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「予約ゼロの日々…私が風俗で稼げなくなった理由」

目次

「予約ゼロの日々…私が風俗で稼げなくなった理由」

物価だけが上がり、人だけが安くなっていく時代に。
今日も、この大きな都市の、誰の目にも触れない場所で、 作り物の笑顔の裏に本音を押し隠し、 それでも朝になれば起き上がり、顔をつくり、靴を履いて、 名もなき戦いへ出かけていく、すべての人へ。
あなたに、値札はつけられない。 私は、それを、知っている。
 

ドキュメンタリータッチで描く、アラサー風俗嬢のリアル。

第一章 待機室の時計

 私の名前は美咲、三十一歳。東京都内のデリヘルで働いている。
 待機室の壁で、古い掛け時計がカチ、カチ、と乾いた音を立てていた。午後三時。出勤してから、もう三時間が過ぎている。
 私は何度目とも知れない手つきで、スマホの画面を見つめた。通知はない。予約もない。問い合わせすら、ない。画面を消して、机に置き、数秒後にまた点ける。何も変わらない。そんな無意味な往復を、この三時間で何十回繰り返しただろう。
 六畳一間の狭い待機室には、私のほかに五人の女の子がいた。誰一人として口を開かず、それぞれが液晶の光に顔を照らされている。TikTokの縦型動画を編集する子、客向けの写メ日記を書く子、SNSに営業の返信を打ち込む子。大きな声を出す者はいない。みんな、薄々気づいているからだ。
 「予約がない」という現実において、私たちは完全に平等だった。だからこそ、誰もが必死でスマホにしがみついている。
 窓の外を見上げれば、初夏の突き刺さるような日差しが、アスファルトをギラギラと焼いていた。世間はせわしなく動いている。それなのに、この部屋だけは重たい湿気が澱み、時間そのものが止まっているように感じられた。
 カバンの中の財布には、二千七百円しか入っていない。
 来週には家賃の支払いがある。電気代も払わなければならない。ニュースを見れば、物価高騰、インフレ、歴史的な円安に伴うエネルギー価格の上昇――そんな小難しい言葉が、毎日のように流れてくる。確かにそうだ。ガス代の請求書を見るたびに息が詰まる。スーパーの卵は一パック三百円を超え、米も野菜も、コンビニのおにぎりですら、気軽には買えない値段になった。去年より高い。一昨年より、もっと高い。何もかもが、私たちの生活をじわじわと締め上げている。
 だけど――私の収入だけは、信じられない勢いで下がっていた。
 世の中はモノの値打ちが上がる「インフレ」だというのに、私たち風俗嬢の世界だけが、強烈な「デフレ」と、地獄のような過当競争のなかに取り残されている。コストばかりが跳ね上がり、自分の価値――単価だけが暴落していく。この歪んだ構造のなかで、私たちは静かに窒息しかけていた。
 「美咲さん、今日はまだ?」
 隣の席の奈々ちゃんが、スマホから目を離さずに声を掛けてきた。二十三歳。お店の看板でもある人気嬢だ。彼女の予約表は、いつも真っ赤に埋まっている。私より八つも若い、圧倒的な「商品価値」を持つ女の子。
 私は強張る頬を無理やり引き上げて、営業用の笑顔を作った。
 「うん、まだ。今日はのんびりスタートかな」
 「そっか……」
 奈々ちゃんは気まずそうに、小動物みたいな笑みを浮かべた。優しい子なのだ。嫌味なんかじゃない、本当に私を心配してくれている。だからこそ、その優しさが鋭利な刃のように私の胸へ刺さって、余計につらかった。
 彼女のスマホは、待機中も一日に何度も震える。本指名、リピート予約、ネットからの問い合わせ、予約の変更。その振動音が鳴るたびに、私の心臓は小さく跳ねる。私のスマホは、まるで死んでしまったかのように静かなままだ。無音の端末が、三十一歳になった私の、この市場における「現在の価値」を、正確に突きつけていた。
 十年前、短大を出て小さな不動産会社に事務職として就職した頃は、こんな仕事をしている自分など想像したこともなかった。手取りは十八万円ほどだったけれど、世間並みの、普通の人生だった。いつか誰かと結婚して、子供を産んで、平凡に、けれど確実に生きていく。かつての日本なら当たり前だったはずのその未来を、私は疑いもなく信じていた。
 だけど、人生のレールは、呆気なく外れる。
 父が脳梗塞で倒れ、重い介護が始まった。連鎖するように、母も心のバランスを崩して体を壊した。日中の勤務ができなくなり、私は会社を辞めた。実家の家計を支えるために貯金を切り崩し、気づけば手元には、消費者金融の借金だけが残っていた。
 三年前。生活費と医療費に完全に追い詰められて、私はこの業界のドアを叩いた。
 最初は驚いた。思っていたよりも、ずっと稼げたからだ。一日で会社員時代の数日分、下手をすれば一週間分の現金を手にできることもあった。あの頃はまだ、ネットをなんとなく眺めて、ふらりと電話をかけてくる「フリー客」が潤沢にいた。女の子の側が特別なマーケティングなどしなくても、店に出勤して、ただ待機室に座っていれば、自然と仕事になった。
 でも、今は違う。本当に、恐ろしいほどに、世界が変わってしまった。
 今の風俗業界は、出勤しただけでは一円にもならない。待機している時間は、完全な無給だ。予約がゼロの日は、十時間、十二時間と狭い部屋に拘束されても、一日の収入は「ゼロ円」。それどころか、店へ来るための交通費だけが消える。指名をもらうために新調したメイク代だけが消える。待機中に飲む、コンビニのお茶代だけが消えていく。
 入るお金はないのに、出ていくお金ばかりが増え、そして年齢という名のデッドラインだけが、確実に刻まれていく。
 カチ。
 時計の針が進んだ。午後三時十分。また、無収入のまま十分が過ぎた。
 私は写メ日記の投稿アプリを開いた。今日、三回目の更新。
 『本日まだまだ空いてます♡ お誘い待ってます♡』
 ピンク色のハートマークを付ける。明るい絵文字を並べる。画面の向こうの、まだ見ぬ男たちに媚びを売る。そこには、私の本当の気持ちなんて、一文字も書けない。
 『助けてください』なんて、書けるわけがない。
 『来週の家賃が払えません』なんて、言えるわけがない。
 だから私は、液晶画面に向かって笑顔を作る。誰もいない、誰にも見えない暗い部屋で、たった一人、作り物の笑顔をネットの海に放流する。
 投稿ボタンを押した。
 数秒後、ページを更新する。閲覧数が「1」増えた。それだけだった。管理画面からの予約通知は、来ない。
 私は、肺の底に淀んだ空気を吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。待機室の時計は、私の焦燥も恐怖もどこ吹く風で、変わらず規則正しい音を立てている。
 カチ。カチ。カチ。
 その乾いた音だけが、静まり返った部屋に、私の命を削るカウントダウンのように、響き渡っていた。

