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300万円の恋

目次

300万円の恋

第一章 冬の食卓

 夕方の六時を回ると、台所の窓は外の闇を映して、ただの黒い鏡になる。
 高橋修一は、その黒い四角を背にして箸をとった。
 築三十年を越えたマンションの三階。子どもたちの足音が響いていた頃には手狭にさえ思えた3LDKが、今は持て余すほど広く、底冷えがするほど静まり返っている。
 卓の上には、近所のスーパーで定価のシールの上から半額の札を貼られた、うっすら脂の浮いた鯖の塩焼き。出汁の薄いインスタントの味噌汁。それに、冷蔵庫の奥で出番を待っていた昨日の煮物の残り。一人分にしては、器が多い。長年の癖で、つい二人前の感覚で支度をしてしまう。
 テレビでは、若いタレントたちが賑やかに笑い声をあげている。修一はその画面を、ほとんど見ていなかった。音がないと、部屋が自分ごと呑み込んでしまいそうで、ただ点けているだけだった。
 向かいの席は、空いている。
 五年前まで、そこには妻の美智子が座っていた。
「あなた、お味噌汁が冷めるわよ。また新聞ばかり見て」
 少し呆れたように、それでいて目尻に優しい皺を寄せて笑った顔を、修一は今でもありありと思い出せる。睫毛の落とす影まで覚えている。覚えているのに、声だけはもう、輪郭がぼやけ始めていた。
 四十二年。
 長かったような、ほんの一瞬だったような歳月だった。
 若い頃は、ただ貧しかった。子ども二人を食わせるために、二人とも歯を食いしばって働いた。些細なことで言い争った夜もあれば、給料日に奮発したケーキを四つに切り分けて笑い合った朝もあった。そうして坂を登りつめ、ふと息を抜いたときには、互いにすっかり白髪の目立つ老人になっていた。
 ――これからは、二人の時間ね。
 ――ああ。お前が一度行きたいと言っていた、冬の東北でも回るか。
 そんな話を、湯呑みを片手に交わした矢先のことだった。美智子は脳の血管を詰まらせて突然に倒れ、ろくに言葉も交わせぬまま、冷たい夜の病院で逝った。あっけないほど、早かった。
 修一は、ぬるくなった味噌汁をすすり、小さく息を吐いた。
 箸を置き、向かいの席を見る。
 誰もいない。分かっている。もう五年になるのだ。それでも、この一人分の空白にだけは、いまだに体が馴染んでくれなかった。
 食事を終えると、修一は居間の隅の小さな仏壇の前に座った。
 りんを鳴らすと、澄んだ高音の余韻が、冷えた空気に長く尾を引いた。
 遺影の中の美智子は、写真館の少し硬い光のなかで、いつもと変わらぬ穏やかさでこちらを見ている。
 「今日は、冷えたぞ」
 返事はない。当たり前だ。
 それでも修一は毎晩、こうして声に出して話しかける。聞いてほしい言葉があるわけではない。ただ、黙っていると、自分の輪郭まで暗がりに溶けていきそうだったからだ。
 「浩介から、電話があってな」
 長男は大阪にいる。大手メーカーに勤め、家庭を持ち、忙しくしている。
 「正月には帰る、と言っていた」
 写真の妻は、微笑んだままだった。
 長女は福岡だ。孫たちもすっかり大きくなった。みな、達者でやっている。喜ばしいことだ――そう自分に言い聞かせる。喜ばしいことの、はずだった。
 ただ、その達者な暮らしの輪の、どこにも自分の席が見当たらない。そんな気のすることがある。子には子の人生がある。だからこそ、よけいな重しにはなりたくない。電話口では、いつも「こっちは変わらん、元気だ」と、頑なに平穏を演じてしまう。
 寂しい、という一言だけは、口が裂けても言えなかった。
 線香に火を点ける。白い煙がまっすぐ立ちのぼり、暖房の風に触れて、ふいに身をよじるように揺れた。
 窓の外を見ると、街灯のオレンジ色の光のなかを、粉砂糖のような細かな雪が、斜めに走り始めていた。
 ――少し、歩くか。
 家にいたところで、待っているのはこの静けさだけだ。修一はコートを羽織り、美智子の遺したウールのマフラーを首に巻いて、外へ出た。
 冷たい風が頬を刺した。若い時分なら、襟を立てて突っ切れたはずの寒さが、近ごろは骨の芯まで沁みる。
 昭和の面影を残す古い商店街は、シャッターを下ろした店が多く、点在する街灯の明かりが、湿った雪のなかでぼやけて滲んでいた。
 修一は、足元を確かめるように、ゆっくりと歩いた。行き先はない。ただ、戻りたくなかった。どこをどう回ったところで、最後に待っているのは灯りの消えた部屋なのだ。それが分かっていながら、足だけが帰り道を拒んでいた。
 角まで来たとき、見慣れない看板が目に入った。
 以前はシャッターの下りていたはずの間口から、柔らかな琥珀色の灯りが漏れている。喫茶店のようでもあり、小料理屋のようでもあった。
 古びた木の扉の隙間から、凍えた夜気を割るように、楽しげな笑い声が零れ出ていた。若い、よく弾む声だった。
 その声に手を引かれるように、修一は悴んだ手で扉の取っ手を引いていた。自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
 カラン、と乾いた鈴が鳴る。
 「いらっしゃいませ」
 一歩入った途端、温かい空気に眼鏡が真っ白に曇った。慌てて袖で拭う修一の耳に、明るい声が飛び込んでくる。思わず、半歩、身を引いた。
 ようやく視界がひらけて、声の主を見たとき、修一は内心、驚いた。
 若い。あまりにも若い。二十五か、そこらだろう。長い髪をうしろで束ねた女が、屈託のない顔でこちらを見ていた。
 「初めてですよね。外、寒かったでしょう。どうぞ、こちらの席へ」
 「……まあ、そうだね」
 勧められるまま、修一は窓ぎわの席についた。店のなかは、外の寒さが嘘のように暖房が効き、かすかに甘い香りが漂っている。
 誰かに歓迎される、ということ。靴を脱ぐでもなく、ただ「そこにいること」を当たり前に許される感覚。それがどれほど久しぶりか、座ってから気づいた。
 女は奈々と名乗った。よく喋り、よく笑う娘だった。修一が中堅の機械メーカーで定年まで勤め上げたと話すと、まるで珍しい昔話でも聞くように身を乗り出し、若い頃に書類の束を上司の頭にぶちまけたという失敗談を披露すると、ひっくり返るような声で笑った。
 「えっ、ほんとにそんなことあったんですか」
 「あったんだよ、これが。今の若い人には信じられんだろうがね」
 「おかしい。おじいちゃん、話、うまいなあ」
 その笑いにつられて、修一も笑った。
 声を立てて笑うのは、いつ以来だろう。喉の使い方を、体が思い出すのに少しかかった。美智子が倒れてからの五年、自分の顔は、ただ飯を噛むためだけにあったのではなかったか。
 時間は、思いのほか早く過ぎた。気づけば、二時間が経っていた。外の雪は、いつのまにか勢いを増している。
 会計を済ませて席を立つと、奈々が言った。
 「また来てくださいね」
 営業の文句だ。客にまた足を運ばせるための、手垢のついた言葉。七十二年を生きた理性が、脳の隅でそう冷ややかに告げている。それでも、乾ききった修一の胸には、その一言が、雪のなかに落ちた一筋の熱のように温かかった。
 「ありがとう。気をつけて帰るよ」
 修一は軽く手をあげて、店を出た。
 雪は、まだ降っていた。街灯の光が、白くにじんでいる。寒いはずなのに、胸の奥だけが、妙に温かかった。
 部屋に戻ると、いつもの静けさが待っていた。だが今夜は、その静けさの手ざわりが、少しだけ違って感じられた。修一はコートも脱がず、まっすぐ仏壇の前へ座った。
 「なあ、美智子」
 白髪頭を掻きながら、照れたように笑う。
 「今日な、おかしな店に入ったよ。お前が生きてたら、『鼻の下を伸ばして』と怒るような、若い娘のいる店だ」
 写真の妻は、何も言わない。それでも、硝子の向こうの瞳が、いつもより少し悪戯っぽく、夫の久しぶりの生気を、優しく見守ってくれているような気がした。
 その夜、修一は久しぶりに、明日のことを少しだけ考えながら布団に入った。眠りに落ちる間際、ふと、奈々の笑い声が耳の奥でよみがえった。
 ――おじいちゃん、話、うまいなあ。
 社会的な記号にすぎない、その何気ない一言が、五年の孤独で永久凍土のように凍りついていた心の、ずっと触れずにいた一点を、静かに、確かに溶かし始めていた。
 修一は、まだ知らない。
 この晩のなにげない出会いが、やがて自分の暮らしを――そして美智子が遺してくれたものを――根もとから揺さぶることになるとは。
 そしてそれが、救いなのか、それとも長い遠回りの始まりなのか。その答えさえ、まだ誰にも分からない。

