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チャイナ人形の夢 ~石黒 ケイ~

目次

不思議なチャイナ・マーブル

【メインキャスト】
レイ(20代後半): 主人公。都会の片隅で古い雑貨店を営む。突然姿を消した恋人を探している女性。
蓮(レン / 20代後半): レイの恋人の男性。ある日、「しばらく帰らない」とだけ書き残して旅立ってしまった。
クーニャン: 蓮が残していったチャイナ人形。物語のキーパーソン(あるいは狂言回し)。

第一章 届いたエアメイルと小さな髪切れ

 春も終わりに近づいた、ある穏やかな昼下がりだった。
 街の喧騒から少し外れた古い商店街の路地裏に、ひっそりと佇む小さな店がある。 店の名前は「月灯り雑貨店」。 木製の古い扉を開ければ、世界中から集められた風変わりな小物が、ひしめき合うように並んでいる。窓から差し込む柔らかな初夏の陽射しが、棚のガラス細工や色褪せた陶器を静かに照らし、空気中に舞う小さな埃さえも黄金色の星のように輝かせていた。
 店内に流れているのは、ネジの緩みかけた古いオルゴールが奏でる、どこか物悲しい優しい音色。 店主のレイは、窓辺に置かれたアイビーの鉢植えに水をやりながら、いつものように静かな時間を過ごしていた。じょうろから滴る水の音だけが、オルゴールの旋律に重なる。
 けれど、その穏やかな佇まいの奥には、誰にも見せない寂しさが深い澱(おり)のようにずっと沈んでいた。
 一年前、恋人だった蓮(れん)は、ある日突然、何も言わずにこの街から姿を消した。 理由も、行く先も、詳しくは語らなかった。ただ一つ、彼がいつも使っていた作業机の上に、一枚の小さな紙切れだけを残していた。
 ――しばらく帰らない。
 万年筆の青黒いインクで書かれた、たったそれだけの言葉。 余白だらけのその紙切れを、レイは心の中で「小さな髪切れ」と呼んでいた。まるで、未練を断ち切るために無造作に切り落とされ、床に落ちた一房の髪の毛のように、冷たく、短く、命の通わない言葉だったからだ。
 何度読み返しても、文字の行間から新しい意味が見つかるわけではない。 けれど捨てることもできず、今も彼女の私物の引き出しの奥、一番大切な小箱の中にしまってある。それを開けるたびに、一年前のあの日から自分の時間だけが止まってしまったかのような錯覚に陥るのだった。
 カラン――。
 静寂を破り、店のドアベルが涼やかな音を立てた。 入ってきたのは、見慣れた制服を着た郵便配達員だった。彼は額の汗を拭いながら、一枚の封筒を差し出す。
 「レイさん、こんにちは。……ちょっと珍しい国からの、お手紙ですよ」
「あ……ありがとうございます」
 受け取った瞬間、レイの心臓がドクンと大きく跳ねた。 手の中に収まったその封筒は、日本のものより少しざらついた手触りの紙だった。右上に貼られた見慣れない極彩色の切手、不慣れな手つきで書かれた異国の消印。そして、封筒の端をぐるりと彩る青と赤の斜線の縁取り。 まぎれもない、エアメイルだった。
 配達員が去った後も、レイの指先はわずかに震えていた。 裏返して、差出人欄に書かれたアルファベットの名前を見た瞬間、本当に息が止まった。
 Ren
 間違いない。 一年間、音信不通だった蓮からの手紙だった。 「あ……」
 店を閉める時間まで待つことなんて、到底できなかった。 レイは店のとばりを半分下ろし、震える足で奥の椅子に腰掛けた。ペーパーナイフを持つ手もうまく定まらず、慎重に、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように封を切った。
 中から現れたのは、薄い便箋が一枚。 そして、一枚の正方形の写真。
 便箋には、彼の筆跡特有の、少し右上がりの短い文章が並んでいた。
『元気にしていますか。 僕はまだ旅の途中です。 きっと君なら、この景色を好きになると思った。 またいつか。 蓮』
 それだけだった。 どこを探しても、返信のための住所はない。消印の文字は潰れていて国名さえ読めない。自分が今、世界のどこの座標に立っているのかも書かれていなかった。 まるで、気まぐれな風が窓隙から置いていった伝言のようだった。
 レイは胸の奥から込み上げる感情に、思わず力なく苦笑した。 「本当に、あの人らしい……。どこまでも勝手なんだから」
 だが、その自嘲気味な笑顔はすぐに消え、視界がじんわりと滲んだ。 手紙だけでは何もわからない。一年も待ったのに。会いたいという直接的な言葉も、いつ帰るという約束も、彼女が欲しかった答えは何一つ、その薄い紙の上には書かれていなかった。
 レイは溜息を飲み込み、そっともう一つの同封物――写真を手に取った。
 そこには、異国の石畳の広場が写し出されていた。 中世の面影を残す古い石造りの建物が歪に並び、画面全体が夕暮れの強い光によって、まるで溶けた蜂蜜のような黄金色に染められている。 広場の中央にある古びた噴水。その水の煌めきのそばを、自転車に乗った一人の少女が、画面を横切るように走り抜けていた。
 長い三つ編み。 風になびく、仕立ての粗そうな白い服。 おそらく、蓮がシャッターを切った瞬間に偶然写り込んだだけの、現地の少女なのだろう。 だが、不思議と激しく目を引いた。背景の街並みがどこか静止した過去のように見える中で、その少女の三つ編みの躍動感だけが、この写真の中で確かに「今」を生きているように見えたのだ。
「ここは……どこなの?」
 レイは写真を窓辺の陽射しに透かすようにして、穴があくほど見つめた。 乾燥した土の匂いや、見たこともない花の香りが、紙の向こうからかすかに流れてくるような気がした。 遠い国。知らない街。 今、蓮が見ている景色。蓮がその足で歩いている道。 その世界のすべてが、この手のひらサイズの一枚に閉じ白められているようだった。
 ふと、レイは引っ張られるように店の奥の暗がりの棚に視線を向けた。 そこには、一体の小さな人形がひっそりと座っていた。
 黒い絹の細やかな服。胸元を飾る精巧な赤い飾り紐(チャイナ結び)。 そして、すべてを見透かすような、深い漆黒の丸いガラス瞳。 中国の伝統的な少女を模した、エキゾチックな人形だった。それは一年前、蓮が旅立つ前日の夜に「留守番を頼む」と言ってこの店に置いていったものだった。
 名前は「クーニャン」。 蓮が親しみを込めてそう呼んでいた。
 レイは椅子から立ち上がり、棚からその人形を愛おしそうに抱き上げる。長い間そこにいたせいで、少し色褪せてしまった人形の冷たい頬を、自らの指先でそっとなぞった。
「クーニャン」
 人形は当然、何も答えない。ただその黒い瞳でレイを見つめ返すだけだ。 それでも、レイは静かに話しかけずにはいられなかった。
「寂しいでしょう? 急にいなくなっちゃって」
 静まり返った店内に、自分の声だけが寂しく響き、吸い込まれていく。
「私も……すごく寂しいよ」
 ふと窓の外に目をやると、夕暮れ時を迎えた商店街を、人々が足早に通り過ぎていくのが見えた。 皆、疲れを宿した顔で、目の前の地面だけを見つめて歩いている。 ネクタイを緩めて家路を急ぐビジネスマン。買い物袋を提げて夕食の算段をする主婦。 誰も立ち止まらない。誰も、茜色に染まり始めた美しい空を見上げようとはしない。
 その忙しない人々の姿は、まるで蓮が旅立つあの日に、ぽつりと言い残した言葉をレイに思い出させた。
 ――みんな急ぎすぎている。目の前の正解ばかりを求めて。もっと世界は広くて、曖昧なものなのに。
 レイはクーニャンを、自分の胸元にぎゅっと抱きしめた。 「もし、本当にお前の言葉がわかるなら……」 彼女は小さく、自嘲混じりに微笑んだ。そして、堪えきれずに目尻から一筋の涙をこぼした。 「あの人が今いる国の話を、聞かせてほしいな」
 その時、長い夕陽の光が、窓の隙間からピンポイントで店の中へと差し込んだ。 レイの腕の中にいるクーニャンの、ガラスの瞳が、夕陽を受けてまるで生きているかのように真っ赤に燃え上がった。
 その瞬間。 レイの背筋にゾクリとしたものが走り、不思議な錯覚に囚われた。 人形の視線が、自分ではなく、窓の向こうの遥か遠い異国の空を、確かに見つめているような――そして、その視線の先には、カメラを構えた蓮が佇んでいるような、強い気配を感じたのだ。
窓の外では、生ぬるい夕暮れの風がゴーッと音を立てて吹いている。
 手紙は机の上に置かれている。 黄金色の広場の写真も。三つ編みの少女も。 蓮がどこにいるのか、なぜこの写真を送ってきたのか、すべては小さな謎に包まれたままだった。
 けれど。 レイの心の奥底には、一年間凍りついていた場所から、静かに、しかし激しく、一つの決意が芽生え始めていた。
(この写真の場所へ、行ってみたい)
 蓮が見た景色を、蓮が吸った空気を、自分の目で、肌で、確かめてみたい。 そこへ行ったからといって、彼に会える保証などどこにもない。手がかりは、この住所のない手紙と写真一枚だけ。 それでも――ここにいてただ待つだけの毎日は、もう終わりにしよう。
 一年間、カチリとも音を立てなかった彼女の時計の歯車が、大きな音を立てて再び動き始めようとしていた。
 窓辺に吊るされたガラスの風鈴が、夕風に煽られて、チリン……と高らかに鳴り響いた。 それは、日常の終わりを告げる音であり、遠い異国から届いた、新しい旅の始まりの合図のように、いつまでもレイの耳の奥で反響していた。

