MENU

エピソード1『マドンナの帳簿』由紀子

プロローグ

 由紀子は高校時代の眩しさを私に見せていた。いまだに張りのある肉体とピンクの乳首。由紀子のすべてが私の手の中にあった。
 私は、田中義男。 65歳です。今となっては、ただのうらぶれた老人ですが、かつては都市銀行の支店長という肩書きを背負って生きていました。
 あの日のことは、今でも鮮明に思い出せます。定年退職後に訪れた、底なしの退屈と焦燥感。そんな中参加した高校の同窓会が、すべての終わりの始まりだったのです。
 会場の喧騒の中で、かつてのマドンナだった由紀子さんが、私に近寄ってきました。歳を重ねても変わらぬ、しっとりとした魅力。彼女は私を見つめ、潤んだ瞳でこう言ったのです。
「さすが、元支店長。やっぱり田中さんは、頼りがいがあるわね」
 その一言は、現役を退いて以来、乾ききっていた私の自尊心に、甘い毒のように染み渡りました。忘れかけていた現役時代の万能感、決済印を押す時のあの高揚感が、身体の芯から蘇ってきたのです。
 それから彼女と個人的に会うようになるまで、時間はかかりませんでした。「遺族年金だけでは生活が苦しいの」「急な出費があって、今月だけ……」彼女の儚げな溜息を聞くたびに、私は「頼りがいのある男」を演じ続けました。
 最初は数十万。次は百万。 銀行員として長年守り続けてきた金銭感覚は麻痺し、妻との老後のためにと蓄えていた退職金から、現金の封筒を渡す回数が増えていきました。
そしてある夜、ついに私たちは一線を越えてしまいました。 その時、私は自分が第二の青春を謳歌していると錯覚してしまったのです。
今にして思えば、あれは転落という名の蟻地獄へ、自ら足を踏み入れた瞬間だったのです。


ーーーーー
 都心ホテルの宴会場、重厚なシャンデリアの光が、田中義男の新調したチャコールグレーのスーツを鈍く照らしていた。 イタリア製の生地は、今の彼の身分——無職という空虚な肩書き——を隠すための、唯一の武装だった。
「おお、田中。お前、相変わらずいいスーツ着てるな」
声をかけてきたのは、隣のクラスだった佐藤だ。中堅商社を定年まで勤め上げた男の顔には、すでに隠しきれない「隠居」ののんびりとした空気が漂っている。
「いや、まあな。支店長時代からの行きつけで仕立てたやつが、まだ着られただけだよ」
義男はグラスを揺らし、余裕のある笑みを浮かべた。本当は、この日のために退職金から十数万円を叩いて新調したものだが、そんなことはおくびにも出さない。
「さすがだな。俺なんかもう、孫の送り迎えでジャージが正装だよ。お前、今は何してるんだ? どこかの顧問か?」
「……まあ、いくつか声をかけてもらっているところだが、少しゆっくりしようと思ってね。現役時代は、四六時中、融資判断と数字の責任に追われていたから」
嘘ではなかった。声はかかっている——が、どれも現役時代のような「支店長」としての敬意はなく、ただの「頭数」としての警備や清掃の仕事ばかりだ。義男はそれを、自分にふさわしくないものとして切り捨ててきた。
 周囲では、病気自慢や、定年後のボランティア活動、あるいは年金の少なさへの愚痴といった、小市民的な会話が飛び交っている。 (俺は、こいつらとは違う) そう自分に言い聞かせ、義男が乾いた喉をシャンパンで潤そうとした時だった。
「……あの、田中さん? 田中義男さんですよね」
 背後から、柔らかく、それでいて凛とした声が届いた。 振り向いた義男の目に飛び込んできたのは、控えめな紺のドレスに、パールのネックレスを合わせた女性だった。 目尻の皺さえも優雅な陰影に見えるその面差しには、かつて高校の校舎で「マドンナ」と呼ばれた由紀子の面影が色濃く残っている。
「……由紀子、さんか」
「まあ、覚えていてくださったのね。嬉しい」
彼女は少しはにかむように微笑み、義男の近くへ一歩歩み寄った。ふわりと、石鹸に近い清潔感のある香りが鼻先をかすめる。
「卒業以来ね。でも、すぐに分かったわ。遠くから見ても、お一人だけ立ち居振る舞いが違うんですもの。あ、そうだ。今はもう『支店長様』とお呼びしたほうがいいのかしら?」
「よしてくれ。もう引退した身だよ」