第二章 会える日まで

 はじめは、本当にただの暇つぶしのつもりだった。
 朝の渋いお茶をすすりながら、高橋修一は何度も、自分にそう言い聞かせていた。
 雪の降る夕方に、足の向くまま立ち寄った店。奈々という、孫であってもおかしくないほど若い娘と、ほんの二時間ばかり昔話を交わしただけのこと。それだけのことだ。七十二の老人にも、分別はある。あんな若い子が、自分のような枯れ木に特別な感情を抱くはずもない。
 だから翌月、ふたたびあの看板の前を通りかかったときも、修一は胸のなかで言い訳を並べていた。
 たまたま近くまで用があったから。今日はとくに観たい番組もないから。少しばかり、人の声に飢えていただけだから。
 その言い訳を一つずつ確かめるようにして、修一は錆びかけた取っ手を引いた。
 カラン、と鈴が鳴る。
 カウンターの奥でグラスを拭いていた奈々が、弾かれたように顔を上げた。
 「あっ、おじいちゃん」
 その声に、修一のほうが驚いた。
 覚えているはずがない、と思っていた。星の数ほどいる客の、一人にすぎないのだから。
 ところが奈々は、心底うれしそうに笑った。
 「また来てくれたんだ」
 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が、じんと熱くなった。誰かに、再会を喜ばれる。若い頃には空気のように当たり前だったことが、これほど五臓六腑に染みるものか。修一は、忘れかけていた。妻のいた頃、玄関を開ければ必ずそこにあった景色を。
 ――おかえりなさい。
 ――いってらっしゃい、車に気をつけて。
 ――今日は、どうだった。
 何の変哲もないその挨拶が、一日というものをどれほど全方位から温めていたのか。失ってしまうまで、その温度に気づきもしなかった。
 その日も、二時間ほど話して帰った。
 地方の工場へ機械を納めにいった頃の苦労話。今思えば滑稽なほど派手だった、バブルの忘年会のこと。子どもたちがまだ小さかった頃の、ドタバタしたキャンプの思い出。
 奈々は、そのどれもを、身を乗り出して聞いた。ときに大げさなくらい声をあげて笑い、ときに少し潤んだ目で、真顔の相槌を打った。話の合間に焼酎のお湯割りを作ってくれた。安い焼酎であり特別にうまいわけではないが、湯気の立つそれを両手で包んでいると、指先までほどけていくようだった。
 帰り道、修一は気づけば鼻歌を歌っていた。
 美智子が好きだった、古い歌謡曲だった。もっとも、口ずさんでいる節が何という歌だったのか、自分でも思い出せはしなかったのだが。
 春が、すぐそこまで来ていた。
 だが、修一のなかでは、季節よりもっと大きな何かが動き始めていた。
 店へ行く日が近づくと、朝から落ち着かなくなる。壁の時計を見る回数が増える。普段なら夕方までだらだら過ごすのに、昼のレトルトカレーを早々に片付け、食器をいつになく丁寧に磨いている。出かける時刻になると、いつの間にかと鏡の前に立っている自分がいた。
 ある日、修一は鏡のなかの自分を見て、ふと手を止めた。白髪を撫でつけながら、思ったのだ。
 ――この上着、襟元がよれて、ずいぶんくたびれて見えるな。
 妻を亡くしてからというもの、身なりなど構ったことがなかった。誰に見せるでもない。せいぜい近所のスーパーのレジ係に見られるくらいだ。清潔なら、それでいい。そう思っていたはずだった。
 だがその日、修一の足は、商店街の片隅の紳士服店へと向かっていた。普段なら、絶対に入らない店だ。
 店員に勧められるまま、少し上等なセーターを買った。落ち着いた藍の色合いが、顔色を明るく見せるという。値札を見て、少し躊躇した。八千円。年金暮らしには、決して安くはない。
 家で着てみる。鏡のなかには、やはり目元に深い皺を刻んだ老人が立っている。それは変わらない。だが、そのセーターを着た自分は、どこかほんの少し、背筋が伸びたようにも見えた。
 「何をやっているんだか」
 苦笑しながらも、胸の奥で小さな火種が爆ぜるような、悪くない昂ぶりが確かにあった。
 次に店へ行った日のことだった。
 扉を開けるなり、奈々が目を丸くした。
 「あれ。今日、なんかいつもより、かっこいいじゃないですか」
 修一は、まるで秘密を見つけられた子どものように、耳まで赤くして俯いた。
 「そうかね。……店員に勧められてね。派手すぎたか」
 「ううん、全然。似合ってる」
 その一言で、八千円の買い物が、何倍もの値打ちを持った。
 家に帰ってからも、その声が耳から離れなかった。
 ――似合ってる。
 たったそれだけの言葉を、寝床のなかで、何度も転がしていた。
 いつの間にか、奈々の店に行く間隔が短くなっていった。
 月に一度が、月に二度になった。月に二度が、三度になった。そしていつしか、週に一度、決まった曜日に足を運ぶことが、修一の暮らしの習慣のようになっていた。
 修一は、気づいていなかった。いや――気づかぬふりを、全力で決め込んでいた。台所のカレンダーには、奈々に会える日に、誰に見られるでもない小さな赤い丸がつくようになった。その丸のついた日だけが、修一にとって「光のある日」であり、残りの六日は、ただその日へ向かうための余白にすぎなくなっていた。
 前の晩は、遠足を控えた子どものように寝つけない。当日は、朝から体が軽い。だが、会った翌日は、決まって胸のなかが空洞になる。祭りのあとのような、あの寄る辺なさが残る。
 その空洞を埋めるために、修一は次の赤丸までの日数を、指折り数えるようになった。
 あと六日。
 あと五日。
 まだか。
 まだ、あと四日もあるのか。
 年齢にそぐわぬその執着に、ときおり、自分でも戸惑った。
 ある夜のことだった。
 仏壇の前で線香をあげながら、修一は遺影に話しかけた。
 「美智子。俺も、いい歳だな」
 美智子は、変わらず微笑んでいる。
 「孫みたいな娘と喋ってるだけで、こんなに一喜一憂してるんだから。情けないだろう」
 自嘲のつもりだった。だが、口にしてみると、その自分を責めきる気にはなれなかった。人は、誰かに必要とされたい生きものなのだ。老いても、それは変わらない。むしろ、肩書も伴侶も失い、世界の中心から押しやられた老境だからこそ、その飢えは、若い頃よりも鋭く心を刺すのかもしれない。
 線香の煙が、ゆらりと身をよじって立ちのぼっていく。修一はその白い筋を、しばらく目で追っていた。
 そんなある日。
 店へ入ると、奈々がいつにも増して明るく手を振った。
 「おじいちゃん」
 「おう」
 「来てくれると思ってた」
 何気ない一言だった。
 だが、その言葉は、修一の胸の深いところへ、まっすぐ刺さった。
 来てくれると、思っていた。自分が来ることを、待っていた。そう聞こえてしまったのだ。もちろん、仕事だ。接客だ。頭では、よく分かっている。だが、心は別だった。心というものは、勝手に意味をふくらませる。期待を抱く。あり得ない夢の続きを、勝手に組み立てていく。
 「なんで分かったんだ」
 修一は、わざと軽く笑ってみせた。
 「だって今日、私がいる日だもん」
 奈々は、何でもないことのように言って、また別の客のほうへ向かっていった。
 修一は、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
 その夜、修一は、まるで酒に酔ったように上機嫌だった。
 一人の夕食の最中にも、ふと笑みがこぼれる。見るともなしに点けていたテレビが、その晩はやけに面白く感じられた。布団に入っても、奈々の声が耳に残っていた。
 ――来てくれると思ってた。
 その一言を、暗闇のなかで何度も反芻し、愛おしむように咀嚼する。そうしているうちに、もう頭は、一週間後の「次の赤丸」のことで一杯になっている。
 あと七日。
 あと六日。
 まるで、遠足を待つ子どものようだった。六十年も昔の、あの落ち着かない高揚を、体のほうが先に思い出していた。
 その頃にはもう、修一の暮らしは、少しずつ姿を変え始めていた。長い孤独の冬のただなかで、ふいに見つけた、小さく、けれど眩しい灯火。その灯に近づくほど、凍えていた心は温まっていく。だが同時に、人はその一点の光だけを見つめるようになる。視界から、それ以外のすべての景色が、ゆっくりと、確実に消えていく。
 修一は、まだ知らなかった。いま自分が見つめているその小さな灯が、やがて、そばを離れられないほど大きな存在になっていくことを。そして、その温もりに払う代償が、老い先短い身にとって、決して小さくはないということを。

