくなった代わりに、街は、乾いた寒さの底に沈んでいた。吐く息が、白く固まり、すぐにビルの間の風に、ちぎられて消える。空には相変わらず星がなく、ただ厚い雲が、街の灯りを、鈍く照り返しているだけだった。
亜子の日々は、摩耗の一言に尽きた。
昼は、駅前の薄暗い喫茶店で、時給のために頭を下げた。それでも、マスターの淹れる珈琲の香りだけは、好きだった。湯気の向こうに、ほんの一瞬、故郷の朝の匂いが立つ気がした。
夜は、数千円のノルマを払って、小さなライブハウスのステージに立った。
現実は、思っていたよりも、ずっと硬く、冷たかった。歌を聴いてもらえる時間は、わずか数分。地下の薄暗い客席に座っているのは、スマートフォンの画面を眺める数人の客と、耳を貸さない他の出演者だけ。話し声に半分かき消されながら歌い終えても、返ってくるのは、まばらな拍手だけだった。手のひらが、二つ三つ、気のない音を立てる。それは、憐れみの溜め息のようにしか、聞こえなかった。
それでも、亜子は、ギターを離せなかった。
歌うことをやめた瞬間、自分が、何者でもなくなってしまう気がしたからだった。やめてしまえば、いつか自分も、あの桃色の部屋で、笑っていない目をして札束を数える、ただの肉になり下がる。その恐怖だけが、彼女の細い指を、動かしていた。ステージの上にいる間だけは、まだ自分は、〈歌手になりにきた女〉でいられた。
一方、蓮もまた、限界を、迎えつつあった。
上京した当初は、自尊心の塊のような絵を抱えて、出版社を回り続けた。重い紙の束を、何度も鞄から取り出しては、机の上に並べた。
しかし、返ってくるのは、規格化された拒絶だけだった。
「今の時代に、こんな暗い絵は流行らないよ」
「もっと、わかりやすい、売れる絵を描いてくれ」
担当者は、蓮の絵をろくに見もせず、最後のページをめくり終える前に、もう次の話を始めていた。
理想だけでは、腹は膨らまなかった。
家賃の督促状。コンビニの、傷みかけたおにぎり。暖房もろくに点けられない、四畳半。電気ストーブの、焦げた埃の匂い。オレンジ色に灼ける一本のニクロム線だけが、部屋の唯一の暖だった。冷えた米を、立ったまま口に押し込む夜が続いた。夢を描く時間より、明日の小銭を数える時間のほうが、長くなっていった。
そんな彼に手を差し伸べたのは、ネットの底のほうにある、広告制作会社だった。
最初は、軽い挿絵だった。小さな仕事だったが、初めて〈絵で金が入る〉という実感に、蓮の手は震えた。
だが、報酬と引き換えに要求される内容は、次第に、エスカレートしていった。
もっと刺激的に。もっと、人の欲を、嫌悪を、そのまま煽るように。
それは、蓮が最も蔑んでいた種類の絵だった。見る者の尊厳も、描く者の尊厳も、ひとしく削り取っていくための、消耗品。
それでも、断れなかった。
口座に振り込まれる、数万円。その数字が、彼の倫理を、確実に麻痺させていく。金が必要だった。この街で、野垂れ死にしないために。
夜明けが、近かった。
遮光カーテンを閉め切った狭い部屋を照らすのは、モニターの、毒々しい光だけだった。青白い光が、蓮の頬の輪郭を、下から冷たく照らしている。
画面の中には、目に痛い桃色と、酸のような緑で塗りつぶされた、毒々しい絵が並んでいた。閲覧数を稼ぐためだけの、魂の抜けた、死体のような絵。
皮肉なことに、彼の卓越したデッサン力は、その仕事でこそ、遺憾なく発揮され、重宝された。「お前は上手い」と、皆が言った。本当に描きたいものを捨てたとたん、絵は、売れはじめたのだ。
保存ボタンを押す。指先が、こわばっている。何時間も同じ姿勢でペンを握り続けた形に、右手が、固まっていた。
「……何やってんだ、俺」
マウスを叩くたび、指先から、人間性が、一滴ずつ零れ落ちていく感覚がした。
蓮は、吐き気をこらえるように、机の引き出しの奥から、一冊の古いスケッチブックを取り出した。表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。
ページを開く。
そこには、故郷の、あの寂しい海が広がっていた。冬の防波堤。沈みかけた夕陽。寒さに鼻を赤くして、それでも、傷だらけのギターを抱えて歌う、一人の少女。
亜子だった。
絵の中の亜子は、蓮の心がどれほど汚れても、あの日のままの、濁りのない目で、彼を見つめ返してくる。半年前、海沿いの町で、初めて鉛筆で写し取った姿。あの時の線には、何の計算もなかった。ただ、美しいと思ったままを、引いた。
ページをめくる。次の絵にも、彼女がいた。その次にも。
会いたくなった。
狂おしいほどに。
自分の汚れた両手を隠さず、ただ一言、「大丈夫だ」と、その掠れた声で、囁いてほしかった。
その夜、二人は、新宿の路地裏の、古い居酒屋で会った。
看板の電球も半分切れたような店だった。引き戸を開けると、焼き物の煙と、古い油の匂いがした。客はほとんどいない。隅のテレビが、誰も見ていない歌番組を、流していた。
二人は、カウンターの端に、肩を寄せて、並んで座った。
しばらく、言葉が出なかった。声をかけることさえ躊躇われるほど、互いに、やつれ果てていた。別々の戦場で、別々のやり方で、傷つけられてきたのだ。
「……どう、最近」
亜子が、湯気の立つコップを両手で包みながら、尋ねた。
蓮は、笑おうとした。だが、頬の筋肉が、うまく動かない。口の端が、わずかに動いただけで、止まってしまった。
「駄目だな」
そう言った。
「全然、駄目だ。俺の指……もう、まともな絵の描き方を、忘れかけてる」
その告白に、亜子は、かける言葉を、持たなかった。