第二章 夢と幻の交差する街

 旅立ちの日の朝。 空は息を呑むほどに、どこまでも高く青かった。
 レイは使い古した「月灯り雑貨店」の木製の扉をゆっくりと閉め、鍵をかけた。カチャリ、という冷たい金属音が、日常との境界線を引くように響く。 振り返れば、長年見慣れた真鍮の看板、瑞々しい葉を揺らす窓辺のアイビー、そしてあの日高らかに鳴った風鈴。すべてが変わらず、そこにある。 だが、その景色を見つめる自分自身だけは、もう昨日までの自分ではなかった。
 蓮から届いた、たった一通のエアメイル。 手がかりは、住所も書かれていないあの黄金色の写真一枚。 正気の沙汰ではないかもしれない。それでも、その小さな紙切れだけが、彼女を海の向こう、未知なる世界へと突き動かす十分な理由だった。
 小さな革の旅行鞄に詰め込んだのは、必要最低限の着替えと、いくつかの日用品。そして財布、パスポート。 鞄のいちばん底には、蓮の短い手紙と、チャイナ人形のクーニャンを柔らかい布に包んでそっと忍ばせていた。 出発の間際、レイは鞄の隙間から覗くクーニャンの黒いガラス瞳をそっと指先で撫でた。
「一緒に行こうね、クーニャン」
 人形は相変わらず、感情の読めない瞳でまっすぐ前だけを見つめていた。けれど今のレイには、それがまるで行くべき正しい道を指し示しているかのように思えた。
 何時間も狭い座席に揺られた飛行機の旅。 言葉も通じない異国の空港に降り立ち、そこからさらに、煤煙を吐きながら走る古びた列車を何度も乗り継いだ。車窓の景色が近代的なビル群から、乾いた赤土の荒野へ、そして見たこともない形の屋根が並ぶ古い集落へと変わっていく。
 そうして数日をかけ、レイはようやくその場所へとたどり着いた。 そこは、東洋の古き良き混沌と、どこか退廃的な美しさが同居する異国の街だった。
 駅の改札を出た瞬間、熱を孕んだ乾いた風が容赦なくレイの頬を撫でた。スパイスの混ざった複雑な匂いと、果物が熟れたような甘い香りが鼻腔をくすぐる。 見上げれば、細やかな彫刻が施された赤や金の装飾が、傾きかけた夕陽を浴びてギラギラと妖しく輝いていた。
 だが何よりもレイの目を引いたのは、その街を行き交う「人々」だった。 活気ある市場や騒がしい路地裏。それなのに、街を行き交う人々の多くが、なぜか一様に灰色や薄い青色の、お仕着せのような地味な服を身にまとっている。誰もがせわしなく、何かに追われるように歩き、その視線は目の前の誰かではなく、どこか遠くの虚空を見つめているようだった。 これほど混雑し、賑やかなはずの街なのに、肌にまとわりつくような不思議な静けさが漂っている。
(まるで、誰かの精巧な夢の中に迷い込んでしまったみたい……)
 レイはポケットから、あの一枚の写真を取り出した。何度も指で触れたせいで、端が少し丸まっている。 目の前の景色と、写真を交互に見比べる。
 足元に広がる、磨り減った不揃いな石畳。 中心で静かに水を湛える、苔むした古びた噴水。 その向こうにそびえ立つ、文字盤の禿げかけた時計塔。
「……間違いない。ここだわ」
 蓮が立ち、あのシャッターを切った広場。今、自分は彼と同じ場所に立っている。 レイは導かれるように、ゆっくりと広場の中央へと歩みを進めた。ザーッという噴水の水音が耳を満たし、驚いた数羽の鳩がバタバタと灰色の羽を鳴らして飛び去っていく。 夕暮れの強い光が、石畳の凹凸を深い黄金色と長い影に変えていく。写真とまったく同じ、時間が止まったかのような美しい景色。
 ただ一つ、決定的に違うのは――。
「……あっ」
 レイは思わず、短い声を漏らした。 背後から、風を切り裂く軽やかな音が近づいてきた。カラカラと鳴るチェーンの音。 ハッとして振り返ると、そこには一人の少女がいた。
 長い、艶やかな黒髪の三つ編み。 夕風にふわりとなびく、裏地が透けるような白い服。 そして、すべてを拒絶しないような、透き通るほど純粋な笑顔。
 写真の中に写り込んでいた、あの少女だった。 少女は自転車の速度を緩め、レイの目の前でピタリと止まった。その大きな瞳で、レイをじっと見つめる。まるで見知らぬ旅人を不思議がるように。けれど同時に、ずっと前からここで待っていた「知っている人」を迎えるかのように。
 少女は言葉を発さず、ただ小さく悪戯っぽく微笑むと、再び力強く自転車のペダルをこぎ始めた。
「待って! お願い、待って!」
 レイは考えるより先に、反射的に走り出していた。重い旅行鞄が脇腹に何度もぶつかるが、構っていられなかった。 少女は迷いのない足取りで、広場から外れた細い入りくんだ路地へと入っていく。
 そこは、表通りの静けさが嘘のような、濃密な生活の気配が満ちる場所だった。 高くそびえる石造りの壁、頭上に張り巡らされた無数の赤い提灯、風にたなびく色とりどりの洗濯物。まるで迷路のように複雑に折れ曲がった裏通りを、少女の白い背中がすり抜けていく。 見失うまいと、レイは必死に息を切らして後を追った。 どんなに速度を上げても少女との距離は縮まらない。けれど不思議と見失うこともない。それは追跡というよりも、少女に手招きされ、街の深奥へと「導かれている」ような奇妙な感覚だった。
 やがて、傾斜の急な路地の突き当たり、古いお寺のような建物の前へとたどり着いた、その時だった。