第三章 贈り物の理由

 夏が足早に過ぎ、街路樹の銀杏が縁から黄ばみはじめる頃には、高橋修一の暮らしは、すっかり別のレールへ切り替わっていた。
 朝、目を覚ます。新聞を広げる。洗濯機を回し、簡単な掃除を済ませる。そこまでは以前と同じだった。だが、その合間に、修一の視線は磁石に引かれるように壁のカレンダーへ向かう。
 次に奈々に会えるのは、いつか。真っ赤な丸で囲んだその日付を確かめ、「あと何日だ」と数えることが、一日を始めるための、ただひとつの燃料になっていた。
 週に二度。ときには三度。あの小さな店へ続く薄暗い路地を歩くことは、もはや退屈な老後の習慣ではなかった。それは、生きる張りそのものに近かった。
 修一にも、理性はある。鏡を見れば、そこにいるのは肌にシミの浮いた、七十二の枯れ木のような老人だ。対する奈々は、二十五の、どこへでも羽ばたける一輪の花。釣り合うはずがない。恋などという奇跡が、この身に起こるはずもない。脳の冷たい部分が、毎日そう告げていた。
 それでも、あの扉を開け、奈々が破顔する瞬間だけは、その冷たい声が掻き消えた。
 「いらっしゃい、おじいちゃん」
 その一瞬で、胸の底が温まる。世界でたった一人、彼女だけが自分の来訪を待っていてくれる。少なくとも、そう信じられる時間だった。
 ある日のことだった。
 カウンター越しにグラスを磨きながら、奈々が何気なく呟いた。
 「もうすぐ、誕生日なんだよね」
 修一は、グラスから顔を上げた。
 「そうかね。何日だい」
 「来週の木曜。これで二十六。やだなあ、もう全然若くないよ」
 奈々は唇を尖らせ、頬をふくらませてみせる。その仕草を見ているだけで、修一の目尻はゆるんだ。
 「二十六なんて、まだまだこれからじゃないか」
 「もー、おじいちゃんはそう言うと思った」
 笑い合う時間は、いつも通り平穏に過ぎた。だがその夜、静まり返った部屋に戻っても、その呟きが耳の奥に残っていた。
 ――もうすぐ、誕生日なんだよね。
 仏壇の前に座り、線香に火をつける。ゆらぐ煙の向こうで、美智子が微笑んでいた。
 「誕生日、か」
 記憶の引き出しが、音を立てて開く。
 昔、美智子の誕生日には、会社帰りに少し気恥ずかしさを覚えながら、駅前で小さな花束を買った。結婚記念日には、背伸びをしたケーキを囲んだ。決して裕福ではなかった。それでも、包みを開いた妻がぱっと顔を輝かせ、「ありがとう」と笑う、あの瞬間が何より好きだった。
 誰かの笑顔のために、自分の稼いだ金を使う。それは、男としての性分であり、自分がまだ「誰かを幸せにできる人間なのだ」という、ささやかな証でもあった。
 数日後、修一の足は、何十年ぶりかで新宿の老舗百貨店へ向かっていた。
 一歩フロアに踏み入れた途端、きらびやかな照明と化粧品の香りに気圧されそうになった。行き交うのは流行の服を纏った若い女ばかりで、量販店のスラックスを穿いた老人は、明らかに浮いていた。
 それでも、店員に勧められるまま品を見て回るうち、ひとつの鞄に目が留まった。
 上品なベージュの革の、小ぶりのハンドバッグだった。派手すぎず、それでいて一目で上質と分かる。奈々がそれを提げて歩く姿が、鮮明に浮かんだ。
 値札を裏返す。
 八万三千円。
 思わず、息を呑んだ。
 高い。年金暮らしの老人が、気軽に出していい額ではない。一月分の食費と光熱費を足しても、釣りがくる。
 だが、それを提げた奈々の笑顔を思い描いた途端、迷いは妙なほど薄れていった。
 レジでカードを差し出し、暗証番号を押すとき、指先がかすかに震えた。だがそれは、恐れからではなかった。後ろめたさと、それを上回るうずきとが、同じ場所で混ざり合っていた。
 誕生日の当日。修一は、リボンの掛かった紙袋を提げ、いつもより早い時間に店を訪れた。世間話の途中で、何でもないことのように、その袋を差し出す。
 「奈々ちゃん。ささやかだが、誕生日のお祝いだ」
 奈々は一瞬きょとんとし、袋のロゴを見て「えっ」と声をあげた。
 「うそ。何これ、開けてもいい」
 包みを破り、ベージュの鞄が現れた瞬間、奈々の目が、これ以上ないほど大きく見ひらかれた。
 「すごい……これ、私すっごく欲しかったやつ。本当にいいの」
 「奈々ちゃんに似合うと思ってね」
 「ありがとう、おじいちゃん。本当に、嬉しい」
 奈々は鞄を胸に抱き、カウンターの中で小さく跳ねた。その視線は、店内の誰でもない、高橋修一という老人だけに向けられていた。濡れたように輝く瞳を見た瞬間、修一の胸は、かつてないほどの幸福で満たされた。
 八万三千円。たしかに大金だ。だが、この笑みの前では、その額など、どうでもよくなった。
 帰り道の足取りは、軽かった。誰かを喜ばせるということが、これほど胸を満たすものだったか。
 ところが、その日を境に、何かが変わった。変わったのは、奈々ではない。奈々は、これまでと少しも変わらず接してくれた。むしろ、ごく自然だった。変わったのは、修一のほうだった。
 もっと喜ばせたい。もっと、あの笑顔が見たい。もっと、ほかの客とは違う特別な存在でありたい。その思いが、胸のなかで静かに膨らんでいった。
 冬が近づいた。
 店には、クリスマスの曲が流れはじめた。奈々が脚立にのり、小さなツリーに飾りをつけながら言った。
 「今年も、もう終わりだね」
 「早いものだな」
 「ほんとに」
 その横顔を見上げながら、修一は考えていた。
 クリスマスには、何を贈ろうか。
 気づけば、また百貨店へ足が向いていた。
 今度は、プラチナの細い首飾りだった。値は、十万を超えた。美智子が生きていた四十二年でさえ、これほどの貴金属を、何でもない日に贈った記憶はない。それでも、財布を開く手に、ためらいの色はなかった。奈々の喜ぶ顔さえあれば、すべての言い訳になる気がしていた。
 クリスマスの夜。
 「えっ、また。こんなに貰っちゃっていいのかな……。でも、すっごく綺麗。大事にするね」
 その言葉が聞きたかった。ただ、それだけのつもりだった。だが、人の欲というものは、不思議なものだ。一度満たされると、もっと欲しくなる。もっと感謝されたい。もっと、特別でありたい。
 年が明けた。
 二月の十四日、奈々から小さなチョコレートを受け取った。お客のみんなに配るものだということくらい、分かっていた。それでも修一は、初恋を知った学生のように舞い上がった。
 返しの三月、修一はさらに上等な長財布を贈った。これまでで、いちばん値の張る贈り物だった。
 奈々は、目を潤ませて喜んだ。
 「これ、ずっと大事にするね」
 その一言が、嬉しかった。それで十分だ、と思った。だが、その華やぎの裏で、修一の暮らしの土台は、静かに崩れはじめていた。
 年金だけでは、度重なる来店と高価な贈り物を、賄えるはずがなかった。気づけば、現役時代にこつこつ貯めた定期預金を、一口、解約していた。それでも足りず、やがて、美智子の死が遺してくれた保険金にまで手をつけはじめた。
 ATMの青白い画面に並ぶ残高が、引き出すたびに、数十万単位で目減りしていく。その数字を見るたび、胸の奥を、冷たい針で刺されるような痛みが走った。
 あれは、美智子の死が遺してくれた金だ。自分が病んだとき、動けなくなったとき、老後に困らぬようにと、彼女の四十二年の人生が遺してくれた、守り神のような金だった。本来なら、決して崩してはならないものだった。
 それでも修一は、自分に言い聞かせた。
 ――今しかない。人生は短い。少しくらい、幸せのために使ったところで、罰は当たるまい。
 言い聞かせるたびに、その声は、自分でも空々しく聞こえた。
 ある夜。
 仏壇の前に座った修一は、遺影を見つめて口を開いた。
 「美智子……」
 そこで、言葉が続かなかった。
 線香の煙だけが、静かに揺れている。
 罪悪感はあった。後ろめたさに、胸が裂けそうになる夜もあった。だが、それ以上に怖かったのだ。奈々と過ごす、あの時間を失うことが。
 もし、金を使わなくなったら。もし、贈り物をやめたら。奈々はあの笑顔を向けてくれなくなり、自分はただの貧相な老人として扱われ、再びあの暗い、誰もいない部屋へ叩き落とされるのではないか。
 会えなくなること。忘れられること。それが、何より恐ろしかった。孤独だった老人の暮らしに、ふいに差し込んだ一筋の光。修一は、その光を手放したくなかった。
 だから、金を使った。喜んでほしかった。必要とされている、と感じていたかった。
 ――愛されたかったのかもしれない。
 いや、と修一は思い直す。そうではないのかもしれない。だが、では何を求めていたのかと問われると、答えは、まだ言葉にならなかった。
 その頃にはもう、修一自身も気づかぬうちに、心は、奈々の笑顔なしには満たされぬものになり始めていただ。

