MENU

小樽のひとよ 〜遠い星空の下で〜

目次

小樽のひとよ 〜遠い星空の下で〜

【登場人物】
志摩 瞬介(しま しゅんすけ) / 38歳 東京の建築設計事務所に勤める気鋭の建築家。仕事人間で、かつてある理由から小樽を去った過去を持つ。
高野 ひとみ(たかの ひとみ) / 34歳 小樽の老舗ガラス工房で働く職人。芯が強く、瞬介との別れの後も小樽の町で静かに暮らしている。
冬木(ふゆき) / 42歳 ひとみの工房のオーナーであり、彼女を長年支え続け、密かに想いを寄せる大人の男。

第一章 逢いたい気持ち

 東京の夜は、いつだって明るすぎる。 空を見上げても、そこにあるはずの星は見えない。高層ビルの窓に切り取られた光が、まるで人工の星座のように不自然な幾何学模様を描き、街そのものが眠ることを拒んでいるようだった。
 十二月の終わり。 丸の内のオフィス街は、仕事を終えた人々が吐く白い息で満たされていた。黒いコートの群れは、駅へ向かうエスカレーターへと吸い込まれていく。誰もが急ぎ足で、見えない何かに追い立てられるように歩いている。
 その流れの中で、一人だけ立ち止まっている男がいた。
 志摩瞬介、三十八歳。 東京でも注目を集める建築設計事務所の主任建築家だった。
 彼は今、駅前再開発の大型プロジェクトを終えたばかりだった。ここ数年、彼は仕事以外のものを、まるで余分な贅肉を削ぎ落とすように生きてきた。休日も、恋愛も、人付き合いも。 彼の人生には、建築だけがあった。 線を引き、形を考え、人の暮らしを設計する。 そうしている間だけ、自分の中にある「何か」を忘れられたからだ。
「志摩さん、今日は打ち上げですよ」
 若い部下が声をかけた。
「社長も待ってます。主役がいないと始まりませんよ」
 瞬介は振り返り、少しだけ笑った。その笑顔は、どこか遠くを見ているような、曖昧なものだった。
「ああ……悪い。今日はやめておく」
「えっ、珍しいですね」
「少し……疲れた」
 それだけ言って、瞬介は歩き出した。
 嘘ではなかった。体は、限界に近い疲労を覚えていた。 だが、本当の理由は違う。 大きな仕事が終わってしまったのだ。だから、ぽっかりと穴が空いてしまったのだ。心のどこかに、長いあいだ、意図的に無視し続けてきた場所に冬の冷たい空気が吹いているようだ。
 東京駅前の広場に出る。 ライトアップされた赤レンガ駅舎は、都会の夜景の中に静かに浮かび上がっていた。 冬のイルミネーションが街路樹を飾り、行き交う恋人たちは肩を寄せ合いながら歩いている。
 瞬介は足を止めた。 冷たい風が頬を撫でる。 そして、不意に、何の脈絡もなく思った。
 ――小樽は、寒かろう。
 その言葉は、自分でも驚くほど自然に、胸の奥からこぼれ落ちた。
小樽。 十年前、自分が捨てた町。 いや、違う。置いてきてしまった町。 そこには、一人の女がいた。
 高野ひとみ。
 名前を思い出しただけで、胸の奥に凍りついた何かが軋んだ。 冬の運河。ガス灯。硝子細工の淡い光。 そして、彼女の小さな手。白くて、冷たくて、いつも少しだけ指先が荒れていた。 ガラス職人だった彼女の手。 最後に触れたあの日の、心まで凍りつくような冷たさまで、瞬介はまだ忘れられずにいた。
 忘れたつもりでいた。東京で生きるために。夢を叶えるために。 あの日、自分たちは別れを選んだ。 若かった。未来だけを見ていた。 互いの夢のためだと信じていた。 だが、十年という時間は、人を賢くする代わりに、残酷なものも教える。
 選ばなかった未来の重さを。失ったものの大きさを。
「……何やってるんだ、俺は」