 突然、世界が変貌した。
 ぐにゃり、と目の前の風景が大きく揺れた。 まるで水面に一石を投じたかのように、石壁も、赤い提灯も、夜を迎えようとしていた空さえもが波打ち、歪んでいく。
「え……? 何、これ……っ」
 レイは足をもつれさせながら、その場に立ち止まった。あまりの目眩に、自分の身体がどこに存在しているのかさえ分からなくなる。それはまるで、巨大な万華鏡の内部に放り込まれ、強引に回転させられているかのようだった。
 次の瞬間、どんよりとした灰色の空から、視界を埋め尽くすほどの鮮やかな紙テープがバラバラと舞い落ちてきた。 鮮烈な赤。夜を照らす黄。深い青。瑞々しい緑。 現実の物理法則を無視した無数の色彩が、突風に煽られて生き物のように宙を踊る。
 どこからともなく、鼓膜を激しく叩く銅鑼(どら)の音が鳴り響いた。
 ドォン――。 ドォン――。
 五臓六腑までを強烈に震わせるような重低音。 その圧倒的な音の波に合わせるようにして、路地の闇から、巨大な「龍」が姿を現した。 まばゆいばかりの黄金の鱗が夕陽を浴びて明滅し、その瞳は本物の炎が宿っているかのように赤々と燃えている。無数の人々に担がれた龍は、狭い路地を狭しと、まるで本物の雲海を泳ぐかのようにダイナミックにのたうっていた。
 続いて、銀色に輝く剣を持った踊り手たちが乱入してくる。 刃が光を反射して火花のように飛び散り、彼らが纏う華やかな極彩色の衣装が、風を孕んで幾重にも翻る。
 祭りだ。これは、この異国の地でおこなわれている祝祭なのだ。 けれど、何かがおかしい。あまりにも色彩が鮮やかすぎ、あまりにも音が近すぎる。現実とは思えないほどに美しく、しかし触れれば指の隙間からすり抜けてしまいそうなほどに儚い。
 さらに、レイの現実感を決定的に破壊するものが現れた。 頭上の空を、ふわりと浮かぶ一枚の絨毯。その上で、木製の人形たちが生身の人間のように滑らかな動きで踊っているのだ。帽子を取ってレイに深々とお辞儀をする者、コマのようにくるくると楽しげに回転する者。それは、幼い頃に絵本で見た童話の世界そのものだった。
 気づけば、レイの足元にはいつの間にか青い「波」が満ちていた。 本来なら埃っぽい石畳の路地であるはずなのに、ひたひたと透明な水面が広がり、寄せては返す波音が聞こえる。光を反射してきらめく水面が、現実と幻想の境界線を完全に消し去っていく。
 夢なのか、幻なのか。激しい混乱の中で、レイは必死に周囲を見回した。
 そして、その瞬間。彼女は「彼」を見てしまった。
 さっきまで一様に無表情だった、灰色の服を着た人々の群れの中。 その中心で、一人だけ、心からの笑顔を浮かべている青年がいた。
 使い込まれた一眼レフカメラを首から下げ。 祭りの熱気に当てられたように楽しそうに飛び跳ね、現地の小さな子供たちに囲まれながら、相好を崩して笑っている。
「……蓮」
 間違いない。一瞬だって見間違うはずがない。 一年間、片時も忘れることのなかった、恋人の姿。夢にまで見た、愛おしい横顔。
「蓮――!!」
 レイは喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。 人混みを、波を、舞い散る紙テープをかき分ける。重い鞄をその場に投げ出し、ただ彼の元へと、必死に手を伸ばした。
 あと数歩。あと少し。 指先が彼のコートの裾に届く。あと、少しだけ――。
 だが。 蓮は、ついに振り返らなかった。祭りの強烈な光と色彩の中で、彼の輪郭が内側から透き通るように薄れていく。煙のように。陽炎のように。 触れることのできない、ただの幻のように。     
そして、彼は群衆の中に溶けるようにして、完全に消え去った。    レイは伸ばした手を空中にとどめたまま、その場に激しく立ち尽くした。 胸の奥が、万力で締めつけられるように痛む。押し殺していた涙が、一気に溢れて視界を塞いだ。
「待って……行かないで、蓮……っ!」
 叫びは虚しく響き、返事はない。 あんなに騒がしかった銅鑼の音も。 空を泳いでいた龍の舞も、降り注ぐ紙テープも、空飛ぶ絨毯も。 すべてが潮が引くように、急速に遠ざかっていく。
 世界が、再び大きく歪み、揺れた。 まるで誰かが、舞台のマジックショーを強制終了させるために、重い黒幕をガラガラと閉じるように。   目の前の鮮やかな幻想は、ゆっくりと、しかし確実に消え去っていった。
 急激な虚脱感がレイを襲う。視界が急速に暗くなり、足元の感覚が消えてふらついた。身体が石畳へと倒れ込んでいく。
 意識を失う寸前、最後に見えたのは。 あの三つ編みの少女の姿だった。   少女は、お祭りの華やかさとは正反対の、少し悲しそうな、すべてを包み込むような眼差しでこちらを見ていた。 そして、倒れゆくレイに向かって、静かに温かい手を差し伸べる。   「……」
 耳鳴りのせいで、言葉は何も聞こえなかった。 けれど、少女のどこか切なげな瞳は、はっきりとこう語っているようだった。
 ――まだ、終わりじゃないよ。旅は、始まったばかり。レイは抗うことなく、そのまま深い意識の闇へと手放した。遠くの遠くで、雑貨店にあったような、涼やかな風鈴の音がチリンと鳴った気がした。 夢と幻、そして現実が複雑に交差するこの街の夜は、まだ始まったばかりだった。

