Day Dream (白日夢)

「夢に敗れた物語」ではない。
夢を追いかけたからこそ、たどり着くことのできた場所がある。
これは、その小さな灯りについての話である。
第一章 北国の駅



昭和四十八年、十二月。
日本海から吹きつける地吹雪は、針の束のように頬を刺し、小さな港町を白い闇の底へ沈めていった。風は雪を巻き上げ、屋根を白くし、漁網を白くし、やがて路地という路地を、輪郭のない真綿の中へ閉じ込めていく。
夕暮れが海をどす黒く染める頃になると、凍てついた漁港に並ぶ漁船のマストが烈風に震え、カン、カン、と乾いた音を立てた。寒さに澄みきった空気を渡っていくその規則正しい金属音は、冬の訪れを告げる晩鐘のようでもあり、海へ出たまま戻らなかった者たちを、ひとり、ふたりと数えていく音のようでもあった。
浅井美雪は、その寒風のなかで生まれ育った。
二十歳。手入れの行き届いた長い黒髪と、どこか遠くを見つめる儚げな瞳を持つ娘だった。光のあたり方によっては、その瞳の奥が、薄い硝子のように透けて見えることがあった。覗き込めば、その向こうに、まだ誰にも見せたことのない海が広がっているような、そんな目だった。
彼女の家は、塩害で黒ずんだ板壁の続く、港から歩いて十分ほどの古い木造家屋だった。風の強い夜には、家じゅうの建具が、かたかたと頼りなく鳴った。
父は、腕のいい漁師だった。
しかし、荒れ狂う冬の海に船をさらわれ、美雪が高校生の時に、二度と帰らぬ人となった。その朝の海は、不気味なほど凪いでいたという。穏やかな顔をして人を呑む——母の千代子は、それきり、海を見ようとしなくなった。
それ以来、母は身も心も病弱になった。咳をするたびに肩が薄くなっていくようで、家計は常に、薄氷を踏むような苦しさだった。
それでも美雪には、誰にも汚されない、胸の奥の聖域があった。
歌だった。
父が生前、小樽の質屋で見つけてきてくれた、中古のクラシックギター。トップ板は爪の傷だらけで、ネックの裏の塗装は、父の掌の汗で剥げていた。弦を押さえると、指先にかすかな潮の匂いが移った。父がまだ生きていた証が、その木の温もりの中にだけ、まだ残っているように思えた。美雪にとっては、何よりも確かな、世界のすべてだった。
毎晩、缶詰工場での針仕事や帳簿つけを終えると、彼女はきつく凍りついた防波堤へと向かった。
コンクリートの先端に腰を下ろし、凍えた指でナイロン弦を爪弾く。最初の音は、いつも震えていた。寒さのためか、それとも別の何かのためか、彼女自身にも分からなかった。吐く息が、白い五線譜のように宙へのぼっては、消えていく。
波の、地響きのような重い音だけが、唯一の聴衆だった。
暗い海の向こうには、底なしの闇が広がるばかり。水平線も、空との境目も、すべて呑まれている。けれど美雪の網膜には、その何百キロも先にある「東京」のネオンが、蜃気楼のように揺らめいて見えていた。
カラーテレビの画面の向こうで、大粒の汗を光らせて歌う歌手たち。網の目のように交差するスポットライト。地鳴りのような、大歓声。
「私も、あんなふうに歌いたい」
その祈りにも似た思いだけが、冷えきった痩せた肩を、内側から支えていた。
ある夜のことだった。
雪はさらに激しさを増し、世界の輪郭を消し去ろうとしていた。防波堤に積もった新雪は街灯の薄明かりを吸って青白く光り、海と空の境界線すら、もう定かではない。世界が一枚の、磨り硝子の中に閉じ込められたようだった。
美雪はかじかむ指をあやしながら、小さな声で、ひとふしを口ずさんでいた。
歌い終え、静寂が戻ったとき、ふいに背後から、雪を踏みしめる音がした。
「いい唄だ。おやじさんの若い頃の声に、よく似ている」
振り返ると、外套に雪をかぶった老漁師が立っていた。父の親友であり、美雪を幼い頃から見守ってきた、佐伯だった。長靴に雪を積もらせ、咥えた煙草の火だけが、闇の中で赤く灯っている。
「……東京へ、行くんだべ」
美雪は、息を呑んだ。胸の奥の引き出しに、固く隠していたはずの秘密だった。母にすら、まだ言っていなかった。
だが佐伯は、深く刻まれた目尻の皺を、さらに深くして笑った。
「隠したって、お前さんの目を見りゃ分かるさ。あいつと同じ目だ。ここにはない、遠い灯台を見てる目だ」
あいつ——父のことだった。
父も若い頃、結氷する海を呪い、世界を見て回る船乗りになりたいと溢していたという。荒れた海ではなく、地図の端にある、暖かい海を。結局その夢は、家族という錨に繋ぎ止められ、この港から一歩も出ることなく、海の底に沈んだ。
美雪は言葉を失い、ただ足元で砕ける黒い波頭を見つめた。
「夢ってのは、追える時に追っとけ」
佐伯は、凍傷で節くれ立った手を、そっと美雪の肩に置いた。煙草の煙と白い息が混じり合って、すぐに吹雪へ溶けた。
「人間、いちばん堪えるのはな。やったことへの後悔じゃねえ。やらなかったことへの、じくじくとした未練だ」
そして、海の向こうを見たまま、付け加えた。
「あいつの分まで、行ってこい」
その言葉は、冷えきった心に、熱い烙印のように残った。
その夜、美雪は決意した。
今この町を飛び出さなければ、自分はこの雪に埋もれて死んでいくのと同じだ。父のように、いつか凪いだ海に、静かに呑まれてしまう。
翌日の深夜。
母が寝息を立てるのを見届けたあと、美雪は茶の間のちゃぶ台の上に、一枚の便箋を残した。
『お母さん、ごめんなさい。
私は、歌手になる夢を、どうしても置いていくことができません。
必ず一端の人間になって、帰ってきます。
身体を、何よりも大切にしてください。』
何度も、涙で文字が滲んだ。にじんだ墨を指で拭うと、紙はかえって汚れた。それでも書き終えると、仏壇の、父の遺影の前に、並べるようにそっと手向けた。
線香の匂いが、まだ、かすかに残っていた。
小さな革の鞄と、古ぼけたギターケースだけを抱え、美雪は夜の底へ足を踏み出した。
雪が降っていた。
振り返ると、生まれてから擦り切れるほど暮らした平屋が、湿った雪の向こうで、小さく、頼りなく霞んでいく。台所に灯したままの裸電球が、磨り硝子越しの蝋燭のように、ぼんやりと揺れていた。母はまだ、何も知らずに眠っている。
胸が、万力で締めつけられたように痛んだ。
それでも、足を止めなかった。一度でも止めたら、二度と動けなくなると知っていたからだ。美雪は一度だけ強く唇を噛み、二度と、振り返らなかった。
無人駅のホームには、数人の出稼ぎ労働者らしき男たちが、暖房のない待合室で、黙って身を縮めていた。排気口から漏れる、不気味なほど白い息。街灯が、降る雪をオレンジ色に染めている。その一粒ひと粒が、硝子細工のように光っては、闇へ落ちていった。
やがて、凍てついた鉄路の彼方から、すべてを圧する重低音の汽笛が響いた。
上野行きの、夜行列車。
煤煙を吐き出しながら、巨大な鉄の塊がホームへ滑り込んでくる。車輪が雪を噛む音。蒸気の白い渦。美雪の肋骨の奥で、心臓が早鐘を打った。
これは、夢への切符だった。そして同時に、故郷との、別れだった。
乗り込むと、車内には重油と、湿った外套の匂いが充満していた。美雪は、青いモケットの張られた窓際の席に、深く身を沈めた。
列車が、激しい振動とともに動き出す。