「いいえ。肩書きがなくても、にじみ出るものってあるわ。……なんて言うのかしら、組織のトップを張ってきた人にしか出せない、その……独特の安心感というか。そう、凄く『頼りがい』を感じるわ」
由紀子は潤んだ瞳でじっと義男を見つめた。 その眼差しは、部下たちの突き刺すような視線や、妻の冷めた無関心とは正反対の、純粋な憧憬を湛えているように見えた。
義男の背筋が、現役時代に大きな融資案件を成し遂げた時のような緊張感とともに、ピンと伸びた。
「……困ったことがあれば、いつでも言ってくれ。これでも長年、数多の企業の命運を預かってきたんだ。相談に乗るくらい、元支店長としてお安い御用だよ」
義男は、自分が罠に足を踏み入れたことにも気づかず、最高に「頼りがいのある男」の顔を作って見せた。
同窓会から三日後の午後。義男が指定したのは、現役時代に重要な取引先と何度も使った、シティホテルの最上階にあるティーラウンジだった。
落ち着いたジャズが流れ、厚手のカーペットが足音を消す。義男は約束の十五分前には到着し、窓際の席を確保していた。テーブルの上には、使い込まれた革のシステム手帳と、モンブランの万年筆が整然と置かれている。
「お待たせして申し訳ありません、田中さん」
声がして顔を上げると、由紀子が申し訳なさそうに、しかし優雅な足取りで近づいてきた。昼の光の下で見る彼女は、夜の宴会場よりも少し疲れているように見えたが、それがかえって彼女の「未亡人」という境遇を際立たせ、義男の保護欲をそそった。
「いいんだ、由紀子さん。私も今着いたところだよ」
義男は重厚な椅子をさりげなく引き、彼女をエスコートした。ウェイターにコーヒーを注文すると、彼はあえて「元支店長」としての事務的なトーンで切り出した。
「それで、話というのは? 手紙には『誰にも相談できない資産の悩み』とあったけれど」
由紀子は視線を落とし、細い指先でカップの縁をなぞった。
「……お恥ずかしい話なのですが。主人が亡くなってから、あちこちから督促が来るようになったんです。私は家計のことはすべて彼に任せていたものですから、何が正しくて、何がそうでないのかさえ分からなくて……」
彼女がバッグから取り出したのは、数枚の公的な通知書と、走り書きのような督促状だった。 義男は眼鏡をかけ、それを一枚ずつ丁寧に、査定を行うような鋭い目つきで検分した。
「なるほど。これは悪質な追い貸しの類も混じっているな。遺族年金だけでこれをやりくりするのは、確かに無理がある」
「私、怖くて……。夜も眠れないんです。田中さんのような、お金のプロの方にそう言っていただけると、自分がどれほど危機的な状況にいるのか、ようやく実感が湧いてきました」
由紀子は潤んだ瞳を上げ、すがるように義男を見つめた。
「身内に相談できる方はいないのかい?」
「息子がおりますが、あの子も自分の生活で手一杯で……。それに、母親がこんな情けない借金を抱えているなんて、知られたくないんです。同窓会で田中さんのお顔を見たとき、ああ、この方ならきっと私のプライドを守りながら、救い出してくれる……そう直感したんです」
「プライド、か」
義男はその言葉を噛みしめた。自分もまた、定年という波にさらわれ、プライドという名の砂城を必死に守り続けている身だ。由紀子の言葉は、彼の心の最も深い部分に共鳴した。
「分かった。これは私が預かろう。まずは債権の整理が必要だ。由紀子さん、君はもう心配しなくていい。銀行員としての私のキャリアにかけて、悪いようにはしない」
「田中さん……ありがとうございます。本当に、頼もしい……」
由紀子がテーブル越しにそっと手を伸ばし、義男の手の甲に触れた。ひんやりとした、しかし柔らかな感触。 義男は、彼女の手を握り返したい衝動を抑え、代わりに力強く頷いた。
「とりあえず、当座の返済に困っている分があるんだろう? いくら必要なんだ」
「そんな、お金の話を伺うつもりでは……」
「いいんだ。これは『融資』ではなく、私の『誠意』だと思ってくれ」
義男は、かつて数億円の融資案件を独断で決裁したときのような、全能感に近い昂ぶりを感じていた。それが、自分の老後を支える大切な「自己資本」を切り崩す行為であることに、この時の彼はまだ、何の恐怖も感じていなかった。