自分も、同じだった。あの桃色の部屋で、男たちに品定めするような目で見られながら、それでも、音楽にしがみついている。夢を追っているはずなのに、追えば追うほど、その本質から、遠ざかっていく。掌の中の砂のように、握れば握るほど、こぼれていく。そんな感覚を、二人とも、誰にも言えずに、抱えていた。
店を出る頃には、終電が、近づいていた。
冷たい風が、二人の身体を突き抜けた。見上げる新宿の高層ビル群が、夜空に、黒々と浮かんでいた。窓という窓に灯る無数の明かりが、まるで、二人を閉じ込める巨大な監獄の壁のように、行く手を塞いでいる。
あの明かりの一つ一つに、誰かの居場所がある。けれど、そのどれもが、自分たちのものでは、なかった。
二人は、歩道橋の上で、立ち止まった。
眼下を、車のライトが、川のように流れていく。赤い尾と、白い光が、絶え間なく、どこかへと急いでいる。誰もが、行き先を、持っていた。
だが、二人だけは、その流れの上で、立ち尽くしていた。
「……帰りたくなる時が、ある」
蓮が、ぽつりと言った。
「故郷に?」
亜子が、聞く。
蓮は、頷いた。
「ああ。あの、何もなくて、ただ波の音だけがうるさい、海が見たい。東京は……嘘が、多すぎる」
その言葉を聞いた瞬間、亜子の胸が、強く痛んだ。
自分も、まったく同じことを、考えていたからだった。
防波堤。冬の海。寄せては返す、低い波の音。あの場所にだけは、嘘がなかった。海は、繕わなかった。荒れる日は荒れ、凪ぐ日は凪いだ。ただ、ありのままに、そこにあった。
東京には、嘘が多すぎた。
成功したふり。平気なふり。まだ夢を諦めていない、という、惨めなふり。誰もが、薄い仮面を、いくつも重ねて、その下の素顔を、見せなかった。
二人とも、嘘を突き通すには、純粋すぎた。そして、互いの前でだけは、その血の滲んだ仮面を、外すことができた。素顔を見せられる相手は、この広い街で、たった一人ずつしか、いなかった。
蓮は、亜子の肩を、そっと抱き寄せた。そして、耳元で、静かに口を開いた。
「俺さ」
「うん」
「もし、この街で、何もかも駄目になったら」
そこで、言葉を止めた。
亜子は、続きを待った。風が、二人の間を、通り過ぎていく。
蓮は、少しだけ笑った。寂しそうな、けれど、ひどく優しい笑顔だった。
「その時は、一緒に帰ろう。何もかも捨てて、あの海へ」
亜子は、答えなかった。
答えられなかった。胸の奥が、熱くなっていた。代わりに、蓮のコートの袖を、ちぎれんばかりに、強く握りしめた。
二人は、しばらく、夜景を見つめていた。
誰にも気づかれないほど、静かに。互いの孤独を、半分ずつ分け合うように。蓮の上着の袖が、亜子の腕に、触れていた。雨に濡れていた、あの最初の夜とは違って、今はもう、互いの体温の温度を、知っていた。
その頃からだった。
二人が、〈恋人〉という言葉だけでは、説明のつかない存在になっていったのは。
夢を失いかけた者同士。傷だらけの者同士。互いが、互いにとって、この街でただ一つの、避難場所になっていった。
――もしこの時、二人のどちらかが、独りきりだったなら。
きっと、もっと早くに音を上げて、すべてを投げ出し、海の見える町へ、帰っていただろう。そして、それで、よかったのだ。それこそが、唯一の救いだったのかもしれなかった。
だが、二人には、互いが、いた。
相手がまだ立っているから、自分も立っていられた。相手がまだ諦めていないから、自分も、帰れなかった。寄り添う、その温もりが、二人を、この街に、つなぎ止めていた。
支え合うことが、逃げ道を、塞いでいた。
その純粋な想いこそが――どこまでも本物だった、その想いこそが――やがて二人を、誰も手の届かない、もっと深い闇の底へと、静かに、引きずり込んでいくことになる。
それは、恋人という生ぬるい言葉では呼べない、最悪の、そして、最も純粋な共犯だった。
東京の夜は、音もなく、更けていった。
遠くで、夜を引き裂くように、救急車のサイレンが、鳴っていた。
この街のどこかで、また一人、夢に喰われた誰かを、どこかへ運んでいく音だった。
まるで、二人のこれからを、低く、長く、告げているかのように。
第三章 盗まれた詩と、潜む陰
春が、近づいていた。
しかし、亜子にも蓮にも、その季節の訪れを喜ぶ余裕は、なかった。
東京へ出てきて、もうすぐ一年が、過ぎようとしていた。街路樹の桜の蕾は、日ごとに膨らみはじめ、枝先に、淡い桃色の気配が、ほんのりと滲んでいる。
それなのに、二人の夢は、花開くどころか、少しずつ、色を失っていた。
蓮の周囲の環境は、目に見えて、変わっていった。
ネットの底でこなした「闇の仕事」が、歪んだ評価を生んだのか、彼はいつの間にか、とある新興のクリエイティブ会社に、囲い込まれていた。
生活は、物質的には、楽になった。壁の薄いアパートを引き払い、駅に近い、小綺麗なマンションへ移った。督促状の積もる玄関は、もうない。新しい机。最新の液晶ペンタブレット。
だが、蓮の顔からは、完全に、生気が消えた。
毎日描かされるのは、刺激的なゲームのキャラクターや、他人の絵をなぞっただけの、話題狙いの絵ばかり。いくら描いても、口座の数字が増えても、それは、自分の子供を間引いて、一人ずつ売り渡しているような感覚だった。
整った部屋の真ん中で、彼は、以前よりも深く、独りになっていた。
深夜二時。
モニターのブルーライトだけが、凍るように部屋を照らしている。
その夜も、すべての仕事を終えると、蓮は、引き出しの鍵を開けた。あの古いスケッチブックの、さらに下。誰にも――亜子にさえ、見せたことのない、一冊のノートが、そこにあった。
そこに書かれていたのは、絵では、なかった。
言葉だった。掠れた文字で書き殴られた、詩だった。
故郷の、冬の凍てつく港。東京行きの夜行列車で覚えた、吐き気。そして、暗がりの中で、互いの存在だけを確かめ合った、亜子の、柔らかな体温。