ホームの蛍光灯が、規則正しく後ろへ流れていく。駅舎が消える。見慣れた街のささやかな灯火が、吹雪の白いベールの向こうへ、ひとつ、またひとつと没していった。
美雪は、冷えた窓硝子に額を寄せた。硝子はすぐに、彼女の体温で曇った。指先で小さな円を拭うと、その向こうには、もう、何も見えなかった。
堰を切ったように、涙が溢れた。
その時だった。
「あ、失礼します」
低い声とともに、大きな画筒を抱えた青年が、対面の席に腰を下ろした。
二十三、四といったところだろうか。少し伸び放題の髪に、襟の擦り切れたトレンチコート。靴の先には雪がこびりつき、目の下には、何日もまともに眠っていないような濃い隈が落ちていた。
だが、その奥にある瞳だけは、美雪のそれと同じように、異常なほどの光を宿していた。曇った窓硝子の中で、その目だけが、拭われたように明るかった。
青年は、小さく会釈した。
「こんばんは。……冷えますね」
「こんばんは……」
美雪は濡れた睫毛を伏せ、短く答えた。
列車が幾つもの夜を越えるうちに、二人の間に張りつめていた凍りついた空気は、車輪の刻む単調なリズムに、少しずつ溶かされていった。
青年の名は、高橋修司。北海道の内陸部、地平線しか見えない開拓地から、一枚の片道切符で出てきたという。雪はこちらより深く、冬は半年も続くのだと、彼は少し笑って言った。
彼もまた、東京を目指していた。
「画家に、なりたいんだ」
修司は、画筒を、まるで大切な子供のように抱きしめながら言った。
二人は夜更け、減灯された車内の薄闇のなかで、取り憑かれたように語り合った。
美雪の唄のこと。修司の、描きたい色彩のこと。置いてきた家族の、あの寂しげな背中のこと。そして、「もし、何者にもなれなかったら」という、暗い車窓の向こうから見つめ返してくる、底なしの不安のこと。
不思議だった。昨日まで赤の他人だった相手に、母にも言えなかったことを、するすると話している自分がいた。同じ夜行列車に乗り、同じ闇の中で、ただ同じ方向にだけ光を探している——それだけで、二人は、もう古い友人のようだった。
いつしか、結露した窓硝子の向こうが、濃い群青色から、淡い薄明へと移り変わり始めていた。
東京は、もうすぐそこだった。別れの気配が、二人の間へ、そっと滑り込んでくる。
修司は不意に、膝の上で使い古したスケッチ帳を開いた。躊躇いなく、鉛筆を走らせる。寒さでかじかんだ指が、それでも迷いなく動いていく。シュッ、シュッ、という硬い芯の音だけが、車内に心地よく響いた。
数分後、彼は一枚の画用紙を丁寧に引き破り、美雪へ差し出した。
そこには、車窓の曇り硝子に額を押しつけ、祈るように遠くを見つめる、ひとりの少女の横顔が、冷徹なまでの繊細さで描かれていた。肩の落とし方も、髪の流れも、まなざしの遠さも——紛れもなく、今この瞬間の、美雪だった。彼は一晩で、彼女の見ているものまで、見抜いていたのだ。
裏を返すと、太い鉛筆の文字で、こう書き置きされていた。
『夢は遠くても、心まで捨てるな』
美雪は、胸の奥の硝子が、パリンと音を立てて割れ、そこへ熱い血が通っていくような感覚を覚えた。冷えきった体の、いちばん深いところに、小さな火が灯った。
「……ありがとうございます。一生、大切にします」
修司は耳まで赤くして、照れくさそうに頭を掻いた。
「お互い、死なない程度に、意地を張り合おう」
やがて列車は、巨大な胃袋のような、上野駅の高架ホームへ滑り込んだ。
すさまじい数の、人間の足音。煤煙と埃の混じった匂い。見上げるほど高い、大聖堂のような天井。そこを無数の人々が、それぞれの夢と疲労を抱えて、行き交っていた。
二人は、改札を抜けた人波のなかに、しばらく立ち尽くした。
「また、どこかで会えるでしょうか」
美雪が声を張り上げると、修司は画筒を高く掲げ、力強く頷いた。
「東京がこれだけ狭いんだ。きっと、どこかの街角で会えるさ」
その言葉を最後に、二人の背中は、それぞれ別の、黒い人波の中へと吸い込まれていった。
——彼らは、まだ知らなかった。
東京という巨大な磁場が、どれほど冷酷に、若者の純真を研磨し、削り取っていくかを。
そして数年後、この一夜の邂逅が、互いの命をつなぎ止める、最後の細い糸になることを。
ただ一枚、雪をかぶったスケッチだけが、美雪の鞄の底で、しばらくのあいだ、溶けずに残っていた。
第二章 都会の闇




上野駅の喧騒に降り立ったあの日から、あっという間に半年が過ぎていた。
東京は、美雪が擦り切れるほど夢想した、絵の具をぶちまけたような華やかさとは、まるで違う顔を持っていた。
ネオンの光は、網膜を灼くほどに眩しい。けれどそれは、誰か一人の人生を照らすためではなく、ただ「都市」という巨大な怪物を維持するためだけに、惜しみなく消費されていく光だった。昼間あれほど明るかった硝子のビルも、夜になれば、内側を映す一枚の暗い鏡へと変わる。東京とは、そういう街だった。
美雪が手に入れたのは、新宿の裏通りにある、築三十年の木造アパートの一室だった。
四畳半一間。共同便所。風呂はない。西日の入らない窓を開ければ、十センチ先で、隣のアパートの油に汚れた換気扇が、けたたましく回っていた。
陽は、一日のうち、ほんの数十分しか差し込まなかった。畳の上をゆっくりと移動していくその短い光の帯を、美雪は毎日、目で追った。光が壁の隅に消えてしまうと、部屋はまた、薄暗い水の底に沈んだ。
夜になっても、国鉄の重い鉄輪の音が、絶え間なく鼓膜を震わせた。
故郷の波音が、狂おしいほど恋しかった。波の音には、満ち引きがあった。寄せては返し、また寄せてくる。けれど、東京の電車の音には、終わりというものがなかった。
それでも、美雪は毎朝五時に起きた。
安物のストッキングに走った電線を気にしながら、履歴書を詰め込んだ鞄を抱え、都内のレコード会社や、弱小の芸能事務所のドアを叩き続けた。
「うちは今、募集してないから」
受付の冷淡な一言で終わるのが、大半だった。運良く、煙草の煙が充満した奥の部屋へ通されても、結果は判で押したようだった。
「歌の基礎はいい。声も、綺麗だ」
プロデューサーらしき男は、美雪の履歴書を指先で弄びながら言った。
「でもさ、地味なんだよね。君には、『毒』がない。今の時代はね、南沙織や山口百恵みたいな、画面を圧倒する野生味か、突き抜けた華やかさがないと、誰も振り向かないんだ。地方のフォーク崩れじゃ、一円にもならないよ」
美雪は何度も頭を下げ、冷えきった廊下へ出た。
帰り道。夕暮れの新宿駅東口の雑踏を歩きながら、彼女は自分の指先を見つめた。
私の、何がいけないのだろう。北の海で鍛えたこの声は、この洗練されたコンクリートの街では、ただの雑音に過ぎないのだろうか。
店先のショーウインドウに、ふと、ひどく疲れた女の顔が映った。それが自分だと気づくのに、少しかかった。硝子の向こうには、手の届かない、美しいドレスが飾られていた。雑踏の中にいるのに、誰の目にも、自分が映っていない気がした。透明な硝子になって、人々が、そのまま体をすり抜けていくようだった。
ある雨の日。
代々木の雑居ビルにある、看板もない個人事務所の社長に、呼び止められた。金縁の眼鏡の奥で、脂ぎった目が、ぬらりと光っていた。
「君のその、田舎臭い哀愁。化けるかもしれないな」
初めて肯定された言葉に、美雪の胸は、激しく脈打った。
「本当ですか……! なんでも、やります」