 苦く笑う。だが、笑えなかった。 なぜ今さら。なぜ急に。理由は、わかっていた。 本当は、ずっと逢いたかったのだ。ただ、認めたくなかっただけで。 認めてしまえば、自分が積み上げてきたもののどこかが崩れてしまう気がしたからだ。
 その時だった。 東京駅の発車案内表示が、視界の端に入る。
 北海道新幹線。新函館北斗方面。
 その文字を見た瞬間、胸がざわついた。 気づけば、瞬介は歩き出していた。駅舎の中へ。
 誰かに背中を押されたわけではない。考えたわけでもない。 衝動だった。理屈ではなかった。ただ、逢いたかった。ただ、それだけだった。
 翌朝電車を降りた。瞬介は、寒さに身震いした。
 粉雪が、小樽駅のホームに静かに降っていた。
 白い。どこまでも白い。 空も、屋根も、遠く見える山並みも。 世界の輪郭が雪に溶けていく。
 ホームへ降り立った瞬介は、深く息を吐いた。 空気が、痛いほど冷たい。肺の奥まで凍りそうだった。
「……寒いな」
 十年ぶりの小樽。 駅舎は少し変わっていた。町も少し変わった。 けれど、風の匂いは、何ひとつ変わっていなかった。
 海の匂い。雪の匂い。北の町の、冬の匂い。
 胸が締めつけられる。
 駅前へ出る。 見慣れた坂道があった。 ゆるやかに海へ下る街並み。古い石造りの建物。遠くに見える港。 そして――。十年前の記憶が、一気に蘇る。
「瞬介、待って」
 雪の中を駆けてきたひとみ。息を切らし、頬を赤くしていた。 あの日、 東京へ行く自分を、彼女はここで見送った。 何度も何度も、何か言いたそうな顔をして。 けれど、最後まで言わなかった。言えなかったのかもしれない。 自分も同じだった。 本当は、連れて行きたかった。 だが、言えなかった。 夢のためだった。未熟だった。いや――逃げたのかもしれない。
 瞬介は静かに目を閉じた。 白い雪が肩に積もる。十年という時間が、静かに胸へ降り積もる。そして、小さく呟いた。
「ひとみ……」
 名前だけが、白い空へ消えていった。
 その時。 遠くで運河の鐘の音が鳴った。 まるで、止まっていた時間が、ゆっくりと、しかし確実に動き出す合図のように。
 瞬介は顔を上げる。 雪はまだ、静かに降り続いていた。そして、彼は歩き出した。 十年前に置き去りにした、たった一人の人に会うために。

第二章 塩谷の浜辺 ―再会と記憶―

 夕暮れの小樽運河には、冬だけが持つ静かな魔法があった。 陽はすでに低く、石造りの倉庫群は薄紫と群青が混ざり合う空を背にして、長い影を雪の上へ落としている。運河沿いに並ぶガス灯が、一つ、また一つとオレンジ色の火を灯し始める頃、街は昼でも夜でもない、曖昧で、それゆえにひどく美しい時間へと沈んでいった。
 運河の水面には、ゆらゆらと灯火が揺れている。 風は肌を刺すように冷たい。だが、その冷たさが、瞬介にとっては不思議と懐かしかった。
 瞬介はコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込んだままゆっくりと歩いていた。 十年前、何度も歩いた道だった。 学生の頃も、社会人になってからも、ひとみと二人で歩いた。他愛ない話をしながら、あるいは将来の夢を語りながら。時には何も話さず、ただ隣を歩くだけで、世界が満たされていた夜もあった。 そんな瑞々しい記憶が、足元の雪の下から顔を出すように、次々と脳裏に浮かび上がる。
 そして、その時だった。向こうから、小さな紙袋を抱えた一人の女性が歩いてきた。 雪の積もる歩道を、滑らないよう足元を確かめるように、静かに、一歩ずつ歩いている。
 白いマフラー。深い紺色のコート。 長い髪は北風に揺れ、その横顔がガス灯の光に切り取られた瞬間、瞬介の時間は完全に止まった。