第四章 通帳の残高

 正月の朝。
 窓の外には、雲ひとつない冬晴れの空が広がっていた。澄みすぎて、かえって寒々しいほどの青だった。
 高橋修一は、いつもより二時間も早く目を覚まし、震える手で台所に立っていた。今日は、大阪で暮らす長男の浩介が帰ってくる日だった。盆と正月にしか顔を合わせない息子である。修一は前日からごぼうの皮を剥き、美智子の得意だった筑前煮を記憶を頼りに作り、近所のスーパーで少し値の張る本鮪の刺身を買い求めた。久しぶりに、二客の湯呑みが食卓に並ぶ。
 美智子が生きていた頃の正月は、この部屋が狭く感じるほど賑やかだった。福岡の娘も家族を連れて集まり、幼い孫たちが狭い廊下を走り回り、居間はすき焼きの湯気と笑い声で満ちていた。
 今では孫たちもそれぞれに忙しく、各々の暮らしがある。仕方のないことだ。そう割り切っていても、二人分の静かな食卓を整える胸には、冷たい澱のような寂しさが沈んでいた。
 昼過ぎ、玄関のチャイムが、静寂を破るように鳴った。
 「親父、元気か」
 扉を開けると、四十代半ばになった浩介が立っていた。管理職らしい仕立てのよいコートを着た息子は、いつのまにか修一より一回り大きな背中をしている。
 「おう、よく来た。上がれ」
 「相変わらず寒いな、この部屋。ちゃんと暖房つけてるか」
 「文句を言うな。一人ならこれで十分だ」
 二人は小さく笑った。久しぶりに聞く、家族の声だった。
 食卓を囲み、少し塩気の強い筑前煮をつつきながら、近況を話す。仕事の愚痴、大阪での暮らし、孫の進学の話。どこにでもある、穏やかな親子の時間だった。
 その空気が変わったのは、陽の傾きはじめた夕方だった。
 「親父、ついでに郵便物とか書類、整理しといてやるよ。溜め込むと大変だろ」
 浩介がそう言って、テレビ下の戸棚を開けた。修一は座椅子に深く腰掛けたまま、「ああ、頼む」と気のない返事をした。
 その数分後だった。
 居間の空気が、ふいに静まり返った。テレビの笑い声だけが、虚しく響いている。振り返ると、浩介が戸棚の前に膝をついたまま、一冊の通帳を手にして固まっていた。
 その横顔から、表情が抜け落ちていた。
 「……親父」
 声の調子が、おかしかった。修一の胸が、わずかにざわついた。冷たい汗が背筋を伝う。
 「なんだ」
 「これ、どういうことだ」
 浩介が、開いた通帳を差し出した。
 その瞬間、修一の心臓が、嫌な音を立てた。
 見られたのだ。一年足らずの間に減りつづけた残高。数日おきに繰り返された、五万、十万という引き出しの記録。積み重なった数字が、隠しておきたかった現実を、冷酷に並べていた。
 「いや……それは」
 「三百万近く、減ってるじゃないか」
 浩介の声が、低くなった。
 「何に使ったんだ」
 修一は、答えられなかった。視線を逸らす。だが、それが答えになってしまった。
 浩介は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
 「ギャンブルか」
 「違う」
 「変な投資にでも引っかかったのか」
 「違う」
 「じゃあ、何だ」
 沈黙が落ちた。
 壁の時計の秒針が、裁きの木槌のように、やけに大きく響いた。
 修一は、観念したように息を吐いた。そして、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。
 商店街の角で見つけた小さな店のこと。奈々という若い娘のこと。贈り物のこと。会いに行くことだけが、楽しみになっていたこと。
 全部だった。もう、隠しきれなかった。
 話し終えたとき、浩介は両手で顔を覆っていた。
 しばらく、何も言わない。
 やがて、深いため息が、指の間から漏れた。
 「親父……」
 その声には、怒りよりも、深い疲れが滲んでいた。
 「それ、仕事だぞ」
 修一は、黙っていた。
 「向こうは、客を喜ばせるために接客してるだけだ」
 返す言葉がない。
 「二十代の女の子が、七十過ぎた親父に本気になると思うのか。金を毟り取られてるだけじゃないか」
 言葉は、鋭かった。だが、間違ってはいなかった。修一自身が、いちばんよく分かっていることだった。
 「……分かってる。そんなことは、俺が一番分かってる」
 蚊の鳴くような声で答えた。
 「分かってるなら、なんでだよ」
 浩介の声が、跳ね上がった。
 「なんで、三百万も使うんだ」
 修一は、うつむいた。説明できなかった。理屈ではなかったのだ。奈々と話しているあいだだけ、自分は老人でなくなれた。独りぼっちでなくなれた。生きている、と感じられた。
 それを、どう言葉にすればいいのか、分からなかった。
 「親父」
 浩介が、声の調子を落とした。
 「母さんが、遺してくれた金だろ」
 その一言が、胸に突き刺さった。修一は、顔を上げられなかった。
 美智子。あの突然の死が、夫の老後を守るためにと遺してくれた金だった。本来なら、自分が病んだとき、動けなくなったときのために、決して崩してはならないものだった。分かっている。百も承知だ。それでも、使ってしまった。奈々に会うために。笑顔が見たくて。喜んでほしくて。
 「俺……」
 言葉が、詰まった。
 「俺、寂しかったんだ」
 気づけば、口から出ていた。
 浩介が、黙る。
 「母さんが、いなくなってからな」
 修一の声は、震えていた。
 「朝起きても、誰もいない。飯を食っても、味もしない。テレビを見て面白いと思っても、隣で一緒に笑う奴はいない。家に帰っても、真っ暗な部屋が待ってるだけだ。お前たちには、お前たちの暮らしがある。寂しいなんて、言えるわけがないだろう」
 浩介は、何も言わない。
 「奈々ちゃんと話してる時だけだったんだよ」
 修一は、膝の上で拳を握った。
 「俺がまだ、ただの用済みの老人じゃなくて、一人の人間として生きてるって、思えたのは……。あの時間だけが、俺を繋いでたんだ」
 畳に、大粒の涙が落ちた。
 長い沈黙が続いた。
 浩介は、何も言わなかった。怒りが消えたわけではない。だが、父の口から絞り出された五年分の夜の重みに、息子もまた、圧倒されているようだった。
 やがて、浩介がゆっくりと息を吐いた。
 「親父。寂しかったのは、分かるよ」
 静かな声だった。
 「でも、それでも、駄目だ」
 修一は、目を閉じた。
 予想していた言葉だった。
 「向こうは、親父を客として見てる。大金を落としてくれる、都合のいい客だ。それ以上じゃない。金がなくなれば、その関係は終わるんだよ」
 残酷な言葉だった。だが、正しい。正しいからこそ、痛かった。
 その夜、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
 浩介は別室に床をとって寝た。
 修一は一人、仏壇の前に座った。線香の煙が、冷えた空気のなかで細く揺れている。遺影の中の美智子は、すべてを知りながら、変わらず優しく微笑んでいた。
 「怒られちまったよ」
 涙で濡れた顔のまま、苦笑する。浩介の言うことは、正しい。ぐうの音も出ないほど、正しい。それなのに、心の奥に巣食う何かが、まだ反発していた。
 ――奈々だけは、違う。
 あんなに嬉しそうに、贈り物を喜んでくれたんだ。少しは、ほかの客とは違って思ってくれているはずだ。そう信じたい自分が、確かにいた。愚かだと、分かっている。だが人は、過酷な現実の前では、自ら進んで美しい嘘に縋る生きものなのだ。
 翌朝。
 大阪へ戻る支度を終えた浩介が、玄関で靴を履きながら、振り返って言った。
 「親父」
 「なんだ」
 「最後に、一回だけ確かめてこい」
 修一は、顔を上げた。
 「その子が、本当に親父のことを、客じゃなく一人の人間として特別に思ってるのかどうか。……聞いてこいよ」
 浩介の目は、まっすぐ父を捉えていた。逃げ道は、どこにもなかった。
 「それで客だと言われたら、もう目を覚ませ。母さんのためにも」
 息子はそれだけ言い残し、冬の冷たい空気のなかへ去っていった。
 一人残された修一の胸に、鉛のような塊が沈んでいく。聞けば、すべてが終わるかもしれない。聞かなければ、まだあの温かい夢を見ていられる。その狭間で揺れながら、修一は窓の外へ目をやった。
 冬の空は、どこまでも青く、どこまでも、残酷なほど澄み渡っていた。
 その時、修一はまだ知らなかった。
 たった一つの問いが、長く見つづけた夢を、終わらせることになるとは。