男は、吸い殻の山に煙草を揉み消し、ねっとりとした笑みを浮かべた。
「そう。なんでも、やってもらわなきゃ困る。来週、熱海の温泉旅館でね、ある大物ディレクターの『接待』があるんだ。そこに、君を連れていく。上手く立ち回れたら、デビューの枠を一つ、融通してもらえるよう、口を利いてやるよ」
男の視線が、美雪のブラウスの胸元へと、露骨に滑り降りてきた。
その瞬間、彼女の脳裏に、父の乗っていた泥塗れの漁船と、煤けた実家の仏壇が、鮮烈に浮かび上がった。佐伯の声が、耳の奥で鳴った。——お前さんの目を見りゃ分かるさ。
美雪は、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「失礼します」
「おい、待ちな! 汚れずにスターになれるとでも思ってんのか、このアマ!」
背中に浴びせられた怒声に耳を塞ぎ、階段を駆け下りた。
土砂降りの雨のなか、神田川の濁った流れを見つめながら、悔し涙が、雨水とともに顎を伝って落ちた。雨の中では、泣いていることが、誰にも分からなかった。それだけが、せめてもの救いだった。
しかし、飢えは、容赦なくやってくる。
彼女は生きるために、神田の地下にある純喫茶で、朝から夕方まで、ウェイトレスとして働き始めた。時給は、わずか三百二十円。夜は歌謡スクールの夜間クラスへ潜り込み、深夜にアパートへ戻ると、声を押し殺して、発声練習を繰り返した。
壁を叩く隣人の音が、執拗に響いた。どん、どん、と。それは、薄い夢の壁を、外側から叩く音のようにも聞こえた。そのたびに美雪は枕に顔を押しつけ、声を殺して泣いた。
それでも、歌った。歌を失えば、この街にいる理由そのものが、消えてしまうからだった。
——同じ頃。
高橋修司もまた、阿佐ヶ谷の安アパートの一室で、来る日も来る日も、すり減っていた。
上京した直後、彼は、自分のキャンバスがこの大都会のギャラリーを席巻する未来を、まるで疑っていなかった。スケッチ帳には、描きたいものが溢れていた。故郷の雪原。畑で働く人々の、節くれだった手。そして、夜行列車で出会った、雪の海を見つめる少女。
しかし、現実は冷酷だった。
神田の画廊を回っても、もてはやされるのは、奇抜な前衛芸術や、高度成長を皮肉ったポップアートばかり。修司が描く「雪原の沈黙」や「労働者の手」といった、静かな具象画は、ことごとく一蹴された。
「暗いねえ」
「古臭いんだよ。今どき、誰がこんなの飾る?」
「もっと、派手に描いてよ」
所持金は、底をついた。一玉十円のうどんを茹で、塩を振って啜る日が続いた。冬が近づく頃には、あの夜行列車で着ていた、たった一着のトレンチコートすら、質屋の棚に消えた。質札を握りしめて外へ出ると、北風が、薄いシャツを容赦なく吹き抜けていった。
「君、デッサンは確実だし、色の置き方も悪くないよ」
ある商業デザイン会社のチーフが、修司の作品を眺めて言った。
「でもさ。芸術じゃ、飯は食えない。どうだい、うちの下請けで、週刊誌の裏表紙の広告カットでも描かないか。金は、すぐ出すよ」
手渡されたのは、新発売の合成洗剤の、ラフスケッチだった。
記号のように、不自然なほど白い歯を見せて笑う主婦。科学では説明のつかないほど、真っ白に洗い上げられたシャツ。修司の魂が、最も拒絶していた、嘘にまみれた「豊かさ」の象徴だった。
それでも、彼はそのペンを握った。
握らなければ、今夜の電灯代すら、払えなかったからだ。
気付けば、修司は一日中、机に向かって、洗剤やトランジスタラジオの輪郭を、正確になぞるだけの機械になっていた。
描けば、数千円の紙幣になる。描けば、凍えずに済む。
だが、滑らかなケント紙にインクを落とすたび、心のどこかが、薄く削れていった。ちょうど、鉛筆を削るように。少しずつ、確実に、短くなっていく。彼の奥底にある、あの北国の硬質な雪の輝きが、ドブ川の水で、一滴ずつ薄められていくようだった。
ある夜。
仕事を終えた修司は、新宿のガード下の、生臭い大衆酒場にいた。
有線放送からは、その年に流行ったフォークソングが、低く流れていた。東京の片隅で、貧しさに身を寄せ合って暮らす若い男女の、壊れやすい幸福を歌った曲だった。いつ消えてもおかしくない、ささやかな灯りのような歌。
修司は、薄い焼酎のグラスを見つめながら、窓の外を睨んだ。
雨に濡れたネオンが、濡れた硝子の上で、赤や青に溶け合っている。まるで、誰かが絵の具を、水で薄めて流したようだった。
東京は、美しかった。そして、どこまでも平然と、残酷だった。
毎年、何万という若者が、夜行列車でこの街へやってきては、その大半が、何者にもなれぬまま、すり潰されて消えていく。その歯車の一つに、自分も確かに、組み込まれている。
修司は、酔った手で、鞄からあの薄汚れたスケッチ帳を取り出した。
ページをめくる。
そこには、暗い車内でかすかに微笑んでいた、浅井美雪の横顔があった。
「美雪さん……君は、まだ、歌っているのか」
もし、彼女もまた、あの澄んだ声を、都会の排気ガスに変えられてしまっていたら。それを確かめる術はなく、そして——確かめるのが、病的に、怖かった。
彼女の輝きだけは、あの夜のまま、どこかに無傷で残っていてほしかった。
その夜。新宿の四畳半と、阿佐ヶ谷の六畳間で。
二人は、奇妙なほど同じ時刻に、それぞれの窓から、四角く切り取られた煤けた夜空を見上げていた。
故郷の空なら、降るような星屑が、網膜を潤してくれたはずだった。だが東京の空には、排気ガスに耐えかねたような、今にも消え入りそうな星が、二つ三つ、頼りなく瞬いているだけだった。
互いの現在地も知らず、互いを思い出していることも知らず。
それでも、二つの孤独の糸が、暗闇のなかで、目に見えない星座のように、静かに結び直されようとしていることに——二人は、まだ、気づいていなかった。
第三章 すれ違う星



昭和五十一年。
東京は、その回転の速度を、さらに上げていた。街にはにょきにょきと超高層ビルがそびえ立ち、若者たちはベルボトムのジーンズを穿き、流行はフォークソングから、ニューミュージックと呼ばれる新しい波へと移り変わっていた。万国博覧会の熱はとうに冷め、世の中は、もう次の何かを追いかけ始めていた。
だが、美雪の時計だけは、あの夜行列車を降りた日から、ずっと止まったままのようだった。
二十三歳。
彼女は昼間、神田の喫茶店で皿を洗い、夜は歌舞伎町の片隅にある、うらぶれたナイトクラブ『カサブランカ』の、専属歌手としてステージに立っていた。
ステージとは、名ばかりだった。ビール箱を組み、その上に擦り切れた絨毯を敷いただけの、狭い一角。立ち込める紫煙。安物のくせに高級を気取った、偽物の洋酒の匂い。
彼女の歌を、聴きにくる客など、一人もいなかった。
男たちはホステスの肩を抱き、あからさまな猥談を大声で笑い、時折、美雪に向かって、丸めたおしぼりを投げつけた。
「ネエちゃん、辛気くせえ唄はやめろ! もっと景気のいいド演歌、歌えや!」
それでも美雪は、両手でマイクを握りしめ、その夜も、ちあきなおみの『喝采』を歌った。
——舞台の上で華やかな喝采を浴びながら、その胸の奥では、誰にも見せられない別れと涙を抱えている。そんな歌だった。歌いながら、美雪は時々、これは自分のために書かれた歌ではないかと思った。