 ――まさか。そんなはずはない。 だが、思考より先に、彼の胸が彼女の存在を確信していた。 忘れられるはずがなかった。十年経っても。どれだけ遠回りをして、別の景色を見てきても。
 瞬介の口から、祈るような掠れた声で名前がこぼれ落ちた。
「……ひとみ」
 女性がピタリと足を止めた。 ゆっくりと、恐る恐る振り返る。その瞬間、凍てついた空気の中で、小さな息を呑む音が聞こえた気がした。ひとみは驚いたように目を見開いていた。 その、すべてを見透かすような澄んだ瞳だけは、十年前と何も変わっていなかった。
「……瞬介?」
 夢でも見ているかのような、掠れた声だった。 二人の間を、冷たい風が通り過ぎる。白い雪が、まるで二人を祝福し、同時に拒むように舞い踊る。ガス灯の明かりが、ひとみの驚きに震える頬を淡く照らしていた。
 しばらくの間、どちらも次の言葉を探せなかった。 十年。 たった二文字、四文字の響きで片付けるには、あまりにも長すぎる歳月だった。言葉よりも先に、二人の間に積み重なった季節の重さが、目に見えない壁のように、あるいは切ない絆のように存在していた。
 やがて、ひとみが小さく、自嘲気味に笑った。
「……どうして」
 その続きは言葉にならなかった。どうして今さら。どうしてここへ。どうして急に、私の前に。聞きたいことは山ほどあるはずなのに、喉の奥に引っかかって出てこない。
 瞬介も笑おうとした。だが、顔の筋肉が強張って、うまく笑えなかった。
「来たくなったんだ」
 子どものような、身勝手な答えだった。自分でも情けなく思ったが、これ以上の本音はなかった。 ひとみは少しだけ俯き、視線を雪に落としながら、白い息を吐き出した。
「変わらないね」
「そうか?」
「そういう、急に突拍子もないところ」
 その言葉に、二人はほんの少しだけ緊張を緩めて笑った。たったそれだけで、張り詰めていた十年の壁が、かすかにほどけた気がした。
 しばらく運河沿いを並んで歩いたあと、瞬介はふと足を止めた。街の灯りから逃れるように、彼は静かに言った。
「……塩谷、行かないか」
 ひとみの瞳が、小さく揺れた。 塩谷の浜辺。 そこは、かつての二人だけの秘密の場所だった。夏のきらめく海も、冬の凍える海も、嬉しい時も、将来に迷い苦しい時も、何度も二人で通った場所。
 少しの沈黙。風の音だけが響く。 やがて、彼女は小さく頷いた。 「……うん」
 冬の塩谷の海は、人を寄せ付けない圧倒的な静けさと厳しさを持っていた。 海は重々しい鉛色だった。 空との境界線さえ曖昧で、世界の果てまで灰色の雪雲が垂れ込めているように見える。
 聞こえるのは、ただ波の音だけだった。 ザァ……ザァ……と、規則正しく、しかしどこか寂しげに打ち寄せる波。 冷たい海風が砂浜を激しく撫で、二人の足跡だけが、白い浜辺にぽつぽつと続いていく。隣を歩く物理的な距離は近いのに、十年という心理的な距離は、果てしなく遠かった。
 瞬介は、視線を波打ち際に向けたまま言った。
「覚えてるか」
 ひとみも前を見つめたまま、小さく頷く。
「忘れるわけないよ」
「……最後の日も、ここだったな」
 その言葉に反応したかのように、風が急に強く吹いた。足元の風花が舞い上がる。 東京へ発つ前夜、二人はここにいた。あの時も、お互いに何も言えなかった。言えば、自分が選んだ道が崩れてしまう気がしたから。夢を選ぶことが正しいと、そう信じ込もうとしていた。若くて、必死で、傲慢だった。
「俺、ずっと思ってたんだ」
 瞬介がぽつりと言った。
「あの選択は、間違っていたんじゃないかって」
 ひとみは何も言わなかった。ただ、じっと鉛色の海を見つめていた。 長い沈黙のあと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私も……そう思った夜が、何度もあったよ」
 その一言に、彼女が小樽で過ごした十年分の孤独が凝縮されていた。 瞬介は隣を見る。風に流れた長い髪が、彼女の頬にかかっていた。その横顔は、少女の面影を残しつつも、どこか寂しさを湛えた大人の女性のものになっていた。
 その時だった。 遠くの海岸沿いの道路に、一台の車のヘッドライトが灯り、静かに止まった。 ドアが開き、一人の男が降りてくる。 背が高く、仕立ての良い黒いコートをまとった、落ち着いた雰囲気の男だった。四十代前半くらいだろうか。男は雪の浜辺を進み、二人を見つけると、少しだけ安心したように、しかし複雑な笑みを浮かべた。
「ひとみさん」
 男が呼ぶ声に、ひとみがハッとして振り返る。
「あ……冬木さん」
 その名前を聞いた瞬間、瞬介の胸の奥に、ざわつきが生まれた。 男――冬木は、とても穏やかで、包容力のある目をしていた。瞬介を責めるでもなく、値踏みするでもなく、ただ、ひとみを心から気遣う視線だった。
「工房の若い子たちが、みんな心配していたよ。急にいなくなったから」
「ごめんなさい……ちょっと、考え事をしていて」
「いや、いいんだ。無事なら」
 冬木はそこで初めて、ひとみの隣に立つ瞬介に視線を向けた。そして、大人の余裕を感じさせる仕草で軽く頭を下げた。
「お知り合いですか」
 瞬介も、背筋を正して会釈を返す。
「……昔の、友人です」
 ひとみの声は、少しだけ小さく、震えていた。 昔の友人。 たったそれだけの言葉だった。けれど、瞬介の胸にはナイフのように鋭く刺さった。自分の知らない十年間、彼女の隣にいて、彼女を支え、守ってきたのは自分ではなく、この男なのだという冷厳な事実が、冬の海風と共に押し寄せてきた。
 吹き抜ける海風は、いよいよ冷たさを増していく。 瞬介は、十年前のあの日、最後に握ったひとみの白い小指の冷たさを思い出していた。今でも自分の手のひらが覚えている、あの切ない温度。 けれど、その手をもう一度握る資格が、今の自分にあるのだろうか。
 冬の海は何も答えず、ただ静かに、冷酷な波を寄せ返していた。

第三章 しばれる星空 ―葛藤の夜―

 小樽の夜は、時に人の心まで容赦なく凍らせる。 昼間まであれほど静かに降り積もっていた空は、夕方を過ぎた頃から急激にその表情を変えていた。 海から不気味に流れ込む鉛色の雲。鋭く鳴り響く地響きのような風の音。そして、視界を奪う細かな雪。最初こそ情緒的に舞っていた粉雪は、いつしか横殴りの猛烈な吹雪へと姿を変えていた。
「……来るな」
 運河沿いを歩きながら、冬木が険しい表情で空を見上げて呟いた。
塩谷の浜辺から戻ったあと、瞬介は自然な流れでひとみの職場である「高野ガラス工房」へと立ち寄ることになった。 古い石造りの倉庫を改装した建物の中には、色とりどりのガラス作品が静かに息づいていた。小樽の深く冷たい海をそのまま閉じ込めたような鮮やかな青い硝子、雪灯りのように淡く柔らかな光を放つ白いランプ。 それらを見た瞬間、瞬介の胸は衝かれた。言葉にしなくてもわかった。 十年。彼女はこの冷たい町で、硝子の炎と向き合い、自らの手で美しさを生み出しながら生きてきたのだ。ひとりで。 いや――。
 瞬介は、前を歩く冬木の広い背中を見つめる。 ひとりでは、なかったのかもしれない。この男が、彼女の孤独をどれほど救ってきたのだろうか。
「駅まで送りますよ。この天気は長引く」
冬木が言った。だが、その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
 ゴォッ――!