第五章 たった一つの質問

 長男の浩介が大阪へ帰ってからの一週間、高橋修一は眠れない夜を過ごしていた。目を閉じれば、暗闇の向こうから息子の声が降ってくる。
 ――本当に、親父のことを特別だと思ってるのか。聞いてこい。
 たった一言、尋ねるだけだ。難しいことではないはずだった。会社員の頃は、億の取引を巡る修羅場を、いくつもくぐり抜けてきた男である。それなのに、今の修一には、その一言が、自分の余生に幕を下ろす紐のように重かった。
 聞いてしまえば、終わるかもしれない。聞かなければ、まだ奈々の笑顔に、都合のいい夢を見ていられる。「彼女は他の客とは違う、自分を特別に思ってくれている」――そう信じている限りは、この冷えた部屋でも、辛うじて息が継げたのだ。
 だが、深夜に目覚め、仏壇の前に座るたび、美智子の遺影が何かを静かに問うているような気がした。修一は幾度も自分に問うた。そのたびに、出るはずの答えを濁し、目を背けた。
 いや。
 本当は、最初から分かっていたのかもしれない。ただ、認めてしまえば、自分が本当に「独りぼっちの老人」に成り下がってしまうことが、恐ろしかったのだ。
 約束の日が来た。
 店へ向かう足取りは、いつになく重かった。普段なら、奈々に会える時間が待ち遠しくて、約束より早く家を出ていたというのに。その日は、できることならあの看板の見えない場所へ逃げ出したいとすら願っていた。
 それでも、行かなければならなかった。行かなければ、美智子の遺した金に手をつけた罪悪感の泥濘から、一生抜け出せなくなる気がした。
 雪こそ降っていなかったが、冬の空気は冷たく乾いていた。商店街を歩く。見慣れた琥珀色の看板が、近づいてくる。胸が、締めつけられる。
 修一は大きく白い息を吐き、意を決して扉を開いた。
 カラン、と鈴が鳴る。
 店のなかは、いつもと変わらぬぬくもりに満ちていた。穏やかなジャズ、かすかなアロマの香り。そして――。
 「あっ、おじいちゃん、いらっしゃい」
 奈々が、いつものように満面の笑みで手を振った。
 その太陽のような笑顔を見た瞬間、固まりかけていた決意が、一瞬で瓦解しそうになった。やめよう。聞くのは、やめよう。このまま、何も聞かずに、楽しい時間だけを持ち帰ればいいではないか。
 胸の内で、そう囁く声がする。だが、網膜の裏には浩介の悲痛な顔が、そして美智子の穏やかな微笑みが交互に浮かび、修一の背を現実へ押し戻した。
 「……おう。今日も、寒いね」
 修一は、かじかんだ手を擦り合わせ、いつものカウンターの端に腰を下ろした。
 その日も、奈々はいつも通りだった。最近観たという映画の話。新しく買ったコートの話。子どもの頃、雪だるまを作って風邪をひいた思い出。楽しそうに、身振りを交えて喋っている。
 修一も、話を合わせて笑った。
 だが、心は、別の場所に囚われていた。
 壁の時計の針だけが、非情な速さで進んでいく。時間が過ぎるほど、聞かねばならぬ終わりの瞬間が、近づいてくる。
 やがて、閉店の時刻が近づいた。客は一人減り、二人減り、ついに店内には、修一と奈々の二人だけになった。
 「じゃあ、おじいちゃん、お会計ね」
 奈々がレジへ向かう。
 いつもなら、ここで「またね」と言って、名残惜しさを抱えて席を立つ。それが二人の、暗黙のやり取りだった。
 だが今日は、修一は動かなかった。カウンターの椅子に、じっと腰掛けたままでいた。
 奈々が、不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの。忘れ物」
 修一は、膝の上で、拳を白くなるほど握りしめた。胸の鼓動が、耳障りなほど速い。
 七十二年、生きてきた。会社では何十人もの部下を率い、役員の前で話したこともある。修羅場なら、何度もくぐってきたはずだった。だが、人生のどの瞬間よりも、いま、この若い娘の前での一秒が、圧倒的に緊張していた。
 「奈々ちゃん」
 声が、情けないほど震えた。
 奈々は、レジの手を止め、優しく首をかしげた。
 「うん、なぁに」
 修一は、喉にへばりつく塊を飲み込み、ずっと胸の奥に秘めてきた、たった一つの問いを口にした。
 「俺のこと……」
 喉が、詰まる。
 奈々の表情が、ほんの少し、変わった。
 修一は、続けた。
 「少しは、好きになってくれたか」
 店のなかが、一瞬、真空になったような気がした。
 実際には、空調の低い音も、スピーカーのピアノも、何も変わらず鳴っている。だが修一には、世界のすべての時間が止まったように感じられた。
 奈々は、何も言わなかった。
 すぐには、答えなかった。
 その、わずか数秒の沈黙。それだけで、修一は、もう、すべてを悟りかけていた。
 奈々は、ゆっくりと視線を落とした。そして、困ったように、本当に困ったように笑った。
 その笑みは、これまで何百万もの金を投じて見てきた、あの眩しい笑顔とは違っていた。どこか申し訳なさそうで、どこか悲しそうで――そして、明確に一線を画した、大人の表情だった。
 やがて奈々は、静かに口を開いた。
 「おじいちゃんはね」
 修一は、自分の心臓の音を聞きながら、黙って待った。
 「私にとって、すごく大事な、特別なお客さんだよ」
 お客さん。その三文字が、修一の胸の真ん中を、音もなく貫いた。
 その言葉は、どこまでも優しかった。突き放すような冷たさは、微塵もなかった。だが、その優しさこそが、修一の縋っていた薄い幻想を、木っ端微塵に砕く刃となった。
 修一は、微笑んだ。
 不思議と、怒りは湧かなかった。奈々を騙し屋となじる気も、起こらなかった。胸の奥で、何かが砂の城のように崩れていくショックはあった。それでも、彼女に嫌悪を抱けないのは、奈々が最後まで嘘をつかなかったからだ。曖昧な望みで金を引くような狡さを捨て、一人の老人の真剣な問いに、誠実に、境界線を示してくれた。それが分かったからこそ、修一は救われ、そして絶望した。
 「……そうか」
 修一は、小さく、深く頷いた。
 奈々が、申し訳なさそうに眉を下げる。
 「ごめんね、おじいちゃん」
 「いや。謝ることじゃないさ」
 修一は、笑ってみせた。顔の筋肉が、引き攣るように動くのが分かった。それでも、最後の意地が、彼女の前で泣き崩れることを許さなかった。
 「聞いたのは、俺のほうだからな。困らせて、悪かった」
 奈々は、何か言おうとして、唇を動かした。だが、どんな言葉も老人の傷を広げるだけだと察したのだろう、結局、言葉を見つけられないまま、静かに俯いた。
 修一は、ゆっくりとコートに腕を通した。
 もう、十分だった。聞くべきことは聞いた。知るべき現実の冷たさも、骨に染みた。
 出口へ歩き、扉に手をかける。
 ふと、これが最後になるという予感に押され、修一は一度だけ振り返った。
 カウンターの向こうに、奈々が立っている。
 初めて会った、あの雪の夜と同じように。明るくて、若くて、自分には一生手の届かない、眩しい光のなかに、彼女はいた。
 「奈々ちゃん」
 「なに、おじいちゃん」
 「……今まで、ありがとうな。楽しかったよ」
 奈々は、一瞬、驚いたように目を見ひらいた。
 そして、いつもの営業の笑顔ではなく、一人の人間に向ける敬意を込めて、深く頭を下げた。
 「こちらこそ。本当に、ありがとうございました」
 修一は頷き、扉を押し開けた。
 外へ出た瞬間、氷のような夜風が頬を撫でた。
 背後から、扉の閉まる間際に、聞き慣れた声が追いかけてきた。
 「また来てね」
 何十回と聞いてきた、お決まりの言葉だった。
 だが今夜は、その意味が、痛いほどはっきり分かった。営業の言葉。接客の言葉。店が客に向ける、ただの記号。それ以上でも、それ以下でもない。
 修一は、振り返らなかった。ただ夜空に向けて片手を上げ、商店街の闇へと歩き出した。
 アーケードを抜けたあたりで、視界が歪んだ。街灯の光が滲み、大きな光の輪になっていく。
 気づけば、温かい涙が、頬を伝って流れ落ちていた。大声で泣くわけではない。嗚咽もない。ただ、堰を切ったように、静かに、止まらなかった。
 妻を失った、あの冷たい病院の廊下以来だった。こんなふうに涙が湧くのは。
 だが、不思議なことに、その涙の裏側には、底知れない安堵もあった。長いあいだ自らを欺き、美智子への罪悪感に苛まれながら見つづけた、あの苦しくも美しい夢が、ようやく終わったのだ。
 苦しかった。切なかった。惨めだった。けれど――終わった。
 修一は、一歩ずつ足の感覚を確かめるように、夜道を歩いた。家までの道が、今夜は妙に長く感じられた。
 ようやくマンションに着き、部屋の灯りをつける。静かな、誰もいない部屋。
 それでも今夜の静けさは、以前のそれとは、少し違っていた。
 修一はコートも脱がず、まっすぐ仏壇の前に座った。
 遺影の中の美智子が、いつも通りの優しい笑顔で夫を迎える。修一はしばらく、声を出せずに写真を見つめていた。そして、涙で濡れた顔のまま、小さく笑った。
 「……振られたよ、美智子」
 声が、震える。
 「見事に、な。お前の言う通り、ただの勘違いの、大馬鹿野郎だったよ」
 写真の妻は、何も言わない。ただ、硝子の向こうから、すべてを包むような光を投げかけているようだった。
 修一は、線香に火をつけた。白い煙が、冷えた天井へ、ゆっくりと立ちのぼっていく。
 その煙を見つめながら、思った。
 奈々は、悪くない。浩介も、悪くない。誰も、悪くないのだ。孤独に耐えかねた一人の老人が、一瞬の幻に狂っただけ。ただ、それだけの話だ。
 その夜、修一は久しぶりに、一度も目を覚まさずに眠った。
 夢は、見なかった。
 あまりにも長かった、三百万円の夢から、ようやく覚めたばかりだったからかもしれない。