第二章 終わらない営業

 電子アラームが鳴るより先に、午前八時の白い光で目が覚めた。
 会社員のような「休み」という概念は、もう私の暮らしのどこにもない。出勤日であってもなくても、私の一日は、いつもこの重たい時間から始まる。
 それでも、すぐには起き上がれなかった。シーツにくるまったまま、祈るような気持ちで枕元のスマホを手に取る。ロックを外して最初に開くのは、店のアクセス解析の画面だ。昨夜、日付が変わる直前に書いた写メ日記の、その後。
 いいねは、三件。問い合わせは――ゼロ。
 ため息が、誰もいないワンルームの天井に吸い込まれていった。一日はまだ始まってすらいないのに、胸の奥には、もう鉛を流し込まれたような疲れが広がっている。
 会社員だった頃は、タイムカードを押した「そこから」が仕事だった。決められた時間を差し出せば、月末には決まった額が振り込まれた。けれど、今の私たちが立たされている世界は違う。目を覚ましたその瞬間から、一円の保証もない、孤独な「営業」が、否応なく始まるのだ。
 洗面所でぬるま湯を顔にぶつけながら、私は今日の算段をする。どんな写真を載せよう。どんな一行なら、タイムラインを流れていく男たちの指を、一瞬でも止められるだろう。
 朝食代わりの、一回り小さくなったコンビニのおにぎり。それを齧りながら、もう片方の手では、他店の人気嬢や、何万ものフォロワーを抱える「インフルエンサー風俗嬢」のアカウントを、血眼で見て回っている。
 みんな、恐ろしいほど自分を売るのが上手かった。自然光をとらえた写真。男の自尊心を絶妙にくすぐる、親しみと色気の同居した文章。コメント欄には、彼女たちを崇める常連たちの言葉が、熱を帯びて並んでいる。
 スクロールするたび、胸の奥がきりきりとざわついた。羨望と、それを認めたくないという、みっともないプライド。一度アプリを閉じる。それでも数分後には、磁石に吸い寄せられるように、また同じ画面を開いている。
 私には、何が足りないんだろう。あの子たちの、二十代の若さ。整った造形。どんな客も転がす愛嬌。――いや、たぶん、その全部だ。昔のように「真面目に、丁寧に接客する」だけでは、もう決して埋まらない絶対的な差が、画面の向こうには、厳然と横たわっていた。
 昼前、私は部屋の隅から、大きなリングライトを引っ張り出して組み立てた。三年前、この仕事を始めたときは、「芸能人でもあるまいし」と冷ややかに見ていた、通販で六千円の撮影用ライト。それが今では、これなしには戦場に立つことすらできない、必須の武器になっている。
 唯一の白い壁際にスタンドを立て、スマホを固定する。角度をミリ単位で動かし、光量を最大にして、自撮りのシャッターを切る。カシャ、カシャ、カシャ。顔は、フレームから切るか、伏せたまま。それだけは、まだ、自分に許していなかった。気に入らない。影の落ち方が、どこか老けて見える。撮り直す。また消す。実年齢より少しでも若く、少しでも「お買い得」に見える奇跡の一枚を選び出す頃には、エアコンの電気代だけを無駄に食って、一時間が経っていた。
 その間、稼ぎは一円もない。完全なタダ働きだ。それでも、これをやらなければ、ネットのカタログから私の存在そのものが消える。投稿しなければ、いないのと同じなのだ。
 画面のなかで不自然に白く加工された「美咲」を眺めて、私は力なく苦笑した。私は風俗嬢のはずなのに、最近はひとりで、モデルと、広報と、動画編集者を、まとめて兼任させられている。
 午後、店へ向かう電車のなかでも、仕事は終わらない。揺れる車内でSNSを更新し、ついたコメントに愛想よく返し、過去に一度でも指名してくれた客のリストへ、営業のメッセージを一斉に送っていく。
 『○○さん、お疲れさまです♡ 最近お会いできなくて寂しいです。お誘い、待ってますね♡』
 本当の恋人でも友達でもない。すれ違っても顔すら思い出せない男たちだ。それでも、世界で一番愛している人へ宛てるような言葉を、名前のところだけ貼り替えて、機械的に送り続ける。それが、今の業界で生き延びるための「終わらない営業」だった。
 電車を降りる頃、店の営業用グループLINEが震えた。店長からの、一斉送信。
『お疲れさまです! 本日、夕方以降のご案内が手薄になっています。皆さん、写メ日記の更新とLINE営業、よろしくお願いします!本日限定の「タイムセール」も、忘れず告知してくださいね♡』
 ご案内が手薄、というのは、つまり客がいないということだ。客がいないのは、私たちのせいではない。それでも、その責任はいつも、こうして女の子の側へ、静かに付け替えられていく。営業を頑張れ。指名が取れないのは、お前の努力が足りないからだ――文面には決して書かれない、けれど確かにそこにある声だった。
 タイムセール。私の体に、また値札が貼り替えられる。六十分一万八千円が、一万四千円へ。割り引かれた四千円は、店の取り分からではなく、いつだって私の手取りから、そのまま削られていく。値下げをしなければ選ばれず、値下げをすれば稼ぎは減る。出口のない回廊を、私たちは笑顔のまま走らされている。
 店に着き、重い鉄の扉を開けると、待機室は今日も静まり返っていた。パイプ椅子の女の子たちは、一様にスマホを見つめている。誰も暇そうにはしていない。予約がないからこそ、誰も指を休められない。何もしない時間が、そのまま「死」を意味する世界だから。
 隣で、奈々ちゃんが小さくガッツポーズをした。本指名の客が、ロング枠で入れてくれたらしい。すごいね、と声をかけると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げて笑った。彼女が、ただ若いだけではないことを、私は知っている。毎晩、眠りにつくまで動画を投稿し、セクハラまがいのメッセージにも、一件ずつ丁寧に返している。
 そのとき、ドアが開いて、ボーイのスタッフが顔を出した。「あ、美咲さん。やっぱ最近は、短い動画上げたほうがいいよ。静止画だけじゃ、今の客、クリックしてくれないからさ」
 私は訓練された笑顔を貼りつけて、「そうですよね、頑張ってみます」と答えた。本当は、叫び返したかった。これ以上、何を頑張れというんですか。毎日やっています。寝る前も、起きた瞬間も。その動画を編集する時間も、全部、無給なんですよ――。けれど、その言葉は喉の奥へ押し戻した。不満を言う三十代の女は、店からも客からも、ただ煙たがられるだけだ。
 守ってくれる組織もないまま、私は一人で「美咲」という名の、ちっぽけな零細企業を経営しているようなものだった。
 私は写メ日記を開いた。今日、四回目の更新。
 『タイムセール始めちゃいました♡ 今だけお得です、寂しいので会いに来てね♡』
 撮りためた中から、いちばん雰囲気の出ている一枚を選び、明るさを足す。実物より三つは若く見えるその一枚に、私はもう、なんの感情も抱かなくなっていた。これは、私ではない。「美咲」という名前の、よく 出来た商品の写真だ。
 午後六時十二分。
 スマホが、また震えた。今度は本物だった。管理画面の、無機質な予約通知。
 《本日 19:00〜 60分 ご新規様 ホテル○○》
 私は、安堵で泣きそうになった。そして、たった一件の予約に泣きそうになっている自分が、ひどく惨めだった。値引きされた、たった一万四千円。それを神様からの恵みのように受け取って、心の底からほっとしている。三十一歳の私が。
 待ち合わせのホテルにいたのは、五十がらみの、くたびれたスーツを着た男だった。出張で東京に来たのだと、彼は言った。指輪の痕だけが白く残った左手の薬指を、話しながら、彼は時々、無意識に撫でていた。
 彼はちょっと恥ずかしそうに服を脱いだ。私も裸になると一緒にシャワーを浴びる。私はシャワーを浴びながらその男の体をまさぐり丁寧に愛撫する。こうして何人の男の体を愛撫したことだろうか。できるだけ事務的に感じさせないように注意して愛撫を続ける。
 シャワーを浴びた後はバスタオルで体をふき、そのまま二人でベッドに入る。そしていつものように私は男の欲望を受け入れる。彼はすぐに果ててしまった。まだ時間はかなり残っている。残り時間を取り留めのない会話でつなぐのもいつもの事だ。
 彼は、思っていたよりもずっと多くを語った。単身赴任の寂しさ。家に帰っても、もう誰も待っていないこと。娘とは、何年も口をきいていないこと。私は相槌を打ち、笑い、彼の言葉のひとつひとつに頷き続けた。本当の恋人みたいに、あるいは、本当の家族みたいに。それが「彼女体験」という、私の売っている商品だった。体よりも、こうして誰かの孤独を黙って受け止めている時間のほうが、よほど深く、自分の芯を削られていく気がした。
 六十分は、あっという間に過ぎた。別れ際、彼は「ありがとう。久しぶりに、人と喋った気がするよ」と、少し照れたように笑った。その笑顔が、なぜだか胸に残った。彼もまた、この大きな街のどこかで、静かに窒息しかけている一人なのだろう。
 家に帰り着いたのは、夜の十時前だった。六畳のワンルームに電気を点け、コンビニで買った一番安いおにぎりを一つ、立ったまま齧る。一万四千円。今日の稼ぎの、すべて。そこからお店の取り分と交通費とメイク代を引けば、本当に手元へ残るのは、五千円にも満たない。来週の家賃には、まるで足りない。
 シャワーを浴びて、布団に倒れ込む。体は鉛のように重い。それなのに、私の手はまた、いつのまにかスマホを掴んでいた。
 営業は、終わらない。店を出ても、家に帰っても、終わらない。
 過去に来てくれた客へ、一人ずつLINEを送る。『お久しぶりです♡ 会いたいな』。心にもない言葉を、コピーして、名前のところだけ貼り替えて、何十人にも送っていく。既読がつくのを待つ。返信が来れば、また媚びた言葉を返す。来なければ、次の相手へ。SNSのフォロワーに「おやすみ」を投稿し、明日の出勤を告知し、写メ日記の予約投稿を仕込む。
 時計の針は、いつのまにか午前二時を回っていた。
 画面のブルーライトだけが、暗い部屋で、ぼんやりと私の顔を照らしている。明日も、朝から営業だ。本当の意味で「休み」と呼べる時間など、もうどこにもない。私が眠っている間も、私の代わりに「美咲」という商品が、ネットの海でずっと営業を続けている。いいねを集め、閲覧数を稼ぎ、まだ見ぬ誰かに、休みなく媚びを売り続けている。
 写真が増える。動画が増える。嘘の言葉が増える。対価の生まれない努力だけが、雪のように降り積もっていく。それなのに、収入は、一円も増えない。
 いつからだろう、と思う。私たちが、体を売る仕事よりも先に、「自分自身」という商品を売り込む終わりのない営業に、その命を丸ごと買い叩かれるようになってしまったのは。私という人間は、いったいいつから、二十四時間ぶんの売り物になったのだろう。
 指先が、無意識に画面をスクロールする。新しい通知は、もう来ない。それでも私は、スマホを手放せなかった。手放した瞬間に、あのたった一件の予約すら、二度と来なくなってしまう気がして。
ブルーライトの光のなかで、私はもう一度、誰にも見えない笑顔を作った。そして、明日のための営業文を、また一通、打ち始めた。
 カチ、という時計の音は、もうしない。
 ただ、スマホの通知をひたすら待つだけの静寂が、夜の底で、どこまでも続いていた。