それからひと月後。
箱根の高級老舗旅館に二人はいた。一泊十五万円という宿泊代は、現役時代ならいざ知らず、今の義男には分不相応な贅沢だった。
しかし、由紀子の「最後に一度だけ、静かな場所であなたとゆっくり過ごしたい」という言葉が、彼の理性を吹き飛ばしていた。
夕食の後、月明かりが差し込むテラス。 由紀子は、旅館の浴衣を少し崩して着こなし、義男の肩にそっと頭を預けてきた。
「ねえ、義男さん。覚えている? 高校の図書室で、あなたがいつも難しい経済の本を読んでいたこと」
「……そんなところを見ていたのか」
「ええ。背筋をピンと伸ばして、誰よりも大人びて見えた。私、本当はあの頃から、あなたに憧れていたのよ。でも、あなたは雲の上の人のようで、声もかけられなかった」
由紀子の吐息が、耳元をくすぐる。 彼女の指先が、義男の節くれだった手に絡みついた。その指には、先ほど彼が都内の宝飾店で買い与えた、数十万円のダイヤの指輪が輝いている。
「由紀子さん、私はもう、あの頃のような若さも、力もない男だよ」
「いいえ。今のあなたには、時間を積み重ねた人にしか出せない『厚み』があるわ。……退職して、みんな牙を抜かれたおじいさんになっていくけれど、あなたは違う。私を守ってくれる、現役の、素敵なしがみつきたい男性だわ」
由紀子はそう言って、義男の胸に顔を埋めた。 義男は彼女の細い肩を抱き寄せた。その時感じたのは、かつて大口融資を成功させた時よりも深い、震えるような生の充足感だった。 妻との何十年もの生活では一度も味わえなかった、一人の「男」として全存在を肯定される快感。
「よしお君……」
由紀子がふいに、下の名前に「君」をつけて呼んだ。高校時代の放課後に引き戻されたような、甘酸っぱく、暴力的なまでの陶酔に酔った。
義男はその夜、自分が銀行員であることを忘れた。ただ、彼女を救う騎士(ナイト)でありたいと、そのためなら地獄へでも行けると、本気で信じてしまったのだ。
転落の序曲:承認欲求という名の麻薬
最初の五十万円は「支援」だった。二度目の八十万円は「投資」だと自分に言い聞かせた。しかし、三度目の一百万円を超えたとき、義男の中でその境界線は消滅した。
スマートフォンでネットバンキングの画面を開き、暗証番号を入力する。かつて数億円の融資に決裁印を押した時と同じ、指先に宿る重み。振込ボタンをタップする瞬間だけ、義男は自分が「現役の、力を持った支店長」に戻ったような錯覚に陥るのだ。
「義男さん、本当にごめんなさい。でも、あなたがいなかったら私……」
画面越しに届く由紀子のメッセージが、義男の乾いた心に火を灯す。その感謝に応えるために、彼は嘘の城を築き始めた。
偽りの「特別顧問」
夕食の席、妻の静子が怪訝そうに尋ねた。 「お父さん、最近お出かけが多いわね。何かお仕事でも?」
義男は新聞から目を上げず、わざと重々しく答えた。 「ああ。現役時代のツテでな。ある中堅企業の経営再建について、極秘でアドバイスを求められているんだ。守秘義務があるから詳しくは言えんが、私の知見が必要らしい」
口から出た嘘は、驚くほど滑らかだった。自分でもその設定を信じ込むために、彼はわざわざ都心のシェアオフィスを一日単位で借り、そこを「事務所」と称して通い始めた。そこですることは、由紀子からの連絡を待ち、資産残高を計算し、足りない分をどの口座から移すかという「裏の資金繰り」だけだった。
かつての部下からゴルフに誘われた際も、義男は引け目を感じるどころか、さらに傲慢に振る舞った。 「最近の銀行は、守りに入りすぎている。私は今、もっとダイナミックな資金の流れの中にいるよ」 高級なゴルフウェアを新調し、後輩たちに高価な食事を奢る。由紀子に渡す金とは別に、「支店長であり続けるための維持費」が、退職金をさらに激しく削り取っていく。
しかし、深夜、一人で自宅の書斎にこもるとき、義男の心には猛烈な葛藤が渦巻いた。
(何をやっているんだ、俺は。これはただの散財じゃないか。彼女の言い分に裏付けはあるのか? なぜ証憑(しょうひょう)を確認しない?)
