静かな復讐

第一章 献身という名の信頼
――「俺が一生面倒を見る」
六十七になった今でも、あの日の匂いだけは消えてくれない。
消毒液の、鼻の奥を刺すような匂い。見上げれば、どこまでも平坦な、白すぎる天井。静寂を規則正しく切り裂いていく、心電図の冷たい電子音。そして何より――自分の身体が、もはや自分のものではなくなってしまったという、底のない絶望。 脳梗塞だった。前触れなど、何もなかった。
その日の朝まで、私はいつものように夫の朝食を作り、洗濯物を干し、ごく当たり前の日常を回していた。それが昼を過ぎる頃には、けたたましく鳴り響く救急車の中で揺られていた。次に意識が戻ったとき、私は見知らぬ天井を見上げていた。動かそうとした左手に、感覚がなかった。左足も、重たい泥に埋まっているように、微動だにしない。枕元で医師が神妙な顔をして何かを説明していたが、その声は鼓膜の上を滑り落ちるだけで、ほとんど頭には入ってこなかった。
ただ一つ、痛いほどはっきりと分かったことがある。――私はもう、昨日までの私には戻れない。世界の色が、一瞬で灰色に変わった瞬間だった。
一人になった病室で、私はシーツに顔をうずめ、声を殺して泣いた。怖くて、情けなくて、これから先どう生きていけばいいのか、暗闇の中で行く手が何ひとつ見えなかった。私はもう、夫の足を引っ張るだけの荷物になってしまったのではないか。子どもたちにまで、果てしない苦労をかけるだけではないのか。自責と恐怖の波に、溺れそうになっていた。
そのときだった。重たい病室のドアが、静かに開いた。
夫の正雄だった。三つ年上の夫は、その日、ふだんより十も老けて見えた。私の突然の凶報に、きっと私以上に打ちのめされていたのだろう。乱れた髪のまま、それでも彼は無理に口の端を持ち上げ、ベッドの脇に椅子を引き寄せた。そして、震える私の右手を、節くれだった温かい両手で、そっと包み込んだ。
「そんな顔するな」
低くて、よく通る、いつもの優しい声だった。その響きに触れた瞬間、堰き止めていたものが、一気にあふれ出した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
気づけば、麻痺していない右手で夫の手を握り返しながら、何度も謝っていた。何に謝っているのか、自分でも分からなかった。ただ、平穏だった夫の人生を、私のこの身体が壊してしまった気がして、繰り返し詫びる私に、正雄はゆっくりと首を横に振った。
「なんでお前が謝るんだ」
そして、少しだけ笑って言った。
「大丈夫だ。――俺が一生、お前の面倒を見るから」
私は子どものように声を上げて泣いた。六十七年の人生で、いちばん深く安心した瞬間だったかもしれない。世界中が私の敵に回ったとしても、この人だけは味方でいてくれる。この温かい手だけは、私を離さずにいてくれる。そう思った。いや、そう信じた。その言葉を、その人を、濁りのない、心の底から。
退院してからの暮らしは、想像していたよりずっと過酷だった。
以前なら五分で済んだ着替えに、一時間かかる。ブラウスのボタンを一つ留めるだけで、全身から汗が吹き出した。手洗いに立つことさえ、私にとっては大仕事だった。何度もバランスを崩して転んだ。何度も、床に這いつくばったまま泣いた。そのたびに、自分の無力さが嫌になった。
そんなとき、必ず正雄がいた。朝早く起きて、不慣れな手つきで朝食を整え、洗濯物を干し、私の代わりに買い物に行く。掃除機をかけ、私の生活のすべてを支えようとしてくれた。週に三度のリハビリにも、文句ひとつ言わずに付き添った。
待合室で、私を待ちながら一人で新聞を広げている、少し丸くなったその背中。それを見るたびに、申し訳なさで胸が潰れそうになると同時に、彼への深い感謝で視界がにじんだ。
ある夜のことだった。薄暗い寝室の布団の中で、私は耐えきれずに、小さく呟いた。
「ねえ……離婚してもいいのよ」
テレビを見ていた正雄が、怪訝そうに振り返った。
「なんだ、急に。藪から棒に」
「だって、私なんか、もう、まともに家のことも何もできないし……あなたに苦労をかけるだけだから」
言い終わらないうちに、夫はあからさまに顔をしかめた。
「馬鹿なこと言うな。俺たち、何年一緒にいると思ってる」
結婚して四十年あまり。楽しいことばかりではなかった。苦しいことも、悔しいことも、数えきれないほどあった。二人の子を育て上げ、住宅ローンを返し、互いの親を見送った。いろんな荒波を、私たちはこの手で一緒に乗り越えてきたのだ。
「今さら離婚なんて、するか」
そう言って、正雄は呆れたように笑った。私はまた、布団の中で涙をこらえた。この人と所帯を持って、本当によかった。本気で、そう思った。
世間には、介護に疲れて別れる夫婦もいると聞く。病に倒れた途端、手のひらを返して見捨てる人もいるという。けれど、私は違う。私は恵まれている。少なくとも、そのときの私は、迷いもなくそう信じていた。だから、何もかも任せた。通帳も、印鑑も。年金も、これまでの貯金も、保険も。月々のリハビリ費用を出し入れする口座まで、すべて。疑う理由など、どこを探してもなかった。夫婦なのだから。家族なのだから。何より、私のすべてを背負うと誓った、正雄なのだから。
夜、眠りにつく前。隣で穏やかな寝息を立てる夫の寝顔を眺めながら、私はいつも、祈るように思っていた。――私は運がいい。病気にはなったけれど、人には恵まれた。この人がいてくれるかぎり、大丈夫。私は一人じゃない。これから先も、きっと。
そう信じていた。心の底から。一片の疑いも持たずに。その絶対的な信頼が、いつか自分の胸を裂く一枚の刃に変わることなど、夢にも思わずに。
第二章 悪魔の通帳
――引き出しの奥に眠っていた秘密
人生というのは、不思議なものだ。崩れるときは、何の前触れもなく、たった一瞬で崩れ去る。何十年もかけて二人で積み上げてきた信頼も。互いを思いやる、美しいはずの愛情も。重ねてきた大切な思い出も。たった一冊の小さな冊子によって、跡形もなく砕け散ることがある。
あの日のことを思い出すたび、私は今でも、胸の奥を冷たい氷で撫でられるような感覚に襲われる。
梅雨入り前の、肌にじっとりとまとわりつくような、蒸し暑い午後だった。正雄は「特売に行ってくる」と、近所のスーパーへ出かけていた。私はリビングのソファに一人座り、流れるテレビの画面をぼんやりと眺めていた。だが、その内容は、何ひとつ頭に入っていなかった。
病院から届いたはずのリハビリ計画書が、どうしても見当たらなかったのだ。任せきりにするのも申し訳なく、私は自分で探そうと、重い腰を上げた。
以前なら、立ち上がって歩くだけの、何でもない動作。けれど、今の私にとっては違う。麻痺の残る身体を踏ん張り、杖を握りしめ、時間をかけて立ち上がる。左足を引きずり、壁に手をついて、寝室へと向かった。
目的の書類は、机の上にも、本棚の隙間にも見当たらなかった。ため息をついたとき、ふと、ふだんは決して触れない夫の整理ダンスが目に入った。
深い意味など、なかった。本当に、それだけだった。
――もしあのとき、別の引き出しを開けていたら。もし、書類のほうが先に見つかっていたら。私の人生は、まるで違うものになっていたかもしれない。そう思う夜が、今でも確かにある。
上段の引き出し。下着が、几帳面に畳まれて並んでいる。次の段。靴下とハンカチ。さらにその下――中段の引き出しを引いたとき、奥のほうで何かが引っかかる、鈍い感触があった。
指先で探ると、厚みのある茶色の封筒が出てきた。ずっしりと重い。銀行から届く書類のようにも見えた。
「何かしら」
軽い気持ちだった。本当に、軽い気持ちだったのだ。
封を開けると、中から一冊の通帳が滑り出た。我が家の生活費や医療費をやり取りしている銀行のものではない。見たこともない、小さな地方銀行の名が印字されている。
私は首をかしげた。我が家の口座なら、おおよそ把握している。年金、生活費、医療費――どれにも、この銀行はなかった。正雄が、私に言わずに作った個人の口座だろう。そう思った。そこで指を止め、引き出しに戻せばよかったのだ。