第三章 くるくる、変わりゆくきらめき

 ゆっくりと目を開くと、そこには見知らぬ木製の天井があった。 太い梁が何本も走り、窓から吹き込む生ぬるい風に、薄い藍染めの布の飾りがゆらゆらと揺れている。鼻腔をくすぐったのは、日本の緑茶とは少し違う、どこか甘く、焙煎された深い茶葉の香りだった。
 レイはまだ重い身体をゆっくりと起こし、周囲を見回した。 窓の外からは、小鳥たちのさえずりと、遠くの市場から響く微かな物売りの声が聞こえる。
 「昨日のあれは……本当に夢だったの?」
 こめかみを押さえながら呟いた、その時だった。 コトリ、と建付けの悪い木製の扉が控えめな音を立てて開いた。 差し込んだ光の中に顔を覗かせたのは、あの長い三つ編みの少女だった。
 少女はレイが意識を取り戻したのを見るなり、ぱっと顔を輝かせて嬉しそうに微笑んだ。そして、異国の柔らかなイントネーションの言葉で何かを話しかけてきた。 何を言っているのか、意味はまったくわからない。それでも、彼女が浮かべる屈託のない笑顔から、敵意のない温かい優しさだけは真っ直ぐに伝わってきた。
 レイが緊張を解き、小さく微笑み返すと、少女はホッとしたように深く頷いた。 身振り手振りから察するに、昨夜、激しい祭りの幻影のあと、路地裏で倒れていたレイを彼女がここまで背負って運んでくれたようだった。
 そこは、古い小さなお茶屋の二階だった。 一階に降りると、年季の入った黒ずんだ木製の机や椅子が並び、壁には長い年月を経て色褪せた写真が何枚も額に入れて飾られている。どうやら、少女の家族が何代にもわたって営んできた店のようだった。 店の奥では、深い皺を刻んだ白髪の老婦人が、もくもくと湯気の立ち上る茶釜の前に立ち、手慣れた手つきで小さな急須を扱っていた。少女の祖母らしかった。
 「……あ、ありがとうございます。助けていただいて」
 レイが深く頭を下げると、言葉は通じずともその謝意は伝わったようだった。老婦人は慈愛に満ちた目で穏やかに微笑み、小さなお猪口のような湯飲みを差し出してくれた。 満たされていたのは、綺麗な琥珀色のお茶だ。 そっと口に含むと、香ばしさと共にほのかな甘みが喉の奥へと広がり、旅の疲れと昨夜の混乱で強張っていたレイの心が、不思議なほどじんわりと落ち着いていくのが分かった。
 お茶を飲み終え、ふとレイは足元に置かれていた自分の旅行鞄から、チャイナ人形のクーニャンを取り出した。異国の地で、この人形がどんな意味を持つのかを確かめたかったのだ。 木製の机の上に、そっとクーニャンを座らせる。
 その瞬間、少女の目が丸くなり、ぱっと輝いた。 「あっ!」 少女は勢いよく人形を指差した。それは驚きに満ちた顔であり、同時に、とても懐かしい大切なものを見つけたような顔だった。
 茶釜の前にいた老婦人も、少女の声に振り返る。そして机の上の人形を見るなり、細い目をさらに細め、愛おしそうに目を細めた。
「……レン」
 老婦人の口から、静かに漏れ出たその響き。 それは、この旅に出てからレイが初めてはっきりと聞き取ることができた、愛しい人の名前だった。
 レイは思わず身を乗り出し、湯飲みを持つ手を震わせた。
 「蓮を……蓮を知っているんですか!?」
 矢継ぎ早の日本語は、当然ふたりには通じない。だが、老婦人はレイの痛切な表情を見てすべてを察したように、静かに、深く頷いた。 そして、ゆっくりと歩み寄ると、壁に飾られた数ある写真の中から、一枚の古い木枠の写真を指差した。
 レイは、今度こそ完全に息を呑んだ。
 そこに写っていたのは、紛れもない蓮だった。 あの広場で、現地のたくさんの子供たちに囲まれ、カメラを首から提げてクシャクシャの笑顔を浮かべている。昨夜見た幻の彼とは違う、確かにそこに存在していた温もりを持つ、今にも動き出しそうな生身の笑顔だった。
 「蓮……やっぱり、ここにいたんだね……」
 一年ぶりに触れる、切り取られた恋人の生きた姿。胸の奥から熱い塊が込み上げ、視界が急激に滲んでいく。
 三つ編みの少女は、泣き出しそうなレイを励ますように、身振り手振りで必死に何かを伝えようとしてくれた。 カメラを構えてシャッターを切る真似。楽しそうに街のあちこちを歩き回る真似。みんなと一緒に大笑いする真似。
 彼女たちの言葉をレイの心が翻訳していく。 どうやら蓮は、長い間このお茶屋に滞在していたらしい。彼は毎日、夜が明けるとカメラを持って街へ飛び出し、日が暮れるまで歩き回って、この街の人々の写真を撮り続けていたのだという。 きらびやかな観光地や、絵に描いたような美しい景色ではない。市場で大声を出す商人、泥んこになって遊ぶ子供たち、川辺で静かに煙管をくゆらせる老人、そして――昨夜の祭りで情熱的に踊っていた踊り手たち。
 他の誰もが気留めず、通り過ぎてしまうようなありふれた「日常」を、蓮は宝物を集めるように、大切そうにカメラに収めていたのだ。
 老婦人が棚の奥から、ずっしりと重い一冊の古いアルバムを持ってきた。 埃を払い、レイの前でそっとページを開く。