銀行員としての本能が、真っ赤な警告灯を点滅させている。だが、次の瞬間には別の声がそれを塗りつぶす。
(いや、これは彼女との未来への融資だ。彼女を救えるのは俺しかいない。ここで手を引けば、俺はただの「騙された老人」に成り下がる。それだけは、死んでも認められない)
最後の防衛線の突破
由紀子の要求は、次第に「生活費」から「事業資金」へとエスカレートしていった。 「知人がやっている輸入ビジネスの権利を買い取れば、これまでの借金を一気に返せるんです。あと三百万あれば……」
三百万。それは、義男が「これだけは手をつけない」と決めていた、妻との老後を支える定期預金の額だった。 銀行員として最も忌むべき「禁じ手」だ。しかし、今の義男にとって、由紀子に「金が用意できない」と告げることは、自分の人生の完全な敗北を意味していた。
「……分かった。明日、用意しよう」
受話器を置いた義男の手は、ひどく震えていた。 窓ガラスに映る自分の顔は、かつての自信に満ちた支店長ではなく、ただ欲望と恐怖に追い詰められた、見知らぬ老人の顔だった。
土曜日の夜、義男はリビングで、いつものように「顧問先へのレポート」と称した架空の書類を広げていた。背後で妻の静子が針仕事をしていたが、その静寂を切り裂くように、激しいチャイムの音が鳴り響いた。
玄関から入ってきたのは、長男の健一だった。都内のメガバンクで法人営業を担当している彼は、コートも脱がずにリビングへ踏み込んできた。その手には、茶封筒が握られている。
「……健一か。連絡もなしに、どうしたんだ。仕事の話なら書斎でするが」
義男は努めて冷静に、かつての部下に接するような尊大な態度で言った。だが、健一の目はかつてないほど冷ややかだった。
「仕事の話をしに来たんだよ、元支店長の田中義男さん。……母さん、ちょっと席を外してくれないか」
「いいえ、私はここにいます」
静子は針を置き、義男の隣に座った。その表情からは感情が消えていた。健一は深くため息をつき、茶封筒から数枚のA4用紙を取り出して、テーブルに叩きつけた。
「父さん、これ何だ。……おたくのメインバンクの同期から、内々に連絡があったんだ。『お父様の口座、少し動きがおかしいですよ』ってな」
テーブルに散らばったのは、義男が必死に隠し続けてきた口座の取引明細だった。由紀子への振込履歴が、赤いマーカーで無数に縁取られている。
「……何をする! 私個人の口座を勝手に調べるなど、現役行員としてあるまじき越権行為だぞ!」
義男は立ち上がり、怒鳴りつけた。だが、健一は動じない。
「越権行為? 冗談じゃない。反社会勢力や特殊詐欺の疑いがある口座への不自然な送金は、今の銀行じゃ即座にアラートが鳴る仕組みなんだよ。父さんがいた時代とは違うんだ。……この『サトウ ユキコ』って誰だ。数ヶ月で総額二千万。最後の一千万は、母さんの老後資金の定期を解約して、一昨日振り込んでるな」
二千万という数字がリビングに響いた瞬間、静子の肩が小さく震えた。
「これは、投資だ! 私が信頼できるパートナーと進めている事業資金だ。元支店長の私が、案件の妥当性を判断して……」
「判断? 本気で言ってるのか?」
健一が父の言葉を遮った。その声には、怒りよりも深い蔑みが混じっていた。
「この振込先の口座、昨日付で凍結されてるんだよ。警察からの要請でな。典型的な『ロマンス詐欺』と『未公開株詐欺』のコンボだ。父さんが『事業』だと思って貢いでいた金は、今ごろ海外の口座に飛ばされて、回収不能(デフォルト)だよ」
「バカな……。彼女が、由紀子さんがそんなことを……。彼女は私を、誰よりも頼りにしているんだぞ!」
義男の声が裏返った。認めれば、自分の人生がすべて否定される。由紀子からの「頼りがいがある」という言葉だけが、今の彼を支える唯一の杖だった。