けれど、人間の好奇心というのは、恐ろしい。私は何かに吸い寄せられるように、表紙をめくった。最初のページ。残高は、数十万円ほど。定年を過ぎた男の小遣い口座なら、不自然な額ではない。
問題は、その次のページだった。
印字された文字を目にした瞬間、私は思わず眉をひそめた。見慣れないカタカナの店名が、何行にもわたって、執拗なまでに規則正しく並んでいた。同じ五文字が、何度も、何度も。
最初は、頭が拒んで意味が分からなかった。新しいマッサージ店だろうか。それとも、温泉施設の類か。――いや、違う。六十七年もあくせく生きてくれば、嫌でも分かる。その手の店名が、何を意味しているかくらい。
歯の根が鳴るのを感じながら、私は唇を噛みしめた。まさか。そんなはずがない。正雄が。私のために毎日ご飯を作り、リハビリに付き添ってくれる、あの正雄が。弾かれたように、ページをめくった。さらにめくった。
また、同じ名前。また、同じ名前。八万円。十万円。十一万円。九万円。引き出された額は、そのつど少しずつ違っていた。けれど、その頻度は異常だった。月に一度ではない。二度、三度、ときには一週間に何度も、万単位の金が吐き出されている。
急に、息が苦しくなった。肺の空気をすべて引き抜かれたように、胸が締めつけられる。嫌な冷や汗が背を伝い、視界がチカチカと明滅した。それでも、目が離せなかった。見たくないのに、網膜に数字が焼きついて離れない。知りたくないのに、真実が頭の中へ流れ込んでくる。
記録を遡る。一年前。二年前。三年前。途切れることなく、それは続いていた。まるで、終わらない悪夢だった。
私は這うようにしてリビングへ戻り、震える右手で電卓を引き寄せた。一行ずつ、数字を打ち込んでいく。打ち間違える。打ち直す。計算違いであってほしかった。何かの勘違いであってほしかった。お願いだから、嘘だと言ってほしかった。けれど、何度やり直しても、液晶に浮かぶ数字は変わらなかった。
――四百三十七万円。
その数字を見つめたまま、私は動けなくなった。四百三十七万円。頭の中で、何度も反響する。四百三十七万円。四百三十七万円。
そして私は、さらなる事実に気づいてしまった。通帳に「振込元」として記された口座番号。その数字の並びに、強烈な既視感があった。私は杖を頼りに書類棚を開け、医療費のファイルを取り出した。ページをめくり――そして、固まった。一文字も、違わなかった。
それは、病院への支払い、介護用品の購入、通院の交通費。私が少しでも歩けるようになるための、リハビリ費用の口座だった。そこから毎月、正雄の手によって、この見知らぬ通帳へと、金が流されていたのだ。
私は、その場に崩れ落ちた。耳鳴りがして、世界が激しく揺れた。
必死に歩く練習を重ねた日々が、まぶたの裏を駆け巡る。「痛い、もう無理」と泣きながら、冷たい平行棒にしがみついた日。足が上がらず、情けなくて床に座り込んだ日。絶望に負けそうになりながら、それでも続けた日。そのすべての隣に、正雄はいた。私の手を握り、「頑張れ」「お前なら大丈夫だ」「また一緒に歩けるようになる」と、あの優しい声で励ましてくれた。私はその言葉を、ひとつも疑わずに信じていた。だが今、目の前の数字は、まるで違う真実を語っていた。
私が一歩のために、地獄のような苦痛に耐えていた、まさにその時間。私が未来を取り戻そうと、汗と涙を流していた、その時間。その裏側で、夫は――。
私は通帳を、両手で強く握りしめた。みしり、と紙が音を立てて歪む。
涙は出なかった。怒りにすら、まだなっていなかった。衝撃が、あまりにも大きすぎて、感情の回路が焼き切れてしまったようだった。ただ一つだけ、はっきりと思った。私は、この人を信じていた。命がけで、信じていた。そして、その信頼が今、音もなく、足元から崩れはじめていた。
第三章 夫の本性
――「息抜きくらい必要だろ」
その日の夕方、私はリビングのソファに、ただ一人、石のように座り込んでいた。静まり返った部屋の中で、柱時計の秒針が時を刻む音だけが、やけに大きく鼓膜を叩く。テーブルの中央には、あの茶色の封筒と、一冊の通帳が置かれていた。何度見つめ直しても、印字された数字は変わらない。何度目を閉じても、突きつけられた現実は消えてくれない。窓の外では、夕暮れがゆっくりと街を赤く染めていた。
いつもなら、正雄が帰ってくる時刻だった。レジ袋を抱え、「今日は特売に間に合ったぞ」などと、少し得意げな声を響かせながら玄関を開ける時刻。
だが、その日は違った。私は待っていた。従順で、感謝に満ちた妻としてではない。信じていたすべてを足蹴にされた、一人の人間として。裁きの時を待つように、夫の帰りを待っていた。
やがて、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま。いやあ、今日は蒸すなあ」
いつもと何ひとつ変わらない、穏やかな声だった。その声を耳にした瞬間、胸の奥が引き裂かれるように疼いた。この声に、どれだけ救われてきただろう。この声の温もりを、どれだけ信じてきただろう。だが、その愛おしかった響きのすべてが、今は泥にまみれて聞こえた。
正雄は買い物袋を抱えたままリビングへ入り、ソファに掛けた私の硬直した表情を見るなり、ぴたりと足を止めた。長年連れ添った勘だろうか。彼は何かを察したように、片眉を上げた。
「……どうした。具合でも悪いのか」
私は答えなかった。代わりに、麻痺のない右手で、テーブルの中央にある通帳を、彼のほうへと静かに滑らせた。
正雄の顔色が変わった。一瞬だった。ほんの一瞬。だが、私は確かに見た。彼の顔から血の気が引き、土気色に変わっていく、その瞬間を。
「説明して」
自分でも驚くほど、冷たく、冷静な声だった。本当は、掴みかかり、怒鳴り散らし、泣き叫ぶつもりだったのだ。それなのに、いざ本人を前にすると、激しい感情はどこかへ消え去り、凍てつくような静寂が私を支配していた。正雄は、通帳を見つめたまま硬直していた。
「これは……」
その声は、明らかに震えていた。私は黙っていた。余計な言葉を挟んで、逃げ道を与えたくなかった。重苦しい沈黙が、夕闇の迫る部屋を満たしていく。秒針だけが、冷酷に時を刻む。
やがて正雄は、身体から骨を抜かれたように、力なく向かいの椅子へ腰を落とした。買い物袋から、ネギの頭が虚しく覗いていた。
「お前……これ、見たのか」
「見たから、聞いてるの。そのお金、どこから出ているの」
「違うんだ、それには訳が……」
その言葉を聞いた瞬間、私は乾いた笑いが漏れそうになるのを、必死で堪えた。違う、とは何が違うのだろう。通帳のインクは、嘘をつかない。印字された店名も、四百万円を超える数字も、何ひとつ嘘はつかない。三年間。四百三十七万円。それは、言い逃れのできない事実だった。
「何が違うの」
正雄は視線を激しく泳がせ、額に冷や汗を浮かべた。
「その……付き合い、みたいなもんなんだ」
「付き合い」
「ほら、男同士の、そういう……断れなくて」
私が冷ややかに沈黙を貫くと、正雄は焦ったように、さらに言葉を継いだ。
「本気じゃない。ただの遊びなんだ。――誰だって、やってることだ。男なんて、そういう生き物なんだから」
その瞬間、胸の奥で、何かがパキリと音を立てて軋んだ。
誰だって、やっている。だから、何だというのだろう。私が聞きたかったのは、そんな浅い言い訳ではなかった。
私は、たった一言で、よかったのだ。すまなかった。俺が悪かった。許してくれ。もし彼が、プライドを捨てて頭を下げ、涙を流して詫びてくれたなら。費用を使い込んだ罪は消えずとも、私の心は、これほど冷たくならずに済んだのかもしれない。だが、正雄は謝らなかった。最後まで。ただの一度も、私に頭を下げようとはしなかった。
「あれは……私のリハビリのお金だったのよ。私が、また歩けるようになるための」
私が静かに、けれど明確に告げると、正雄は急に顔をしかめた。まるで、これ以上責められる筋合いはない、とでも言いたげに。そして次の瞬間だった。
「じゃあ、俺はどうなんだよ!」
声が、突然ひっくり返ったように大きくなった。私は目を見開いた。怒るのは、裏切られた私のほうではないのか。