第六章 依存という名前

 奈々のいる店に足を運ばなくなって、一か月が過ぎた。
 高橋修一の暮らしは、驚くほど元通りになっていた。いや、正確には、元通りに見える日々を、機械のようになぞっているだけだった。
 朝、決まった時間に目を覚ます。新聞を隅から隅まで読む。洗濯物を干す。夕方には歩きがてら近所のスーパーへ行き、半額の惣菜を買う。夜になればテレビをつけ、時間が来れば布団に入る。
 何ひとつ変わらない。あの雪の夜、商店街の角で琥珀色の灯りを見つける前の、退屈で平穏な日常そのものだった。
 だが、胸のなかの空虚は、以前のそれよりも、はるかに深くなっていた。
 はじめから何も持っていなかった人間より、一度だけ手のなかにあった温もりを失った人間のほうが、その寒さに凍える。その残酷な仕組みを、修一は身を削られるように思い知らされていた。
 店に通っていた頃は、カレンダーの赤丸という、明確な目印があった。あの丸があるだけで、どんなに寒く孤独な一週間も、辛うじて越えられた。
 今のカレンダーには、何の印もない。ただの白地に、黒い数字が無機質に並んでいるだけだ。楽しみにすべき予定も、身なりを整える理由も、もうない。ただ、日付という砂が、指の隙間から零れ落ちていく。
 ある雨の朝、目を覚ました修一は、布団から起き上がることができなかった。
 起き上がる理由が、見つからなかったのだ。腹も減っていない。行く宛てもない。自分が起きようが寝ていようが、この世界は何ひとつ変わらない。誰一人、自分を待ってはいない。
 柱時計の秒針だけが、虚しく響いていた。
 「情けないな……」
 漏れた声は、ひどく掠れていた。
 七十二にもなって、孫のような娘への失恋で寝込むなど、若者でもあるまい。そう笑い飛ばそうとしたが、顔の筋肉は動かなかった。
 修一が戸惑っていたのは、奈々を失ったこと、そのものよりも、彼女という蓋を失って、自分のなかにぽっかり開いた「孤独」という穴の、その大きさに対してだった。
 そんなある日、大阪の浩介から電話がかかってきた。
 「親父、最近どうだ。ちゃんと飯食ってるか」
 「別に、普通だよ」
 「元気なさそうな声だな」
 「そんなことはない」
 すぐに見抜かれた。長く親子をやっていると、電話線越しのわずかな空気の重みだけで、伝わってしまうらしい。
 他愛のない世間話のあとで、浩介が、少し声を低くして言った。
 「親父……一度、プロの人に話を聞いてもらったらどうだ」
 「誰にだ。精神科にでも行けというのか。俺は狂っちゃいないぞ」
 思わず、棘のある声を返した。
 「違うよ。カウンセラーだ。高齢者向けの相談窓口とか、いろいろあるんだ。誰かに胸の内を吐き出すだけでも、違うからさ」
 修一は、気が進まなかった。自分は病人ではない。ただ少し、人生の迷路で立ち止まっているだけだ。そう思い込もうとしていた。
 だが、浩介は引かなかった。
 「親父。母さんが亡くなってからの五年、ずっと一人で、あの部屋で抱え込んできたんだろ。今度のことも……。頼むから、俺に免じて、一回だけ行ってくれよ」
 懇願するような、どこか切なげな声に、修一はそれ以上、拒む言葉を見つけられなかった。
 結局、一度きり、という条件で、市民福祉センターの相談室の予約を受け入れた。
 一週間後。
 修一は、重い足を運び、小さな相談室の扉を叩いた。
 待っていたのは、五十代半ばほどの、紺色のカーディガンを着た女性のカウンセラーだった。眼鏡の奥の瞳が、静かで、柔らかかった。
 最初は、当たり障りのない話から始まった。生まれ育った土地のこと。機械メーカーでの仕事のこと。子どもたちの独立。そして、美智子の突然の死と、彼女を失った夜のこと。
 他人に自分の人生を語るなど、何十年ぶりかだった。だが、カウンセラーの絶妙な相槌に促されるように、せき止められていた言葉が、次から次へと溢れ出た。
 話は、自然と奈々のこと、あの店のことへ移っていった。雪の夜の、救われるような感覚。彼女の笑顔のために、贈り物を買い漁ったこと。美智子の遺してくれた金を、三百万円近く崩したこと。そして、たった一つの問いで、その夢が終わったこと。
 語り終えたとき、修一は、全力疾走のあとのように肩で息をしていた。膝の上で、両手が震えていた。
 笑われるだろうか。軽蔑されるだろうか。亡き妻への裏切りを、責められるだろうか。
 戦々恐々と俯く修一に、カウンセラーは、湯気の立つお茶をそっと差し出して、言った。
 「高橋さん。……お辛かったですね」
 修一は、顔を上げた。
 「でもね。あなたは、奈々さんという特定の女性だけを、求めていたわけではないのかもしれませんよ」
 意味が、すぐには分からなかった。
 「どういう、ことですか。俺は、あの娘に、男として認められたくて狂っていたんじゃないんですか」
 カウンセラーは、包むような眼差しで首を振った。
 「奈々さんは、高橋さんのなかにあった、底知れない寂しさを、一時的に埋めてくれる――言ってみれば、麻酔のような存在だったのではないでしょうか。奥様を亡くされて五年。お仕事も離れ、社会との繋がりも薄れていくなかで、日常のどこにも『自分を必要としてくれる人』がいなくなってしまった。そこへ奈々さんが現れ、あなたの存在を、丸ごと肯定してくれた」
 「……」
 「それが、嬉しかったんですよね。自分はまだ、ここにいていいんだと、生きている実感が持てた」
 修一の胸が、痛んだ。
 否定できなかった。
 「それは、決して珍しいことではないんですよ」
 カウンセラーは、静かに続けた。
 「医学的な診断名ではありませんが、ご高齢の方によく見られる、『疑似恋愛依存』に近い状態だったのだと思います」
 依存。
 その二文字が、耳の奥で、鈍く響いた。
 強い抵抗が、胸に湧いた。依存。それは、酒に溺れる者や、博打で身を持ち崩す者のための言葉ではないのか。自分はただ、ささやかな恋をして、破れただけだ。それを、病のような名で呼ばれたくはなかった。
 「依存、ですか。俺が、あの娘に」
 「ええ」
 カウンセラーは、穏やかに頷いた。
「人は、極限の孤独に陥ると、自分の心を守るために、誰かに受け入れられているという感覚を、強く求めます。生命を維持するための、防衛本能のようなものです。ですから、高橋さんが奈々さんを求めたこと自体は、決して悪いことでも、恥ずべきことでもありません」
 もっと叱られると思っていた修一は、その言葉に虚を突かれた。愚かだと、亡き妻に申し訳ないと思わないのかと、諭される覚悟をしていたのだ。だが、目の前の人は、過ちの根にある「痛み」を、そのまま肯定してくれた。
 「問題だったのは、その支えが、奈々さんという、たった一つの窓口しかなくなってしまっていたことです」
 カウンセラーは、静かに言った。
 「奈々さんが、あなたの人生の、すべてになってしまっていた」
 修一は、目を閉じた。
 その通りだった。
 いつからか、自分の世界は、あの店のカウンターの端、奈々の笑顔が届く半径一メートルに縮んでいた。彼女の機嫌ひとつで、自分の命の値打ちが決まるような心持ちに、いつしか陥っていた。ほかの灯りが、すべて見えなくなっていたのだ。それこそが、依存という言葉の正体なのだと、ようやく腑に落ちた。
 帰り道、修一は夕暮れの冬の公園を、あてもなく歩いた。風は冷たかった。だが、頭のなかは、これまでになく澄んでいた。古びたベンチに腰を下ろす。枯れた木々が、灰色の枝を寒風に鳴らしていた。
 そこへ、一組の老夫婦が、ゆっくりと通りかかった。二人とも腰が曲がり、歩行器を支え合い、互いの歩調を合わせて、ゆっくり、ゆっくりと歩いている。特に楽しげな会話があるわけでもない。ただ、並んで、そこにいる。
 その静かな佇まいを見た瞬間、修一の胸に、美智子の記憶が、温かい手ざわりで溢れ出した。結婚して四十二年。後半の二十年など、ときめきなど微塵もなかった。交わす言葉は「飯はまだか」「いま作ってるわよ」といった、生活の記号ばかり。だが、あの退屈で、当たり前すぎて、空気のようだった時間の積み重ねこそが、自分という人間を、この地上にしっかり繋ぎ止めていてくれたのだ。
 奈々と過ごした狂乱は、その失われた巨大な「当たり前」の代わりを、必死に探そうとした、老人の悲しい悪あがきだったのかもしれない。
 「俺は……」
 修一は、茜色に染まりはじめた高い冬空を見上げた。
 「奈々ちゃんを、本当に愛していたのかな」
 答えは、もう出ていた。
 違った。いや、それだけではなかった。
 自分が狂おしく求めていたのは、奈々という二十五の娘そのものではなく、彼女が鏡となって映してくれた「誰かに必要とされ、愛されている自分自身」だったのだ。一人ではないと思える、あの麻薬のような時間に、執着していたのだ。
 修一は、長い息を吐いた。
 ようやく、自分が何に傷つき、何を求めてあそこまで狂ったのか、その輪郭を、正面から見つめることができた気がした。
 あたりの街灯が、ぽつり、ぽつりと灯りはじめる。
 すぐに、この寂しさが消えるわけではない。美智子への後ろめたさも、失った三百万円も、戻りはしない。後悔は、これからも胸の底に澱のように残るだろう。だが、自分の傷口に「依存」という、少し苦い名前をつけたことで、修一の心は、かつてないほど静かな落ち着きを取り戻していた。
 それは、再びこの足で地面を踏みしめ、歩き出すために、どうしても必要な名前だった。修一は、自分の影が長く伸びる家路を、ゆっくりと歩き出した。
 春の足音は、まだどこからも聞こえない。しかし、長く、あまりにも長すぎた修一の孤独の冬は、その極寒のピークを、確かに通り過ぎようとしていた。