「頼りにしている? ……当たり前だろ、これほど最高なカモはいないんだから。元銀行員で、見栄っ張りで、定年後の孤独をこじらせていて、自分だけは騙されないと過信している。詐欺師から見れば、父さんは『査定外』の最低な顧客だよ」
「健一、言い過ぎよ」
静子が静かに言った。しかし、彼女が夫に向ける視線には、一滴の同情もなかった。
「お父さん。私、気づいていたわよ。由紀子さんっていうのは、あの同窓会の時の人でしょう? ……あなたが夜中にスマホを見ながらニヤついているのも、事務所だと言って出かける先がただのカフェなのも、全部知っていたわ。でも、どこかで信じたかった。あなたには、銀行員としての矜持があるはずだって」
「……静子」
「もう終わりよ、義男さん。これ、置いておきます」
静子が手元の籠から取り出したのは、既に署名捺印が済んだ離婚届だった。
義男は、目の前が真っ暗になるのを感じた。テーブルの上の明細書が、まるで自分がかつて乱発した不良債権の山のように見えた。 「頼りがいがある」という言葉を糧に築き上げた砂の楼閣が、息子の冷徹な事実(エビデンス)によって、音を立てて崩れ去っていく。
窓の外では、容赦ない雨が降り始めていた。
息子と妻が去った静まり返った家を、義男は逃げるように飛び出した。 叩きつけるような雨が、新調したばかりのチャコールグレーのスーツを容赦なく濡らし、重く肌にまとわりつく。タクシーを拾う気力もなく、彼は記憶の中にある由紀子のマンションへと急いだ。
「そんなはずはない。健一の勘違いだ。彼女は、あんなに震える手で私の手を握ったじゃないか……」
たどり着いたのは、世田谷の閑静な住宅街にあるはずの低層マンションだった。由紀子が「亡き夫との思い出が詰まった、大切に守っている部屋」だと語っていた場所だ。
だが、エントランスのインターホン越しに見た彼女の部屋番号の横には、名前がなかった。プラスチックのプレートは引き抜かれ、ただ白い跡が虚しく残っているだけだ。
義男は震える指でオートロックを無視し、住人の後について中へ滑り込んだ。エレベーターを降り、彼女の部屋の前に立つ。 そこには、三日前の密やかな逢瀬の余韻など微塵もなかった。
ドアノブには不動産会社の管理用キーボックスがぶら下がり、隙間からは微かに、ハウスクリーニングの薬剤のような無機質な匂いが漂ってくる。郵便受けには、宛名のないチラシが無造作に突き刺さっていた。
「……由紀子さん、開けてくれ。由紀子さん!」
返事はない。義男は縋るように、内ポケットからスマートフォンを取り出した。 発信履歴の最上部にある彼女の名前をタップする。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
無機質な女性のガイダンスが耳元で繰り返される。義男は取り憑かれたように、何度も、何度もリダイヤルを繰り返した。
「嘘だ。間違いだ。番号を打ち間違えただけだ……」
十回目、二十回目。 指が雨と冷えで動かなくなるまで繰り返したところで、義男の視界に、ドアの隅に貼られた一枚の小さなシールが飛び込んできた。 「入居者募集」 そこには、数週間前からこの部屋が空室であったことを示す日付が記されていた。
その瞬間、義男の膝から力が抜けた。 冷たいコンクリートの廊下に崩れ落ち、濡れたスーツの袖が泥で汚れるのも構わず、彼はその場に蹲った。
(ああ、そうか……。最初から、何もかもが「査定」済みだったんだ)
彼女が言った「頼りがいがある」という言葉。 それは、彼が歩んできた誇り高いキャリアへの賞賛ではなく、「一度おだてれば、いくらでも金を出す、自己愛の強い老人」という獲物への、値札に過ぎなかったのだ。