 そこには、蓮がこの街で残していった、数え切れないほどの人々の写真が並んでいた。 破顔するような笑顔。堪えきれずに流した泣き顔。真っ赤になって怒った顔。照れくさそうに困った顔。
 レイは、それらの写真を一枚一枚めくりながら、ある重要なことに気づかされていた。 蓮は、ただ異国の景色を珍しがって撮っていたのではない。 彼は「人」を撮っていたのだ。 もっと言えば、激しく移り変わる「人の心」そのものを。 人間が、その瞬間瞬間に変わっていく一瞬のきらめきを、彼は追い求めていたのだ。 写真の一枚一枚から、彼の息遣いと共に、そのことが何となく、けれど確信を持って伝わってきた。
 アルバムの最後のページ。 そこに、ポツンと一枚の写真が挟まっていた。夕暮れの広場で、自転車に乗りながらこちらを振り返って笑う、三つ編みの少女の写真。 その写真の裏を返すと、見慣れた蓮の筆跡で、掠れた万年筆の文字が残されていた。
 『人の心は不思議だ。 同じ場所にいても、 一秒先には同じ気持ちではいられない。 くるくると変わり続ける。 だからこそ、これほどまでに美しい。』
 レイは、その文字を見つめたまま、しばらく指一本動かすことができなかった。 それは蓮が写真に対して抱いた感慨であると同時に、彼自身の生き方、そのものでもある気がしたのだ。
 一年前、蓮が突然旅に出たとき。 レイは暗い雑貨店の中で、ただ一人「自分が嫌われたのだ」と思い込んでいた。自分と一緒にいる日々に退屈し、自分を愛さなくなったから、彼は逃げ出したのだと。だから何度も夜中に枕を濡らし、答えのない問いに自分を責め立ててきた。
 だが、この街に来て、彼の足跡を辿った今は、少し違う考えが浮かび始めていた。 蓮は、自分から逃げたのではない。 目まぐるしく変わり続ける世界の中で、固定されそうになる自分自身を繋ぎ止めるために、あるいは本当の自分を探すために、この答えのない旅に出るしかなかったのかもしれない。 終わりのない探し物。けれど、それこそが彼らしい、脆くも美しい生き方だったのだ。
 夕暮れ時。 三つ編みの少女が、レイの袖を優しく引っ張り、店の裏庭へと案内してくれた。 そこには、赤土の地面に一本の立派な古い沙羅の木が立っていた。 木陰には、近所の子供たちが数人集まり、地面に座り込んで何かを夢中になって転がしている。
 近づいて目を凝らすと、それは夕陽の光を浴びてキラキラと輝く、色とりどりのガラスのビー玉だった。 鮮烈な赤。深い青。新緑の緑。そして、贅沢な金色。 斜めから差し込む西日を受けて、まるで地面に散らばった宝石のように美しく煌めいている。
 少女はその中から、ひときわ大きく、複雑な輝きを放つ一つを拾い上げ、誇らしげにレイに差し出した。 それは、白と青と赤のガラスが、内部でマーブル状に激しく混ざり合ったビー玉だった。 少女はそれを指先でくるくると回しながら、いたずらっぽく微笑む。そして、レイの手のひらの上に、そっと手渡してくれた。
 それを見ていた老婦人が、お茶の道具を片付けながら、静かに、祈るような声でこう言った。
 「チャイナ・マーブル」
 レイの耳に、その言葉だけがハッキリと、驚くほどクリアに響いた。
 チャイナ・マーブル。 そのビー玉は、ガラスが熱く溶け合う過程で色が混ざり合うため、世界に二つとして同じ模様は存在しない。回す角度によって、見せる表情が「くるくる」と変わる。
(あぁ、人の心も、これと同じなんだ……)
 嬉しい気持ち。悲しい気持ち。 誰かを愛する情熱。そこから離れたいと願う冷ややかさ。 未来への希望。過去への後悔。そして、どうしようもない孤独。 それらは決して単色ではなく、すべてが心の中でドロドロと溶け合い、混ざり合いながら、一瞬一瞬変わり続けていくものなのだ。 蓮は、その心の揺らぎを、このビー玉の中に、そして旅の途中で出会う人々の表情の中に見出していたのかもしれない。だからこそ、彼は一つの場所に留まることなく、旅を続けずにはいられなかったのだ。
 レイは手渡されたビー玉を、高く掲げて夕陽に透かしてみた。 中の極彩色が、光を受けて妖しく揺れる。 それは昨日見た、あの万華鏡のようなお祭りの幻想のようであり、掴みどころのない蓮の心のようでもあった。
 そして、その時だった。 老婦人が静かな足取りで近づき、折りたたまれた一枚の古い紙を、レイの前に差し出した。
 開いてみると、そこには手書きの粗削りな地図が描かれていた。 この街をさらに越え、険しい山々と深い川に囲まれた、世界の果てのような土地。 そして、その地図の端の余白には、黒いインクで見覚えのある文字が走り書きされていた。
 まぎれもない、蓮の筆跡だった。
 レイの胸が、ドクドクと激しく高鳴りを上げる。 蓮はすでに、この街を去っていた。けれど、彼の旅はまだ終わっていない。その先へと続いている。 そして、他ならぬ自分自身も今、ただの「待つ人」ではなく、彼の軌跡を追いかける同じ旅の途中に立っているのだ。
 夕暮れの強い風が吹き抜け、裏庭の木々を激しく揺らした。 レイの手のひらの中で、チャイナ・マーブルの中の色彩がゆっくりと回る。 まるで、誰かの移り気な心のように。 くるくると。どこまでも、終わりなく。

第四章 旅の終着点

 翌朝。 街は、世界を優しく覆い隠すような薄い白い霧に包まれていた。
 レイはお茶屋の二階の窓を開け、冷ややかな空気を感じながら外を眺めていた。 ほんの数日前までは、名前も知らない異国の見知らぬ土地だったはずなのに、今では肌に触れる風も、漂う茶葉の香りも、不思議と愛おしく、懐かしく感じられる。 霧の向こうから現れる、広場へ向かう足早な人々。市場の活気ある準備の音。小さな背中を揺らして学校へ急ぐ子供たち。 それは、世界のどこにでもある、ありふれた朝の風景だった。 だが、その一つひとつが今のレイには、かけがえのない輝きを持って迫ってくる。蓮がなぜ、この街に留まり、これらを写真に残そうとしたのか――その理由が、今の彼女には痛いほどよく分かる気がした。
 部屋の簡素なテーブルの上には、一枚の地図が広げられている。 昨夜、老婦人から託されたものだ。 地図の端には、蓮の筆跡で、掠れた小さな走り書きが残されていた。
 『水の終わる場所へ』
 たったそれだけの、詩のような言葉。 だが、今のレイには迷いはなかった。それが、彼が残した次の、そしておそらく最後の目的地を示しているのだという確信があった。
 階下に降り、出発の準備を整えたレイは、少女と老婦人に別れを告げた。 言葉は最後まで、完全には通じなかった。けれど、手と手を握り合い、見つめ合うその瞬間の温もりだけで、彼女たちの心は十分に伝わってきた。
 三つ編みの少女は、別れ際、レイの鞄から覗くクーニャンの頭を、小さな手でそっと撫でた。そして、これ以上ないほど優しい笑顔を浮かべる。
 言葉はなくても、その瞳は、「大丈夫、いってらっしゃい」 と、レイの背中を押してくれているようだった。
レイは胸の奥を熱くしながら、深く深く頭を下げた。
 「本当に、ありがとうございました」
 少女はちぎれるほどに大きく笑顔で手を振り、老婦人は静かに手を合わせて旅の無事を祈ってくれた。お茶屋の角を曲がるまで、二人の温かい視線がレイの背中を包んでいた。
 そこから、さらに数日が経った。
 ガタガタと激しく揺れる古いローカル列車に何時間も揺られ、 泥水をあげる小さな木造の船に乗り換えて川を遡り、 最後は息を切らしながら、道なき山道をただひたすらに歩いた。
 旅を続けるほどに、周囲の景色は目まぐるしくその姿を変えていった。 お茶屋のあった混沌とした街並みはいつしか完全に消え去り、視界を埋め尽くすのは、地平線まで続く広大な緑の草原と、峻険な岩肌の山々。 吹き付ける風は次第に強く、冷たくなり、見上げる空はどこまでも高く、深い青色へと変わっていく。
 レイは何度も立ち止まり、不安に駆られながら地図を確かめた。何度も何度も、蓮の文字を指でなぞった。 そして、ついに山の尾根を越えたその時、視界が劇的に開けた。
 そこには、言葉を失うほどに巨大な「湖」が広がっていた。
 切り立った山々に360度囲まれた、鏡のように静かな湖。 雲一つない空の青さを、そのまま一滴もこぼさずに映し出したような、深く澄んだ水面。 寄せる波も、跳ねる魚の気配もない。ただ、冷たい風だけが静かに水の上を吹き抜けていく。圧倒的な静寂。そこはまるで、世界の果て、あるいは時間の終着点のような場所だった。
 レイは吸い込まれそうな湖畔の波打ち際に立ち、ぽつりと呟いた。
 「ここが……水の終わる場所……」
 蓮がたどり着いた場所。 そう思った、まさにその瞬間だった。 少し離れた湖畔の突き出た岩場に、一人の男のシルエットが揺れた。
静かに湖を見つめる男性。 一年前に比べて少し伸びた、風に乱れる髪。 肩から斜めに下げた、見覚えのある古い一眼レフカメラ。 そして、風を孕んで大きくはためく、色褪せた長めのコート。
 レイの心臓が、一瞬、本当に止まりそうになった。喉の奥がカラカラに乾き、世界からすべての音が消え去る。
 「……蓮」
 絞り出した声は、風にかき消されそうなほどに震えていた。
 けれど、その声は届いた。 男性の身体が微かに強張り、ゆっくりと、こちらを振り返った。 そして、レイの姿を捉えた瞬間、彼の引き締まった端正な目が見開かれた。 驚き、動揺、戸惑い、そしてどこか懐かしむような切なさ――様々な感情が、彼の瞳の奥でチャイナ・マーブルのように目まぐるしく浮かび、混ざり合っていく。
 一年ぶりだった。 本当に、気が遠くなるほど長い時間を経て、二人はようやく再会したのだ。
 しかし、二人はすぐには駆け寄らなかった。しばらくの間、ただ数メートルの距離を挟んで、何も言えずに立ち尽くしていた。 風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
 あまりにも多くの言葉が、レイの胸の内に溢れ返っていた。 会いたかった。なぜ何も言わずに行ったのかと怒りたかった。子供のように大泣きしたかった。この一年の孤独を、寂しさを、ぶつけたかった。聞きたいことなんて、星の数ほどあった。
 それなのに。 いざ本人が目の前に現れ、その真っ直ぐな瞳に見つめられると、不思議なほど言葉が喉の奥につかえて、何から話せばいいのか分からなくなってしまったのだ。
 先に沈黙を破ったのは、蓮の方だった。 少し掠れた、けれど昔と変わらない心地よい声。
 「……本当に、来たんだね」
 レイは泣き出しそうなのを必死に堪え、少しだけ悪戯っぽく微笑んでみせた。
 「来ちゃった。バカみたいだけど」
 蓮も、一瞬呆れたような顔をしたあと、ふっと苦笑した。あの、優しくて少し不器用な、昔のままの笑い方。 それを見た瞬間、緊張の糸が切れ、レイの目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
 二人はそれ以上何も言わず、ただ湖畔の石を踏み鳴らしながら、並んでゆっくりと歩き始めた。 並んで歩くのは一年ぶりのはずなのに、お互いの歩幅は驚くほど自然に揃う。静かで、どこか満ち足りた時間だった。
 やがて、蓮が湖から目を離さないまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
 「ごめん」
 最初に出てきたのは、その一言だった。短く、重い謝罪。 レイは何も遮らず、ただ彼の声に耳を傾けた。
 「君をたくさん傷つけた。何も言わずに消えて、本当に最低だと思う」
「……うん。最低だったわ」
「でも、あの時の僕は、どうしてもここへ来なきゃいけなかったんだ」
 蓮は歩みを止め、どこまでも続く青い水面を見つめた。
 「自分が一体何を見たくてカメラを構えているのか。何を世界に残したいのか。毎日、同じ景色の中で暮らしているうちに、それが完全にわからなくなって、息ができなくなってたんだ。このままじゃ、君のことも真っ直ぐ愛せなくなると思った」
 冷たい風が、二人の髪を激しく揺らす。湖面に小さな波紋が広がり、空の青を歪めていく。
 「君が嫌いになったわけじゃないんだ。それだけは、信じてほしい」
 レイは静かに目を伏せた。 あの日からずっと、暗い雑貨店の中で一万回も聞き続けたいと願っていた言葉だった。自分の存在を全否定されたような痛みを抱えてきた一年間。その傷口を塞いでくれる、最も欲しかった答え。
 だが、不思議なことに、今のレイの胸に去来したのは激しい歓喜ではなかった。もちろん嬉しかった。けれど、それ以上に静かな、凪のような感情だった。 悲しみや怒りが消えたわけではない。ただ、住所のないエアメイルを受け取り、異国の混沌を潜り抜け、自分の足でここまでたどり着いた今の自分は、旅に出る前の「ただ待つだけの自分」とは、決定的に違っているのだと自覚していた。
 「ねえ」
 レイは歩みを止め、彼の正面に立った。
 「蓮」
 「うん」
 「あなたの旅は、ここで終わったの?」
 蓮は少しだけ驚いたようにレイを見つめ、それから寂しそうに、けれどどこか晴れやかな顔で首を横に振った。
 「わからない。でも、たぶん……一生終わらないんだと思う」
 レイは、その言葉を聞いて静かに笑った。やっぱり、そうだ。そうだと思った。 蓮はそういう人なのだ。 一つの場所に安住し、誰かと形通りの幸せを育むことよりも、まだ見ぬ知らない景色、変わり続ける人の心を追い続けずにはいられない、魂の旅人。 以前なら、それを「無責任な欠点」だと責め立てただろう。けれど、彼が残した写真の美しさを、そしてこの壮大な世界の広さを知った今のレイには、それが彼のどうしようもない「生き方」そのものなのだと、深く理解することができた。
 太陽が山々の向こうへと傾き始め、巨大な湖を真っ赤な夕陽が染め上げていく。 二人はどちらからともなく、湖畔の平らな岩に並んで腰掛けた。 音もなく沈んでいく太陽を見つめる。その光景は、涙が出るほどに美しく、そして胸が締めつけられるほどに切なかった。
 レイはコートのポケットに手を入れ、あのお茶屋でもらった例の「チャイナ・マーブル」を取り出した。 手のひらの上で、大粒のビー玉が夕陽の残光を受けて、怪しく、美しく揺らめく。 赤。青。白。 それらのガラスが、刻一刻と変わる光の中で、混ざり合いながら輝いている。
 「本当に……人の心みたいね、これ」
 レイがぽつりと呟くと、蓮はハッとしてビー玉を見つめ、それから驚いたように、けれど嬉しそうに笑った。
 「僕も、その街で同じことを考えてたよ」
 二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。その瞬間だけは、一年前の、雑貨店で他愛のない話をしていた温かい時間が戻ってきたかのような錯覚を覚えた。
 けれど。 二人は同時に、心の底で気づいていた。人は変わる。旅が人を環境を変え、流れる時間が心を変えていく。そして、その「変わり続けること」は、決して寂しいことでも、悪いことでもないのだと。チャイナ・マーブルの模様がくるくると変わるからこそ美しいように、留まらないからこそ、人生は愛おしい。
 やがて、太陽が完全に山の向こうへと隠れ、世界の輪郭が夕闇に溶けていった。 濃紺の空に、ぽつり、ぽつりと最初の星が瞬き始める。
 蓮は静かにレイの横顔を見つめた。 何かを言おうとして、唇を微かに動かし、けれど結局、大切な言葉を喉の奥へと飲み込んだ。 レイもまた、彼に何も求めなかった。 これからの未来を約束することも、私と一緒に日本へ帰ってと引き留めることも、もう必要ない気がしていた。
 ただ今は、この世界の果てのような美しい夕暮れを、二人で並んで見つめることができた。それだけで、この過酷な旅の報酬としては十分すぎるほどだった。
 湖の向こうから、深い夜の帳がゆっくりと降りてくる。 二人はどちらからともなく、静かに立ち上がった。 繋いだ手はいつしか離れていたけれど、その胸には、それぞれが自らの足で見つけた「答え」が、確かに抱かれていた。
 彼らにとって旅の終着点であったこの湖は、同時に、それぞれの道を歩むための、新しい始まりの場所でもあった。