「俺だって、苦労してるんだ。五年だぞ。お前が倒れてから五年間、毎日毎日、介護して、家のことも全部やって――どれだけ大変だったと思ってる!」
怒鳴り声が、部屋に響き渡る。正雄の顔は真っ赤に染まり、首筋には血管が浮き上がっていた。その目は、謝罪ではなく、激しい逆恨みの炎で燃えていた。
「ストレスだって溜まる。介護される側のお前はいいが、する側の限界は誰が考えてくれるんだ。男には、それくらいの息抜きが必要なんだよ。俺だって、生身の人間なんだからな!」
その言葉が鼓膜に突き刺さった瞬間だった。私の中で、何かが静かに、けれど完全に壊れた。音もなく。修復不可能なまでに。
そのときまで、私はどこかで、まだ期待していたのだと思う。真実を突きつけられれば、彼はきっと後悔に打ちのめされ、申し訳なさに泣いてくれるのではないか。私への愛は、まだ残っているのではないか。そう、信じたかった。けれど、違った。この男は、自分を哀れな被害者だと思い込んでいる。麻痺した妻を支えてやった見返りとして、リハビリ費用を盗み、注ぎ込むことは許されるべきだと、本気で考えている。私の病の苦しみも、治らないかもしれないと流した涙も、あのリハビリ室での絶望も。すべて、自分のストレスを語るための材料でしかなかったのだ。
不思議なほど、頭の中が冷たく澄み渡っていった。烈火のような怒りは消えた。哀れな悲しみも、霧散した。もはや、目の前で大声を出す老人は、私の夫ではなかった。四十年あまり連れ添い、酸いも甘いも噛み分けてきた伴侶でもなかった。ただの、裏切り者だった。知らない男だった。
正雄は、なおも自分を正当化しようと怒鳴り続けていた。「介護する側の気持ちも考えろ」「俺ばかり責めるな」「お前だって、俺に頼り切りのくせに――」。けれど、もう、その声は耳に入らなかった。
私は静かに立ち上がった。杖を握る手は震えていた。だが、それは恐怖や悲しみの震えではない。心は、大きな台風が過ぎ去ったあとの海のように、奇妙なほど凪いでいた。
そして、私は正雄を見た。まっすぐに。長い歳月を共にし、かつて人生で最も深く信じた男の顔を、最後に、一人の人間として見つめた。
「そう」
低く、静かに言った。正雄は、その温度のない声に気圧されたのか、ぴたりと言葉を止めた。
「それが、あなたの答えなのね」
「……」
「よく、分かったわ」
それだけだった。私は背を向け、左足を引きずりながら、寝室へと歩き始めた。正雄は背後から何か言おうと口を動かしたが、引き留めはしなかった。引き留める資格も、言葉も、もう残されていないと気づいたのだろう。あるいは、何も分かっていなかったのかもしれない。もはや、どちらでもよかった。
その夜、私は一睡もできなかった。けれど、涙はただの一滴も出なかった。代わりに、胸の奥深く、暗い底のほうで。黒く、重たい何かが、ゆっくりと、確かな形を結びはじめていた。それは、単純な憎しみではなかった。一時の恨みでもなかった。もっと冷たく、もっと静かなもの。
――決意だった。
もう、私たちは夫婦ではない。二度と、家族でもない。私はこの男を、絶対に許さない。どれほどの時間がかかろうとも、どれほどの手間を費やそうとも、私が味わった絶望のすべてを、何倍にもして償わせる。
その夜、暗闇の中で、私の静かな復讐の歯車が、音もなく回りはじめたのである。
第四章 静かな作戦
――復讐の準備は水面下で
人は、本当に深く怒ったとき、叫ばなくなる。激昂して声を荒らげるのも、涙を流してなじるのも、すべては「まだ伝わるかもしれない」という、一縷の希望があるからだ。少なくとも、私はそうだった。
あの夜以来、私は一度も正雄を責めなかった。本当に、ただの一度も。怒鳴りもしない。泣きもしない。嫌味も言わない。翌朝からは、まるで何事もなかったかのように、今まで通りの穏やかな声で挨拶をし、彼の作った食事を口にし、淡々と日々を暮らしはじめた。
正雄は、それを見て、目に見えて安心したようだった。時間が解決してくれた。一時は爆発したが、俺に頼らなければ生きていけない妻は、そのうち諦めるだろう――おそらく、そんなことでも考えていたのだろう。
男という生き物は、つくづく自分に都合よく物事を解釈する。自分が犯した罪の重さに向き合うよりも、自分が許される見込みばかりを見つめている。正雄も、その典型だった。だから、まったく気づいていなかった。私が毎日少しずつ、確実に、自分の足元を掘り崩す準備を始めていたことに。
翌週。私はリハビリの日を口実に、外出した。正雄には「帰りに買い物に寄るから、迎えは要らない」とだけ伝えた。嘘ではない。ただ、病院のあとにどこへ向かうのかまでは、わざわざ伝えてやらなかった。
駅前の雑居ビル、六階。小さな法律事務所だった。エレベーターの鏡に映る自分の顔は、思っていたより老けていた。けれど、その目だけは、これまでの人生のどの瞬間よりも、冴え冴えと光っていた。
受付で名を告げ、しばらくして会議室へ通された。担当したのは、五十代半ばの、理知的な目元をした女性弁護士だった。私は席に着くなり、持参した書類を、机の上に並べていった。あの地銀の通帳のコピー。逆引きしたリハビリ費用口座の出入金記録。数年分の資産の推移。そして、何月何日にいくら流されたかをまとめた、支出の一覧表。
弁護士は、黙って目を通していた。十分ほど経った頃、彼女は老眼鏡を外し、私をまっすぐに見つめて言った。
「……かなり、緻密に整理されていますね」
私は小さく、頷いた。その一言が、胸の奥で少しだけ小気味よく響いた。まるで、難しい試験に一発で合格したような、静かな達成感。自分でも、冷たいと思う。夫に裏切られた悲しみに打ちひしがれる段階は、とうに過ぎていた。今の私は、どうすればこの男を最も確実に追い詰められるか、その盤面を冷徹に見つめる、一人のプレイヤーだった。
弁護士は、続けた。これだけの証拠が揃っていれば、離婚は十分に可能。不貞の慰謝料はもちろん、介護費用の横領として、財産分与の協議も、極めて有利に進められると思う、と。
私は静かに聞いていた。胸のときめきも、怒りも、涙もない。ただ頭の中で、冷たく算盤を弾いていた。どこまで失わせることができるのか。どこまで責任を取らせられるのか。私を占めていたのは、それだけだった。
帰宅すると、正雄が台所で夕飯を作っていた。トントンと、小気味よい包丁の音が響く。今夜は煮魚だった。私の好物だ。
数か月前の私なら、その姿を見て、不器用なのにありがとう、と心から感謝しただろう。けれど、今は違う。エプロンをつけて台所に立つ後ろ姿を見ても、何ひとつ湧いてこない。
――愛情が死ぬというのは、こういうことなのかもしれない。激しい憎しみや怒りの、さらにその先に。完全な無関心が、やって来る。
私が食卓につくと、正雄がいつもの笑顔で振り返った。
「おかえり。今日の病院はどうだった。体調は変わりないか」
「ええ。いつも通りよ」
「そうか、なら良かった」
会話は、それだけで終わった。彼は何ひとつ知らない。数時間前、妻が弁護士の部屋で、彼の人生を畳むためのシナリオを完成させてきたことも。自分のこれからが、跡形もなく崩れていくカウントダウンが、もう始まっていることも。
それからの私は、さらなる証拠集めに奔走した。驚くほど、簡単だった。正雄は、私を完全に舐めきっていた。一度怒鳴りつければ、病気で動けない妻は萎縮して、二度と逆らわないと信じ込んでいた。だから、隠す努力すら放棄していた。
財布に残された、店の割引券やレシート。クレジットカードの不可解な明細。スマートフォンに時折ポップアップする、店からの営業の通知。私は、彼が風呂に入っている隙や、寝静まった夜中を見計らい、麻痺のない右手だけで、それらを一つ残らず写真に収め、コピーを取った。日付順に並べ、ファイルへと綴じていく。万が一の裁判に備え、ページ番号まで正確に振った。
深夜。正雄が、隣で何ひとつ疑わずにいびきをかいて眠っている。私は薄暗い常夜灯の明かりのもとで、淡々とその作業を続けた。それは、かつて幼い子どもたちの成長記録をアルバムに整理していたときの手つきと、驚くほどよく似ていた。違うのは、綴じる中身だけ。あれは、輝かしい思い出だった。これは、四十数年の婚姻を圧し潰すための、裏切りの記録だった。
ページが増えるたびに、私の中の感情は、反比例するように薄れ、平坦になっていった。悲しみも、怒りも、もう私を揺さぶることはない。あるのは、目的だけだった。
ひと月が過ぎた。正雄はますます油断し、かつての「優しい良き夫」の仮面を器用に被り直していた。そして相変わらず、私の介護費用の隙間を縫って、あの店へと通い続けていた。まるで、すべては正当な息抜きであり、何の問題もないと言わんばかりに。
私は、そんな夫を、檻の向こうの何かを観察するような目で見ていた。朝、私を気遣う顔をする瞬間。テレビのお笑い番組を見て、無邪気に笑う横顔。音を立てて飯を食う姿。そのすべてが、滑稽で、哀れで、そしてたまらなく醜かった。
自分はまだ、この家の主のつもりでいる。妻を支える、立派な父親のつもりでいる。だが、お前はもう、とうに終わっている。ただ、本人だけが、その事実に気づいていない。静まり返った夜、私はその構造が妙に可笑しくて、暗闇の中で小さく息を漏らした。
ふと、洗面所の鏡を見た。
そこには、もう、夫にすがって泣いていた女はいなかった。誰かに守られることを期待し、裏切られて絶望していた、哀れな女でもない。裏切りという毒によって、新しく生まれ変わった、冷たい一人の女。そして何より――最も効果的な一撃を叩き込むために、「待つ」ことを覚えた女だった。
復讐は、焦ったら負けだ。感情に任せて動けば、必ずどこかで綻びが出る。だから私は待った。いちばん効く瞬間を。いちばん逃げ場のない場所を。あの男のプライドを、最も深く、修復できないまでに砕ける手立てを。静かに、確実に。その時を待った。
そしてある日。私は、スマートフォンに登録された、離れて暮らす息子と娘の連絡先を見つめながら、静かに微笑んだ。
ようやく、水面下の準備は、すべて整った。次は、家族だ。正雄がその人生において、何よりも失いたくないと願う、最後の砦。それを、彼の両手から永遠に奪い去る番だった。
私は携帯電話をしっかりと握りしめ、息子と娘へ向けて、静かに、文字を打ちはじめたのである。
第五章 家族会議
――子どもたちの怒り
正雄には、男としての、そして一人の人間としての、強い誇りがあった。決して自ら大口を叩くことはしなかったが、四十数年も連れ添っていれば、その急所がどこにあるかくらい、嫌でも分かる。会社員時代、彼は大きな出世をしたわけではない。他を圧倒する才に恵まれたわけでもない。だが、そんな彼が唯一、周囲に胸を張れるものがあった。自慢の家族だった。良き夫であり、立派な父親であること。それが、正雄という男の自負そのものだった。盆や正月に息子や娘が孫を連れて帰省するたび、彼は本当に嬉しそうな顔をした。近所の人に会えば、頼まれもしないのに孫の写真を見せて回った。「うちの息子は真面目で、若いくせに頼りになる」「娘も立派に家庭を守っている」。酒を飲むたび、満足げにそう繰り返していた。
私は知っていた。正雄にとって、子どもたちからの尊敬と信頼は、失えば生きていけないほど大切な、人生のすべてなのだと。だからこそ、私はそこを選んだ。彼の人生に、最も深い傷を負わせることができる場所を。
息子と娘の元へ、あの茶色の封筒を送ったのは、ある木曜日のことだった。中に入れたのは、夜な夜な右手だけで整理し続けた、証拠ファイルのコピー。地銀の通帳記録。クレジットカードの明細。何月何日にいくらのリハビリ費用が流されたかを網羅した、一覧表。そして、一枚の手紙。そこには、恨みつらみの言葉は、一切書かなかった。夫を罵倒することも、自分がどれほど哀れな被害者であるかを訴えることもしなかった。ただ、何が起きていたのかという事実だけを、淡々と記した。事実ほど、残酷なものはない。私は、それを知っていた。
翌日の夜。スマートフォンに、娘から電話がかかってきた。耳に当てると、受話器の向こうで、激しくしゃくり上げる声が聞こえた。
「お母さん……これ、本当なの。嘘でしょ……お父さんが、そんなこと……」
私は、驚くほど平坦な声で答えた。
「全部、本当よ」
しばらく、嗚咽だけが続いた。やがて、娘が絞り出すように呟いた。
「どうして……どうしてそんなことができるの……」
その絶望に満ちた声を聞いた瞬間、私の胸の奥が、ほんの一瞬だけ、チクリと痛んだ。娘は、小さい頃から父親のことが大好きだった。運動会でも、入学式でも、成人式でも、いつも正雄の隣で、幸せそうに笑っていた。その優しかった父親の像が、音を立てて崩れていく。娘にとっても、それは耐えがたいことだったろう。
だが、私は止まらなかった。もう、同情で引き返せる場所には、いなかった。
翌々日には、息子から電話が来た。息子は、娘とは違った。涙の代わりに、その声は凍りつくような怒りに満ちていた。低く、地を這うような声だった。
「親父、一体何考えてるんだ」
私は何も答えず、ただ息子の言葉を受け止めた。
「俺、知ってるんだ。母さんが倒れてから、どれだけ必死にリハビリしてたか。足が動かないって、泣きながら平行棒につかまってた姿、俺だってこの目で見てたんだ。なのに、その金で親父は……」
その声には、怒りだけでなく、果てしない失望が混じっていた。尊敬していた一人の男が、無残に墜ちていく音を、息子もまた聞いていたのだろう。私は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。これで、外堀は埋まった。
日曜日。家族会議の当日がやってきた。朝から空は重く曇り、今にも泣き出しそうな灰色の雲が、低く垂れ込めていた。まるで、この家に訪れる破滅を、あらかじめ知っていたかのような空模様だった。
正午を過ぎた頃。最初にやってきた娘は、目が真っ赤に腫れていた。昨夜、一睡もできずに泣き続けたのだろう。私の顔を見るなり、また視線を落とした。続いて、息子夫婦が、重苦しい足取りでやって来た。いつもなら真っ先に私を気遣う息子が、今日は一言も発せず、表情を鉄のように強張らせていた。
リビングの空気は、窒息しそうなほど重かった。その中で、ただ一人、正雄だけが、何も事情を知らなかった。子どもたちが孫も連れずに突然集まったことに、どこか浮き足立っているようだった。
「なんだ、みんな揃って珍しいな。言ってくれれば、何か美味いものでも出前したのに」
そう言いながら、嬉しそうにお茶を淹れている。その無防備な後ろ姿を見つめながら、私は思った。人間というのは、自分の足元が腐り落ち、底が抜けるその瞬間まで、本当に何も気づかないものなのだと。
全員が、食卓を囲んで席に着いた。息が詰まるような沈黙が流れる。聞こえるのは、柱時計の秒針だけ。正雄もようやく、ただならぬ雰囲気に気づいたのか、
「……どうしたんだ。みんなして、怖い顔をして」
と口元を強張らせた。
やがて、息子が口を開いた。
「親父」
その声には、一切の温もりがなかった。他人に向けられるよりも、なお冷たい響き。正雄は身をすくめるようにして、息子を見た。
「なんだよ、改まって」
息子は無言のまま、バッグから一冊のファイルを取り出し、机の中央へと置いた。あの、裏切りの証拠ファイルだった。
正雄の表情が、その瞬間に凍りついた。娘が、涙で震える声を絞り出した。
「お父さん……これ、本当なの。嘘だって言ってよ」
正雄は、何も答えなかった。いや、答えることができなかった。見るみるうちに顔から血の気が失せ、唇が震えはじめる。
息子が、ファイルのページをめくった。パサリ、パサリと、静まり返った部屋に紙の音だけが響く。レシートのコピー。クレジットカードの明細。通帳に並ぶ店名が、白日のもとに晒されていく。
息子は、父親の目をまっすぐに見据え、吐き捨てるように言った。
「親父。あんた、人として最低だな」
正雄の肩が、ビクリと震えた。
「違うんだ……あれは……」
小さな、掠れた声で言い訳を始めようとしたが、もう誰も、彼の言葉に耳を傾けようとはしなかった。娘が顔を覆い、泣き崩れた。
「お母さんが、どれだけ苦しい思いでリハビリしてたか、お父さんが一番近くで見てたでしょ。歩けなくて、夜中に一人で泣いてたの、知ってたでしょ。毎日、毎日、またお父さんと歩きたいって、頑張ってたんだよ。なのに、そのお金で……どうしてそんなことができるのよ」
娘の悲鳴が、部屋を震わせた。その姿を見ても、正雄はもう何も言えなかった。数か月前、私に向かって「俺だって被害者だ、息抜きが必要なんだ」と怒鳴り散らした、あの傲慢な勢いは、どこにもなかった。
息子の妻が、初めて口を開いた。
「お義父さん。私、信じられませんでした。お義母さんを介護する、素晴らしい旦那様だと、心から尊敬していたのに」
静かな声だった。けれど、その一言は、鋭かった。他人から向けられる失望は、重い。だが、身内から――自らが手塩にかけて育てた子どもたちから向けられる失望は、それよりも遥かに重く、鋭い刃となって正雄の胸を抉った。彼は深く頭を垂れ、机を見つめたまま固まっていた。一瞬にして、十も二十も老け込んだように、その背中は小さく丸まっていた。
私は、その様子を、ずっと一言も発さずに見つめていた。誰も私に発言を求めなかったし、その必要もなかった。この場の全員が、すでに真実を知っている。今さら、私が責める言葉を重ねる必要など、どこにもなかった。
裁きは、すでに終わっていたのだ。
しばらくして、娘の泣き声が静まり、部屋には再び、死のような沈黙が戻ってきた。誰も、話さない。誰も、正雄を見ようとしない。視線すら合わせてもらえない――それこそが、この世で最も残酷な仕打ちだった。怒鳴られるほうが、まだ楽だったろう。責め立てられるほうが、縋るチャンスがあるだけ、まだ救いがあったろう。だが、今の正雄には、それすらない。家族全員から、いなかったもののように、見放されていた。
私は、麻痺の残る身体を支え、杖を握りしめて立ち上がった。そして、あらかじめバッグに忍ばせていた、一通の白い封筒を、静かに机の上へと置いた。
正雄が、怯えたような目で、ゆっくりと顔を上げた。私は封筒から、一枚の紙を滑り出させた。緑色の枠線が刷られた、役所の書類。
――離婚届だった。
正雄の瞳が、恐怖で激しく揺れた。人生で初めて見る、夫の本当の怯え顔だった。私は、自分でも恐ろしいほど穏やかで、澄んだ声で言った。
「サインして」
怒りも、憎しみも、涙も、その声には含まれていなかった。ただ、終わりだけを告げる声だった。
正雄は、目の前の離婚届とペンを、見つめ続けていた。長い、永遠のような沈黙が続く。やがて、彼は血の気のない、震える手でペンを握った。息子も、娘も、それを止める者は、誰もいなかった。ただ、冷ややかに見つめていた。父親が、父親でなくなる瞬間を。四十数年続いた家族という形が、息絶える瞬間を。
ペン先が、紙の上を、摩擦音を立てて、ゆっくりと滑る。
――加藤 正雄。
その名が、そこに記された。四十年あまりの歳月を重ねた夫婦が、消滅した瞬間だった。正雄は、書き終えても、最後まで顔を上げることができなかった。
私は、その姿を、ただ見つめていた。不思議なことに、胸の中に、弾けるような達成感も、狂喜するような快感もなかった。ただ、頭の芯が冷え切ったまま、一つの感想だけが浮かんでいた。
――ようやく、始まったのね。
本当の終わりが。正雄の自慢だった家族を奪い去り、私の復讐は、次の段階へと、容赦なく進んでいくのである。
第六章 孤立への道
――社会的制裁
離婚届が受理されたのは、桜が散りはじめた頃だった。役所からの帰り、車の窓越しに眺めた桜並木は、まるで一つの長い季節の終わりを告げているようだった。四十数年。私の人生の半分以上を占めた結婚生活は、たった一枚の紙切れによって、あっけなく幕を閉じた。
不思議なことに、涙はただの一滴も出なかった。胸を締めつける悲しみも、喪失感もない。ただ、驚くほどに静かだった。大きな嵐がすべてを押し流し、去っていったあとの、誰もいない海のように。
けれど、その静けさの底には、まだ消えていないものがあった。正雄への怒り。いや、それはもう、怒りというよりも、もっと冷たい願いに近かった。
――自分が一体、どれほどかけがえのないものを失ったのか、思い知ればいい。
私の胸を満たしていたのは、その意志だけだった。
離婚後、私は娘の家の近くに、小さなマンションを借りて移った。決して豪華ではない。けれど陽当たりがよく、南向きの窓からは小さな公園が見渡せた。朝になると、どこからか子どもたちの笑い声が、風に乗って聞こえてくる。それだけで、凍りついた心には、十分すぎる救いだった。
新しい暮らしは、少しずつ、けれど確実に、私を前へと進ませた。一人になっても、リハビリは休まず続けた。皮肉なものだ。夫に付き添われていた頃よりも、今のほうが、歩ける距離が目に見えて伸びていた。麻痺の残る左足を引きずりながらも、杖さえあれば、一人で近所のスーパーまで行けるようになった。それだけのことが、嬉しかった。
けれど、正雄のことを忘れたわけではなかった。忘れるつもりも、毛頭なかった。人の噂というのは、本当に不思議なものだ。こちらから大声で広めようとしなくても、水が染み込むように、勝手に世間へと広がっていく。まして、それが目を背けたくなるような事実であれば、なおさらだった。
私は、誰かを捕まえて夫の悪口を言い触らしたわけではない。被害者を気取って吹聴したわけでもない。ただ、リハビリの帰りやスーパーの店先で、かつての知人や、仕事関係の奥さんたちに呼び止められ、聞かれたことに、事実だけを答えた。
「あら、最近ご主人を見かけないけれど、お元気」
そう聞かれれば、私は穏やかに、けれどはっきりと答えた。
「ええ、もう元主人ですから。離婚いたしましたの。主人が、私のリハビリのお金を、使い込んでいまして」
それだけだった。大袈裟な装飾も、嘘も、一つもない。一から十まで、紛れもない事実だった。けれど、悪意のない、淡々とした事実ほど、ときにどんな刃物よりも鋭く、相手を切り裂く。
最初に正雄の元から離れていったのは、彼の唯一の娯楽だった飲み仲間たちだった。定年後も、毎週金曜になると駅前の居酒屋に集まり、昔話や愚痴を言い合っていた友人たち。彼らは一様に、病気の妻を介護する正雄を「大したもんだ」と称賛していた。だが、真相を知った彼らの態度の変わりようは、冷酷なほど早かった。
ある日を境に、正雄のスマートフォンには、誰からも誘いが来なくなったらしい。後日、荷物の整理に立ち寄った息子から聞いた。
「親父、最近、金曜になっても家にこもって、一人で発泡酒を飲んでるみたいだぞ。誰とも連絡が取れないって、寂しそうにこぼしてた」
私は、何も言わなかった。当然の報いだった。老人たちの付き合いにおいて、最も嫌われるのは、病の妻を欺いて金を奪い、不貞に耽る男である。信用という名の砂の城は、崩れるときは一瞬なのだ。
次は、彼が何より楽しみにしていた、地元の同窓会だった。正雄は毎年、数か月前からスーツをクリーニングに出すほど、古い仲間と会うのを生きがいにしていた。ところが、その年は、いつまで待っても案内状が届かなかったという。正確には、幹事から、個別にやんわりとした断りが入った。
「今回は、少人数で集まることになったから、また次の機会にな」
体面の良い文句だった。だが、本当の理由がどこにあるかなど、いくら鈍感な正雄でも、気づかないはずがなかった。世間は、狭い。誰か一人が知れば、明日の朝には全員が知っている。そういうものだ。
正雄の変化は、定期的に様子を見に行く息子の口から、嫌でも私の耳に届いた。最初は、彼も逆上していたらしい。「あの女、別れた後まで俺の悪口を言いふらしやがって」。そんな言葉を吐き捨てていたという。だが、その怒りも、長くは続かなかった。日を追うごとに、周囲の沈黙という名の現実が、容赦なく彼を絞めていったからだ。
誰も、電話をかけてこない。誰も、遊びに誘わない。年末になっても、年賀状の束は数枚にまで減った。かつて盛大に祝ってくれた誕生日に、おめでとうと言ってくれる人間は、もう誰一人いなくなった。気づけば、彼の周囲には、ただ広大な空白だけが広がっていた。
ある秋の夕暮れ時。私はスーパーの帰りに、かつて隣に住んでいた老婦人と、駅前の交差点で出くわした。彼女は私の足元を気遣うように見たあと、ひどく言いにくそうに、尋ねてきた。
「あの方、最近、本当にお見かけしないわね。お家も、売りに出されているみたいだし……」
私は足を止め、杖を握り直した。そして、迷いなく答えた。
「ええ、もう元主人ですから。私たちは、離婚いたしましたの」
知人は「やっぱり、本当だったのね」と痛ましそうに絶句した。私は、それ以上、言葉を重ねなかった。それだけで、十分に伝わるからだ。私は小さく会釈をして、ゆっくりと歩き出した。背後で、彼女の短いため息が、秋の冷たい風に消えていくのが分かった。
その夜。私はベッドに腰かけ、ふと、段ボールの奥から持ってきた古い家族アルバムを開いた。そこには、三十代、四十代の頃の、若々しい私たちの姿が、鮮やかな色で残っていた。新婚旅行で行った北の広い空。子どもたちの賑やかな運動会。家族四人で、大きな波に怯えながら笑った夏の海。娘の七五三で、誇らしげに胸を張る、まだ髪の黒い正雄。
確かに、私たちは幸せだった。あの頃の正雄は、間違いなく良い父親であり、優しい夫だった。その記憶に、嘘はなかった。アルバムの表面を撫でる指先が、ほんの一瞬だけ、微かに震えた。とうに死に絶えたはずの胸の奥が、ほんの少しだけ、ズキリと痛んだ。
けれど、私は静かにアルバムを閉じ、段ボールの闇へと戻した。過去は、過去だ。どれほど美しい思い出があろうと、それが彼の裏切りの免罪符になるわけではない。彼が私の尊厳を、リハビリのための金を貪ったという現実は、何があっても消えはしないのだ。
数か月が経ち、季節は冬へと向かっていた。ある日、私の家を訪ねてきた息子が、温かいお茶を飲みながら、何気なく言った。
「そういえば……親父、この前、玄関先で倒れたらしいよ」
私は、湯呑みを持つ手を止め、顔を上げた。
「……大丈夫だったの」
「うん。大家さんがたまたま通りかかって、ただの貧血だって分かったから、良かったんだけど」
息子は、どこか自嘲気味な苦笑を浮かべて続けた。
「でもさ、倒れてから数時間、誰も気づかなかったみたいなんだ。床に這いつくばったまま、起き上がれずに、じっとしてたんだって」
その言葉が、私の胸に、妙に深く突き刺さった。
――誰も、気づかなかった。
それはつまり、今のあの男には、異変に気づいて駆けつける家族も、ドアを叩いてくれる友人も、何ひとつ残されていないということだ。かつてあれほど家族を自慢し、人脈を誇った男が、今や、誰からも存在を忘れられている。
窓の外では、冬の寂しい夕日が、ビルの合間へと沈みかけていた。私は静かに、紅茶を口に運んだ。喉を通り過ぎる液体は、温かいはずなのに、どこか、ひどく苦かった。
正雄は今、完全な一人ぼっちだった。私が仕掛けた静かな作戦によって、彼は家族を失い、友人を失い、社会的な信用を失った。かつて空気のように当たり前に持っていた幸福のすべてを、その両手から奪い取られたのだ。
それは、間違いなく私が望んだ結末だった。私の手による、完璧な制裁だった。だから、彼を憐れむ資格など、私には、これっぽっちもない。
その夜、布団に入ってからも、私はなかなか眠れなかった。冷たい天井を見つめながら、私は自問していた。復讐とは、一体何なのだろう。相手をこれほど惨めに苦しめることだろうか。失った尊厳を、奪い返すことだろうか。その答えは、どれだけ考えても、霧の向こうだった。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。正雄は今、その人生で初めて、本当の孤独を味わっている。私がかつて、あの白い病室で味わった絶望に比べれば、これでもまだ生ぬるいのかもしれない。それでも――。
あの日、リビングで私に言い放った、あの言葉。「男には、それくらいの息抜きが必要なんだよ」。その取り返しのつかない言葉の代償を、彼は今、ようやく支払いはじめているのだ。
私は目を閉じ、暗闇の中で静かに息を吐いた。復讐は、順調だった。あまりにも、描いたシナリオ通りに、順調だった。
そしてこのときの私は、まだ知らなかった。この先に待つ、あまりにも皮肉な再会が、正雄にとって、本当の地獄の入り口になることを。
第七章 立場逆転
――一人ぼっちの老後
あの家族会議と、緑色の離婚届から、早いもので二年という歳月が流れていた。
二年。長いようでいて、過ぎ去ってみれば、あっけない時間でもあった。私の生活は、驚くほど変わっていた。毎朝、決まった時刻に目覚め、カーテンを開けて朝日を浴びる。自分のためだけに湯を沸かし、簡単な朝食を用意する。それが終わると、リハビリを兼ねて、近所の散歩へと出かける。
倒れた当初は、家の中の数メートルを移動するだけで息を切らし、床を這って泣いていた私が、今では一本の杖さえあれば、駅前の商店街まで、自分の足で行けるようになっていた。
人間というのは、不思議なものだ。失った機能や、奪われた過去ばかりに目を向けているうちは気づかないが、絶望の淵からでも、身体は少しずつ、前へ進もうと抗っている。私もまた、そうだった。病に倒れた瞬間、すべて終わったと絶望したあの日常は、ゆっくりと、けれど確かに、新しい形を変えながら、続いていた。
娘の暮らす家は、私の新居から歩いて十分ほどの距離にあった。小学校に上がった孫たちは、毎日のように私のマンションへ遊びにやってくる。
「おばあちゃん、遊びに来たよ」
そう言って、屈託のない笑顔で飛び込んでくる、小さな生命。その柔らかな温もりを右腕で抱きしめるたび、私は心の底から、生きていてよかったと、静かな幸福を噛みしめた。夕方になれば、孫の手を引いて公園へ行く。ベンチに腰かけ、夕暮れの中で走り回る姿を、ただ眺める。
贅沢な老後ではない。誰もが羨む華やかな暮らしでもない。けれど、そこには、誰にも脅かされない、穏やかで、心の休まる時間が流れていた。
一方で、正雄の境遇は、私とはあまりに対照的だった。息子が時折、私の体調を気遣うついでに、聞きたくもない彼の近況を運んできた。
売却した一戸建ての資金の大半は、財産分与と慰謝料、そしてリハビリ費用の返還として私が受け取ったため、正雄の手元には、ほとんど残らなかった。彼は今、実家近くの、築五十年を超える木造アパートの二階で暮らしているという。壁は薄く、冬は凍えるように寒く、夏は蒸し風呂のようになる、狭い一室。そこにあるのは、必要最低限の冷蔵庫と、小さなテレビ、そして万年床のような古い布団だけ。
息子は、湯呑みを回しながら、どこか遠い目をして言った。
「親父、最近、急に老け込んだよ。前はあれだけ背筋が伸びてて、頑固一徹って感じだったのにさ。今はすっかり猫背で、歩くのも、信じられないくらい遅くなって」
私は何も答えず、ただ静かに聞き流していた。可哀想だとも、ざまあみろとも思わなかった。ただ、その惨めな変化のすべては、私が望み、私が仕掛けた結果なのだという事実だけが、胸の奥に灯っていた。彼をそんな境遇に叩き落としたのは、ほかでもない私なのだ。私に、彼を同情する資格など、あるはずがなかった。
ある秋の、夕暮れ時のことだった。娘の家で夕食の支度を手伝い、その帰り道、駅前の商店街を歩いていた。空は、燃えるような茜色から、次第に深い群青色へと移り変わろうとしていた。買い物客の雑踏の中、私は杖をコツ、コツと響かせながら、ゆっくりと進んでいた。
ふと、十数メートル先に、妙に見覚えのある後ろ姿が歩いているのが目に入った。
最初は、人違いだと思った。けれど、その独特な歩き方に、私の目は釘付けになった。少しだけ右肩を下げる、昔からの癖。一歩一歩を確かめるような、重苦しい足取り。私は、思わず足を止めた。
――正雄だった。
驚くほど、小さく見えた。二年前、リビングで私に大声を浴びせたあの男とは、到底同じ人物とは思えないほど、その身体は細く縮んでいた。髪は完全に白くなり、薄くなった頭頂部が、夕暮れの光に寂しく晒されている。背中は哀れなほどに丸まり、片手には、見切り品の惣菜でも入っているのか、薄汚れた買い物袋を、力なくぶら下げていた。
その姿は、どこにでもいる、社会から取り残された孤独な老人そのものだった。いや、孤独という病に、じわじわと蝕まれている、哀れな敗北者だった。
私は動かない左足を踏ん張り、杖を握りしめたまま、しばらくその小さな背中を、無言で見つめていた。胸の奥で、複雑な感情が渦巻く。四十年あまりの憎しみ。裏切られたことへの、消えない怒り。目の前の老いた男への、一筋の哀れみ。そして――遠い昔、確かにこの人を愛し、この人に命を預けようとした、あの頃の記憶の、残り火。それらが、脳内で不協和音を立ててぶつかり合っていた。
そのときだった。背後の視線を察したのか、正雄が、ゆっくりと振り返った。
雑踏の中で、二人の視線が、まっすぐにぶつかった。一瞬だった。向こうの濁った瞳に、驚愕と、言い知れぬ動揺が走るのが分かった。正雄は歩みを止め、金縛りにあったように、その場に立ち尽くした。行き交う買い物客の喧騒が、急に遠ざかっていく。世界から音が消え、私たち二人だけが、空白の中に取り残されたような錯覚に陥った。
正雄は、何か言いたそうに、乾いた唇を微かに震わせた。言葉を紡ごうとしては口を閉じ、また開いては諦める。私はただ黙って、その見窄らしい姿を見つめ返していた。
もしこれが二年前なら、私は麻痺した身体を震わせながら駆け寄り、体調を心配しただろう。夕飯はちゃんと食べているのか、無理をしていないかと、問いかけていただろう。だが、今の私には、そんな言葉をかける義理も、優しさも、一滴すら残っていなかった。
ようやく、正雄が喉の奥から声を絞り出した。
「……久しぶり、だな」
風が吹けば飛んでしまいそうな、弱々しい声だった。私は、無表情のまま、大人の礼儀として、ごく小さく一度だけ顎を引いた。それだけだった。会話を続けるつもりも、彼の寂しさを埋めてやるつもりも、毛頭なかった。
正雄は、私の氷のように冷たい態度に、卑屈な笑みを浮かべた。その力ない笑顔を見た瞬間、私は心の底から理解した。
――ああ、この人は、本当に老いてしまったのだ。
かつての正雄は、違った。病室のベッドで泣き崩れる私を、その大きな両手で抱きしめ、「俺が一生面倒を見る」と言い放った男だ。あのときの彼には、私を支え、守っているという、圧倒的な自信と、男としての誇りがあった。家族の中心で、常に権力を握っていた。
それが、今はどうだ。財産を失い、自慢の子どもたちに見捨てられ、世間からも爪弾きにされ、帰りを待つ人もいない狭いアパートへ、見切り品の袋を下げて一人で帰るだけの、哀れな老人。人生という裁判で、すべてを没収された敗北者が、そこに立っていた。
不意に、あの白い病室の匂いが、脳裏をよぎった。私の震える右手を握りしめ、力強く微笑んでくれた、あの日の正雄。「大丈夫だ。俺が一生、お前の面倒を見るから」。あの言葉。あの約束。あのときの、縋るような温もり。すべてが、前世の出来事のように、遠く霞んで見えた。
――もしかすると。あの病院のベッドの上で彼が口にした言葉だけは、その瞬間だけは、嘘偽りのない、彼の本心だったのかもしれない。ふと、そんな感傷が頭をもたげた。だが、私はすぐに、その甘えを胸の奥で叩き潰した。今さらそんなことを考えたところで、彼が私のリハビリ費用を盗み、裏切り続けた事実は、一ミリも変わりはしないのだ。過去の美しさに騙されてやるほど、私はもう、優しくも、愚かでもない。
正雄は、私の、一本の杖でしっかりと地面を捉えている足元に視線を落とし、小さく呟いた。
「……元気そう、だな。歩けるように、なったんだな」
私は、彼の目をまっすぐに見据え、一言だけ返した。
「ええ。おかげさまで、私は一人でも、生きていけますから」
その温度のない一言が、正雄の胸を直撃したのが分かった。彼は痛打を浴びたように目を伏せ、肩をさらに小さくすぼめた。私が今こうして、自分の足で立っていられるのは、彼が隣にいてくれたからではない。むしろ、彼という毒を人生から排除したからこそ、私は自らの力で、生き直すことができたのだ。その事実を、彼は嫌というほど突きつけられたに違いない。
再び、重苦しい沈黙が、二人を隔てた。私は、杖を静かに握り直した。もう、こんなところで時間を無駄にしている暇はない。私には、温かい明かりの灯る新居があり、帰りを待ってくれる娘や孫がいる。明日があり、穏やかな未来がある。だが、この男には、一体何が残されているのだろう。ふと、そんな疑問が浮かんだが、すぐにどうでもよくなった。
「それでは、失礼します」
私は、他人に対するのと同じ、冷ややかな会釈を一度だけ送り、正雄の横を、すり抜けて歩き出した。すれ違う瞬間、彼の買い物袋から、かすかに生臭い匂いが漂った気がした。
振り返らなくとも、背後から、痛いほどの視線が突き刺さっているのが分かった。正雄が立ち尽くしたまま、私の後ろ姿を、ずっと、見つめ続けている気配。今にも「待ってくれ」と、情けない声で袖を掴みにくるのではないか、という予感。だが、私は決して、振り返らなかった。今ここで振り返れば、あの裏切りの夜に傷つき、絶望して泣いていた過去の私が、再び目を覚ましてしまう。私はもう、あの地獄には戻らない。
駅前の街灯が、一つ、また一つと、寂しげに灯りはじめる。私は杖をコツ、コツと鳴らしながら、前だけを向いて歩く。一歩。また、一歩。病によって一度は奪われたはずの、私の未来へ向かって。
そして、胸の奥で、ふと、奇妙な皮肉に思い当たった。人生とは、つくづく残酷で、滑稽なものだ。かつて身体を麻痺させられ、夫に介護される側として、すべてを依存していた私が、今や背筋を伸ばし、前を向いて自分の足で歩いている。一方で、かつて強者として妻を介護する側に立ち、優越感に浸っていた正雄が、今や誰からも手を差し伸べられず、薄暗い街頭で、一人寂しく立ち尽くしている。
立場は、完全に逆転していた。その、言い訳のしようもない現実こそが――私が浴びせるどんな罵倒よりも、どんな暴力よりも、正雄という男のプライドを、最も深く、修復できないまでに、抉り続けているに違いなかった。
最終章 静かな勝利
――振り返らない女
人は、完璧に復讐を果たしたあと、本当の幸せを掴むことができるのだろうか。
離婚届に、あの男の震える手でサインをさせた二年前の私なら、一筋の迷いもなく「はい」と答えただろう。正雄から財産を取り上げ、自慢の子どもたちの信頼を失わせ、社会的な信用を破壊し、孤独のどん底に突き落とした。私が味わった絶望と涙のすべてを、何倍にもして叩き返してやったのだ。十分だった。いや、十分すぎるほどだった。だから私は、満足しているはずだった。胸のすくような勝利に、酔いしれているはずだった。ずっと、そう自分に言い聞かせてきた。
商店街の雑踏で、小さくなった正雄の後ろ姿と再会してから、半年が過ぎていた。季節は巡り、世界は厳しい冬の寒さに包まれていた。窓の外では、鋭い北風が、街路樹の枯れ枝を激しく揺らしている。
私はいつものように朝早く目覚め、丁寧に湯を沸かし、お気に入りの紅茶を淹れた。処方された薬を飲み、自分で作った簡単な朝食を口にする。何ひとつ脅かされることのない日常。誰の嘘も、裏切りもない、静かで穏やかな日常。私はあれほど望んでいた平穏を、ついに手に入れたのだ――温かい湯気を吸い込みながら、私はそう確信していた。
だが、昼前。インターホンが静かに鳴り響き、その平穏に、小さな亀裂が入った。玄関の扉を開けると、そこに息子が立っていた。その表情は、いつになく暗く、沈んでいた。私は、その目を見ただけで、何が起きたのかを察した。
「……どうしたの」
息子は、少しの間、言い淀むように視線を落とした。そして、小さく声を絞り出した。
「親父が……倒れたんだ」
私は、言葉を失った。冬の冷たい空気が、玄関から足元へと流れ込んでくる。
「昨日の夜のことらしい。アパートの部屋で、一人で倒れてたんだって。今朝、異変に気づいた大家さんが、救急車を呼んでくれたらしいんだけど……」
私は、何も言えなかった。取り乱すことも、歓喜することもない。ただ、頭の中が、不気味なほど、静まり返っていた。病院へ行く気など、毛頭なかった。行く理由も、義務も、どこを探してもないはずだった。私たちはもう、赤の他人なのだ。戸籍の上でも、心の上でも、縁は切れている。私には関係のないこと――夜、ベッドに入ってからも、何度も自分に言い聞かせた。
だが、その夜、私は一睡もできなかった。薄暗い天井を見つめていると、どうしてか、とうに忘れたはずの記憶が、濁流のように溢れ出して、止まらなくなったのだ。正雄と初めて出会った、初々しいあの日。狭いアパートで、二人でお金を出し合って食卓を囲んだ新婚時代。子どもが生まれたと聞いて、病院の廊下を走ってきた正雄の姿。家族四人で行った、真っ青な夏の海。私の手を握り、はにかむように笑っていた、若き日の正雄の顔。その手の、確かな温もり。消し去ったはずの、かつての愛の記憶が、暗闇の中で、浮かんでは、消えていった。
翌朝。気づくと、私は杖を握りしめ、正雄が運ばれた病院へと向かっていた。自分でも、理由が分からなかった。あの男の顔が見たかったわけではない。今さら過去を許すつもりも、微塵もなかった。ただ、一人の人間の――かつて私の人生のすべてだった男の――終わりの瞬間を、この目で見届けなければならない気がした。ただ、それだけだった。
静かに、病室の扉を開く。ベッドの上の正雄は、眠っていた。言葉を失うほど、小さく見えた。痩せ細った身体。艶を失い、ぼさぼさになった白い髪。顔中に刻まれた、深い皺。かつて脳梗塞に倒れた私を力強く抱き上げてくれた、あの逞しい腕も、家族のすべてを背負って胸を張っていた、あの広い背中も、もう、どこにも残っていなかった。そこにいたのは、ただの、哀れな老人だった。
しばらくして、正雄が、うっすらと目を開けた。傍らに立つ私を見た瞬間、その濁った瞳が、驚きに丸くなった。そして、本当に申し訳なさそうに、けれどどこか救われたように、かすかに微笑んだ。
「……来たの、か」
今にも消え入りそうな、掠れた声だった。私は、何も言わなかった。かける言葉など、どこを探しても見つからなかった。長い、重苦しい沈黙が、病室を支配した。聞こえるのは、心電図の、規則正しい電子音だけ。――六十七のあの日、私自身の枕元で鳴っていたのと、同じ音が、今度は正雄の枕元で鳴り響いていた。やがて、正雄が、力なく天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……全部、失ったな」
私は黙って、その言葉の重みを受け止めていた。正雄は、自嘲気味に、小さく笑った。
「馬鹿だった。……俺は、本当に、馬鹿だった」
その笑い声には、力がなかった。
初めてだった。あの裏通帳を見つけた日以来、正雄が、自分の犯した罪の重さを認め、自らの口から、それを吐き出したのは。
「すまなかった」
その言葉は、あまりにも遅すぎた。何年も、何年も、遅すぎた。私のちぎれた信頼を繋ぎ止める力も、失われた四十数年を巻き戻す力も、今のその謝罪には、一滴すら残されてはいなかった。
だが――不思議なことに。私の胸の中に、あの激しかった怒りや憎しみは、もう、湧き上がってこなかった。灰になっていたのだ。私を突き動かしていた復讐の炎は、あまりにも完璧に彼を焼き尽くしたせいで、私自身の胸の中でも、綺麗に燃え尽きてしまっていた。あとに残ったのは、ただ冷え切った、果てしない静寂だけだった。
私は、病室の窓の外を見やった。どこまでも寒々しい、灰色の冬空が広がっていた。冷たい光が、無機質に建物を照らしている。その景色は、あの日の私の病室の空気に、あまりにもよく似ていた。そして、ふと、胸の奥底に、苦い問いが浮かび上がってきた。
――私は、本当に勝ったのだろうか。
正雄は、すべてを失った。私の望んだ通りに、完璧な孤独の中で這いつくばっている。復讐は成就した。一点の曇りもない、私の勝利だった。だが、あの男を破滅させたからといって、私の動かなくなった左手足が、元に戻るわけではない。裏切られたという事実が、消えるわけでもない。何より、あの男を信じて、共に白髪の生えるまで添い遂げようと、あくせく生きてきた、私の四十数年そのものが――彼を破滅させる過程で、一緒に、粉々に砕け散ってしまったのだ。
もし、あの梅雨の日に、引き出しを開けなかったら。もし、正雄が最初の夜に、プライドを捨てて、素直に謝ってくれていたなら。私たちが、手を取り合って笑える、別の穏やかな未来が、あったのではないか。そんな意味のない仮定が、一瞬だけ脳裏をよぎり、胸をキリキリと締めつけた。復讐の達成感の裏側には、二度と取り戻せない、人生の大きな喪失という名の、深く暗い穴が、ぽっかりと口を開けていた。勝者の胸にも、等しく、冷たい虚無が残るのだ。
だが、私はすぐに、その感傷を振り払った。人生に、もし、などという甘えは存在しない。あるのは、自分が下した選択の結果だけだ。私たちは誰もが、自らが選んだ現実の上を、這ってでも、生きていくしかないのだから。
私は静かに立ち上がり、コートの襟を正した。正雄が、すがるような目で、こちらを見上げてきた。それは、許しを請う目だったのか。それとも、かつてのように、隣にいてほしいという哀願だったのか。
だが、私は、何も与えなかった。与えることが、できなかった。彼の罪を認めることと、彼を許すことは、まったく別の話だ。私の胸に刻まれた傷跡は、今も、消えずにそこに残っているのだから。
「じゃあね」
私は、それだけを言い残し、ベッドの上の老人に背を向けた。正雄は、小さく一度だけ頷き、静かに目を閉じた。その顔は、不思議とどこか、穏やかだった。長い長い裁判の末に、ようやく判決を言い渡され、刑に服した囚人のような、妙に静かな顔だった。
病院のロビーへ降り、自動ドアを出ると、刺すような冬の乾いた風が、頬を撫でた。私は杖をしっかりと握り直し、ゆっくりと歩き出した。
もう、二度と、振り返らなかった。
これまで、私の人生は、振り返ってばかりだった。動かなくなった身体を呪い、健康だった頃の自分を振り返っては泣いた。裏切られた夜、幸せだった思い出を振り返っては絶望した。離婚した日、失われた四十数年を振り返っては立ち尽くした。けれど、今だけは違う。私の目は、まっすぐに、前だけを見つめていた。
遠くの公園から、子どもたちの賑やかな笑い声が、風に乗って聞こえてくる。新居には、私の帰りを待ってくれている娘がいる。私をおばあちゃんと呼んで慕う、愛おしい孫たちがいる。私には、まだ帰るべき場所がある。生きるための、確かな理由がある。そして、これから先の、誰にも汚されない、私だけの未来がある。それだけで、もう十分ではないか。
女は、決して、脆く弱いだけの存在ではない。相手を深く愛するからこそ傷つき、命がけで信じるからこそ、裏切られたときに絶望する。そして、その絶望の底で血を流した女は、ときに、どんな生き物よりも強くなれる。
だが、本当の強さとは、相手を完膚なきまでに破滅させることでは、なかったのだ。復讐の果てに残された、埋まることのない大きな喪失を抱えながら、それでも、自らの足で歩き続けること。失ったものの重みを胸に引き受けたまま、なお、前を向いて生きていくこと。それこそが、本当の強さなのだと、私はようやく知った。
胸の奥には、確かに、勝利があった。けれど、その隣には、いつまでも埋まらない、小さな空洞があった。四十年という、失われた歳月。あの病室で「一生面倒を見る」と言った男の、消えてしまった温もり。そして、私がもう二度と、誰かを無条件に信じることはできないだろうという、その事実。それでも、私は歩いた。その空洞ごと、抱えて。
私は、冷たく澄み切った冬の空を見上げた。重苦しい灰色の雲の切れ間から、一筋の、けれど眩いほどに鋭い光が、私の足元を、まっすぐに照らし出していた。その光の向こうに、これからどんな日々が待っているのかは、分からない。けれど、もう、恐れる必要などどこにもなかった。
私の長い復讐は、今、完全に終わった。私たちの歪んだ物語も、ここで、永遠に幕を閉じた。
私は杖をコツ、コツと響かせながら、一歩、また一歩と、確かな足取りで、歩みを進める。これから先の、上り坂に向かって。
二度と、あの暗闇を、振り返ることなく。














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