スポットライトは、不自然なほど赤かった。その赤い光は、彼女の瞳の奥に沈んだ絶望を、容赦なく、舐めるように照らし出していた。これは、北の海で夢見た、誰もが息を呑んで耳を傾ける、あの「聖なる光」ではなかった。
歌い終えると、まばらな拍手が起きる。
けれどそれは、歌への拍手ではなかった。場の空気を、ほどよく温めたことへの、酒の肴のような拍手だった。それを誰よりもよく分かっていて、それでも美雪は、深く頭を下げた。
ある夜。
ステージを終え、湿気でカビ臭い楽屋で衣装を着替えていると、金の喜平ネックレスを揺らした支配人が、顔を覗かせた。
「おい、美雪。今夜、VIPルームに特別な客が来てる。粗相のないようにな」
やがてフロアが、いつもとは違う、異様な熱気に包まれた。
入ってきたのは、その年、レコード大賞の最有力候補と噂される若手スター、西沢真理子だった。テレビで、見ない日はない。時代の、寵児。
しかし美雪は、その華奢な後ろ姿を見た瞬間、全身の血液が、音もなく凍りつくのを感じた。
真理子——。
それは、上京した直後、品川の貧しい音楽学校の狭いレッスン室で、一つの菓子パンを半分こにし、「いつか、一緒のステージに立とうね」と励まし合った、あの引っ込み思案だったはずの友人だった。
真理子もまた、冷やかし半分に走らせた視線の先で、美雪を捉えた。
「……あ。浅井、さん?」
完璧に施されたつけ睫毛の奥で、その瞳が、一瞬、怯えたように揺れた。
店の裏口、非常階段の踊り場で、二人は短い時間、言葉を交わした。
真理子の細い指には、美雪の数年分の給金にあたるダイヤモンドの指輪が、冷たく光っていた。毛皮のコート。すれ違っただけで分かる、退廃的に甘いフランス製の香水。成功した者だけがまとう、見えない膜のようなものが、彼女を、すっぽりと包んでいた。
「すごいね、真理子。本当に……遠くへ、行っちゃったんだね」
美雪は、偽りのない称賛を口にした。声が、かすかに震えていた。
真理子は、指に挟んだ細い洋煙草を深く吸い込み、夜の歌舞伎町の空へ、ゆっくりと煙を吐いた。その横顔は、二十代の前半とは思えないほど、凍てついていた。
「遠くなんかじゃ、ないわよ」
「え?」
「地獄の、底よ」
真理子は、自嘲的な笑みを浮かべた。その綺麗な唇の端が、わずかに歪んだ。
「ねえ、美雪。あなた、私がどうやって、あの事務所のメイン枠を勝ち取ったか、本当に知らないの?」
美雪は、答えられなかった。
「この指輪も、この毛皮も……ぜんぶ、自分の中の、いちばん大事なものと引き換えに、手に入れたものよ。売れるために、私が、誰に頭を下げてきたと思う?」
そして、真理子は、美雪のほうを見て、もう一度、微笑んだ。
だがその笑顔は、ひどく寂しかった。よく磨かれた硝子のように美しく、そして硝子のように、内側が、空っぽに見えた。覗き込んでも、もう、その向こうには何も映らなかった。
「夢なんてね……綺麗なままじゃ、絶対に、形にできないのよ」
真理子は、大きなサングラスをかけた。
「あなたは、そのままでいなさい。その方が、ずっと——」
その先は、言わなかった。言葉を途中で硝子のように断ち切り、待たせていた黒塗りの高級車の、後部座席へと消えていった。
甘い香水の残り香だけが、しばらく、薄汚れた踊り場に漂っていた。
美雪は、冷たいコンクリートの壁に、崩れ落ちそうになった。
何者かになれた人間も、何者にもなれなかった自分も——結局は、東京という巨大な機械の中で、ただ別々の方法で、すり減らされているだけではないのか。
私の、この三年間は、いったい何だったのだろう。
その夜、美雪は、眠れなかった。
狭いアパートの、天井のしみを見つめながら、故郷を思い出した。雪の港。防波堤。父のギターに、まだ残る、潮の匂い。
そして——夜行列車で出会った、あの青年。
高橋修司。
今もどこかで、絵を描いているのだろうか。あの、異常なほど澄んでいた目は、まだ、輝いているだろうか。
ふと、そんなことを考えた。考えると、不思議と、少しだけ、眠れそうな気がした。
——同じ頃。
高橋修司もまた、目眩のするような虚無の中にいた。
皮肉なことに、彼の才能は、商業デザイナーとして、完全に開花していた。彼の手がけたビールのポスターは、電車の車内吊り広告を埋め尽くし、業界の賞をいくつか受賞した。収入は跳ね上がり、高円寺の新しいマンションへ移ることもできた。
「高橋先生! 次のサイダーの夏キャンペーンも、ぜひ、あの『大衆受けする明るさ』でお願いしますよ」
高級料亭で、代理店の男たちが、修司のグラスにビールを注ぐ。
修司は笑顔でそれに応じながら、胃の奥が酸っぱくなるような嫌悪に、ひとり耐えていた。
彼が描いているのは、もう、絵ではなかった。ただ、消費を促すためだけの、視覚的な記号だ。彼が本当に描きたかった、人間の生々しい体温も、北国の冷徹なまでの静寂も、そこには一滴も、含まれていない。
夜。泥酔してマンションへ戻った修司は、ネクタイを引き千切るように外し、クローゼットの奥を、ひっくり返した。
そこには、上京した時のまま、一度も開けていない段ボール箱があった。埃を払って蓋を開けると、中から、茶色く変色し始めたスケッチ帳が現れた。
ページを、開く。
最初のページは、上のほうが、ぎざぎざに破り取られていた。あの夜行列車で、美雪の横顔を描き、彼女に手渡した、その破った跡だった。残った紙の端に、雪の海の、ほんの数本の線だけが、置き去りにされている。
その下のページには、上京前の自分が描いた、嘘のない絵が並んでいた。沈黙する雪原。畑で働く人々の、節くれだった手。
修司は、自分の手のひらを見つめた。
高い万年筆を握り、高級な時計を嵌めた、この手。
それは、あの夜行列車の中で、「死なない程度に、意地を張り合おう」と言った、あの青年の手では——もう、なくなっているような気がした。
「俺は……何を、描いてるんだ」
箱の底に、一枚の写真が落ちていた。
雪の積もった、無人駅のホーム。ギターケースを大切そうに抱え、不安と希望で瞳を硝子のように輝かせた、ひとりの少女。上野へ着く間際、別れの前に、頼んで撮らせてもらった一枚だった。
「美雪さん……君は、まだ、歌っているのか」
写真の裏には、当時の住所が、走り書きしてあった。だが、引っ越しを繰り返したであろう今、もう、そこに彼女はいないだろう。
確かめる術はなかった。そして、確かめるのが、病的に、怖かった。
もし彼女まで、夢を失っていたら。
——せめて、彼女の輝きだけは。あの夜のまま、どこかで、無傷で残っていてほしかった。自分が手放してしまった、すべての分まで。
修司は、窓の外を見た。
都会の夜空は、暗かった。ネオンの洪水に押し流され、星はほとんど見えない。
それでも、ひとつだけ。
ビルの隙間で、今にも消え入りそうな小さな星が、頼りなく瞬いていた。
修司は、その星を、長いあいだ、見つめた。
——同じ頃。
新宿のアパートの、ひびの入った窓硝子の向こうに、美雪もまた、同じ星を見ていた。
互いに、知らない。
同じ空を見上げていることも。同じ夜に、互いを思い出していることも。そして、形を変えながらも、まだ、夢を手放しきれずにいることも。
二つの星は、同じ夜空にありながら、まだ、出会えない。
だが、運命の歯車は、もう、静かに動き始めていた。