第三章 最後の境界線

 家賃の振込期限まで、あと三日に迫っていた。
 通帳の残高は、二万円を切っている。来週どころの話ではなかった。あと三日のうちに、どこかから七万円を生み出さなければ、私はこの六畳の部屋すら失う。
 その日、ロッカーで着替えていると、店長の佐伯さんに事務所へ呼ばれた。四十過ぎの、いつもへらへらと笑っている男だ。彼は缶コーヒーを一本、私のほうへ滑らせてよこすと、パソコンに並んだ数字の画面から目を離さないまま、世間話のような軽さで切り出した。
 「美咲ちゃんさ、最近ちょっと、指名きついよね」
 「……はい。すみません」
 「いやいや、謝ることじゃないんだけどさ」
 佐伯さんは缶を一口あおった。
 「ぶっちゃけ、今ってさ、“顔出し”してる子じゃないと、もう厳しいのよ。モザイクの子の写メ日記なんて、お客さん、クリックすらしないんだから。今の客はみんな、タイパだコスパだって気にするからね。物価も上がって財布も固いし、誰も“ハズレ”を引きたくないわけ。顔がはっきり見えない女の子は、最初から候補にも入らない。奈々ちゃん見てごらんよ、あの子、全部顔出しじゃん。だから指名、途切れないわけ。──美咲ちゃんも、そろそろ、考えてみたら?」
 正論だった。冷酷なほどに。私だって、値上がりした外食の店を選ぶときは、ネットの口コミと写真を何度も見比べる。失敗したくないからだ。なけなしの娯楽費を握りしめた男たちにとって、今や風俗は、絶対に失敗の許されない「買い物」なのだ。顔の見えない女など、その選考のいちばん最初の段階で、静かに弾かれていく。
 頭では、分かっていた。それでも、心が、どうしても拒んでいた。
 顔出し。その三文字が、胃の底へ、冷たい石のように沈んでいく。
 それが、私の最後の境界線だった。この三年間、何を切り売りしても、顔だけは隠し通してきた。顔さえ伏せていれば、「美咲」という名の商品と、本当の私とは、かろうじて別のものでいられた。客に体を許しても、心まで明け渡してはいない――そう思い込むための、たった一枚の、薄い膜。それが、顔だった。
 そして何より怖かったのは、その膜の向こうにいる、私の知っている人たちだった。
 実家の母は、私が東京で何をして生計を立てているのか、何ひとつ知らない。今でも私は、都内の小さな会社で、事務の仕事を続けていることになっている。週に一度、生存確認のようにかかってくる電話の向こうで、病み上がりの母は、いつも掠れた声で、同じことを言う。
 「美咲、東京は物価が高くて大変でしょう。ちゃんとご飯食べてる? 体にだけは、気をつけなさいね」
 私は喉に詰まる塊を飲み込んで、明るい声を絞り出す。
 「大丈夫だよ。今月からちょっと、手当もついたしね。お母さんこそ、無理しないで」
 ――受話器を置いた瞬間、嘘の重みに押し潰されて、その場にへたり込んでしまう。大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。だけど、本当のことなんて、言えるわけがない。言った瞬間、脳梗塞で倒れて言葉をなくした父の隣で、母の心まで、完全に折れてしまう。
 私の顔が、検索ひとつで誰の手にも届く場所に晒されたら。同級生が、昔の同僚が、実家の古い町の誰かが、それを見つけてしまったら。一度ネットの海へ放流された顔は、もう二度と、この手には戻らない。
 それでも、家賃は、待ってくれなかった。
 その週、私の予約表には、一本のペンも走らなかった。引き落とし日が、一日ずつ近づいてくる。ガス代の督促状が、ポストに差し込まれる。財布の中身が千円札一枚になったとき、私のプライドも、恐怖も、飢えという現実の前で、きれいにすり潰された。
 その夜、私は化粧台の鏡の前に座った。スマホのインカメラを起動する。レンズの中に、三十一歳の、疲れ果てた女の顔が映った。目尻の小さな皺。隠しきれない隈。それでも私は、丁寧にメイクを直し、照明の角度を変え、いちばん幸せそうに見える笑みを作って、シャッターを切った。
 カシャ、カシャ、カシャ。
 一枚撮るたびに、魂が薄く、一片ずつ剥ぎ取られていくような感覚がした。画面に並んだ何十枚もの自分の顔を、私は一枚ずつ吟味する。商品として、いちばん高く売れそうな一枚を選ぶように。指先が、小さく震えていた。
 写メ日記の編集画面を開き、モザイクの設定を、外す。
 『今日から、お顔、ちゃんとお見せします♡ 会いに来てくれたら、嬉しいな』
 指が、投稿ボタンの上で止まった。これを押せば、もう、戻れない。一秒、二秒、三秒。私は目を閉じ、息を止めて――押した。
 効果は、残酷なほど、すぐに現れた。閲覧数が、見たこともない速さで跳ね上がっていく。十、五十、百。一晩で、いつもの三倍をゆうに超えた。コメントがつく。「めっちゃ可愛い」「指名します」。そして夜が更ける前に、本物の予約通知が、立て続けに三件、画面に灯った。三件。不足していた家賃が、ものの数時間で、視界に入ってきた。
 私は、安堵した。心の底から、安堵してしまった。たった一枚の顔と引き換えに、来月の生活が、首の皮一枚で、繋がったのだ。
 代償が姿を現したのは、その三日後だった。
 家賃を払い終え、ようやく人心地ついた頃。常連になりかけた客の一人が、待ち合わせのホテルで、スマホの画面をこちらへ向けて、なんでもない口調で言った。
 「美咲ちゃん、これ、本人だよね? ネットの掲示板に、貼られてたよ」
 そこに表示されていたのは、私が投稿した、あの顔写真だった。私の知らないうちに、誰かが保存し、見知らぬ匿名の掲示板へ転載した、私の顔。その下には、顔も名前もない人間たちの品定めが、何十件も連なっていた。値踏み。嘲笑。「三十一は厳しいだろ」。住んでいる地域の詮索。そして――「この子、○○の出身じゃね?」という、一行。
 血の気が、引いた。
 私が「美咲」として放流したはずの顔は、もう「美咲」の手を、完全に離れていた。何百という見知らぬ画面の中で、勝手に複製され、保存され、永遠に消えなくなっていた。あの夜、一枚のために押した投稿ボタン。あの一秒で、私は自分の顔を、世界中へ手渡してしまったのだ。
 そして、ようやく思い知った。これは、消えない。私の人生が続くかぎり、二度と。いつか借金を返し終えて、この仕事を辞める日が来たとして、私は普通の場所へ帰れるのだろうか。もう一度、昼間の会社で働いて、誰かと恋をして、結婚して、子供を持つ――かつて当たり前に思い描いていたその未来は、ネットに焼きついた私の笑顔と引き換えに、静かに閉じてしまった。十年後も、二十年後も、私の顔は、風俗嬢のデータとして、どこかに残り続ける。
 それから数日後、追い打ちをかけるように、営業用アカウントのDMに、一通のメッセージが届いた。開いた瞬間、体温が、すっと下がった。
 『もしかして、○○高校の美咲ちゃん? 懐かしいな、やっぱりそうだよね?』
 地元の、確かに私が通っていた高校の名前だった。送り主は偽名で、誰なのかも分からない。私は震える指で、すぐにそれを削除し、相手をブロックした。
 けれど、一度植えつけられた恐怖の根は、もう、抜けなかった。あのメッセージの主以外にも、私を見つけている誰かが、いるかもしれない。同級生。昔の同僚。私を「普通の女の子」として知っている、かつての友人たち。それ以来、街を歩くのが怖くなった。電車で向かいに座った男がスマホを見ているだけで、私のパネルを見ているのではと、心臓が縮む。コンビニの店員と目が合うだけで、すべてを知られている気がして、俯いて足早に逃げ出してしまう。
 それなのに、翌朝になれば、私はまた、自分の顔写真のアクセス数を確かめている。フィルターを少しきつくかけ、新しい一枚をアップロードしている。怖いのに。消し去りたいのに。やめた瞬間、アクセスは暴落し、予約はゼロに戻り、来月が、また破綻するから。
 その夜、家に帰った私は、化粧台の鏡の前に、立つことができなかった。
 そこに映る顔が、もう、私だけのものではない気がして。病院のベッドの、言葉を失ったあの父が、もし、ふとした拍子に、あの画面を見てしまったら。その想像だけで、足が、立たなくなった。
 私は、鏡に、タオルを一枚、そっと掛けた。
 最後の境界線は、もう、どこにもなかった。
 カチ、という時計の音も、通知を待つ静寂も、今夜はない。ただ、世界中のどこかで、私の顔だけが、私を置き去りにして、休みなく晒され続けていた。

第四章 選ばれる女、選ばれない女

 顔を晒してから、最初の一週間だけは、確かに指名が増えた。
けれど、それは喜びではなかった。掲示板で私の顔を見つけた男たちが、物珍しさで一度だけ覗きに来る。ただ、それだけのことだった。一度来た客は、二度と本指名にはならない。新しさが消えれば、彼らはまた次の「初めての顔」を探しに行く。私が払った代償だけが永遠に残り、客のほうは、誰一人として、残らなかった。
 そして、その週末。店に、新しい女の子が入った。
 源氏名は、ひかり。二十歳だという。色が白く、まだどこかあどけなさの残る顔をしていた。彼女が待機室に現れた瞬間、部屋の空気が、目に見えて張りつめた。古株の女の子たちの視線が、一斉に彼女へ集まり――そして、すぐに逸らされた。値踏みと、警戒と、諦めの入り混じった視線。
 新しい商品が一つ、棚に並んだ。それは、ここにいる私たち全員の「価値」が、また少しだけ下がったことを意味していた。
 案の定、ひかりの予約表は、初日から埋まっていった。何の努力もいらない。写メ日記の文章が拙くても、営業のLINEを送らなくても、男たちは「新人」の二文字に吸い寄せられていく。若さ。新しさ。市場が本当に欲しているのは、ただそれだけなのだと、彼女の真っ赤な予約表が、残酷なまでにはっきりと教えてくれた。
 選ばれる女と、選ばれない女。
 その境界線を引いているのは、努力でも、誠実さでも、客への気遣いでもなかった。ただ、店に並んでからの日数と、生まれてからの年数。それだけだった。
 この業界において、年齢は、もはや単なる記号ではない。それ自体が、商品価値そのものを決定づける、絶対的なパラメーターなのだ。もちろん、三十代でトップに君臨する女性も、四十代で信じられないほど稼ぐ人もいる。けれど彼女たちは、常人離れした魅力か技術を持つ、ほんの一握りの例外だ。私のような凡庸な人間が、努力だけで辿り着ける場所ではない。夜の駅のガラスに映る自分を見るたび、私はそれを思い知らされた。疲れた目元に落ちた、隠しきれない年齢の影。二十三歳の奈々ちゃんと並んだとき、客がどちらへ手を伸ばすか――その答えを、ガラスの向こうの私が、いちばんよく知っていた。
 そして、その努力ですら、もはや武器にはならなかった。毎日SNSを更新し、何度も写メ日記を書き、ライトを浴びて笑顔を作る――そんなことは、今や誰もがやっている「前提条件」にすぎない。血を吐くように営業して、ようやくスタートラインに立てるかどうか。しかも勝負は、会う前に、部屋のドアが開くより先に、ネットの上で終わっている。写真、動画、ランキングの順位、口コミ、アクセス数。あらゆるものが数字に変換され、それがそのまま女の値段として固定される。男たちは、まるでECサイトで家電のスペックを見比べるように、スマホをスワイプしながら、私たちを冷たく選別していく。
 夕方、事務所の壁に、その日のリアルタイムの売上表が貼り出された。
 見たくなかった。それでも、視線は私の意志を裏切って、勝手に数字の列を追ってしまう。
 奈々ちゃん――八万円。ほかの二十代の人気嬢たち――七万、九万、十一万。インフレで自由に使える金が減ったはずの男たちも、彼女たちのような「確実なエース」には、惜しまず大金を払う。そして、その賑やかな数字の、ずっと下のほう。私、美咲――ゼロ。
 数字は、嘘をつかない。どんな優しい慰めよりも正確に、今の私の値段を、容赦なく突きつけてくる。胸の底に、どろりと重たいものが沈んでいく。それは醜い嫉妬ではなく、もっと根深い、行き場のない悔しさと、無力感だった。
 そして、本当に恐ろしいのは――この壁の前に立つ誰もが、こうして人間に値段をつけ、上から順に並べていくこの選別を、もう「残酷だ」とすら思わなくなっていることだった。
 その夜、誰もいなくなった待機室で、私は奈々ちゃんと二人きりになった。
 彼女は、めずらしくスマホを伏せて、ぼんやりと天井を見上げていた。看板嬢の彼女ですら、ひかりが来てから、少しだけ予約の数を削られていた。
 「……美咲さん」
 奈々ちゃんが、ぽつりと言った。
 「あたし、もう三週間、休んでないんです」
 意外だった。指名が途切れない彼女は、私の目には、ずっと幸せそうに見えていたから。
 「太客さんが一人いて。あたしのこと、本気で好きになっちゃったみたいで。仕事辞めて、自分のものになれって。来ないと、何するか分かんない感じで……。怖いんですけど、その人のお金がなくなったら、あたし、たぶん奈々ちゃんでいられないから」
 選ばれることにも、代償があった。選ばれた女は、選んだ男に、丸ごと食べられていく。指名が途切れないからこそ、一日も休めず、降りることもできずに、すり減っていく。
 「あたし、二十三なんですけど」と、奈々ちゃんは小さく笑った。「あと二年、三年したら、どうなるんだろうって、最近すごく怖くて。……あの、ごめんなさい。こんなこと、美咲さんに言うことじゃ」
 彼女は、言いかけて、口をつぐんだ。
 その先の言葉を、私は知っていた。あと二年、三年したら――美咲さんみたいに、選ばれなくなるんじゃないか。彼女は、私の中に、自分の数年後を見ていた。そして私は、彼女の中に、自分の数年前を見ていた。
 私たちは、同じ一本のベルトコンベアの上に、ただ立つ位置を違えて乗っているだけだった。前にいる者から順に、市場へ送り出され、新しさを搾り取られ、やがて端から静かに落とされていく。今日の「選ばれる女」は、明日の「選ばれない女」だ。例外は、一人もいない。
 選ばれる女は、明日の転落に怯えて苦しい。選ばれない女は、今日を生きる金がなくて、もっと苦しい。どちらの椅子にも、安らげる場所など、最初からなかった。
 「奈々ちゃんは、優しいね」
 私は、それだけを言った。慰めの言葉も、未来の話も、何ひとつ持っていなかったから。
帰り際、事務所の前を通ると、ひかりが鏡の前に立って、自分の顔を、満足そうに確かめていた。その手元で、スマホが、ひっきりなしに震えている。かつての奈々ちゃんのように。そして、いつかの誰かのように。
 その横顔を見ながら、私はようやく、はっきりと悟った。
 この世界に、「選ばれる女」など、どこにもいないのだ。いるのは、選ばれる順番を待っている女と、もう選ばれ終わってしまった女。ただ、それだけ。
 カチ、という時計の音も、通知を待つ静寂も、鏡を覆うタオルも、もう要らなかった。
 私は、誰にも見送られないまま、ベルトコンベアの、ほんの少しだけ前へ進んだ位置で、静かに次の朝を待った。

第五章 安くなる私たち

 その広告を最初に見たのは、待機室の、誰かのスマホの画面越しだった。
 『超!! 激安デリバリー オープン記念キャンペーン 60分 9,800円!!』
 九千八百円。私たちの店の、あのタイムセール価格よりも、さらに四千円以上も安い。六十分が、ついに一万円を割った。誰かが小さく舌打ちをして、画面を消した。狭い部屋に、また一つ、重たい沈黙が積もる。
 翌日、店長の佐伯さんから、グループLINEが届いた。
 『お疲れさまです! 近隣に激安店ができた影響で、お問い合わせが減っています。対抗策として、本日より基本料金を見直します。皆さん、何卒ご理解ください!』
 見直す、という言葉が、上がることを意味した試しは、一度もなかった。私たちの基本料金は、また下げられた。隣の店が下げれば、うちが下げる。うちが下げれば、また別の店が下げる。誰も望んでいないのに、誰も止められない。底の見えない階段を、私たちは手を取り合うこともできずに、めいめいが一段ずつ、下りていく。
 気づけば、店のホームページは、年中無休のバーゲン会場のようだった。『新人割引』『早朝・昼割』『フリーのお客様限定割』『ゲリライベント・ALL二千円引き』『雨の日限定クーポン』『平日限定お試しコース』……。客の財布の紐が固くなればなるほど、店はなりふり構わず、値引きのポップを更新していく。
安くなったのは、料金だけではなかった。
 料金が安くなれば、客の目つきが変わる。九千八百円で女を呼べると知った男たちは、私たちを、九千八百円ぶんの人間としてしか扱わなくなる。
 その週、私を指名した男も、そうだった。激安キャンペーンを見て電話をかけてきた、初めての客。部屋に入るなり、彼は値踏みするように私を上から下まで眺め、つまらなそうに言った。
 「写メ、もっと若く見えたんだけどな」
 そして、料金には含まれていないことを、当たり前のように要求した。断ると、彼は心底面倒くさそうに鼻を鳴らした。
 「この値段なんだから、それくらいやってくれてもいいじゃん。嫌なら、口コミに正直に書くけど?」
 口コミ。その二文字が、首筋に冷たく当てられた刃のように効いた。星一つの評価が一つ付くだけで、ただでさえ来ない指名が、本当に途絶える。安くなるほど、私たちは、こうして言いなりにならざるを得なくなっていく。値段が下がるたびに、断る権利まで、一緒に値引きされていくのだ。
 ある日の帰り道、私はいつものようにスーパーの棚を回っていた。キャベツの値段を見る。高い。牛乳を見る。高い。三年前なら特売で百円台後半だった卵のパックが、今は一パック三百円を超えるのが当たり前になった。米も、野菜も、すべてが容赦なく底上げされている。コンビニのおにぎりとお茶のセットで、会計が三百五十円を超えるたび、胸の奥がキュッと締め付けられる。
 そして、閉店間際の惣菜コーナーに貼られた、黄色い「半額」のシール。それを眺めるたび、私はいつも、乾いた笑いがこみ上げそうになる。ああ、私たちは、あれと同じなんだな、と。
 世の中のあらゆる物資が――野菜も、ガソリンも、電力も――「インフレ」の波に乗って値上がりしていく。なのに、私という人間の労働価値だけは、凄まじい勢いで「値下がり」していく。なんだか、悪い冗談のようだった。テレビのニュースキャスターが、他人事のように毎日口にする「インフレ」。けれど、私の人生を支配しているのは、それとは真逆の、冷たくて暗い響きを持つ言葉だった。デフレ。価値が下がる。単価が下がる。誰からも選ばれなくなる。そして、自分という存在が、どんどん「安く」なっていく。
 しかも、この仕事は、自分の心と体そのものが「商品」だ。会社員なら、支給された制服を着ていれば仕事になった。けれど私たちは、商品の質を保つための膨大なコスト――ファンデーション、化粧水、ヘアカラー、衣装の下着、ネイル――を、すべて自腹で払いながら、暴落していく単価のなかで戦わなければならない。しかも、その維持費は、絶対に削れない。髪がパサつけば掲示板に悪評を書かれ、肌が荒れればリピートはされず、少しでも太れば、少しでも「老けた」と思われれば、その瞬間にカタログから間引きされる。
 その夜、私は久しぶりに、電卓を叩いた。
 今日の手取り。そこから、店のバック分を引き、交通費を引き、メイク代を引く。残った金額を、今日、店に拘束された十一時間で割ってみる。時給に換算して、九百円と少し。私は、画面の数字をしばらく見つめていた。部屋の窓から見える、向かいのコンビニ。その時給は、確か千二百円を超えていた。深夜なら、もっと高い。レジでおにぎりを売っている学生のアルバイトのほうが、体を売っている私より、時間あたり、ずっと多く稼いでいる。
 そして、月でならしても、その額は、先月より明らかに少なかった。先月もまた、その前の月より少なかった。日記を書く回数も、自撮りに費やす時間も、待機室で拘束される時間も、すべて増えているのに。手元に残る現金だけが、目を疑う勢いで減っていく。三年前、この仕事を始めたばかりの頃は、一日で会社員時代の一週間分を稼いだこともあった。あの頃の私は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。何もかもが値上がりするこの国で、私の値段だけが、最低賃金すら下回るところまで、転がり落ちていた。
 その夜、待機室の片隅で、四十代のベテランの先輩嬢が、スマホを睨みつけながら、ぼそりと呟いた。この店で十年以上働く、かつてのトップ嬢だ。
 「……昔はさ、本当にこんなんじゃなかったんだよ。SNSなんかやらなくても、出勤して座ってるだけで、フリーの客が一日十本とか付いたの。稼いだお金で外車を買った子だっていたくらい。でも今はどう? 本指名の太い客を何人も抱えてる若い子しか、まともに生き残れない」
 先輩は、冷え切った缶コーヒーを一口すすって、自嘲気味に笑った。
 「しかも、今の子は本当にかわいそうだよ。毎日無給でSNS更新させられて、動画まで作らされて、顔まで晒してさ。昔の私たちより、やってる仕事の量は、絶対何倍も増えてる。それなのに、もらえる金は半分以下なんだから」
 その目元には、隠しきれない寂しさと、時代に取り残された諦念が滲んでいた。私も、まったく同じことを思っていた。私たちは、昔の女の子たちより、確実に多く働いている。何倍も努力し、何倍も過酷な競争に身を投じている。それなのに、誰も豊かになれない。走っても、走っても、生活は苦しくなる一方だ。
 布団に入って、私はぼんやりと考えた。私たちは、いったい何と競争しているのだろう。隣の店と。激安店と。新人のひかりと。若い奈々ちゃんと。――いや、違う。本当に競争させられているのは、私たち同士なのだ。生き延びるために、誰かが値段を下げる。下げられたほうも、選ばれるために、もっと下げる。そうやって私たちは、互いの首をそっと絞め合いながら、結局、自分自身の首を、最も強く絞めていた。
 安くなる、ということ。
 それは、ただ料金表の数字が小さくなることではなかった。客の見下した視線を、断れない要求を、星一つの脅しを、少しずつ「仕方ない」と受け入れていくこと。値引きされた料金に、自分の価値そのものを、いつのまにか合わせてしまうこと。
 気がつけば、屈辱に、前ほど胸が痛まなくなっていた。それが、いちばん怖かった。安く扱われ続けた人間は、やがて、自分のことを安いと信じるようになる。心が、自分に貼られた値札の数字に、静かに馴染んでいく。
 クレンジングシートでファンデーションを拭き取ると、鏡のなかに、光を失った三十一歳の女が現れた。私は、その瞳に向かって、声にならない声で問いかける。ねえ、あと何年、この生活を続けられる? 三十二歳になったら。三十五歳になったら。四十歳になったら。さらにインフレの進んだ世界で、私の値段は、どこまで暴落しているのだろう。
 カチ、という時計の音も、通知を待つ静寂も、鏡を覆うタオルも、ベルトコンベアの軋みも。
 そのどれよりも静かに、私という人間に付けられた値札が、また一つ、書き換えられていた。
 昨日より、安く。明日は、きっと、もっと安く。

第六章 ライバルは店の外にいた

 その客は、半年ほど続いた、数少ない本指名の一人だった。
 月に二度は呼んでくれた、多くは語らない物静かな中年の男。彼が来なくなって三週間が過ぎた頃、私は思い切って、営業のLINEを送ってみた。『お久しぶりです♡ お元気ですか?』。心にもない、いつもの一文。
 返信は、意外なほど素直に返ってきた。そして、その内容が、私の足元を静かに崩した。
『ごめんね。最近、アプリで知り合った子と会ってるんだ。女子大生でね。お茶して、ご飯食べて、ちょっとお小遣いをあげるだけ。そのほうが、なんていうか……自然っていうか。美咲ちゃんも元気でね』
 アプリ。女子大生。お小遣い。
 その言葉が、頭のなかで、冷たく反響した。彼は私を、別の店の女に取られたのではなかった。激安店に乗り換えたのでもなかった。彼が選んだのは、「店の女」ですらない、どこにでもいる、普通の女の子だった。
 その違和感の正体を教えてくれたのは、激しい雨の降る日の、待機室だった。
 天候のせいか、その日は予約がほとんどなく、奈々ちゃんですら、一本を終えたきり、手持ち無沙汰にスマホを眺めていた。「最近、本当に厳しいですね」と新人がこぼすと、四十代の先輩が、鼻で笑うように言った。
 「そりゃそうよ。今、私たちのライバル、信じられないくらい増えてるんだから」
 ライバル。私は反射的に、隣の奈々ちゃんへ視線を向けた。店内の若い子たちに客を奪われている――ずっと、そう思っていたから。けれど先輩は、首を横に振って、自分のスマホをくるりとこちらへ向けた。画面に並んでいたのは、いくつかのマッチングアプリのアイコンと、SNSの個人アカウントだった。
 「敵は、こんな狭い場所にはいないわよ。今の男たち、みんな、こっちに流れてるの」
 その夜、私は震える指で、噂のマッチングアプリを、自分のスマホに入れてみた。女のふりをして登録し、検索をかけた瞬間――息が止まった。
 そこには、海があった。女の、海だった。
 何百、何千という、普通の女の子たちのプロフィールが、画面を埋め尽くしていた。女子大生。新卒のOL。子育て中の主婦。看護師。みんな、私のように顔を隠してなどいない。屈託のない、加工もほどほどの、普通の笑顔。『まずはお茶から』『食事だけでも』『相談に乗ってくれる優しい方、募集してます』。やんわりとした言葉の膜の向こうに、お小遣い、という三文字が透けている。
 彼女たちは、自分を「風俗嬢」だとは思っていない。「仕事」だとすら思っていない。学費の足し。家賃の足し。推しのための、ほんの少しのお小遣い。そういう軽やかな顔をして、私が三年かけて切り売りしてきたものを、片手間で、ずっと安く、差し出していた。店の手数料も、待機時間も、交通費も、彼女たちにはない。誰にも管理されず、何にも縛られず、スマホ一台で、男と直接つながる。私という商品が、店という棚に並べられ、何割も抜かれて、それでも売れ残っている、その同じ時間に。
 そして、彼女たちには、私たちが決して持てない特権が、一つあった。
 相手を、『選ぶ権利』だ。
 私たちは、客を選べない。どんなに不潔な男でも、どんなに高圧的な男でも、店が予約を受け付けた時点で、断る自由はない。生理的に受け付けない相手でも、恐怖を感じる相手でも、ドアが開いた瞬間から、私は完璧な「商品」の笑顔を作らなければならない。けれど、画面の向こうの彼女たちは、プロフィールを見て、メッセージを交わし、嫌だと思えば、その瞬間にブロックできる。自分の尊厳を守りながら、自分の意思で、相手を選んでいる。その違いは、想像していたよりも、ずっと深く、私たちの存在を脅かしていた。
 ようやく、私は分かった。私の本当のライバルは、ずっと、店の中にはいなかった。
 奈々ちゃんでも、ひかりでも、激安店の女の子でもなかった。私が必死に見比べ、怯えていた相手は、みんな、同じ棚の上の住人だった。本当の敵は――いや、敵ですらない。それは、店の外の、ありふれた日常を生きる、無数の普通の女たちだった。家賃が払えなくて、奨学金の返済に追われて、推しのグッズが欲しくて。私とまったく同じ理由で、スマホの中で、静かに自分を切り売りし始めた、ごく普通の人たち。
 インターネットは、「プロ」と「素人」を隔てていた壁を、跡形もなく溶かしてしまった。そして男たちは、迷わず、壁の外を選んだ。「店の女」「プロ」「風俗嬢」という値札の付いた私より、「たまたま知り合った普通の子」のほうが、安くて、若くて、何より「本物」に見えたからだ。私が三年かけて身につけた技術も、気遣いも、ここでは価値どころか、むしろ「擦れている」という、ただの減点でしかなかった。
 結局、どこへ行っても、行き着くのは「安い」という一言だった。男たちは、冷徹にコストを比べている。店に通えば、一回で何万も飛ぶ。けれどアプリなら、月に数千円。うまくいけば、素人の女の子と、ほとんどタダ同然で会える。給料は上がらず、税金は引かれ、物価だけが上がっていくこの国で、人がいちばん先に切り捨てるのは、風俗のような「贅沢な娯楽費」だ。私たちは、隣の部屋の女の子と戦っていたのではなかった。スマホの向こうにある、すべての安い娯楽と――そして、極限まで削られた、人々の財布そのものと、戦わされていたのだ。
 数日後、出勤すると、佐伯さんが事務所で頭を抱えていた。今月の売上は、過去最低を更新したという。 系列の別店舗が、来月、二つ畳まれるらしい、と彼は力なく呟いた。
 待機室では、ひかりが、スマホを見ながら奈々ちゃんに何かを耳打ちしていた。
 聞くともなしに、「店、通さないほうが全然いいって」「バック取られないし」という切れ端が、耳に入ってくる。二十歳のひかりは、もう気づいている。この店という箱の中にいる意味が、なくなりかけていることに。一番新しい彼女が、一番早く、店の外へ出ていこうとしていた。私が、顔まで売り渡してしがみついた、この場所から。
 その夜、待機室で奈々ちゃんと二人になったとき、いつも笑顔を絶やさない彼女が、めずらしく、重いため息をついた。
 「最近、ずっと指名してくれてた常連さんたち、急に来なくなっちゃって……。メッセージ送っても、既読スルーばっかりで」
 彼女は、誰もいない空間を見つめて言った。
 「美咲さん、私、時々思うんです。この仕事、頑張れば頑張るほど、ゴールが遠くなって、終わりが見えなくなる気がするって」
 あの奈々ちゃんですら。店の一番の稼ぎ頭ですら、もう、明日の客足が見えずに、暗闇のなかで怯えていた。私は、何も返せなかった。まったく同じ恐怖が、毎晩、私の心を噛みちぎっていたから。
 奈々ちゃんが先に帰ったあと、私は、誰もいなくなった待機室のパイプ椅子に、一人で座っていた。
 これまで、私の世界には、いつも「壁」があった。カチ、カチと時を刻む待機室の時計。通知を待つ静寂。鏡を覆ったタオル。選別のベルトコンベア。書き換えられ続ける値札。それらはすべて、この「店」という箱の、内側にあるものだった。
 けれど、その壁が、いま、音もなく崩れていく。
 私は、もう誰も入ってこない箱の中に、たった一人、取り残されていた。みんなが、とっくに出ていったあとの、建物に。

第七章 増える仕事、減る収入

 沈んでいく船の中で、ただ膝を抱えて、客を待っているわけにはいかなかった。
 店が客を呼べないのなら、自分で、稼ぎを取りにいくしかない。あの夜、ひかりが奈々ちゃんに耳打ちしていた「店、通さないほうがいい」という言葉が、ずっと、私の中で燻っていた。だったら、私もやればいい。店に出ながら、店の外にも、稼ぎの口を増やせばいい。手を動かす場所を増やせば、その分だけ、お金も増えるはずだ――そう、信じていた。あまりに、単純に。
 私は、考えうるかぎりの「仕事」を、自分の一日に、片端から詰め込み始めた。
 昼は、これまで通り、半分眠ったように静まり返った店に出勤して待機する。客のつかない待機の合間に、スマホでマッチングアプリのメッセージを返し、直接会えそうな相手を探す。夜、家に帰れば、今度はパソコンの前に座って、チャットレディのサイトにログインする。カメラの前で、見知らぬ男たちに笑いかけ、媚を売り、ポイントを稼ぐ。その合間に、撮りためた写真を一枚いくらで売るサイトへ、商品をアップロードしていく。
 店という箱には、もう、私を守ってくれる壁すら、残っていなかった。誰にも管理されない代わりに、誰にも守られない。それでも、私は手を止めなかった。
 仕事は、面白いように、増えた。
 増えすぎて、もう、眠る時間がなかった。一日が、二十四時間まるごと、何かしらの「営業」で埋まっていく。店の待機。アプリの返信。深夜のチャット。写真の加工と販売。SNSの更新。気がつけば、私は一日のうちに、誰にも雇われていない時間を、一秒も持っていなかった。働いていない瞬間が、罪のように怖かった。手を止めれば、その分だけ取り残される気がして、私は壊れた機械みたいに、ただ手を動かし続けた。
 そして、月末。久しぶりに、すべての通帳と、アプリの売上画面を、机の上に並べてみた。
 電卓を叩く。店の手取り。アプリで会った客からの「お小遣い」。チャットのポイントを換金した額。写真の売上。全部、足す。
 ――先月より、減っていた。
 何かの間違いだと思って、もう一度、最初から計算した。同じだった。あれほど仕事を増やしたのに。眠る時間を削り、休む日をなくし、稼ぐ場所を三つも四つも掛け持ちしたのに。収入は、先月よりも、はっきりと、減っていた。そして先月もまた、その前の月より、少なかったのだ。
理由は、考えるまでもなかった。
 私が勇んで漕ぎ出した「店の外」の海には、すでに、私のような女が、溺れるほどいた。チャットの画面には、何百という女の子が同時に並び、客はその中を、ただ眺めて通り過ぎていくだけ。私の時間のほとんどは、誰も入ってこないカメラに向かって、一人で笑っているだけで過ぎていった。写真は、一枚売れて、数十円。アプリで会えた客は、二度目の連絡をくれない。どこを掘っても、私と同じ理由で、同じことを始めた、無数の女たちと、ただ薄く、薄く、分け合うだけだった。
 しかも、どの場所も、必ず手数料を抜いていく。店はバックを、アプリは利用料を、サイトは換金手数料を。私が増やした仕事の数だけ、私から少しずつ抜いていく手が、増えただけだった。
 働けば働くほど、私は、貧しくなっていく。
 そんな、ありえないはずの算数が、いつのまにか、私の人生では、当たり前の法則になっていた。
 実家からは、相変わらず連絡が来る。父の入院費。母の通院。消費者金融への、最低限の返済。来月もまた、お金は私の手元を素通りして、出ていく。入ってくるより、確実に、多く。どれだけ働いても、私の通帳の残高は、増えるどころか、ゆっくりと、けれど確実に、目減りしていった。
 ある明け方、チャットのカメラの前で、私は意識が、一瞬、飛んだ。
 気がつくと、机に突っ伏していた。何時間眠ったのかも、最後にまともな食事をとったのがいつなのかも、思い出せなかった。鏡を見ると、土気色の顔をした、知らない女が、こちらを見返している。手の指先が、小刻みに震えていた。体が、もう限界だと、声にならない悲鳴をあげていた。
 それでも、私は、手を止められなかった。止めた瞬間に、減り続けるお金の速度が、もっと速くなる気がして。
 ふと、待機室の、あの古い掛け時計を思い出した。
 三年前――いや、つい数か月前まで。私はあの時計の前で、何もすることがなく、ただ予約を待ちながら、無為に流れていく時間を、呪っていた。仕事さえあれば、と思っていた。あの空っぽの時間さえ、お金に変えられたら、と。
 今、私には、二十四時間ぶんの仕事がある。一秒も、無駄にしていない。あの頃、喉から手が出るほど欲しかった「働く時間」を、私は、すべて手に入れた。
 それなのに――手にした金額は、ただ座って待っていた、あの頃よりも、少なかった。
 時計の針は、もう、止まらない。私はもう、その針を見上げる暇さえない。けれど、休みなく回り続けるその針が運んでくるのは、お金ではなかった。ただ、減っていく数字と、すり減っていく私自身だけが、刻一刻と、積み上がっていった。