銀行員として、何千人もの人間の誠実さを数字で推し量ってきた自分が、最も浅薄な、形だけの色香に惑わされ、最愛の家族との「共有財産」をドブに捨てた。 回収不能なのは、金だけではない。失った信頼も、妻との歳月も、息子からの尊敬も、そして自分が何より固執していた「支店長」としてのプライドも、一滴残らずこの雨の中に溶けて消えてしまった。
「……あ、……ぁぁ……」
声にならない慟哭が、夜の廊下に漏れる。 暗い画面のまま、二度と鳴ることのないスマートフォンが、義男の震える手から滑り落ちた。 画面に走った亀裂は、今の彼の人生そのものだった。
都心の空を照らすシャンデリアの光も、万年筆の重みも、もうどこにもない。 ただ、冷たい雨の音だけが、すべてを失った老人の耳に、絶望のノイズとして鳴り響き続けていた。
崩れ落ちた廊下から、義男はどうにか這い上がるようにして立ち上がった。 足元には、画面が割れ、息絶えたスマートフォンの残骸が転がっている。彼はそれを拾い上げることもしなかった。もはや、外界と自分を繋ぐ糸はすべて断ち切られたのだ。
雨の夜の街へと、ふらふらと歩き出す。
視界を遮る雨粒の向こうに、幻影のように由紀子の姿が浮かび上がる。 あのティーラウンジで、恥じらうように指先でカップをなぞっていた彼女。 「田中さんだけが、私のヒーローなんです」 甘く、耳元で囁かれたあの声。
たとえそれが、精巧に仕組まれた台詞だったとしても、あの瞬間に義男が感じた「生」の実感だけは本物だった。支店長という鎧を脱ぎ捨て、一人の男として求められているという熱。その熱が、彼をここまで狂わせ、そして焼き尽くした。
「……由紀子さん」
独り言が、吐息となって消える。 彼女と歩いた並木道、一度だけ入った小さなイタリアン、車の中で交わした指先の触れ合い。 一つひとつの記憶が、雨に洗われるたびに鮮やかさを増し、今の惨めな自分を嘲笑う。
気づけば、彼はネオンが滲む大通りを歩いていた。 帰るべき家には、もう自分の居場所はない。静子が署名した離婚届が、あの冷え切った食卓で待っている。 行くべき会社も、呼び出してくれる部下も、守るべき資産も、すべては指の間から砂のように零れ落ちた。
信号が赤になろうと、水溜りが靴を汚そうと、義男は止まらない。 かつて「支店長」として、常に目的地と最短ルートを計算して生きてきた男が、生まれて初めて「行き先のない歩行」を続けている。
雨に濡れたチャコールグレーのスーツは、今や泥水を吸って鉛のように重い。 それは、彼が守り抜こうとした「プライド」という名の重石そのものだった。
街灯の光が、濡れたアスファルトに歪んだプリズムを描き出す。 その光の渦の中へ、義男の影はゆっくりと、力なく溶け込んでいく。
由紀子とのあの甘美な夜の思い出が陽炎のように脳裏をよぎる。
……不意に、大型トラックが跳ね上げた泥水が義男の顔を叩き、回想は無残に引き裂かれた。
「よしお、君……」
震える唇でその名をなぞってみるが、返ってくるのは冷たい雨音だけだ。 あの夜、彼女が流した涙の温かさも、指輪を贈った時の輝くような笑顔も、すべては自分の退職金を、家族の未来を、効率よく刈り取るための「演出」に過ぎなかった。
それでも、義男の足は止まらない。 ふらふらと歩く視線の先には、街灯の光に照らされた水溜りが広がっている。 その歪んだ水面に映る自分は、もはや支店長でも、由紀子のヒーローでもない。ただの、雨に濡れた哀れな老いぼれだ。
「どこへ……どこへ行けばいいんだ」
独り言は風にさらわれ、誰の耳にも届かない。 目的地を失った元支店長の足取りは、ただ夜の闇へと、深く、深く、沈み込んでいった。
どこへ行くのか。 どこへ行けるのか。 その問いに答える声は、もう、どこからも聞こえてこなかった。
(終)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする