エピソード●因果の残り香・久美子
遠い季節の残響
窓の外では、湿り気を孕んだ夜風が、街路樹の葉をざわつかせている。その不規則な囁きは、十五年前のあの晩と酷似していた。追い立てられるような、それでいてどこへも辿り着けないような、ひどく落ち着かない夜の気配。
早いもので、彼女――久美子と別れてから、十五年という月日が流れた。
すべては、私の内に巣食った卑小な慢心から始まった。 当時、同じ部署にいた後輩の女と交わした、一時の情動。それを「火遊び」という手垢のついた言葉で括ってしまえるほど、当時の私は愚かで、浅はかだった。隠し通せると信じ込んでいた裏切りは、ある日、唐突に、そして無残なほどあっけなく露見した。
言い逃れようと言葉を探す私の口唇は、彼女の凍てついた眼差しを前にして、文字通り氷結した。弁解を並べることの卑怯さすら、その静かな瞳に射すくめられ、私はただ、自分がどれほど空っぽな人間であるかを突きつけられるしかなかった。
破局は、事務的な音を立てて訪れた。 銀行口座から引き落とされた五百万円という大金。それは、犯した罪に対する「贖い」というよりは、彼女が私という存在を自らの人生から完全に、一片の未練もなく切り離すための「清算の儀式」であったように思う。
離婚届に判を押し、住み慣れた家を後にしたあの日以来、私たちは一度も言葉を交わしていない。久美子が今、どこで誰と、どのような空気を吸って生きているのか。風の便りすら届かないほどに、彼女は私の世界から鮮やかに姿を消した。
十五年。 五千四百日を超える月日は、かつての生々しい罪悪感を少しずつ風化させ、鋭かった心の棘を、角の取れた小石へと変えてしまった。痛みはもはや、生活の背景に溶け込むほどに鈍い。
けれど、ふとした静寂の合間に。 グラスの氷が溶ける音や、風がカーテンを揺らす僅かな隙間に、私は今も心の中で彼女の名をなぞってみることがある。
「久美子」
声にならないその響きだけが、主(あるじ)を失ったこの空っぽな部屋の隅に、消えない残像のようにいつまでも留まっている。
凪(なぎ)の食卓
久美子と別れてからの五年間は、まるで音のない深海をあてどなく漂っているようだった。
夜、帰宅して玄関の明かりを点けても、部屋の空気はひやりと止まったままだ。コンビニのレジ袋がカサリと鳴る乾いた音さえ、今の自分がどれほど世界から隔絶されているかを際立たせる装置のように思えた。 冬の夜、冷え切った布団の中で「これは罰なのだ」と自分に言い聞かせることが、唯一の救いだったかもしれない。自業自得という重い石が胸の底に沈み、その重みが、私がまだ辛うじて生きていることを証明していた。誰を恨むことも叶わず、ただ犯した過ちの代償を、独りきりの静寂という貨幣で払い続ける日々だった。
そんな停滞した時間に、微かな風が吹き込んだのは五十代の半ばを過ぎた頃だ。 今の妻と出会い、気づけば共に暮らし始めてから十年の月日が経った。 彼女との生活は、かつての燃え上がるような過ちや、あの凍てつくような絶縁とは無縁の、どこまでも穏やかな陽だまりのようなものだ。
「お茶、淹れ直しましょうか」
台所から聞こえる、リズミカルな包丁の音。立ちのぼる湯気の向こう側で交わされる、実のない世間話。そんなささやかな日常の断片が、私の荒んだ記憶の裂け目を、柔らかな砂で埋めるように少しずつ塞いでいった。
もちろん、ふとした瞬間に過去の影が差し込むことはある。 古い映画のワンシーンや、雨の午後の匂い、街角で耳にする流行歌。それらが不意の引き金となり、かつての罪悪感が古傷のように疼き出す夜も、決してゼロではない。しかし、今の私はそれから目を逸らすのではなく、「過去は過去だ」という揺るぎない事実として、静かに受け流す術(すべ)を覚えた。
窓の外では、夕暮れの空が深みのある群青色に染まっていく。 隣の部屋で洗濯物を畳む妻の気配を、衣擦れの音として背中に感じながら、私は少し冷めかけた茶を啜る。
劇的な救済など、今の私には必要ない。ただ、この凪いだ海のように平坦な毎日を、私は「幸福」と呼び、大切に守っていきたいと思っている。 それが、かつて一人を深く傷つけ、五年の孤独を噛み締めた私が、長い旅路の果てにようやく辿り着いた、人生の折り返し地点なのだ。
邂逅(かいこう)の場所
新大阪からの帰路。新幹線を下りた途端、都会の湿った夜気が肺の奥まで侵入し、出張帰りの重い体に追い打ちをかけた。家路を急ぐべきだったが、鉛のような疲労感は、どこかで一杯引っ掛けたいという抗いがたい欲求に形を変えていた。
いつもの馴染みの暖簾(のれん)をくぐるつもりだった。だがその夜、私は何かに導かれるように、普段は足を踏み入れない路地へと迷い込んだ。ネオンがひしめく喧騒の片隅に、一際新しく、清潔そうな看板を掲げた店が
「……たまには、新しい店でも覗いてみるか」
そんな、砂粒のような気まぐれが、静かに止まっていた時計の針を十五年前へと無理やり引き戻すことになるとは、露ほども思わずに。
凍りついた秒針
受付の男に促されるまま、ロビーの革張りのソファに深く腰を下ろしていた。自動ドアがシュンと空気を切る微かな音とともに、奥から一人の女性スタッフが歩み寄ってきた。
目が合った。 その瞬間、周囲の喧騒は真空へと吸い込まれ、世界から一切の色彩が剥落した。心臓が不快な不整脈を刻み、喉の奥が痙攣(けいれん)する。向こうもまた、白昼夢でも見ているかのように、その場に釘付けになっていた。
そこに立っていたのは、十五年という歳月の重みを全身に纏(まと)った、かつての妻――久美子だった。 黒々と艶やかだった髪には、降り積もった雪のような白いものが混じり、華奢だった肩の線は、重力に従うように丸みを帯びている。容姿も体型も、記憶の中の彼女とは別人のようだった。だが、その瞳の輪郭――かつて私を静かに射すくめたあの独特な光の宿り方だけは、隠しようもなく久美子その人だった。
「おまえ……久美子か?」
絞り出した声は、ひどく掠(かす)れ、頼りなく震えていた。十五年ぶりの再会が、まさか、こうした欲望と虚飾が澱(おり)のように溜まる街の片隅で果たされるとは、皮肉という言葉では片付けられない残酷さを感じた。
スタッフ用の、狭い沈黙
もはや、客として対面するなどという茶番は不可能だった。 「……少し、話せる?」 久美子の掠れた誘いに応じるまま、私は華やかな接客スペースではなく、店の奥にあるスタッフ用の休憩室へと通された。
そこは、錆の浮いた折りたたみ式のパイプ椅子と、飲み残しの缶コーヒーが放置されただけの、殺風景な小部屋だった。天井の蛍光灯が、チチチと不吉な音を立てながら無機質な白い光を放ち、互いの顔に深く刻まれたシワや、隠しきれない疲弊を容赦なく照らし出している。
十五年前、修羅場と化したリビングで最後に見た彼女の毅然とした背中。そして今、私の目の前で疲れ果てた表情を浮かべて座っている一人の女。
何から話し始めればいいのか。再婚し、ささやかな平穏を手に入れた自分の生活を誇るべきか、あるいは今更、あの日の謝罪を口にするべきか。
狭い部屋の中に充満した濃密な気まずさは、もはや「苦痛」という形を成して私たちを締め付けた。私たちはただ、向かい合ったまま、十五年というあまりに長すぎた空白の深淵を、音もなく覗き込んでいた。
無機質な蛍光灯が、絶え間なくチチチと低い音を立てている。その青白い光に晒された狭い休憩室で、私たちは十五年という歳月の「答え合わせ」をすることになった。
かつて同じ布団で眠り、同じ未来を信じていたはずの女性が、今は男たちの欲望を捌き、虚飾を売る場所で、くたびれた制服を纏って座っている。その残酷な現実が、凝固した血のような鉄の味を伴って、私の喉元までせり上がってきた。
報いの履歴書
「……ここで、働いているのか」
あまりに愚かな問いだと、声に出した瞬間に後悔した。だが、そうして言葉の礫(つぶて)を投げなければ、目の前の光景を自分の人生の一部として受け入れることができなかった。
「見ての通りよ」
久美子は力なく笑った。その乾いた笑い声には、かつて私が愛した鈴の鳴るような響きは微塵も残っていない。
「いつからだ」 「あんたと別れてすぐよ。色々あったわ……。あんたのせいで、私の人生はめちゃくちゃに狂った」
真っ直ぐに私を射抜く視線。その瞳の奥に澱(おり)のように溜まった、仄暗い憎しみと諦念。それが、私の胸を鋭く突き刺した。反論など、一言もできるはずがなかった。私が一時の情動に負け、彼女を裏切り、あの家庭を壊した瞬間――彼女の人生という精密な歯車は、本来回るはずのなかった絶望の方向へと、狂ったように回り始めたのだ。
「悪い……」
絞り出した謝罪があまりに軽く、卑怯な逃げのように感じられて、私はすぐに口を噤(つぐ)んだ。
久美子はポツリポツリと、途切れがちな煙草の煙のように、十五年の歩みを語り始めた。それは三十分ほどの、あまりに短く、あまりに過酷な履歴書だった。
私と別れて三年後、彼女は一度、再婚という名の温もりを手にしたのだという。しかし、幸運の女神は二度と彼女に微笑まなかった。新しい夫の事業が失敗し、雪だるま式に膨れ上がった借金。必死に支えようとした五年間の末に、再び訪れた破局。身を寄せる場所もなく、頼れる親類もいない孤独の中で、彼女は生きるために夜の街を、泥濘(ぬかるみ)のような仕事を転々とした。
「……最後に行き着いたのが、ここだったってわけ」
彼女は、以前より肉のついた自分の体型や、混じり始めた白髪を自嘲するように、少しだけ肩をすくめた。その何気ない仕草に、かつて家庭で見せていた愛らしさの欠片が残酷に重なり、私はたまらず目を逸らした。
私は今、新しい妻と平穏な暮らしを営んでいる。温かい食卓があり、柔らかな寝床がある。しかし、その幸福という名の家屋は、実はこの一人の女の人生を犠牲にして築かれた、砂上の楼閣だったのではないか。
そんな悍(おぞま)しい考えが頭をよぎり、私は座っているパイプ椅子の、刺すような冷たさに耐えることしかできなかった。
狭い部屋を支配するのは、重苦しい沈黙と気まずさだけだ。三十分という時間は、まるで十五年分の質量を持って、私たちの間に埋めようのない深淵として横たわっていた。
不毛な沈黙に耐えかねたのか、それとも無意識の自虐か。心の底に澱(おり)のように溜まっていた問いが、制御を離れて不意に口をついて出た。
「……子供は、作らなかったのか」
言葉が狭く殺風景な部屋に放たれた瞬間、私は己の無神経さに戦慄した。だが、久美子は眉ひとつ動かさなかった。ただ、膝の上に置かれた、かつてより幾分か節くれだった自分の手を見つめたまま、淡々と答えた。
「あんたとの間にだって、できなかったでしょう。……その後も、結局縁がなかったわ」
乾いた砂が零れ落ちるような声だった。しかしその短い言葉には、彼女がこの十五年で一つひとつ諦めてきたであろう、数知れない幸福の断片が凝縮されているようで、私は肺を強く圧迫されるような錯覚に陥った。
私たちは十二年間、夫婦だった。 子供が欲しいと、切実な瞳で訴えていた彼女の姿を今でも鮮明に覚えている。だが、当時の私は仕事の充実や、自分自身の卑小な愉楽にばかり重きを置き、親になるという重い責任から、無意識に逃げ続けていた。病院へ行こうという彼女の誘いも、適当な理由をつけてはぐらかし、「いつかそのうちに」という空疎な言葉で、彼女の切なる願いを塗り潰し続けてきたのだ。
十二年。女性としての、そして夫婦としての、最も瑞々しく、可能性に満ちた季節を、私は彼女から奪い去ったに等しい。
「そうか。……すまなかった」
今更、何を。自分でも嫌悪を覚えるほどに空虚な言葉だった。浮気をして家庭を壊したこと以前に、共に歩んでいた時間の中でさえ、私は彼女に対して一度として誠実ではなかったのだ。
部屋の隅にある小さな冷蔵庫が、低く唸るような音を立て始めた。その無機質な機械音が、私たちの間に流れる沈黙をいっそう冷酷なものに変えていく。
もしあの時、私がもっと彼女と正面から向き合い、共に子供を育てる未来を、泥臭くとも選んでいたら。 今、彼女はこんな蛍光灯の剥き出しの光の下で、疲れ果てた顔をして座ってはいなかったのではないか。別の人生の、別の夕暮れの中で、誰かの母親として穏やかに笑っていたのではないか。
後悔というものは、いつもこうして、取り返しのつかない時間が永遠に過ぎ去ってから、最も残酷な形で牙を剥く。
蛍光灯の白い光に晒された、久美子の白髪混じりの頭を見つめながら、私は膝の上で自分の掌を強く握りしめた。そこにあるのは、謝罪という安っぽい言葉では到底埋めることのできない、十二年と十五年――合わせて二十七年分という歳月の、あまりに重く、取り返しのつかない喪失感だった。
青白い蛍光灯が瞬き、不毛な告白が途切れたあとの静寂を、彼女の低い声が切り裂いた。
残照の微光
「あんたは幸せそうでいいわね。再婚したんでしょ?」
唐突に投げかけられたその言葉に、私は呼吸を止めた。どこで、誰から聞いたのか。地元を離れたわけではない私たちが、十五年という歳月の裏側で、見えない細い糸のように繋がっていた事実に、言いようのない戦慄を覚えた。彼女の言葉には、隠しきれない皮肉と、それ以上に深い「諦念」が混じっていた。
今の自分が享受している平穏。温かい茶を啜り、妻の衣擦れの音を聞くあの時間が、彼女の人生を削り取って得た不当な果実であるかのように感じ、私は激しいたたまれなさに襲われた。
「……すまなかった」
気がつくと、私はパイプ椅子に座ったまま、深く頭を下げていた。十五年という、あまりに長すぎた歳月を超えて、ようやく口にできた言葉。それは喉の奥を焼くように熱く、胸を万力で締め付けられるような痛みを伴っていた。 あの時、逃げずに、もっと早くこうして彼女と向き合うべきだった。リノリウムの床の落ちない汚れを見つめながら、私は自分の卑怯さを改めて呪った。
「……今更謝られてもね」
久美子は呆れたように鼻で笑った。だが、その声の角(かど)は、先ほどより少しだけ取れているように聞こえた。顔を上げると、彼女の目尻に刻まれた深いシワが、わずかに緩んでいるのが見えた。そこにはかつての激しい憎悪ではなく、すべてが押し流された後の、荒地のような静けさが広がっていた。
「でもまあ、元気そうで良かったわ。あんたが不幸になってても、私は別に嬉しくないから」
それは、愛でも執着でもない。ただ同じ残酷な月日を生き延びてきた者同士の、乾いた慈悲のような言葉だった。
「あんたが不幸になったって、私の人生が元に戻るわけじゃないもの」
彼女はそう付け加えて、テーブルに置いてあった安物の使い捨てライターを指先で弄(いじ)った。カチカチと小さな音を立てるその無造作な仕草に、かつて台所で夕食の準備をしていた彼女の面影が、古い幻灯機のように重なっては消えた。
あまりに複雑で、あまりに重い言葉だった。しかし、その裏側に彼女なりの「決着」を感じ取ったとき、私の胸を塞いでいた巨大な岩が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。救われる資格などないはずの私が、皮肉にも、自分がかつて深く傷つけた相手の言葉によって、絶望の淵に一筋の光を見出していた。
外では、夜の街が相変わらずの騒がしさで、巨大な生き物のように呼吸を続けている。 私たちは、狭い部屋の静寂に閉じ込められたまま、二度と戻ることのない過去と、それぞれが歩んでいくしかない明日を、ただ静かに見つめていた。
秘め事の墓標
「……元気でな」
ようやく口にできたのは、使い古された、それゆえに酷く空疎な言葉だった。背を向けて歩き出そうとする私の背中に、彼女の乾いた声が、目に見えない蔦(つた)のように追いすがってきた。
「あんたもね。奥さん、大事にしなさいよ」
ふっと室内の険が和らいだ気がして振り返ると、久美子はかつての彼女が時折見せたような、悪戯っぽくも寂しげな笑みを微かに浮かべていた。
「今度は浮気すんじゃないわよ。……二度目はないからね」
皮肉なのか、それとも彼女なりの最後の手向け(たむけ)なのか。その真意を測りきる勇気は、今の私にはなかった。ただ、一言「分かっている」と伝えるように深く頷き、私は逃げるように店の奥から外界へと足を踏み出した。
自動ドアが開いた瞬間、繁華街の暴力的なまでの喧騒と、冷え切った夜風が容赦なく私を包み込んだ。 先ほどまでの濃密な静寂が嘘のように、街は欲望と虚飾を撒き散らしながら、拍動を続けている。私は一度も振り返ることなく、駅へ向かう無機質な人波の中へと身を投じた。