誰に評価されなくても、よかった。一文も金にならなくても、よかった。このノートに、本当の絶望を書き留めることだけが、彼が、辛うじて「人間」でいられるための、最後の場所だった。
ページをめくる。その中の一編に、目が止まった。
題名は――『怨歌』。
巨大な胃袋の中で、純粋さをすり潰され、記号として消費されていく若者の、呪詛に近い孤独を綴った詩だった。
光を求めて街へ出た。
だが街は、光ではなく、夢を喰らった。
帰れない海が、夜ごと、胸の奥で鳴っている――
拙い。けれど、嘘がなかった。そこには、蓮自身の、そして亜子の、削れていく日々のすべてが、骨だけになって、書きつけられていた。
蓮は、自嘲気味に、苦笑した。
「……こんなゴミみたいな本音、誰も、買いやしないな」
そう呟いて、ノートを閉じた。
だが、その数日後のことだった。
会社のチーフプロデューサーであり、業界のフィクサーとも噂される男――黒崎が、抜き打ちで、蓮の部屋を訪れた。
手土産の高級なウイスキーを提げた黒崎は、ソファに腰を下ろすと、グラスを傾けながら、獲物を値踏みするような目で、ゆっくりと部屋を見回した。
その視線が、机の上に放置されたノートで、ふと止まった。
「ほう。何だ、これは」
「……あ、触らないでください」
蓮は、血の気が引き、慌てて取り返そうとした。だが、黒崎は、蛇のような手つきで、その手をかわし、もうページを開いてしまっていた。
しばらく、無言で読んでいた。グラスの氷が、かちりと鳴る。
やがて、黒崎の、肉厚な唇が、ぐにゃりと歪んだ。
「――素晴らしいな、蓮。お前、こんな最高に『売れる泥』を、隠し持っていたのか」
不気味な予感が、蓮の背筋を、駆け上がった。背中を、見えない指でなぞられたような感触だった。
だが、その時の蓮は、この男の、底知れない強欲さを、まだ見くびっていた。
同じ頃。
亜子の人生にも、破滅へと続く、偽りの転機が、訪れていた。
ライブハウスでの泥臭い活動が、ある音楽事務所の目に留まったのだ。しかし、提示されたのは、「歌手」としてのデビューではなかった。今、飛ぶ鳥を落とす勢いで売れはじめている、若手女性シンガー・純の、付き人。そして、名前の出ない、雑多な書き仕事の手伝い。それは、ほとんど奴隷の契約だった。
純は、亜子と同世代だったが、何もかもが、違っていた。
大人のウケを計算し尽くした、完璧な笑顔。記号化された、「等身大の少女」というアイコン。テレビ、雑誌、街角の広告――どこを向いても、純の顔が、溢れていた。
だが、その華やかな世界の裏側は、亜子の想像を、はるかに超えて、腐臭が漂っていた。
楽屋では、誰も、本音を話さない。笑顔の裏で、平気で誰かのスキャンダルをささやき合う。成功のためなら、昨日までの仲間も、自らの尊厳も、驚くほど簡単に、切り売りされる。
誰もが、第一章でユイの部屋に出入りしていた、あの大人たちと、同じ目をしていた。笑っているのに、笑っていない目を。
亜子は、純の衣装を洗い、泥のついた靴を磨きながら、少しずつ、精神を、摩耗させていった。
ある日のことだった。
レコーディングスタジオへ向かう送迎車の中で、純が、退屈そうに、ワイヤレスのイヤホンの片方を、亜子の耳に突っ込んできた。
「これ、来月出す、私の勝負曲のデモ。大人たちが『今回はこれでミリオン狙う』って、張り切っちゃってさ」
ノイズ混じりの、静かなイントロ。控えめなピアノ。そして、それを切り裂くようにして、歌が、始まった。
その瞬間だった。
亜子の身体が、氷水を浴びせられたように、硬直した。
膝の上で組んでいた指が、無意識に、シートを、握りしめていた。
聞き覚えが、あった。忘れるはずが、なかった。
光を求めて街へ出た――
帰れない海が、夜ごと、胸の奥で鳴っている――
それは、蓮が書いた言葉だった。あのノートの中にあった、詩。『怨歌』。
言い回しこそ、プロの作詞家の手で、ポップス向けに、なめらかに整えられている。けれど、その根底にある「東京への呪い」と、骨の一本一本は、まぎれもなく、蓮のものだった。夜行列車も。帰れない海も。夢に喰われる若者の、あの孤独も。すべて、そのまま、そこにあった。
作詞のクレジットには、『純』の名が、躍っている。
盗まれたのだ。蓮の、最後の防波堤だった、あの孤独さえも、この街の大人たちに、美味な餌として。
「どうしたの? 亜子。顔色、悪いよ」
純が、何も知らない目で、覗き込んでくる。
亜子は、首を、振るしかなかった。
言ったところで、一介の付き人の言葉など、誰も信じはしない。いや――たとえ信じたとしても、この巨大なシステムの前では、踏み潰される、羽虫の羽音に過ぎないのだ。この車も、このスタジオも、この曲も、もう、動き出してしまっている。
その夜から、亜子は、狂ったように、蓮に連絡を取り続けた。
だが、マンションの鍵は、固く閉ざされ、応答はない。電話は、呼び出し音のあとに、虚しく切れた。メッセージにも、既読すら、つかない。あの『俺もだ』の二文字が、画面の一番下で、止まったままだった。
不安だけが、日ごとに、膨らんでいった。
ようやく蓮の姿を捉えたのは、連絡が途絶えてから、十日目の夜だった。
新宿駅近くの、高架下。雨混じりの風が、吹き抜ける暗がりだった。
そこに立っていた蓮は、別人のように、変わり果てていた。
頬は、こけ、目の下には、塗りつぶしたような、どす黒い隈が貼りついている。かつての、鋭くも純粋だった瞳は、濁り、まるで、生ける屍のようだった。
「蓮……! 何が、あったの。その顔……」
亜子が駆け寄り、冷え切った腕を掴む。蓮は、しばらく、焦点の合わない目で亜子を見つめていたが、やがて、力なく、歪んだ笑みを浮かべた。