 海側から、猛烈なビル風を孕んだ突風が吹き抜けた。 周囲の景色が一瞬で白一色に染まる。巻き上げられた雪が、礫(つぶて)のように顔に叩きつけられた。
「……っ!」
 ひとみが思わず声を漏らし、腕で顔を覆って立ち往生する。 冬木がすかさず彼女の肩を抱き寄せ、顔をしかめた。
「まずいな、これはホワイトアウトだ」
 北海道の冬を知らない瞬介には想像もつかない、本物の吹雪だった。雪が空から降るのではない。地の雪が舞い上がり、空気そのものが真っ白な壁になる。数メートル先にあるはずのガス灯の光さえ、一瞬で見失うほどの暗黒の白。
「交通機関は確実に止まる。今夜は無理して動かない方がいい」
 冬木は手元のスマートフォンで運行情報を確認すると、瞬介を見て冷静に告げた。
「運河沿いに、私の古い友人がやっている店があります。まずはそこへ避難しましょう」
 分厚い無垢材の木の扉を押し開けた瞬間、外の地獄のような轟音は消え去り、身体を芯から包み込むような濃密な暖かさが五感を満たした。
運河の端にひっそりと佇む、古い石倉庫を改装した小さなバー。 店内の隅では、大きな鋳鉄製の薪ストーブがパチパチと音を立てて真っ赤な炎を揺らしている。古いジャズのレコードが静かにベースの音を刻み、ランプのオレンジ色の光が、セピア色の空間を柔らかく染めていた。 窓のすぐ向こうでは、狂ったような猛吹雪が町を飲み込もうとしている。だが、この部屋だけは、時の流れが優しく引き止められているようだった。
「しばれるねぇ……」
 カウンターの向こうから、白髪の店主が温かいおしぼりを差し出しながら、穏やかに笑った。
しばれる。 ただ「寒い」という言葉では到底足りない。骨の奥の髄まで凍りつくような、北国の人だけが知る、静かで激しい冷え込みを表す言葉だ。
 ひとみがストーブの火に手をかざしながら、小さく微笑んだ。
「昔、瞬介はこの言葉の意味、全然わからなかったよね」
 瞬介も当時の記憶が呼び覚まされ、張り詰めていた頬を緩めた。
「あったな。初めて君の口から聞いた時、何かに縛り付けられる物騒な話かと思ったんだ」
「ふふっ……馬鹿ね」
 懐かしい笑い声だった。十年前と何ひとつ変わらない、鈴の鳴るような響き。 ほんの一瞬、まるで二人の時間が十年前のあの頃に戻ったかのような錯覚に陥る。 だが、その愛おしさが、かえって瞬介の胸を鋭く痛めつけた。 戻れないのだ。人は。時間は。失ってしまった十年の歳月は、決して消えない。
 冬木の携帯電話が静かに震えた。仕事関係のトラブルだろうか、彼は少し席を外して話していたが、戻ってくるとすまないそうに二人を見た。
「工房のほうの雪囲いが心配だから、私は一度様子を見てくる。吹雪のピークが過ぎたら、すぐに迎えに来るから」
 そう言って、冬木はひとみの肩に優しく手を置き、それから瞬介に「彼女をお願いします」と目線で告げて、再び猛吹雪の夜へと消えていった。
 気づけば、店の中には二人きりになっていた。 薪がはぜる音が、やけに大きく響く。窓の外はただ真っ白で、世界のすべてが消えてしまったかのようだった。 沈黙の重さに、先に耐えきれなくなったのはひとみだった。
「……瞬介」
 手元に置いたグラスを見つめたまま、彼女が呼んだ。声がかすかに震えている。 瞬介はグラスを置いた。聞かれる前から、わかっていた。いつか必ず、彼女に突きつけられるはずの問い。
 ひとみはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、薪ストーブの炎がゆらゆらと反射し、今にも溢れそうな涙が潤んでいた。
「ずっと……聞きたかった。なぜ、あの時、私を置いていったの? なぜ、連れて行ってくれなかったの?」
 パチッ、と薪が大きく鳴った。 その音だけが、静まり返った店内に虚しく響く。