あれ以来、私は二度とその店の看板を視界に入れないように生きている。あの路地へ、十五年前の亡霊が彷徨(さまよ)うあの場所へ足を踏み入れることなど、到底できるはずもなかった。
今、私の隣には、十年の歳月を共に積み重ねてきた妻がいる。 彼女が淹れてくれる茶の柔らかな温かさや、何の変哲もない「おかえり」という日常の響き。そのかけがえのない平穏を守るためには、十五年ぶりのあの邂逅(かいこう)は、この世に存在しなかったことにしなければならない。
白髪の混じった久美子の後ろ姿。 蛍光灯に照らされた、あの狭く殺風景な休憩室。 そして、「あんたのせいで人生が狂った」という、魂に突き刺さったままの毒を含んだ言葉。
それらはすべて、私という人間の奥底にある暗く重い箱の中に閉じ込め、二度と開かぬよう厳重に鍵をかけた。
今の妻には、絶対に言えない。言ってはならない。 たとえどれほどの懺悔(ざんげ)の念に焼き尽くされそうになっても、この真実は、私一人の罪として墓場まで持っていく。
それが、一人の女の人生を狂わせ、その犠牲の上に成り立つ温もりに甘んじている私が、最期の日まで背負い続けるべき唯一の十字架なのだ。
夜風が、私の頬を冷たく撫でて通り過ぎていった。 私は家路を急ぐ。 何食わぬ顔で、「ただいま」と嘘をつくために。
深夜、帰路につく新幹線の窓には、街の灯が尾を引くように流れては消えていく。ガラスに映り込んだ自分の顔は、ひどく疲れ果て、それでいて憑き物が落ちたような奇妙な静けさを湛(たた)えていた。
人生とは、時としてどんな三流小説よりも残酷な筋書きを用意するものだ。かつて自ら裏切り、その未来を無残に踏み躙(にじ)った元妻と、風俗店という場所で十五年ぶりに向き合う。そんな出来すぎた、あまりに無情な再会が、紛れもない現実として私の身の上に降りかかった。
しかし、胸の奥底には、苦い後悔とともに、不思議な安堵感が静かに広がっていくのを感じていた。
宿命の残響
十五年間、私の心の最も深い場所には、常に一本の棘(とげ)が刺さったままだった。「彼女は今、どうしているだろうか」という、答えの出ない問い。その棘は、今の平穏な生活を享受すればするほど、忘れた頃にチクリと内側から痛んだ。
あの日、久美子と向き合った三十分間。 彼女から浴びせられた「あんたのせいで狂った」という言葉。
それは、私にとっての「因果応報」そのものだった。彼女の白い髪、深く刻まれたシワ、そして彼女が今立っている場所。そのすべてが、十五年前の私の過ちが招き寄せた、救いようのない結末だった。その残酷な現実を、逃げ場のない光の下で真っ向から受け止めることで、私はようやく、長年背を向け続けてきた過去と「対話」することができたのだと思う。
もしあの日、あの気まぐれに身を任せてあの路地を選ばなかったら。 もしあの瞬間に目が合わなかったら。
私は一生、実体のない罪悪感という名の幽霊に怯えながら生きていただろう。しかし、今は違う。彼女は、生きている。私のせいで狂った人生を、それでも彼女なりに、自嘲や皮肉を盾にしながらも、力強く、泥臭く生き抜いている。その傷だらけの生の姿をこの目で見られたことだけは、本当に、良かったと思っている。
夜が明ければ、私は再び「誠実な夫」という名の仮面を被り、日常へと戻る。 隣で眠る妻には、この夜のことは何ひとつ漏らさない。繁華街の汚れたネオンも、久美子の枯れた笑い声も、すべては私一人の胸の内に葬り去る。
だが、あの夜の光景を、私は一生忘れないだろう。 それは、私が最期まで背負い続けるべき罰であり、同時に、十五年という長い旅路の果てにようやく辿り着いた、たった一つの、そして逃れようのない「真実」なのだから。
窓の外を流れる深い闇を見つめながら、私は一度、深く長く息を吐いた。 十五年間の渇きを潤したのは、あまりに皮肉で、そしてあまりに切実な、一夜の邂逅だった。
(約8,400文字)


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