「俺さ……会社に、軟禁されてたんだ。あのノートを、黒崎に見られてから――全部、持っていかれた」
「『怨歌』、聴いた。あれ、蓮の言葉でしょう。なんで、あんな奴らに」
蓮は、激しく首を振った。その指先が、小刻みに、震えている。
「断れるわけ、ないだろ。逆らったら、今までの違法な仕事の証拠を、警察に回すって、脅されたんだ。契約書にも……俺の描いたもの、書いたものの権利は、すべて会社に帰属するって、最初から、仕組まれてた」
蓮は、高架のコンクリート壁に、こつ、と額を押し当てた。
「分かってるんだ。俺はもう、骨までしゃぶり尽くされる。違約金は、億単位だ。――でも、もう、今さら、抜け出せない」
その声には、抗う力さえ残っていない、底の見える諦めが、滲んでいた。
春の生ぬるい風が、二人の間を、通り抜けた。
桜の花びらが、一枚、二枚、足元のドブ水に落ちて、黒く、染まっていく。やわらかな桃色だった。けれど、その風は、まだ、冷たかった。
亜子は、胸が、締めつけられた。
夢を追って、上京したはずだった。絵を描きたかった。歌を歌いたかった。たった、それだけだった。
なのに、気がつけば、二人とも、誰かの都合のために、生きるようになっていた。自分の手から生まれたものさえ、もう、自分のものではなくなっていた。
遠くで、また、電車が通り過ぎる。
轟音が、高架を、震わせた。
その音に、かき消されるようにして、蓮が、小さく、言った。
「東京ってさ」
「うん」
「人の夢を、食べる街なんだな。俺たちの愛も、孤独も……全部、あいつらの、金儲けの道具だ」
亜子は、返事が、できなかった。
なぜなら、自分もまた、同じことを、感じはじめていたからだった。咀嚼され、骨だけになって、吐き出されていく――その感覚を。
桜は、咲きはじめていた。
街は、淡い桃色に包まれて、春を迎えようとしている。あの、ユイの部屋を染めていた、作り物の桃色とは違う、本物の、けれど、ほんの数日で散ってしまう色だった。
その満開の下を、人々は、何も知らずに、笑って、歩いていく。
だが、二人の周囲には、目に見えない暗い影が、少しずつ、静かに、忍び寄っていた。
黒崎の、獲物を見るような、笑み。動き出してしまった、一曲。引き返せなくなった、契約。
まだ、誰も、気づいていない。
その影が、やがて、二人の運命を、もう取り返しのつかないところまで、大きく、狂わせていくことになるのを。
第四章 夜の逃走、河川敷の野獣
『怨歌』は、文字通り、日本中を、席巻していた。
街を歩けば、どこからともなく、あのイントロが、降ってくる。
喫茶店でも。
タクシーのカーラジオでも。
商店街の、古びた有線放送でも。
駅前の大型ビジョンでは、純がその曲を歌う映像が、一日に何度も流れた。足を止めて見上げる人々の中を、亜子は、俯いて通り抜けた。
蓮が、血を吐くような孤独の中で書き殴った言葉が、純のクリアな歌声に乗せられ、「今を生きる若者の、等身大の叫び」として、一秒ごとに、途方もない金を、生み出していく。
その歌が流れるたび、亜子は、胸の奥を、内側から引き裂かれるような気持ちになった。
あれは、私たちのものだったはずだ。誰も見てくれなかった私たちの絶望を、大人が札束で買い叩き、人々が、ファストフードのように、喰い散らかしている。本当の作者が誰なのかも知らないまま。その歌の裏にある、血の匂いにも、気づかないまま。
ある夜のことだった。
純の、初めてのアリーナコンサートが、幕を閉じた。
熱気の残る楽屋のモニターには、音楽番組の速報が、映し出されている。司会者が、満面の笑みで言う。
「今週も、第一位は純さん。もう、社会現象ですね」
画面の中で、純は、プロが演出した、完璧な涙を浮かべて微笑んでいた。周囲のスタッフや幹部たちが、シャンパンを開けて、拍手を送る。打ち上げの狂乱の輪の中で、衣装を片付ける亜子だけが、死人のような顔で、立ち尽くしていた。
その時だった。
楽屋のドアの隙間に、見慣れた、だが決定的に変わってしまった影を、見つけた。
蓮だった。
仕立ての良い、黒いスーツを着せられている。以前のボロボロのコートよりも、はるかに高価な服。しかし、その服に包まれた身体は、驚くほど薄く、顔色は、土気色を通り越して、緑がかって見えた。何日も、眠ることを許されていない人間のような、不気味な佇まいだった。
「蓮……!」
亜子は、周囲の目を盗み、楽屋を飛び出して、駆け寄った。
蓮は、ゆっくりと首を巡らせ、亜子を見た。その瞳の焦点は、合っていなかった。
「……話せるか。少しだけ」
二人は、会場の非常階段を降り、夜の街へ出た。
春の終わりを告げる、湿った風が、ネオンの熱を孕んで、生ぬるく肌にまとわりつく。
「詩のこと、知ってるんだろ」
蓮が、ポケットの中で小刻みに震える手を、隠そうともせずに言った。割れた唇から、一筋、血が滲んでいる。
亜子は、黙って頷いた。
「黒崎に……全部、握られた。闇イラストの口座履歴。ユイさんの部屋に出入りしてた、男たちのリスト。従わなきゃ、俺だけじゃなく――お前も、あの部屋の男たちに売る、と言われた」
その声には、もう抗う気力さえ残っていない、深い疲労が、滲んでいた。
「『怨歌』が売れるたび、俺の口座に、大金が振り込まれる。でも、その数字を見るたびに、自分の指を一本ずつ、切り落として喰っているような気分になるんだ。……結局、俺は、何も守れなかった」
「逃げよう、蓮」
亜子は、その細い手首を、強く掴んだ。驚くほど、冷たかった。
「歌なんて、どうでもいい。絵なんて、描けなくていい。ここから、逃げよう」
だが、蓮は、力なく、首を振った。
「簡単じゃないんだ。黒崎の目は、どこにでもある。もう……遅いんだよ」
その諦めきった声に、亜子は、底知れない恐怖を覚えた。蓮の精神は、すでに半分以上、あの男の手の中で、消化されかけていた。