 瞬介は、言葉を失った。 言い訳なら、大人の頭の中でいくらでも組み立てられた。あの時は自分の事務所を立ち上げる直前だった、生活の保証がなかった、君のガラス作りの夢を邪魔したくなかった――。 だが、そんなものはすべて、自分を正当化するための卑怯な綺麗事に過ぎない。
 本当は、怖かったのだ。 一人の女性の人生の責任を背負う覚悟が、当時の自分にはなかった。愛するという重さに耐えかねて、夢という言葉に逃げ込んだのだ。己の未熟さから、目を背けたのだ。
「……ごめん」
 絞り出すように出た言葉は、それだけだった。あまりにも軽く、あまりにも遅すぎる謝罪だった。
 ひとみは悲しそうに笑った。笑ったのに、大きな涙の粒が、彼女の白い頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「ずるいよ……」
 震える声が、瞬介の胸を容赦なく抉る。
「私、待ってたんだよ。あの坂道で、やっぱり連れて行くって戻ってきてくれるんじゃないかって……ずっと、ずっと待ってた」
 十年という果てしない歳月の中、彼女がどれほどの夜をひとりで耐え、どれほどの思いで硝子を削ってきたか。言葉にできるはずがなかった。 ひとみは耐えかねたように顔を背け、両手で顔を覆った。細い肩が、痛々しいほどに小刻みに震えている。
 瞬介は立ち上がった。 今すぐ、その身体を強く抱きしめたかった。十年前、溢れる想いを押し殺して抱きしめられなかった分まで、すべてを投げ出して。 けれど――彼の足は、あと一歩が出せなかった。
 大人の理性が、彼の身体を金縛りにする。 彼女を支え続けてきた冬木の存在。彼女がこの町で築き上げてきた平穏な生活。自分は都合よく現れ、勝手に過去を揺さぶっている不届き者に過ぎないのではないか。
 瞬介は、きつく拳を握りしめた。 そして、抱きしめる代わりに、ただ静かに、ストーブの前で震える彼女の手に自らの手を重ねた。
 白くて、小さな指先。 冷たかった。あの日、小樽駅のホームで触れた、あの切ない冷たさとまったく同じだった。 瞬介は、包み込むようにその手をそっと握った。
 ひとみは驚いたように顔を上げ、涙の濡れた瞳で瞬介を見つめた。 二人はそれ以上、何も言わなかった。言葉はもう、温もりだけで十分だった。
 窓の外では、夜の吹雪が激しく狂おしく小樽の街を白く染め上げている。 だが、その分厚い雪雲の向こうには、見えなくとも、きっとあの日の美しい星空が広がっているはずだった。 この夜、小樽は激しくしばれていた。 けれど、二人の胸の奥で頑なに凍りついていた十年の時間は、互いの手の熱によって、静かに、しかし確かに溶け始めていた。

最終章 必ずゆくよ ―大人の決断―

 翌朝。 昨夜の猛烈な吹雪がまるで嘘だったかのように、小樽の空は抜けるように澄み渡っていた。 青かった。どこまでも、痛いほどに深く、透明な冬の青だった。 夜を徹して街を震わせた雪雲は跡形もなく消え去り、昇ったばかりの太陽が、新雪に覆われた北の町を眩いばかりに照らし出している。 積もった雪は朝の光を浴びてダイヤモンドのようにきらめき、静まり返った運河も、坂道も、古い倉庫の屋根も、街全体が純白の光のドレスをまとったかのようだった。
 雪のあとの小樽には、奇妙なほど寂寥とした静けさがある。 世界中のあらゆる雑音が、一度すべて雪の下に深く吸い込まれてしまったかのような、静謐な朝。 その光の中を、志摩瞬介は一人、静かに歩いていた。
小樽駅へと緩やかに上っていく坂道。足元で踏みしめられる雪が、きゅっ、きゅっと、どこか切ない音を立てて鳴る。 東京へ戻る列車までの時間は、もう残りわずかだった。 たった数日間の滞在。それが長かったのか、あるいは一瞬の幻だったのか、今の瞬介には判別がつかなかった。だが、確かなことが一つだけある。 十年間、凍りついたまま完全に止まっていた二人の心の時計が、再び音を立てて動き出したこと。それだけは、胸の奥を焦がすほどに確かな事実だった。