雨の降る新宿という舞台に向かって——その最後の、半回転を。
第四章 再会



その日は、朝から、世界が灰色に濡れていた。
昭和五十三年、六月の終わり。梅雨の最後を飾るような、ねっとりと生ぬるい雨が、新宿の街を、容赦なく濡らしていた。アスファルトからは、都会特有の熱気と油の匂いが立ちのぼり、ビルの隙間を抜ける風は、湿った生き物の吐息のようだった。
美雪は、ナイトクラブの臨時の昼公演——年配の客を集めた、のど自慢大会のような催しの伴奏——を終え、重いギターケースを肩に食い込ませながら、新宿駅の東口へと歩いていた。
二十五歳。
少女の面影は、もう、すっかり削ぎ落とされていた。代わりに、都会の荒波に耐えてきた、大人の女性の静けさが、その立ち姿に宿っていた。
だが、その琥珀色の瞳の奥には、消えない疲弊が、澱のように沈んでいた。澄んだ硝子に、いつのまにか走った、細い罅。割れてはいない。割れてはいないけれど、たしかにそこにある、一本の罅。
信号待ちの交差点。あふれかえる傘の波の中に、美雪は立っていた。色とりどりの傘が、川の流れのように、ゆっくりと交差点を渡っていく。
ふいに——。
対向車線の歩道の、群衆の中から、強烈な「視線」を感じて、彼女は顔を上げた。
濡れたビニール傘の、その向こう。
ひとりの男が、立っていた。
少し上質なレインコートを着て、手には、高級そうなブリーフケース。けれど、その少し猫背の佇まいと、何よりも——世界のすべてを拒絶するような、それでいて何かを渇望するような、あの瞳。
「……修司、さん?」
男もまた、傘を傾けたまま、完全に、石になっていた。
高橋修司だった。
五年の歳月が、二人の外見を、大きく変えていた。けれど、互いの魂の奥にある「傷口」の形だけは、五年前と寸分も違わず、瞬時に、相手が誰であるかを教えた。
信号が、青に変わる。
どっと動き出す人波の中で、二人だけが、流れる川の真ん中に取り残された二つの石のように、微動だにせず、見つめ合っていた。
やがて、修司が先に、水を弾くようにして、歩み寄った。美雪もまた、自分の足が地面から浮いているような感覚の中で、一歩を、踏み出した。
横断歩道の、ちょうど真ん中。激しい雨の音が、二人を包む。互いの傘の縁から落ちる雫が、肩を濡らしていくのも、構わなかった。
「美雪さん……本当に、美雪さんなのか」
「修司さん……」
次の瞬間、どちらからともなく、二人は、小さく吹き出した。
それは、歓喜というよりは、あまりに出来すぎた運命の悪戯に対する、一欠片の諦めを含んだ笑いだった。けれどその瞬間、冷たかったはずの六月の雨が、二人にとってだけ、どこか、やわらかいものに変わった。
駅の近くの、地下にある、うらぶれた大衆酒場へ入った。
壁には手書きのメニューが、黄色く変色して貼りついている。昼下がりの店内には、他に客もいない。二人は、雨の滴が這うアクリル板の横の席に座り、互いに、いちばん安い赤ラベルの焼酎を、お湯割りで頼んだ。
最初は、五年の空白を埋めるための、ぎこちない言葉のやりとりだった。
「故郷の佐伯さん、去年、脳溢血で倒れたらしいよ。でも、もう元気に船に乗ってるって」
「あの夜行列車のストーブ、暑すぎたよね。窓に、霜の花が咲いてた」
思い出話に逃げ込んでいるうちは、互いの仮面を、剥がさずに済んだ。
しかし、会話が、現在の核心に触れようとしたとき、二人の間に、薄く、鋭い、硝子のような沈黙が、すっと降りた。
「美雪さんは……その、歌は、どうですか。もう、テレビの向こうの人、なのかな」
修司が、グラスの縁を指でなぞりながら、努めて明るく、尋ねた。
美雪の胸の奥で、硝子の破片が、ちりっと跳ねた。
本当のことを言えばいい。「夜の街で、酔っ払いにおしぼりを投げられながら、小銭のために歌っているだけ」だと。
しかし——彼の前にいる自分だけは、あの夜行列車で「夢は遠くても、心まで捨てるな」と励まされた、あの清らかな少女のままで、いたかった。
「うん……」
美雪は、人生でいちばん綺麗な嘘の笑顔を、作った。
「小さな、インディーズのレーベルだけどね。一昨年、シングルを一枚、出したの。有線で、少しだけ流れて。今は、次のアルバムの準備で、あちこちスタジオを回ってて……ちょっと、忙しいかな」
修司の目が、あの列車の夜と同じように、純粋に、輝いた。
「本当か! すごい、すごいじゃないか、美雪さん! 俺、自分のことみたいに、嬉しいよ」
その、何の疑いもない歓喜の光が、美雪の胸を、深く刺し通した。彼女はテーブルの下で、自分のスカートの裾を、ちぎれそうなほど強く、握りしめた。
「修司さんは? 絵は……個展とか、されてるんですか」
今度は、美雪が尋ねた。
修司は一瞬、お湯割りのグラスを、落としそうになった。慌てて、両手で包み込む。
本当は、洗剤の泡の数をいかに本物らしく描くか、ということばかりを考える、魂のない作業に追われている。画家としての真っ白なカンヴァスは、マンションの隅で、埃をかぶったままだ。
しかし——修司もまた、彼女の中に生きている「誇り高い青年画家」の像を、自分の手で壊すことが、どうしても、できなかった。
「まあ、ね」
苦笑しながら、答える。
「それなりに、名前が売れてきてさ。本の装丁とか……大きなホテルのロビーに飾る絵の依頼が、絶えなくて。来年は、銀座の画廊を押さえて、個展をやる予定なんだ」
「素敵……。やっぱり、修司さんは、天才だったんだわ」
美雪の、濁りのない笑顔を見て、修司は、たまらず、窓の外の雨へと視線を逸らした。
二人は、互いに、嘘をついていた。
だがそれは、相手を貶めるための嘘では、決してなかった。
相手の心の中に生きている、若く、美しかった頃の自分——それだけは、現実にどれほど削られても、あの夜のまま、傷ひとつなく、守り抜きたかった。互いについた、相手のための、透明な嘘だった。
店を出る頃には、新宿の街は、暴力的なまでのネオンの海に、沈んでいた。
雨は、霧雨に変わっていた。濡れたアスファルトに反射する赤や青の光が、二人の嘘を、万華鏡のように美しく、そして、虚しく彩った。
駅へ向かう途中。人通りの絶えた、小さな児童公園の街灯の下で、修司が、ふと足を止めた。
「美雪さん」
「はい」
「俺……」
言葉は、それ以上、続かなかった。彼の喉の奥で、何百通もの嘘の言い訳が、堰き止められていた。
しかし、美雪には、分かった。
差し出された彼の右手の、絵の具とインクで汚れた指先が——この五年間、どれほどの孤独に、ひとりで耐えてきたかを。
美雪は、ためらわなかった。
自分の手を伸ばし、その掌に、そっと重ねた。
驚くほど、温かかった。
冷えきった硝子に、息を吹きかけたときのようだった。触れたところが、白く曇る。けれど、その曇りは、たしかに、生きた人間の、温もりだった。東京という冷たいコンクリートの砂漠に放り出されてから五年、彼女が一度も、本当には触れることのできなかった温度が、そこに、あった。
二人は、霧雨の降る夜の公園で、どちらからともなく身を寄せ合い、ただ、じっと手を繋いでいた。
遠くで響く中央線の重い鉄輪の音が、あの夜行列車の走る音と、完全に、重なり合っていた。
「また、会ってくれますか。今度は……今度はもっと、ゆっくり。僕の、みっともないところも、全部」
修司の声が、霧雨の中へ、溶けていく。