数日後。
事件は、起きた。
純の付き人業務を終え、事務所の裏口から出た亜子の前に、一台の、漆黒の高級車が、音もなく滑り込んできた。
後部座席の窓が、静かに、降りる。
そこに座っていたのは、肉厚な顔に、歪んだ笑みを浮かべた男――黒崎だった。
「やあ、亜子ちゃん。ちょっと、話をしようか」
ゆっくりと細められたその目は、餌に近づく獲物を、茂みの奥からじっと見定める、肉食獣のそれだった。逃げ道を、すべて測り終えた、野獣の目だった。
「蓮がね、最近また、君の絵ばかり描くんだ。せっかく、いい仕事を与えてやってるのに、君の顔を思い浮かべると、売れる絵が描けないって、泣くんだよ。困るんだよねえ。商品に、余計な『不純物』が混ざると」
黒崎は、車内から、二枚の写真を、無造作に放ってきた。
一枚は、高校時代の、亜子。もう一枚は――故郷で、母が一人暮らす、古い平屋だった。
「彼には、もっと、底まで落ちてもらう必要がある。君がそばにいると、彼は、人間を辞めきれない。……分かったら、明日にでも、僕の用意した別の『部屋』に、移ってもらおうか。ユイみたいに、なりたくないならね」
背筋が、完全に、凍りついた。
この男は、二人の過去も、家族も、すべての尊厳を人質にして、ただ、貪り尽くそうとしている。亜子は、放られた写真を、拾うことさえ、できなかった。
その日の、深夜だった。
亜子の携帯に、蓮から、電話が入った。
耳を刺すような、震える声だった。
『今すぐ、新宿の事務所の裏に来てくれ……! 殺した、俺、殺しちゃったかもしれない……!』
亜子が血相を変えて駆けつけると、高架下の暗がりに、蓮が呆然と立ち尽くしていた。 彼の顔は殴られてひどく腫れ上がり、スーツは破れ、返り血のような赤黒いシミがべっとりと付着していた。その足元には、黒崎の側近と思われる男が、頭部から血を流してピクリとも動かずに倒れていた。
「黒崎の犬が、お前の部屋の鍵を持っていこうとしたんだ……。お前を守らなきゃって思ったら、レンガで、何度も……」
蓮の目は完全に狂気に染まっていた。
「もう終わりだ。東京じゃ、俺たちは生きていけない。逃げるしかない、亜子……!」
その目を見た瞬間、亜子は、悟った。
何か、決定的なものが、壊れたのだ。
もう、元には戻れない。東京で叶えるはずだった夢も。信じていた未来も。胸の奥に握りしめていた希望も。そのすべてが、今夜、音もなく、崩れ落ちたのだ。
亜子は、考える前に、頷いていた。
二人は、走った。
すべてを捨てて、夜の街を。人混みを。ネオンの海を。
まるで、罠にかかった、二匹の獣のように。
振り返ることは、しなかった。
ただ、亜子の頭の片隅を、壁際に立てかけたままの、ギターケースが、よぎった。父の、ただ一つの形見。それさえも、置き去りにして、二人は走っていた。夢の道具ごと、夢を捨てて、逃げていた。
息が上がり、足がもつれる。それでも、止まらなかった。止まれば、闇に、飲まれてしまう気がした。
気づけば、二人は、都心の外れを流れる、荒川の河川敷まで、辿り着いていた。
人気のない、広大な土手。冷たい風が、生い茂る葦を、ざわざわと揺らしている。眼下には、黒々とした川面が、ゆっくりと流れていた。遠くに見える高層ビル群の明かりだけが、まるで、二人を閉じ込める檻の格子のように、対岸に、滲んでいる。
あの灯りの中で、人々は、今夜も笑っているのだろう。誰も、こちらを、見てはいない。
二人は、泥だらけになりながら、草の上に、座り込んだ。
しばらく、誰も、喋らなかった。
聞こえるのは、風の音と、低い水の音だけだった。どこか遠くで、夜の鳥が、一声だけ、寂しげに、鳴いた。
やがて、蓮が、黒い川を見つめたまま、呟いた。
「俺たち……何のために、東京へ来たんだろうな」
亜子は、答えられなかった。
あの日のことを、思い出していた。冷たい雨の中、東京駅で抱き合った、あの夜のことを。希望に、満ちていた。未来を、信じて疑わなかった。歩道橋から見た、滲んだ灯りさえ、いつか手に入るものだと、思っていた。
あの日の二人は、もう、どこにもいなかった。
「ただ……絵を、描きたかっただけなんだ」
蓮は、川面に視線を落としたまま、続けた。
「お前の歌に、俺の絵を、添えたかった。それだけ、だったのに」
その言葉が、亜子の胸に、深く、刺さった。
亜子も、同じだった。歌いたかった。父のギターを抱えて、海に向かって歌っていた、あの頃のように。たった、それだけのことだったのだ。
なのに、現実は、あまりにも、残酷だった。
二人は、肩を、寄せ合った。
寒かった。心まで、凍えそうだった。それでも、隣にいる相手の体温だけは、確かだった。互いの肩から伝わってくる、その熱だけが、今、二人に残された、唯一のものだった。
蓮が、小さく、言った。
「どこか、遠くへ、行こう」
亜子は、頷いた。
「うん」
「誰も、知らない場所へ」
「うん」
「二人、だけで」
亜子は、静かに、蓮の手を、握った。
その手は、冷たかった。
けれど――確かに、生きていた。脈が、指先に、かすかに、伝わってくる。冷たくて、生きている。その矛盾だけが、たしかな、現実だった。
遠くで、始発前の貨物列車の警笛が、長く、鳴った。
まるで、運命の合図のように。あの日、二人を、東京へ運んできた列車と、同じ音だった。
その夜を境に、二人は、東京から、姿を消すことになる。
そして――後戻りの許されない、血と泥にまみれた逃避行が、ここから、静かに、始まろうとしていた。
第五章 血と体液の楽園
北へ向かう列車の窓には、まだ雪の残る山々が、映っていた。
東京を離れて、三日目だった。
ニュースでは、純の新曲『怨歌』が、連日、話題になっていた。駅の売店に積まれた芸能誌の表紙には、あのプロデューサーの、脂の浮いた笑顔が載っている。