第七章 仏壇の前で

 春は、ある日、ふいにやって来る。
 高橋修一がそう感じたのは、マンションのベランダから見える桜の木に、薄桃色の小さな蕾が、いっせいにほころんでいるのを見つけた朝だった。
 つい先日まで、夜の闇に怯え、吐く息の白さに孤独を噛みしめていたはずなのに。季節は、一人の老人の感傷など待つこともなく、確かな足どりで前へ進んでいく。
 修一は、湯呑みを両手で包み、立ちのぼる湯気の向こうの桜を、ただじっと眺めていた。
 奈々の店へ行かなくなってから、もう半年近くが過ぎていた。
 はじめの数か月は、辛かった。商店街を歩けば、あの琥珀色の看板が目に入るのを恐れて遠回りをし、テレビに若い女が映るだけで、胸の奥をきりきりと締めつけられた。
 だが、時間は残酷であると同時に、至高の薬でもあった。奈々を忘れる日などない。それでも、あの鋭かった痛みは、日を追うごとに、角の取れた静かな後悔へと、形を変えつつあった。
 その日の午後、修一は気まぐれに押し入れの整理を始めた。
 数年分の古い新聞や、退職にまつわる書類を紐で縛っているうち、段ボールの底から、見覚えのある一冊の通帳が転がり落ちた。
 美智子の死で遺された保険金が、振り込まれた口座の通帳だった。
 修一は手を止め、埃を払って、それを開いた。
 幾度も引き出された、五万、十万という数字の生々しい羅列。奈々に会いはじめた頃の昂り。贈り物を買った秋の高揚。貯えを取り崩した冬の焦り。修一の愚行のすべてが、一文字の狂いもなく、そこに記されていた。
 修一は静かに通帳を閉じ、膝に置いた。そして、深い息を吐いた。
 「三百万、か……」
 声にすると、その数字は、改めて老いた肩に重くのしかかった。これからの細々とした年金暮らしにとって、決して無視できない大金。何より、美智子の死が、夫の未来を守るために遺してくれた、神聖な金だったのだ。
 その夜、修一は久しぶりに、仏壇の前に深く座を据えた。これまでも毎日、線香は上げていた。だがどこか後ろめたく、遺影の美智子と、まっすぐ目を合わせることができずにいたのだ。
 線香に火をつける。白い煙が、春のぬるい空気のなかを、まっすぐ立ちのぼっていく。遺影の中の美智子は、四十二年ずっと見慣れた、穏やかな笑顔のままそこにいた。
 修一は、しばらく何も言えず、ただ手を合わせていた。何から話せばいいのか、分からなかった。時計の秒針が、十、十五と、静寂を刻む。
 ようやく漏れたのは、ひどく情けない、掠れた声だった。
 「なあ、美智子……」
 部屋に返事はない。ただ、線香の灰が、ほろりと崩れる音がした。
 「俺、ずいぶん、馬鹿なことをしたよな」
 自嘲の笑みが浮かぶ。だが、目元はすぐに熱くなった。
 「お前が遺してくれた金を……。あんな若い娘の笑顔が見たいばかりに、使っちまったんだ。三百万だぞ。お前が生きてたら、呆れ果てて、口もきいてくれんかっただろうな」
 恥ずかしかった。情けなくて、惨めだった。
 「……ごめんな、美智子」
 その言葉が、自然に出た。ずっと、胸の奥に沈んでいた言葉だった。浩介にも、娘にも、あのカウンセラーにも、ついに言えなかった、本当の謝罪だった。
 「本当に、すまなかった」
 修一は、畳に両手をつき、深く頭を下げた。
 老いた肩が、激しく震えた。堪えきれない涙が、ぽたぽたと畳の目を黒く染めていく。長い、気の遠くなるような沈黙が流れた。線香の煙が、白髪頭を包むように、ゆっくり流れていく。
 やがて、修一は涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
 遺影の中の美智子は、変わらず微笑んでいる。
 不思議だった。怒られている気が、しない。責められている気も、しない。ただ、見守られているような気がした。それは、昔からそうだった。
 脱サラをして小さな商売を始めようとして、しくじったときも。頭を下げて借金を抱えたときも。子育ての方針を誤って、浩介と大喧嘩をしたときも。美智子はいつも、最後にこう言って笑うのだ。
 「もう、しょうがないわねぇ、お父さんは」
 少し呆れたように、それでいて、すべてを受け入れるような、あの柔らかい響き。そうして、いつも一緒に前を向いてくれた。
 その声が、聞こえた気がした。
 修一は、小さく笑った。
 「そうだよな。お前なら、そう言うよな……」
 涙を拭う。
 「しょうがない、よな」
 もちろん、犯した過ちが帳消しになるわけではない。使い込んだ三百万円は二度と戻らないし、後ろめたい記憶が消えるわけでもない。
 だが、人は、後悔の重さだけでは生きていけない。
 修一は、線香の煙を見つめながら、あの一年を、静かに振り返った。愚かな時間だったのか。無駄な時間だったのか。
 冷静に見れば、ただの老人の、身の程知らずな失恋話だ。恥ずべき依存の記録だ。七十二の老人が、孫のような娘に夢中になり、貯えを使い込んだのだから。
 だが、それだけだったのだろうか。
 修一は、首を振った。
 違う。
 あの狂おしい日々のなか、自分は確かに「生きて」いた。
 朝が待ち遠しかった。鏡の前で服を選び、白髪を整えた。誰かの笑顔のために心を動かし、財布を開いた。
 美智子を失ってから、完全に止まっていた人生の歯車が、あの歪な疑似恋愛という強い衝撃によって、軋みをあげながらも、ほんの少し、もう一度回り始めたのだ。
 それは、紛れもない事実だった。
 奈々との出会いは、人生における大失敗だったかもしれない。だが、高橋修一という人間そのものの失敗ではなかった。
 あの痛烈な遠回りがあったからこそ、自分は孤独と向き合えた。依存という言葉も知った。そして何より、自分がどれほど寂しかったのかを、ようやく認めることができたのだ。
 「俺さ」
 修一は、遺影に向かって言った。
 「ずいぶん格好悪い、遠回りをしてしまったよ」
 老いてからするような失敗では、なかったかもしれない。
 「でもな……やっと、お前のいるこの部屋に、帰ってこられた気がするんだ」
 窓の外では、夜風が桜の枝を揺らし、数片の花びらが闇を舞っていた。
 春だった。長く、冷たく、耳鳴りのするようだった孤独の冬が、いま、終わろうとしていた。
 修一は、静かに手を合わせ、目を閉じた。すると、胸の奥にずっと居座っていた、冷たく重い石のような塊が、驚くほど軽くなっていることに気づいた。
 許されたわけではない。忘れたわけでもない。ただ、この後悔を背負ったまま、これからを前を向いて歩いていいのだと、美智子が背中を押してくれたような気がした。
 手を合わせ終えた修一は、立ち上がった。
 そして、最後にもう一度だけ、遺影を見た。写真の中の美智子は、四十二年ずっとそうであったように、夫のすべてを受け入れる、あの笑顔で佇んでいた。
 その唇が、かすかに動いて、こう言った気がした。
 ――おかえりなさい、お父さん。
 修一は、照れくさそうに目元をゆるめ、五年ぶりに、心からの言葉を返した。
 「ただいま、美智子」
 その一言は、止まっていた彼の時計が、確かに刻みはじめたという、静かな宣言だった。

最終章 最後のときめき

 それから、三年が過ぎた。
 高橋修一は、七十五歳になっていた。
 人は年を取るほど、時間の流れが早くなるという。若い頃には「老人の大げさな感覚だろう」と笑っていたその言葉の意味が、今ではよく分かる。春の桜が散ったと思えば夏の陽が照りつけ、気づけば銀杏が舗道を黄色く染めている。一年が、指の隙間から零れる砂のように、あっという間に過ぎていく。
 だが、奈々のいる店を離れてからの三年は、決して無意味な、ただ時間をやり過ごすだけの空白ではなかった。
 修一の日常には、以前とは違う、ささやかな彩りが戻っていた。
 月に二度、市民センターの囲碁の集まりに顔を出し、同年代の老人たちと「そこを打たれると痛い」「いや、参った」と、他愛のない一喜一憂を交わす。週に一度は、あの藍のセーターを着て近所の古い喫茶店へ行き、お気に入りの一杯を頼んで本を読む。顔見知りになった常連たちと、移りゆく街の話をすることもあった。
 劇的なことは、何もない。誰も修一を特別扱いしてはくれないし、極上の笑顔を自分一人に向けてくれるわけでもない。だが、今の修一には、それで十分だった。
 部屋に閉じこもり、静寂の耳鳴りに怯える日々は、もう過去のものになっていた。誰かと言葉を交わす機会も、増えた。
 浩介は、ときどき電話をかけてくる。娘も、孫の写真を送ってくれる。
 以前のように、孤独に押し潰されることは、なくなっていた。もちろん、胸の奥の寂しさが、消え去ったわけではない。
 美智子を思い出さない日は、今でも一日としてない。一人で囲む食卓の向こうに、彼女の幻を探してしまう。テレビで温泉を映せば「一緒に行きたかったな」と胸が疼く。桜が咲けば思い出し、雪が降れば思い出す。
 四十二年という、互いの人生の半分以上を溶かし合った歳月は、どれだけ時間が経とうと、消えはしない。けれど、あの鋭かった悲しみは、確かに形を変えていた。
 自分を切り裂く刃ではなく、胸の奥に静かに寄り添う、道標のような存在に、美智子はなってくれていた。
 ある秋の夕暮れ、修一は買い物帰りに商店街を歩いていた。
 西の空が、燃えるような茜色から、深い紫へとにじみはじめている。ふと歩みを止めたとき、視線の先に、懐かしい琥珀色の看板が目に入った。
 奈々と出会い、そして、あのたった一つの問いを投げた、あの小さな店だった。
 胸に、激しい動揺も、痛みも、湧かなかった。ただ、古いアルバムを開いたような、静かな追憶だけが胸を過ぎった。
 店は、今も営業しているようだった。ちょうど扉が開き、若い女のスタッフが、常連らしき客を笑顔で見送っている。
 だが、その中に、奈々の姿はなかった。
 もう辞めたのかもしれない。どこかで良い相手と出会い、所帯を持ったのかもしれない。別の街で、新しい夢を追っているのかもしれない。修一には知る由もなかったし、あえて調べようとも思わなかった。
 それでいいのだ、と思った。
 人生には、途中までしか読めない物語がある。結末まで見届けられなくても、自分の人生のほんの一瞬、鮮やかな光を放って交差した、そんな縁があってもいい。奈々との関係は、きっと、そういうものだった。
 修一は、看板を見つめたまま、小さく口元をゆるめた。
 「元気で、やってるかな。奈々ちゃん」
 それだけを風に逃がすように呟き、再び歩き出す。
 もう、後ろは振り返らなかった。
 長い影が、舗道に伸びていく。
 その影を見ながら、修一は、かつての自分を振り返った。
 冷静に考えるほど、あの頃の自分は、滑稽で、大馬鹿野郎だったと思う。七十を過ぎた老人が、孫ほども年の離れた娘に夢中になり、亡き妻の遺した大切な金を、三百万円も使い込んだのだから。正月に浩介に怒鳴られた、あの修羅場のような居間を思い出すと、冷や汗が出ると同時に、どこか可笑しさも込み上げる。近いうち大阪に電話をして、「あのときは悪かったな」と、今なら笑って謝れる気がした。
 だが同時に、あの狂おしい一年が、まるごと間違いだったとも、どうしても思えなかった。
 奈々に会う日を、心待ちにしていた。格好よく見られたくて、慣れないセーターを選んだ。鏡の前で白髪を整えながら、胸をときめかせた。誰かの笑顔が見たいと願い、自分の意志で動いた。
 あの恥ずかしくも切ない時間のなか、修一の心は、確かに、生きた人間として拍動していた。
 美智子を失い、ただ死を待つように止まっていた心が、あの歪な、金で購った疑似恋愛という強い劇薬で、もう一度だけ、力強く動き出したのだ。
 代償は、あまりにも大きかった。失った金は戻らず、後悔も消えはしない。だが、人の人生の値打ちは、損得の帳簿だけで測れるものではないはずだ。
 もし、あの雪の夜、あの店に入っていなかったら。もし、奈々の笑顔に溺れていなかったら。
 修一は今でも、あの暗い、静寂の支配する部屋で、誰とも言葉を交わさず、ただ死んだように時を過ごす骨董品になっていたかもしれない。
 だから、今は心から思える。
 あれは、大失敗だった。だが、無意味な時間ではなかった。人生には、そういう「必要な失敗」もある。その愚かな過ちによって、結果として奈落から救い上げられることも、あるのだ。
 商店街を抜けると、小さな児童公園が見えた。
 修一は買い物袋を足元に置き、古びたベンチに腰を下ろした。
 空は、ほとんど日が沈み、夜の帳が降りようとしている。遠くの住宅街から、夕飯の匂いや、子どもたちの笑い声が、かすかに風に乗ってくる。
 修一は静かに目を細め、暮れゆく空に瞬きはじめた一番星を見つめた。
 若い頃には、想像すらしなかった。まさか七十を過ぎて、あんな恋をするとは。しかも相手は、孫ほども年の離れた、接客のお嬢さんだ。
 あの世というものがあるのなら、美智子は今ごろ、呆れ顔で大笑いしているに違いない。
 ――もう、本当にお父さんは、しょうがない人ねぇ。
 その優しい声が、秋の風に混じって、耳の奥に響いた気がした。
 修一は、思わず声を立てて笑った。
 夕暮れの公園に、老人の小さな、けれどどこか晴れやかな笑い声が溶けていく。
 不思議と、心が軽かった。
 「……ありがとう」
 修一は、胸に手を当て、静かに呟いた。
 その言葉が、自分を生きた人間へ引き戻してくれた奈々に向けたものなのか。すべてを許し、待っていてくれた美智子に向けたものなのか。それとも、これほど不器用で、格好悪くて、それでも愛おしい「人生」そのものに向けたものなのか――自分でも、分からなかった。
 ただ、確かなことが、ひとつだけあった。
 あの恋は、実らなかった。はじめから終わりまで、ただの老人の勘違いであり、依存だった。けれど、あの痛烈な時間があったからこそ、自分はもう一度、この足で地面を踏みしめて歩き出す力を取り戻せた。
 凍りついていた心は溶け、止まっていた時計は、今も静かに時を刻みつづけている。だから修一は、あの三百万円を、ただの後悔として終わらせたくはなかった。
 人生の終盤に訪れた、たった一度の、あまりに激しい遠回り。
 少し苦くて。
 少し切なくて。
 そして、今も胸の奥を、じんわりと温めてくれる。
 それが、高橋修一という男の人生に訪れた、最後のときめきだった。
 修一は、ゆっくりとベンチから立ち上がり、買い物袋を持ち直した。
 家には、美智子の優しい写真が待っている。浩介から送られてきた、大きくなった孫たちの写真もある。明日は、待ち遠しい囲碁の日だ。
 修一は、確かな足どりで、帰るべき我が家へと歩き出した。
 西の地平には、消え残った茜色の残光が、名残惜しそうに揺れていた。
 その最後の光はまるで、長い、長い人生の坂道を歩き抜いてきた一人の男の背中を、どこまでも優しく、温かく照らしているようだった。
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