美雪は、彼の胸に額を押しつけたまま、静かに、頷いた。
「うん。私も……全部、あなたに、聞いてほしい」
その夜。
二人は、五年の嘘の鎧を纏ったまま——けれど、魂のいちばん深いところで、本物の恋人同士になった。
互いが夢に敗れ、傷だらけの硝子の破片を、胸に抱えている。だからこそ、ほんの少し触れ合うだけで、痛いほどに、相手の痛みが分かった。
その本当の痛みに、いつか二人で向き合おうという覚悟を——二人は、霧雨の中で、静かに、固め始めていた。
雨の新宿の夜は、更けていった。
第五章 海へ帰る日

再会から、半年の歳月が流れた。
昭和五十四年の春。
美雪と修司は、互いの「嘘」の重みに耐えかねながらも、磁石が引き合うように、毎週の貴重な時間を共にするようになっていた。
吉祥寺の井の頭公園の池でボートを漕ぎ、水面に映る互いの顔を笑い合った。上野の古めかしい美術館で、修司は、東洋の古い仏像の前から、長いあいだ動かなかった。泥臭いジャズの流れる名曲喫茶で、一杯の珈琲が冷めるのも忘れて、何時間も語り合った。
傍目には、若い恋人そのものだった。
だが、どれほど身を寄せ合っても、二人の胸の奥にある小さな「棘」が、チクリ、チクリと、皮膚の内側を刺す感覚は、消えなかった。
互いについた、優しい嘘。それは、会えば会うほど、好きになればなるほど、輪郭をくっきりとさせ、日に日に、重くなっていった。
ある日曜日。
梅雨を控えた、驚くほど澄み切った、五月晴れの日だった。
二人は、浅草から川沿いに、隅田川の水面を見つめながら歩いていた。雨に洗われた空は高く、川面には春の光が砕けて散り、まるで無数の硝子の破片を、誰かが撒いて流したように、きらきらと光っていた。
ふいに、修司が足を止め、川を遮る鉄橋を見上げた。
「美雪さん」
その声は、いつもよりずっと低く、乾いていた。
「どうしたの? 修司さん」
しばらく、沈黙が続いた。川の流れる音だけが、二人の間を満たした。
修司は、ポケットの中で拳を固めていたが、やがて、ふっと、肩の力を抜いた。その横顔には、死刑宣告を待つ囚人のような、奇妙な清々しささえ、漂っていた。
「俺、嘘を、ついてたんだ」
美雪の呼吸が、一瞬、止まった。
「個展なんか、一度もやってない。ホテルの絵も、描いてない。俺が毎日描いてるのは——一週間でゴミ箱に捨てられる、洗剤のポスターと、雑誌のカットだけだ」
「……」
「画家になんか、なれっこなかった。俺は……東京に、完全に、負けたんだ」
そう一気に吐き出すと、修司は、軽蔑されるのを待つように、身を硬くした。
川風が吹き抜け、近くの公園から、遅咲きの桜の花びらが数枚、濁った隅田川の水面へと落ちていった。流れに乗って、すぐに見えなくなった。
修司が、恐る恐る、美雪の顔を覗き込んだとき——彼は、自分の目を疑った。
美雪が、両手で顔を覆い、肩を震わせていたのだ。
泣いている、のではなかった。
彼女は、心の底からおかしそうに、声を上げて、笑っていた。
「美雪……さん?」
美雪は、目尻に大粒の涙をためたまま、顔を上げた。その表情は、この五年間の、どの瞬間よりも、美しく輝いていた。
「ごめんなさい、修司さん……。おかしすぎて。……だって、私も、同じだったんだもの」
「え?」
「レコードなんて、出してない。アルバムの予定も、ないわ。私は……新宿の薄暗いお酒の席で、酔っ払いの野次を浴びながら、誰の耳にも届かない歌を、歌っているだけ。私も……あの夜行列車の夢には、とっくに、負けていたのよ」
二人は、五月の陽光の中で、互いの顔を見合わせた。
次の瞬間。
二人の胸を、長いあいだ締めつけていた、あの強固な硝子の鎧が——パリン、と音を立てて、粉々に砕け散った。
そこに、悲しみは、なかった。
あったのは、身の丈に合わない重い鉄の甲冑を、ようやく脱ぎ捨てて、素肌に風を感じたときのような——圧倒的な、解放感だけだった。
割れた硝子は、もう、二人のあいだの、何も隔てなかった。
修司が、笑った。美雪も、笑った。
二人は人目も気にせず、隅田川の堤防の上で、涙を流しながら、笑い転げた。
嘘が消えたその場所に、初めて、「本当の二人の人生」が、産声を上げた瞬間だった。
その夜から、二人の会話の中身は、劇的に変わった。
何者かになるための、青く、熱っぽい議論は、終わった。代わりに始まったのは、限られた人生の時間を、どうやって「自分たちの手触りのある幸福」で満たしていくか、という——泥臭くも、愛おしい対話だった。
ある夜。
美雪は、なけなしの十円玉を何枚も握りしめ、路地の赤電話の前に立った。
何年ぶりかで、故郷の実家へ、ダイヤルを回す。
ノイズの向こうから聞こえてきた母・千代子の声は、記憶にあるものより、ずっと細く、掠れていた。
「……美雪かい? 元気で、ご飯、食べてるかい」
その一言だけで、美雪の目から大粒の涙が溢れ、もう、言葉にならなかった。落ちていく十円玉の、ちん、という音だけが、硝子の箱の中で、やけに大きく響いた。
私が、東京という幻影を追いかけている間にも、故郷の時間は、容赦なく流れていた。母は、確実に、老いていた。仕送りも満足にできず、ただ自分のちっぽけなプライドのために、距離を置いていた——その傲慢さが、たまらなく、恥ずかしかった。
受話器を置いた美雪は、硝子の電話ボックスの中で、雨に濡れた街灯を、ぼんやりと見つめながら、しばらく、泣いた。
修司は、ボックスの外で、傘も差さずに、黙って待っていた。
美雪が出てくると、彼は、濡れた前髪のまま、静かに言った。
「帰ろう、美雪さん。俺たちの、あの海へ」
美雪は、顔を上げた。
修司の目には、もう、都会に怯える影は、なかった。
「逃げるんじゃない。俺たちは、東京で、十分に戦った。そして……本当に大切なものが何なのかを、この街に、教えてもらったんだ。だから、次は——それを育てるために、帰るんだ」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と、心が、軽くなった。
逃げるのでは、ない。負けるのでも、ない。
新しい人生を、始めるのだ。
行き止まりだと思っていた道の、その先に、別の道が、見えた。
昭和五十四年、夏の始まり。
二人は、東京のすべてを、精算した。
引っ越しの日の朝。
美雪は、荷物の消えた四畳半の、がらんとした空間を見回した。壁に残った、ギターハンガーの白い跡。涙で何度も濡らした、畳の染み。
苦痛に満ちた、五年だった。けれど、この部屋がなければ——私は、修司という、本物の光に、出会うことはできなかった。
「お世話になりました」
空っぽの空間に向かって、深く、一礼した。色褪せた壁が、わずかに、朝陽を受けて光った気がした。
修司もまた、仕事場を畳んでいた。広告の原稿。山積みのポスター。それらを紐で縛り、ゴミに出す。
ただ一つ、彼が丁寧に布で包んだのは——上のページが破り取られた、あの古いスケッチ帳と、雪のホームに立つ少女が写った、一枚の写真だった。
数日後。
二人は、上野駅のプラットホームに立っていた。
あの日と、同じ駅だった。同じ高い天井。同じ雑踏。
だが、五年前とは、何もかもが、違っていた。
ただ肥大した夢だけを燃料にして、硝子のように脆かった、あの若者たちでは、もう、ない。