蓮も、亜子も、その記事を読まなかった。
いや――読むことが、できなかった。
過去を覗き込めば、その瞬間に、また東京へと引き戻されてしまいそうだったからだ。後ろを見ない。それだけが、二人が逃げ続けるための、たった一つの掟だった。
二人が辿り着いたのは、東北の山奥にある、小さな温泉街だった。
観光客も、少ない。駅前には、看板の塗りの剥げた商店が、数軒、肩を寄せ合うように並んでいるだけ。夕方になると、人影も消える。冬の終わりを告げる風が、誰もいない通りを、ひゅうと吹き抜けていく、静かな町だった。
古い木造旅館の、二階。
六畳一間。
窓の向こうには、雪解け水を集めて流れる川が、見えた。水の音が、絶え間なく、低く響いている。
豪華な部屋ではなかった。畳は黄ばみ、襖の紙は所々破れていた。だが、二人には、それで十分だった。
ここには、誰も二人を知る者がいない。
ただ、それだけで、よかった。
最初の数日は、夢のようだった。
朝になれば、同じ布団の中で、一緒に目を覚ます。
亜子が先に目を開けると、すぐ隣で、蓮が眠っている。その胸が、規則正しく、ゆっくりと上下している。亜子は、しばらく、その寝顔を見ていた。東京にいた頃、あんなに削られて土気色だった頬に、わずかに血の色が戻っていた。亜子は、そっとその胸に手を当てた。掌の下で、心臓が、たしかに脈打っている。生きている。その当たり前のことが、たまらなく、ありがたかった。
夜は、長かった。
昼間に浸かった温泉の熱が、いつまでも体の芯に残っていて、布団の中の二人を、内側から温めていた。
窓の外は、凍えるような夜だ。けれど、肌を寄せ合えば、互いの体だけは、火を抱いたように熱かった。蓮の首筋に額を押し当てると、汗ばんだ匂いと、脈の音がした。亜子は、その脈に、自分の呼吸を合わせた。
血が、めぐっている。
体に、熱がある。
二人とも、ただ、生きた体だった。夢でも、才能でも、名前でもない。傷つき、血を流し、それでも温かい、二つの体だった。
この狭い部屋だけが、二人にとっての楽園だった。けれど、それは、地に足のついた、生身の楽園だった。明日には消えてしまうかもしれない、血と、息と、体温だけでできた、ひどく脆い楽園だった。
ある朝。
旅館の裏山へ続く、坂道を歩いている時だった。
蓮が、ふと立ち止まった。
遠くに見える、雪をかぶった山並みを、じっと眺めている。
「静かだな」
そう、呟いた。
亜子も、隣に立った。
風の音しか、聞こえない。車の騒音も。ネオンも。人混みも、ここにはなかった。雪解け水を集めた川の音が、どこか、故郷の波の音に似ていた。
「故郷に、似てる」
亜子が、言った。
蓮は、頷いた。
「少しな」
しばらく、二人は、黙って景色を見ていた。
こんな時間が、永遠に続けばいい。亜子は、そう思った。
だが、二人とも、知っていた。
永遠など、ない。逃げ続ける人生に、安息はない。それでも、今だけは――今だけは、その先のことを、忘れていたかった。
夜。
旅館の女将が、食事を運んできた。
囲炉裏で焼いた川魚。山菜の煮浸し。湯気の立つ味噌汁。質素な料理だった。
しかし、亜子は、久しぶりに、心から、美味しいと思った。魚の身を箸でほぐすと、湯気が立ちのぼる。一口、口に運ぶ。塩の利いた、素朴な味だった。気づけば、頬を、涙が伝っていた。理由は、わからなかった。ただ、体が、生きたがっている。そんな気がした。
食事を終えると、蓮は、窓際にあぐらをかいて座った。
膝の上に、スケッチブックを開いている。
久しぶりに、絵を描いていた。
仕事では、ない。誰かに見せるためでも、ない。ただ、描きたかったから、描いている。鉛筆の走る、さらさらという音が、部屋に満ちた。あの、夢を追っていた頃の、東京では完全に失われていた音だった。
亜子は、その横顔を、見つめていた。
頬に、生気が戻っている。眉間の皺が、ほどけている。夢を追っていた頃の蓮が、少しだけ、帰ってきていた。
「何を、描いてるの?」
蓮は、少し照れたように、笑った。
「お前」
亜子も、笑った。
「また?」
「仕方ないだろ」
その言葉に、二人は、声を上げて笑った。
本当に、久しぶりの、笑いだった。腹の底から、何の影もなく笑うのは、東京へ来てから、初めてのことだった。
その夜。
眠る前、亜子は、ふと尋ねた。
「ねえ。もし、東京に行かなかったら、どうなってたと思う?」
部屋の灯りは、もう消えている。
暗闇の中から、蓮の声が、返ってきた。
「どうだろうな」
少し考えてから、続けた。
「普通に、働いてたかもしれない」
「私は、漁協の事務員かな」
「似合わないな」
「失礼ね」
また、笑った。
だが、その笑い声は、やがて、静かに消えていった。
暗闇に、沈黙が、降りてくる。
その沈黙の中で、二人は、同じことを考えていた。
もし。
もし、別の人生が、あったなら。
もし、夢を追わなかったなら。
もし、東京へ、行かなかったなら――。
だが、人生に「もし」は、ない。現実は、今、ここにあった。この、雪解け水の音のする、六畳一間に。そして、二人は、追われる逃亡者だった。
数日後。
その平穏に、小さな亀裂が、入った。
温泉街の商店で、買い物をしていた亜子は、見知らぬ男を、見かけた。
いや、見知らぬ、ではなかった。東京で、一度だけ、見たことのある顔だった。あのプロデューサーの、側近の一人。
男は、何気ない顔で、駅前を歩いていた。観光客を装って、辺りを見回している。
その瞬間、亜子の背中を、冷たい汗が、一気に流れ落ちた。
――見つかった。
そう、直感した。
旅館へ、駆け戻る。階段を、二段飛ばしで上がる。部屋の戸を、勢いよく開ける。
蓮は、窓際で、絵を描いていた。
息を切らしながら、亜子は、言った。
「来てる」
蓮の、鉛筆を握る手が、止まった。
表情が、ゆっくりと、固まっていく。
窓の外では、夕暮れが始まっていた。雪をかぶった山々が、夕陽を浴びて、赤く染まっている。静かな川。数日前まで、あれほど美しく見えた景色が、今は、どこか、不吉に見えた。
蓮は、ゆっくりと、スケッチブックを閉じた。
しばらく、何も、言わなかった。
そして、小さく、呟いた。
「やっぱりな」
その声には、驚きが、なかった。
いつか、必ず来る。そう、分かっていたのだ。この楽園が、長く続くはずがないことを。血と、息と、体温だけでできた、こんなに脆いものが。最初から、二人とも、知っていた。
二人は、窓の外を、見つめた。
沈みゆく、夕陽。
短かった、幸福。
束の間の、安息。
それらが、今、静かに、終わろうとしていた。
夜の帳が、降りはじめる。
遠くで、犬が、一声、吠えた。
山風が、破れた襖を、かたかたと揺らした。
そして、運命は、再び、二人へ向かって、ゆっくりと、歩きはじめていた。
終章 夜啼き鳥の果て
その夜、山には、雨が降っていた。
冷たい雨だった。
春が近いとはいえ、標高の高い山林を抜ける風は、まだ凍てつくように冷たく、雨は、肌を刺すように、落ちてきた。
亜子は、その雨に、遠い記憶を見た。東京へ向かう新幹線の窓を、無数の雨粒が流れていった、あの十一月の終わりの夜を。
すべては、冷たい雨から、始まった。
そして今、すべてが、冷たい雨の中で、終わろうとしていた。
旅館を出た二人は、人気のない林道を、歩いていた。
懐中電灯の、頼りない光だけが、泥濘と化した道を、白く、不気味に、浮かび上がらせている。誰も、口を開かなかった。何を語っても、歪んでしまった過去を、修復することはできない。近づいてくる、凄惨な未来を、変えることもできない。二人とも、それを、知っていたからだった。
背後の闇からは、確実に、足音が、迫っていた。
あの夜、男を手にかけた蓮を追う、警察。そして、自らの「商品」を回収し、口を封じようと、執念深く追ってくる、黒崎の、長い影。東京から、糸のように伸びてきたその触手が、ついに、この漆黒の山奥にまで、追いついてきたのだ。
後ろを見ない――それだけを掟にして、逃げてきた。だが、その後ろが、とうとう、二人のすぐ背中まで、迫っていた。
「……寒いか」
不意に、蓮が足を止め、掠れた声で言った。
亜子は、声を出せず、ただ、小さく、顎を引いた。歯の根が、合わなかった。
蓮は、泥に汚れた自分の上着を脱ぐと、亜子の細い肩へ、無理やり、掛けた。その下から覗く蓮の身体は、骨と皮ばかりに、痩せこけていた。
「いいよ」
「着てろ」
それ以上は、言わなかった。
上着には、まだ、蓮の体温が、残っていた。雨に冷えていく肩に、その熱が、じんわりと、染みた。亜子は、その温もりに、泣きそうになった。彼は、最後の最後まで、自分の熱を、こちらへ、分け与えようとしている。
二人は、手を固く繋ぎ直して、再び、歩き出した。
夜明け前、二人は、鬱蒼とした木々の間に佇む、朽ち果てた山小屋に、辿り着いた。
かつて、林業の作業員が使っていたのだろう。何十年も放置されたその廃屋は、窓ガラスがすべて叩き割られ、床板は湿気でぶよぶよに腐り、カビと、獣の臭いが、充満していた。
それでも、雨風を遮る壁があるだけで、限界を迎えていた二人の身体には、十分すぎる――墓標だった。
蓮は、割れた窓際に、腰を下ろした。亜子も、その隣へ、身を寄せる。
外では、雨が、降り続いている。屋根を打つ音だけが、闇を、満たしていた。
しばらく、沈黙が、続いた。
やがて、亜子が、ぽつりと、呟いた。
「ねえ」
「ん?」
「私たち……どこで、間違えたんだろうね。あの、新幹線に乗った日? それとも――あの海で、出会った日?」
蓮は、答えなかった。
答えられ、なかった。
二人とも、何度も、何度も、考えたことだった。東京へ、行かなければよかったのか。夢を、追わなければよかったのか。いっそ、最初から、出会わなければよかったのか。
だが、どれも、違う気がした。どこから狂ったのか、どうしても、分からなかった。一つひとつの選択は、その時、間違っていなかった。希望が、あった。光が、あった。それなのに、気づいた時には、もう、引き返せない場所まで、来てしまっていた。
亜子は、膝を抱えた。
そして、ふと、小さな声で、歌いはじめた。
歌詞のない、ただの旋律だった。父の形見のギターは、もう、ない。東京に、置いてきてしまった。伴奏も、ない。聴いてくれる客も、いない。ただ、雨の音に混じって、消えそうな声が、廃屋の暗がりに、ひそやかに、響いた。
それは、誰のための歌でも、なかった。あの、東京で売れに売れた歌でも、なかった。
ただ、亜子が、本当に歌いたかった、歌だった。
蓮は、目を閉じて、それを聴いていた。たった一人の、最初で最後の、聴衆として。雨の中に、亜子の声が、ほどけていく。
夜が、明けはじめた。
割れた窓の向こうの空が、わずかに、白んでくる。
その時だった。
山の下方から、雨音を切り裂くようにして、サイレンが、聞こえてきた。赤と青の冷たい光が、遠くの木々の隙間を、せわしなく、明滅させている。
そして、それに重なるように――山の向こうで、汽笛が、長く、鳴った。
あの夜、二人を、東京へ運んでいった、列車と同じ音だった。すべての始まりの音が、すべての終わりに、もう一度、鳴っていた。
蓮が、静かに、目を閉じた。
亜子も、聞いていた。
ついに、来たのだ。
終わりが。
「……ごめんな、亜子」
蓮が、乾いた手で、亜子の頬を撫でた。
「お前を、歌手にしてやるとか、偉そうなこと言って。結局、お前の人生を、全部めちゃくちゃにして、こんな場所まで、連れてきて」