エピローグ 悲しいチャイナ・マーブルの先へ

 秋の光は、どこまでも柔らかく、そして少しだけ冷たかった。
 長い、本当に長い海の向こうへの旅を終えたレイは、再びあの「月灯り雑貨店」の古い木製の扉を開いていた。
 カラン――。
 耳に馴染んだドアベルの涼やかな音。 窓辺で少し背を伸ばしたアイビーの鉢植え。 棚に整然と並ぶ、静かなガラス細工や陶器たち。 夕陽を受けてきらきらと輝く小さな雑貨たちは、彼女が旅立ったあの日のまま、何一つ変わっていないように見えた。
 けれど、本当に変わらないものなど、この世界には一つもなかった。 レイ自身も。あの大自然の湖畔に置いてきた蓮も。あのお茶屋のあった賑やかな異国の街も。そして、二人の間を絶え間なく流れていく時間さえも。 すべては、目に見えない速度で少しずつ姿を変えながら、決して後ろを振り返ることなく前へ進んでいる。まるで、チャイナ・マーブルの透明なガラスの中で、混ざり合い、形を変え続ける色彩のように。
 店の窓から差し込む斜光の中で、チャイナ人形のクーニャンは、旅に出る前とまったく同じお気に入りの場所に座っていた。 黒い絹の服を揺らし、相変わらず感情の読めない瞳でまっすぐ前だけを見つめている。 姿形は何も変わっていない。それなのに、旅を共にした今では、その佇まいがどこか違って見えた。どこか遠い異国の空の匂いを、その身に纏っているかのように。
 レイは愛おしさを込めて、人形の頬を指先でそっとなぞり、微笑んだ。
 「ただいま、クーニャン」
 人形は当然、答えない。 けれど、夕陽を反射したガラスの瞳の奥に、ほんの一瞬、小さな温かい光が宿った気がした。
 季節は、静かに、しかし確実に移り変わっていった。 木々が葉を落とし、街が冬の装いを始める頃、店にはまた新しい客たちが訪れるようになった。
 春からの進学を控え、見知らぬ土地へ行くことに不安を隠せない少女。 長年の夢を諦めかけ、うつむきながら古い時計を眺める青年。 小さな意見のすれ違いから、背を向け合って歩く長年連れ添った夫婦。 人生の岐路に迷う人。大切な何かを失った人。目に見えない何かを探している人。
 レイはカウンターの奥からそんな人たちの背中を眺め、そっと話を聞きながら、少しずつ思うようになった。人は皆、生まれながらの旅人なのだと。 誰もが心のどこかで、自分だけの答えを探している。誰もが、他人の目には見えない不確かな地図を胸に抱いて歩いている。 そして誰もが、悲しみや喜び、孤独や希望がぐちゃぐちゃに混ざり合った、自分だけの「チャイナ・マーブル」を抱えて生きているのだ。
 ある冬の、よく晴れた昼下がりだった。 空の向こうから、きらきらと光る初雪がひらひらと舞い始めていた。
 レイがいつものように静かな店内で店番をしていると、表の郵便受けに、何かがカサリと落ちる小さな音が響いた。
 コトリ。
 レイは胸騒ぎを覚えて、温かい部屋から外へと出た。 頬を刺す白い雪。冷たい北風。 そして郵便受けの中にぽつんと残されていたのは、あの、青と赤の縁取りがされた、一通のエアメイルだった。
 胸が、静かに、優しく高鳴りをあげる。 封筒に躍るアルファベットの文字を見る。
 ……蓮だった。
 けれど、今のレイは慌てなかった。 一年前の彼女なら、震える手で封を千切り、涙を流して縋るように開いていただろう。けれど、今の彼女は違う。ただ懐かしい友人を迎えるような、穏やかで静かな気持ちのまま、店内に戻ってペーパーナイフで綺麗に封を開いた。
 中には、短い手紙が一枚。そして、一枚の正方形の写真。
 『元気ですか。 僕はまだ旅の途中です。 けれど最近、多くの街を歩いて、少しだけわかったことがあります。 人は、探している何かを見つけるために旅をするのではなく、 ただ「探し続ける」ために、旅路を歩むのかもしれません。 君は君の、美しい旅を続けてください。 いつかまた。 蓮』
 レイは手紙を胸に抱き、静かに微笑んだ。 目尻から涙は出なかった。もう、その必要がないことを知っていたから。 彼と私は、違う空の下で、それぞれの終わらない旅を続けている。それだけで、十分に繋がっているのだと確信できたから。
 同封されていた写真を、そっと光に透かしてみる。 そこには、また見たこともないどこかの異国の街角が写し出されていた。 古びた石畳の道、夕暮れに燃えるような茜色の空。 そして、その画面の端に、偶然のように写り込んだ一人の少女の姿。
 長い三つ編み。 風になびく、白い服。
 レイは思わず、小さな息を呑んだ。 あの少女だった。夢と幻の交差するあの街で、自分を導き、助けてくれた、あの三つ編みの少女。 あり得るはずがなかった。蓮はあの街をとうに去り、別の国にいるはずなのに。 だが、次の瞬間、写真の中の少女が、レイに向かって微かに悪戯っぽく笑ったような気がした。
 レイはパチパチと目を瞬かせる。 もちろん、ただの気のせいだった。現像された写真が動くはずなんてない。 けれど――。
 カラン。チリン……。   どこからともなく、あの夏の日の涼やかな風鈴の音が、幻聴のように耳の奥で鳴り響いた。
 ハッとして窓の外を見つめる。 しんしんと降っていたはずの白い雪が、いつしか、あの日に見た鮮やかな極彩色の「紙テープ」へと姿を変え、冬の空いっぱいに激しく舞い上がっていく。
 遠くの空から、胸を震わせる銅鑼の音がドォンと響く。黄金の鱗をきらめかせた巨大な龍が、雪雲を割って悠々と空を泳ぐ。色鮮やかな祭りの旗が風にはためき、雲の隙間を、あの空飛ぶ絨毯が滑るように通り過ぎていく。 絨毯の上では、小さな木の人形たちが帽子を取って、レイに向かって深々とお辞儀をしていた。きらびやかな祝祭の灯りが、日本の、冬の静かな夜空を五彩に染め上げていく。   そして、灰色の服を着て歩く通行人たちの群れの向こう側。 確かに、蓮がカメラを首から下げて笑っていた。 三つ編みの少女が、自転車を止めて手を振っていた。 白髪の老婦人が、琥珀色のお茶をお猪口に注いで、優しく微笑んでいた。
 これは、寂しさが counsel(紡ぎ出した)夢だろうか。 それとも、切なさが生んだ幻だろうか。
 レイは愛おしそうに目を細め、静かに首を振った。 もはや、夢か現実か、どちらでもよかった。
 なぜなら、あの異国の熱気も、人々の温もりも、蓮のクシャクシャの笑顔も、そのすべては確かにこの世界に存在したから。 彼女の過酷な旅の中に。彼女のちっぽけな心の中に。そして、これから続いていく長い人生の中に、消えない足跡として刻まれているからだ。
 お祭りの華やかな幻想は、降り注ぐ雪の光の中へと、ゆっくりと溶けるように消えていく。 龍も、銅鑼の音も、舞い散る紙テープも、優しい幻影はすべて冬の風の中へ吸い込まれていった。
 最後に彼女の手のひらに残ったのは、一つの小さな「チャイナ・マーブル」だった。 透明なガラスの球体の中で、赤と青と白の色が、夕陽の残光を吸い込んでゆっくりと回っている。
 あの日流した悲しみも、共に見つめた喜びも。 突然の別れも、奇跡のような再会も。 狂おしいほどの愛情も、身を焦がすような孤独も、未来への小さな希望も。 そのすべてを拒まずに混ぜ合わせながら、ビー玉は光の中で輝いている。くるくると。どこまでも。終わりなく。
 レイは、そっと雑貨店の扉を押し開いた。 冷たくも心地よい冬の澄んだ光が、店の中へと真っ直ぐに差し込んでくる。 路地の向こうから、寒そうに身を縮めた新しい客が、何かを求めるようにこちらへ歩いてくるのが見えた。
 新しい出会いが、新しい物語が、またここから始まる。
 「いらっしゃいませ」
 彼女は、かつてないほど晴れやかな笑顔で微笑んだ。 そして、しっかりと自らの足で前を向いて歩き出した。遠い異国の、冷たい風が吹く空の下を、今もカメラを構えて旅している、愛しいあの人と同じように。
 悲しいチャイナ・マーブルの、その先にある、終わりのない美しい旅路の向こうへ。    

――完――

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