都会の闇に揉まれ、傷つき、挫折の底を這いずり回り、それでも、「愛する人の手を、握り返す」という、本当の強さを手にした——二人の、大人だった。
夜行列車が、ゆっくりと、北へ向けて発車する。
窓の外、あの高層ビルのネオンが、今度は、遠ざかる光の帯となって、後ろへ流れていった。
「さようなら、東京。……ありがとう」
美雪は、心の中で、静かに告げた。
そして、翌朝。
列車が、懐かしい港町のホームへ滑り込んだ瞬間、窓の隙間から、潮の匂いが、滑り込んできた。
肺腑の奥まで染み渡る、重く、硬質な、海風。
「帰ってきたね、修司さん」
「ああ。……いい風だ」
駅舎は、昔のままだった。木の改札。色褪せた時刻表。遠くには、白い灯台。港には、漁船が並んでいる。
何も、変わっていなかった。
いや——変わったのは、二人のほうだった。
ホームには、母が、立っていた。
痩せて、ひと回り小さくなった母を見た瞬間、二人は駆け寄った。三人は、ホームで抱き合い、声を上げて泣いた。離れていた長い時間を、その涙で、少しずつ、埋めていくように。
それから、数週間後。
二人は、港の片隅に、元は漁師相手の食堂だったという、古い木造の空き店舗を見つけた。
床板は腐りかけ、潮風で窓硝子は曇り、隅には罅も入っていた。
けれど、その窓を大きく開け放つと——遮るもののない日本海の水平線が、夕陽を浴びて、真っ赤に燃えているのが、見えた。
二人は、顔を見合わせ、微笑んだ。
「ここに、俺たちの城を、作ろう」
「ええ。……名前は、『ディドリーム』がいいわ」
「ディドリーム?」修司が首をかしげた。「デイドリーム——白昼夢、じゃなくて?」
美雪は、いたずらっぽく笑った。
「ううん。ディ・ドリーム。……過去形の、見た夢。私たち、ちゃんと、夢を見たでしょう。叶わなかったけど、たしかに、見た」
修司は、しばらく、その響きを噛みしめ——やがて、声を立てて笑った。
「いいな、それ。決まりだ」
聞き間違いのような、けれど、二人にしか分からない名前だった。
昼は、地元の漁師が獲った魚を、安く出す定食屋。
夜は、町の人間が、安酒を飲んで、愚痴をこぼせる、小さな酒場。
荒削りの壁には、修司が、心の赴くままに描いた、本物の故郷の風景画が、一枚、また一枚と、増えていった。
そして週末の夜、客が引けたあとの静寂の中で、美雪は、父の形見のギターを抱え、ただ、自分のために、そして修司のために、飾りのない声で、歌を紡いだ。
プロデューサーの評価も、売上のチャートも、ここには、ない。
ただ、描きたいから、描く。歌いたいから、歌う。
その営みの中に、東京のどのスポットライトよりも温かい、本物の幸福の血が、静かに、流れていた。
店の改装を終えた日の、夕暮れ。
二人は、かつて美雪がひとりで歌っていた、あの防波堤の先端に、並んで立った。
水平線の向こうへ、巨大な太陽が、ゆっくりと、海に溶けていく。海面が、溶けた金色の硝子のように、いちめん、揺れていた。冷たく澄んでいたはずの硝子が、今は、こんなにも、温かく光っている。
「夢は……叶わなかったな」
修司が、ぽつりと言った。
美雪は、彼の、絵の具の染みついた節くれだった手を、強く握りしめ、静かに、首を振った。
「ううん。……形が、変わっただけよ」
「え?」
「私たちは、夢に、敗れたんじゃない。夢を、あそこまで必死に追いかけたからこそ——この、砂粒みたいに小さな日常が、どれほど壊れやすくて、どれほど愛おしい宝物なのか、気づくことが、できたんだもの」
潮風が、二人の髪を、優しく揺らした。遠くで、カモメが鳴いている。
握り返してきた修司の手は、温かかった。東京で、どんなに探しても見つけられなかったものが、そこには、たしかに、あった。
人生は、思い通りには、ならない。
けれど——思いもよらない場所で、思いもよらない幸せに、出会うことは、ある。
やがて、東京の空には決して見えなかった無数の星が、藍色に染まりゆく北の夜空に、ひとつ、またひとつと、ダイヤモンドの粒のように、まばゆい光を放ち始めた。
あの夜、ビルの隙間でひとつだけ、消えそうに瞬いていた小さな星。それが今、こうして、数えきれないほどの仲間とともに、二人の頭上で、輝いている。
追いかける必要の、もう、なくなった夢が、静かに海へ沈んでいき——
そして、新しい人生の朝日が、そのすぐ後ろで、昇ろうとしていた。
最終章 ディドリーム

港町に帰ってから、十年の歳月が、流れていた。
時代は、昭和から、平成へと移り変わっていた。あの長い時代が、ひとつ静かに幕を下ろし、世界が、新しい名前で呼ばれ始めていた。
季節は、初夏。
海から吹く風は、どこまでも穏やかで、吸い込まれそうなほど青い空に、白いカモメが、ゆっくりと円を描いていた。あの冬の、骨を刺すような地吹雪が嘘のように、すべてが、やわらかな光に包まれていた。
港の坂道の途中に、ぽつりと佇む小さな店——「ディドリーム」。
手書きの木製の看板は、十年分の潮風と波飛沫に晒されて、角が取れ、すっかり白く褪せていた。けれど、その褪せ方こそが、どこか味わい深く、この店が、町に深く根を下ろしてきた歳月を、静かに物語っていた。
大繁盛しているわけでは、ない。テレビの取材が来るわけでも、店の前に行列ができるわけでもない。
それでも店は、この十年、一日も休まず、暖簾を出し続けていた。海の見える窓硝子は、美雪の手で、いつも磨かれていた。夕方になると、店の灯りを受けて、その硝子は、琥珀色に、やわらかく光った。
暖簾をくぐれば、修司が描いた「夕暮れの漁港」の油絵が、ランプの光に照らされて、温かく客を迎える。
その日も、昼の営業を終え、最後の客を送り出したところだった。
「ふう……」
美雪は、藍染めのエプロンを外しながら、ゆっくりと腰を伸ばした。
三十六になっていた。目元には、細かなちりめん皺が刻まれている。鏡を見るたびに増えていくその皺を、けれど美雪は、愛おしいと思っていた。
それは、都会の冷たい乾きが残した傷ではなかった。この町の人々と笑い合い、修司とともに年を重ねてきた——人生が一本ずつ刻んでいった、消えない、美しい線描だった。
「お疲れさま、美雪。今日のホッケ、型が良くて助かったよ」
店の奥の厨房から、割烹着を着た修司が、顔を出した。
短く刈り込んだ髪には、白髪が混じり始めている。絵筆を持つ手には、若い頃にはなかった節があり、爪のあいだには、いつも、絵の具が残っていた。かつて剃刀のように鋭かったあの瞳は、今では、波音の優しさを湛えて、深く、丸くなっていた。
「観光のお客さんがね、修司さんの壁の絵を、随分長いこと見入っていたわよ」
美雪が、冷たいお茶を淹れながら言うと、修司は、照れくさそうに頭を掻いた。
「ただの、趣味さ。……でも、嬉しいな」
二人は、言葉を多く交わさなくても、お茶を啜る音だけで、互いの疲れと、満ち足りた心とを、分かち合うことができた。
昔のように、夜を徹して「何者かになるための夢」を、熱っぽく叫ぶ必要は、もう、どこにもなかった。
代わりに口にするのは、今日の魚の仕入れの値段。明日の天気。近所の子供が、また少し背が伸びたこと。
——若い頃なら、「退屈だ」と切り捨てていたかもしれない、そんなささやかな断片こそが、人生を支える、本物の骨組みなのだ。今の二人は、それを、骨身に沁みて知っていた。