亜子は、激しく、首を振った。涙が、蓮の汚れた指を、濡らしていく。
「謝らないで。……私、幸せだったよ。ちゃんと」
亜子は、微笑んだ。涙で濡れた顔だった。けれど、その笑みに、嘘は、なかった。
「東京で、みんなが嘘をついて、私を、ただの道具みたいに見てた時。蓮だけは……私の、本当の声を、聴いてくれた。蓮の絵の中で、私は、確かに、生きてた。だから、後悔なんて、してない」
蓮の口元が、わずかに、ほどけた。
上京して以来、初めて見せる、穏やかな笑顔だった。何の影もない、故郷の海にいた頃の、あの笑顔だった。
外で、凄まじい怒号が、響いた。
「中にいるのは、分かっている! 武器を捨てて、出てきなさい!」
無線のノイズ。幾重にも重なる、重い足音。獰猛な、警察犬の吠え声。山小屋は、完全に、包囲されていた。
だが、二人は、立ち上がろうとは、しなかった。
逃げる力も、再びあの街へ連れ戻される意志も、もう、一滴も、残っていなかった。二人は、ただ、互いの身体を、限界まで強く抱きしめ、骨が軋むほどの力で、手を、握り合った。
――誰にも、渡さない。
私たちの、命も。孤独も。愛も。この破滅さえも。すべて、私たちの、ものだ。
蓮が、亜子の耳元で、静かに、言った。
「覚えてるか」
「何を?」
「東京へ、行く、あの列車」
亜子は、微笑んだ。忘れるはずが、なかった。
あの、冷たい雨の日。ポケットの中で震えた、携帯電話。たった一行の、『君の声、聞こえている』という、メッセージ。隣の車両に、彼がいるというだけで、すべての不安が、和らいだ、あの夜。
すべては、そこから、始まった。
逃げる間、決して後ろを振り返らなかった二人が――今、初めて、いちばん遠い場所を、振り返っていた。もう、前に進む道が、なかったからだった。
「覚えてる」
「『君の声、聞こえている』……あれ、本当だったよ」
蓮は、笑った。
「今も。お前の声だけが、聞こえる」
その、瞬間。
山小屋の外で、激しい物音が、響いた。
長年の風雪と、この数日の豪雨に、芯まで腐っていた、古い建物が、大きく、揺れる。太い梁が、悲鳴のような軋みを、上げた。
そして――。
轟音。
天井が、崩れた。
腐食した屋根と、太い梁が、大量の土砂を巻き込みながら、一気に、二人の真上へ、崩落してくる。
外の人々の、叫び声。
舞い上がる、土煙。
降り注ぐ、木材。
すべてが、一瞬の、出来事だった。
視界が、真っ黒に、染まる、その一瞬――亜子が、最後に感じていたのは、握りしめた、蓮の手の、圧倒的な、熱さだけだった。
すべては、ひとつの静寂の中に、消えた。
数日後、救助隊が、瓦礫を撤去した時。
二人は、崩れ落ちた巨大な梁の、奥で、発見された。
まるで、あらかじめ、ひとつの生き物であったかのように、互いの身体を、強く、抱きしめ合ったまま。最後まで、互いの手を、固く、握り合ったまま。
その手は、もう、冷たかった。けれど、二つの手は、どんなに引いても、ほどけなかったという。
そして、二人の表情は――圧死という、凄惨な死に方であるはずなのに、不思議なほど、穏やかだったという。まるで、長い長い悪夢から、ようやく、解放されたかのように。
二人の身体の下からは、泥にまみれた、一冊のスケッチブックが、見つかった。
内側を、ぽっかりと喰い抜かれた、一人の少女の絵。その隣に、掠れた文字で、こう、書き残されていた。
――東京。もう、何も、喰わせない。
ニュースは、ミリオンセラー歌手・純の、ゴーストライターを巡るスキャンダルと、高架下の事件の容疑者の「心中」として、数日だけ、世間を騒がせた。
だが、それだけ、だった。
やがて、世間は、忘れた。
純の『怨歌』は、その後も、さらに売れた。純は、テレビで、「悲劇を乗り越えて歌う歌姫」として、新たなプロモーションの道具に、された。黒崎は、何事もなかったように、また別の、若い才能を、囲い込みはじめた。
東京は、何一つ、変わらずに、動き続けた。
誰も、立ち止まらない。
誰も、振り返らない。
それが、東京という、街だった。人の夢を喰らって、その骨さえ、すぐに忘れてしまう街だった。若者の死など、その巨大な胃袋にとっては、毎夜、吐き出される、ゴミの一つに過ぎなかった。
一年後。
北国の、寂れた、港町。
亜子と蓮の、故郷。
春の海を見下ろす、風の強い丘の上に、誰が建てたとも知れない、小さな石碑が、ひっそりと、佇んでいた。
二人の、本名だけが、並んで、刻まれている。
派手な言葉は、何もない。
アーティストとしての名も。夢も。愛も。彼らが、あの街で味わった、地獄のような苦しみも。何一つ、語られていない。
ただ、二人の名前だけが、寄り添うように、並んでいた。
夕方になると、その石碑のそばに、一人の、年老いた女が、立つことがあった。
亜子の、母だった。
何も言わず、ただ、娘の名と、海とを、交互に、見ていた。やがて、潮風に背を押されるように、ゆっくりと、坂を、下りていく。
その海から、風が、吹く。
その風に混じって、ときおり、鳥の鳴き声が、聞こえた。
傷ついた喉を、無理やり震わせて歌うような、寂しげな、声だった。
まるで、夜啼き鳥の、ように。
誰にも、届かなかった、歌。
誰にも、理解されなかった、絵。
そして、この世界で、何一つ救われないことでしか、その純粋さを証明できなかった、最悪の、恋。
海風だけが、その物語を、知っていた。
波は、今日も、岸を、打ち続ける。
何事も、なかったように。
石碑に刻まれた名前を、少しずつ削り、二人が、この世に、確かに生きていたという証さえも、白い泡とともに、静かに、洗い流していくように。
それが――この恋の、終わりだった。
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