最終章 それでも私は出勤する

 働けば働くほど貧しくなる、というあの算数の底で、私はとうとう、一度、すべての手を止めた。
 明け方だった。チャットの画面を閉じ、アプリの通知を切り、スマホを伏せる。何もしない、ただの数時間。その数時間が、ひどく久しぶりに思えた。
 そして、ぼんやりと考えた。もう、いいんじゃないか、と。
 頑張る、という言葉が、もう何の意味も持たなくなっていた。頑張れば頑張るほど、坂を転がり落ちる速度が増していくのなら、いっそ、ぜんぶ手を放してしまったほうが、楽なんじゃないか。誰にも見つけてもらえない女が一人、この六畳の部屋で、ただ膝を抱えてうずくまっていたところで、世界の何かが変わるわけでもない。
 私は、自分にできることを、ひとつずつ数えてみた。
 十年前に辞めた事務の仕事は、もう私を雇わない。三十一歳、十年のブランク、空白だらけの職歴。面接で、正直に話せることなど、何ひとつない。手に職もない。資格もない。あの夜、掲示板に放流されてしまった私の顔は、今も世界のどこかで消えずに漂っていて、まっとうな仕事に就こうとした、まさにその瞬間に、いつか私を呼び止めるかもしれない。
逃げ道を、私は、一本も持っていなかった。
 ――だからこそ、皮肉な話だった。
 逃げ道がない、ということは、裏を返せば、もう、迷う必要もない、ということでもある。選べる道が一本しかないのなら、ただ、その一本を、歩くだけだ。
 そのとき、伏せていたスマホが、短く震えた。今度は、予約でも、営業でもなかった。母からの、メッセージだった。
 『お父さん、今日、リハビリで少しだけ手が動いたって。看護師さんが褒めてくれたよ。美咲も、無理しないでね。ちゃんとごはん食べてる?』
 ちゃんとごはん、食べてる?
 その一行を、私は、何度も、何度も、読み返した。
 そういえば、最後にまともに食べたのが、いつだったか、思い出せなかった。私は立ち上がり、冷蔵庫から、いつ買ったかも分からない卵をひとつ取り出した。火にかける。安い卵を一個焼くだけの、ただそれだけのことが、なぜだか、生きている人間のすることのように思えた。湯気の立つそれを、私は、ゆっくりと食べた。体の奥に、温かいものが、じんわりと落ちていく。
 ああ、お腹が空いていたんだ、と思った。こんなになっても、私の体は、まだ、生きたがっている。
食べ終えて、私は、化粧台の前に立った。
 顔出しを決意したあの夜から。私はずっと、この鏡に、タオルを掛けたままにしていた。自分の顔を見るのが、怖かったから。私は、そのタオルに手をかけて――静かに、外した。
 鏡の中に、土気色の、疲れ果てた女がいた。目尻に皺があり、隈があり、もう、若くはない。掲示板で品定めされ、値段を下げられ、選ばれなくなっていった顔。
 それでも、これは、私の顔だ。
 誰のものでもない。商品「美咲」の顔である前に、父が少しだけ手を動かしたと聞いて、不覚にも泣きそうになった、生身の、私の顔だ。
 私は、蛇口をひねり、溢れた冷たい水を、両手で掬って顔にぶつけた。冷気で、皮膚がきゅっと引き締まる。濡れた顔を拭き、鏡の中の、冴えない女に向かって、声にはせず、小さく呟いた。今日も、生きよう、と。
 それから、本格的な「武装」を始める。ファンデーションを叩き込み、肌のくすみを消す。アイラインを引き、マスカラでまつ毛を一本ずつ立ち上げ、最後に、鮮やかな色の口紅をのせる。鏡の中で、お金がなくて不安な私も、年齢の限界に怯える弱い私も、何もかも投げ出して泣きたい私も、分厚いメイクの下へ、一枚ずつ覆い隠されていく。けれど、それはもう、男に媚びるための仮面ではなかった。ただ、今日という一日を生き抜くための、戦支度だった。
 支度を終えて、私は、いつものようにスマホを開いた。今日の出勤を告げる、定型文を打ち込む。『おはようございます♡ 美咲です。本日も元気に出勤します♡ お誘い、待ってますね』。投稿ボタンを押す瞬間、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。今日もまた、誰からも選ばれず、十二時間を売上ゼロで終えるかもしれない。それでも、私は、投稿を止めない。もう、これしか、生きる手段が、残されていないから。
世の中は、たぶん、何も変わらないだろう。物価は上がり続け、私の単価は下がり続け、店の外の海には、明日もまた、新しい女たちが溺れていく。働いても、お金は増えない。来月の家賃も、父の入院費も、きっと、またぎりぎりだ。何ひとつ、よくなる保証なんて、どこにもない。
 それでも、朝が来れば、私は、また、あの待機室へ行く。予約が、一件も入らないかもしれない。あの古い掛け時計の前で、何時間も、ただ無為に座っているだけかもしれない。それでも、いい。生きるというのは、たぶん、そういうことなのだ。劇的な救いも、誰かの迎えも来ないまま、それでも朝になれば起き上がり、顔を作り、靴を履いて、行く。ただ、それだけのことを、明日も、明後日も、繰り返していく。
 家を出て、駅へ向かう。満員電車に揺られながら、窓の外を流れていく、東京の朝を眺めた。
 街は、信じられないほどの熱量で、脈打っていた。階段を駆け上がるスーツ姿の会社員。教科書を抱えた学生。ヘルメットを被って現場へ向かう作業員。荷物を満載した、配送トラックのドライバー。みんな、生きている。みんな、必死に働いている。口には出さないだけで、この狂ったような物価高のなかで、それぞれの重たい何かを背負って、戦っている。
 苦しいのは、私だけじゃない。
 そう思えたとき、張り詰めていた胸の痛みが、ほんの少しだけ、和らいだ気がした。
 店に着き、重い鉄の扉を開けて、待機室に入る。壁の古い掛け時計は、あの日と、まったく同じ音で、時を刻んでいた。
 カチ。カチ。カチ。
 何も変わらない、いつもの風景。けれど、三年前、この業界に入ったばかりの私と、今の私は、確実に、違っていた。私はもう、知っている。この部屋でスマホにしがみついている女の子たちが、みんな、私と同じ暗闇を、抱えているということを。
 幼い子を育てるシングルマザー。親の介護費や、膨らんだ奨学金の返済に追われる人。夢を叶える資金を貯めるために、心を殺して座っている、二十歳そこそこの子。年齢も、抱えた事情も、背負う十字架の重さも、みんな違う。それでも私たちは、全員、今日という一日を生き延びるために、尊厳を、ぎりぎりのところで保ちながら、必死に戦っている。誰も、楽をして大金を稼いでなんかいない。誰も、笑いながら生きてなんかいない。
 その横顔を見ているうちに、私は、自分が長いあいだ閉じこもっていた孤独の檻から、一歩、外に出られたような気がした。私たちは、敵同士じゃない。同じ泥舟に乗って、同じ荒波を漕いでいる、戦友なのだ。そう思えたとき、崩れかけていた私の心に、小さな、けれど確かな芯が、一本、通った。
 午後一時。勤務時間が始まった、その瞬間。ポケットの中で、スマホが、短く、鋭く震えた。
 祈るような気持ちで、画面に触れる。
 《予約確定 13:30〜 ご新規様》
 クーポンを使った、ロングでもオプションでもない、いちばん安い、ミニマムな一本。それでも私は、誰もいない待機室の片隅で、こみ上げてくる涙を堪えながら、心から、笑った。こんなふうに胸が熱くなるのは、いったい、何ヶ月ぶりだろう。
 たった一本。たった、数千円の歩合。けれど、それは間違いなく、この広い東京のどこかにいる誰かが、無数の選択肢のなかから、「美咲」という私を、見つけて、選んでくれた、証だった。デジタルの数字ではなく、生身の人間に、私の存在が、たしかに肯定された気がした。
 明日のことは、分からない。来月の売上がどうなっているかも、一年後にこの国がどうなっているかも、もっと分からない。三十一歳の私が、いつまで「商品」として立っていられるのか、その限界の日は、そう遠くないのかもしれない。
 だけど、今日だけは、私は、生きていける。今日だけは、自分の力で稼いだお金で、前を向いて、歩くことができる。今の私には、それで、十分だった。
 待機室の掛け時計が、午後一時半を告げた。
 カチ。カチ。カチ。
 時計は、変わらず、冷徹に、けれど誰にでも平等に、時を刻み続けている。社会の構造が変わっても。景気がどれほど冷え込もうとも。人間の価値が、デジタルな数字で品定めされる時代になろうとも。時間だけは、決して、止まらない。
 だから、私も、立ち止まらない。
 私は、小さなバッグをしっかりと握りしめ、立ち上がった。ドアを開けると、冷たく澄んだ、新しい一日の空気が、まっすぐに流れ込んでくる。あの澱んだ待機室の空気とは、まるで違う。私はそれを、肺の底まで、ゆっくりと吸い込んだ。眩しい初夏の日差しが、視界を、真っ白に染めていく。
 他に、できることもない。だから私は、この仕事で、明日もまた、生きていく。誰にも頼らず、自分の足で、この世界に、立ち続けるために。そして、この大きな都市の、誰の目にも触れない場所で、作り物の笑顔の裏に本音を隠して、今日を必死に戦い抜いている、無数の女たちと、同じように。
――それでも、私は、出勤する。

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