平凡な毎日は、薄い硝子の器のように、ふとした拍子に、手のひらからこぼれて、割れてしまう。だからこそ二人は、その一日いちにちを、両手でそっと包むようにして、生きてきた。
夕方になった。
店の仕込みを終えた美雪は、ひとり、あの防波堤へと足を向けた。
肩には、すっかり色馴染みの良くなった、父の形見のギターケース。胴の傷は、この十年でさらに増えたけれど、弦を押さえれば、指先には、まだ、かすかな潮の匂いが残っていた。
海は、昔と、変わらなかった。
波の音。潮の香り。空を舞う、カモメ。
あの日——東京へ旅立つ前の夜、雪の中で、ひとり歌っていた、あの場所だった。
コンクリートの先端は、昼間の太陽の熱を、まだ、かすかに残していた。美雪はそこに腰を下ろし、波の満ち引きに合わせて、静かに、コードを爪弾いた。
流れてきたのは、東京の四畳半で、隣人の壁を叩く音に怯えながら、声を殺して作っていた、あの未完成のメロディだった。
ふっと、唇からハミングが漏れ、それが、確かな唄へと変わっていく。
途中で、指が、止まった。
自然と、笑みがこぼれる。
昔のような、張り裂けんばかりの高音は、もう、出ない。肺活量も、落ちている。最後まで歌いきる前に、喉が、やさしく、その音を手放した。
それでも、不思議と、悔しくは、なかった。
その声には、もう、悲しみも、焦りも、誰かへの嫉妬も、一滴すら、混じっていなかった。ただ、海と、空と、自分の歩んできた人生に対する、深い感謝だけが——波のベールに包まれて、静かに、響いていた。
しばらくすると、背後から、足音が近づき、美雪の影に、もうひとつの影が、並んだ。
振り返らなくても、分かった。
修司が、お気に入りのスケッチ帳を小脇に抱えて、立っていた。
「やっぱり、ここにいたか」
「少し、昔を、思い出してたの」
修司は、美雪の隣に腰を下ろした。膝が、かすかに、鳴った。
二人で、大きく広がる夕陽の海を、見つめる。
太陽は、ちょうど、水平線の縁に触れ、世界を、濃密な茜色と、黄金色のグラデーションに染め上げていた。まるで、巨大な硝子の向こうの幻灯機を覗いているような、息を呑む美しさだった。
長い沈黙が、流れた。
だが、気まずさは、ない。言葉がなくても、すべてが通じ合える——そんな時間を、二人は、長い長い歳月をかけて、ようやく、手に入れていた。
やがて、修司が、海の彼方を見つめたまま、ぽつりと、言った。
「なあ、美雪。……時々、思うんだ。もし、あの時。俺たちが、プライドを捨てて、都会のやり方に、自分を染めていたら。……今頃、どうなっていたんだろうな、って」
美雪は、弦を押さえていた指を止め、夕陽に照らされた修司の横顔を、見つめた。
「きっと……テレビの向こうで歌って、大きな画廊で、絵を売っていたかもしれないわね」
「……後悔、してるか?」
美雪は、一瞬だけ、目を閉じた。
瞼の裏に、あの新宿のナイトクラブの、不自然に赤いライトと、非常階段の踊り場に漂っていた、真理子の寂しげな香水の匂いが、よぎった。よく磨かれた硝子のように美しく、内側の空っぽだった、あの微笑み。
美雪は、ゆっくりと目を開け、世界のすべてを愛おしむように、微笑んだ。
「一秒も、してないわ」
そして、修司の、絵の具の染みついた、温かい掌の上に、自分の手を、そっと重ねた。
「あの頃の私はね……夢を叶えて、何者かになって、世界中から拍手を浴びることだけが、幸福だと思ってた。でも、違ったの」
潮風が、二人の髪を、優しく撫でた。
「本当の幸福ってね……探すものじゃ、なかったの。もう、すでに、足元にあるものに——『気づく』こと、だったのね」
美雪は、暮れていく町の灯りを、愛おしそうに見つめた。
「朝、あなたと一緒に目を覚まして。お店のシャッターを開けて。お出汁の匂いを嗅ぐこと。お馴染みのおじいちゃんたちが、『今日も美味かったよ』って、言ってくれること。そして、夕暮れに、こうして、あなたと二人で、世界でいちばん美しい夕陽を、眺められること」
少し照れたように、笑う。
「……これ以上の贅沢なんて、世界中のどこを探したって、ないわ」
修司は、重ねられた美雪の掌の温もりを、噛みしめるように、深く、深く、頷いた。
「ああ。……俺も、今が、いちばん、いい絵を描けている気がする。誰のためでもない。君と、この町のための、絵を」
太陽が、水平線の向こうへと、完全に没した。
世界は、束の間の——紫と、薄紅とが溶け合う、奇跡のような残光に、包まれた。寄せては返す波が、薄い硝子の細波を、いくつもいくつも、岸へと運んでくる。
「ねえ、修司さん」
美雪は、店のほうを振り返った。
「あの絵。まだ、お店のいちばん奥で、こっちを見てるわね」
修司は、笑った。
「もちろんさ。……俺たちの、すべての始まりだからな」
十六年前の、あの夜行列車。
曇った車窓の硝子に額を押しつけ、祈るように遠くを見つめていた、ひとりの少女のデッサン。そして、その裏に、太い鉛筆で書かれた、あの言葉。
——夢は遠くても、心まで捨てるな。
あの絵は、今も、店のいちばん奥の、よく見える場所に、飾られている。その額の硝子を、美雪は、毎朝、欠かさず、そっと拭いていた。
夢は、叶わなかった。「形」での成功には、ついに、届かなかった。夢は、遠いままだった。
けれど二人は、いちばん大切な「心」だけは、都会の闇に売り渡すことなく、最後まで、守り抜いた。
心を、手放さなかった。
だからこそ二人は、今、この北国の小さな港町で、互いを、世界でただ一人の表現者として認め合い、ささやかな日常を、極上の宝物として、味わうことができている。
二人は、ゆっくりと立ち上がり、夜の帳が下り始めた坂道を、肩を寄せ合って、歩き出した。並んだ二つの影が、残光に、長く長く、伸びていた。
「ディドリーム」の窓からは、白熱電球の、温かなオレンジ色の光が、ぽつんと漏れていた。海の見える窓硝子の向こうで、その灯りが、まるで誰かの帰りを待つように、ゆらゆらと、揺れている。
そこが、二人の、居場所だった。
暮れていく空の中に、白く褪せた看板が、ぼんやりと浮かんでいる。
「ディドリーム」。
若い頃の夢を、忘れないための名前。そして——長い旅の末に、二人がたどり着いた、夢の終着駅であり、同時に、毎朝あたらしく始まる、出発駅の、名前でもあった。
美雪が、店の扉を開けた。
からん、と、古い鈴が、ひとつ、鳴った。
修司も、続く。
温かな灯りが、二人を、迎える。
その時。
遠くの線路から、夜の静寂を切り裂くように、長距離列車の、重々しい汽笛が、響いてきた。
——かつて、二人を東京へ運んだ、あの夜行列車を、思わせる音だった。
美雪と修司は、一瞬だけ足を止め、顔を見合わせて、どちらからともなく、いたずらっぽく、微笑み合った。
人生は、思い描いた通りには、いかない。
けれど——思い描いた以上の優しさに、人は、たどり着くことが、できる。
扉の向こうには、変わらない、潮の香りと、古い木材の温もりが、待っていた。
港町の夜は、静かに、そして、どこまでも穏やかに、更けていく。
店の窓から漏れる、ささやかな灯火は、北風に、決して消されることのない、二人の人生の灯台のように——
穏やかに。温かく。
そして、割れることなく、いつまでも、いつまでも、優しく、暗闇を照らし続けていた。

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