 駅のホームへ上がると、すでに札幌行きの快速列車が滑り込んでいた。 冷え切った空気のなか、白い車体の下部から真っ白な湯気が勢いよく立ち上っている。防寒着に身を包んだ旅行客たちの楽しげな笑い声や、駅員のアナウンス。けれど、瞬介の耳にはそれらの雑音は一切届かなかった。
 頭のなかを巡るのは、昨夜のバーでの出来事ばかりだった。 赤々と揺れていた薪ストーブの炎。大粒の涙をこぼしたひとみの、痛々しいほどに震える肩。そして、十年の孤独を物語るあの告白。 ――私、待ってたんだよ。
 胸の奥が、引きちぎられるように痛んだ。 今なら言える。今の経済力と、大人としての経験があれば、彼女のすべてを背負って東京へ連れて行けると、そう大声で告げられる。 だが、現実は十年前よりもはるかに複雑で、残酷だった。 東京に置いてきた自分の事務所、守るべき部下たち、築き上げてきた責任ある立場。そして何よりも――ひとみがこの10年で手に入れた、ガラス職人としての人生と、この町での確かな暮らし。 自分は何も知らないまま10年間を過ごし、突然現れて過去を引っ掻き回した男に過ぎない。感情のままに彼女の手を引っ張り、すべてを壊して連れ去ることが、本当に彼女の幸福になるのだろうか。
大人になるとは、なんと不自由で、切ないことなのだろう。 ただ「好きだから」という理由だけで手を伸ばせばいいわけではない。互いを深く愛していればいるほど、越えられない現実の壁を前に、立ち止まらざるを得ない瞬間がある。
 瞬介は諦念に似た重い溜息を吐き、白い息を泳がせた。その時だった。
「瞬介――!」
 冬の高い空を突き抜けるように、鋭く、切羽詰まった声がホームに響いた。 瞬介はハッとして振り返る。 改札の向こう、階段を息を切らせながら駆け上がってくる人影が見えた。 白いマフラー。深い紺色のコート。長い髪を乱し、冷たい空気で肺を痛めつけながらも、必死にこちらへ向かって走ってくる女性。
「……ひとみ」
 瞬介の心臓が、破裂しそうなほど大きく脈打った。
 彼女の少し後ろからは、大人の落ち着いた足取りで、しかしどこか晴れやかな顔をした冬木が歩いてきていた。 冬木は肩を上下させるひとみを見つめ、それから瞬介の前に立つと、寂しげに、けれど男らしい潔さで苦笑した。
「工房をね、急に飛び出して行ってしまったんですよ。だから、私が車でここまで送ってきました」
 冬木はそこで言葉を区切り、まっすぐに瞬介の目を見つめた。その瞳には、一人の女性を長年支え続けてきた男の、深い包容力と誇りがあった。
「……行ってあげてください、志摩さん」
 瞬介は、言葉を失った。冬木の胸中にある痛みが、同じ大人の男として痛いほど伝わってきたからだ。 冬木は少しだけ視線を落とし、小さく笑った。その笑顔はひどく切なく、同時にどこまでも美しかった。
「彼女の隣に10年いましたが、私にはわかるんです。彼女が硝子に炎を吹き込むとき、いつも誰の背中を、どこの空を見ていたのかをね」
  冬木の口から出た白い息が、朝の光に溶けて消えていく。
「10年前の落とし物は、ここでちゃんと拾っていきなさい」
 冬木はそれだけ言うと、ひとみの背中を、優しく、本当に優しく一度だけ叩いた。その静かな大人の優しさが、かえって瞬介の胸を締め付けた。
 ひとみが、瞬介の目の前で立ち止まる。赤くなった頬。激しく上下する細い肩。 彼女は何かを懸命に訴えようとしていたが、感情が込み上げて言葉にならない。あの10年前の、小樽駅での別れとまったく同じ構図だった。
 けれど、決定的に違うところがあった。二人はもう、若さゆえの臆病さに逃げたりはしない。 瞬介は一歩前へ踏み出し、今度は自分から先に口を開いた。凍てつく世界のなかで、彼女の瞳だけを見つめて、静かに、一辺の狂いもない声で。
「ひとみ」
朝の眩しい光が、二人を祝福するように包み込んでいた。
「今の僕には……君を今すぐ東京へ連れて行くことはできない。ここで君が築いてきた大切な場所を、僕のわがままで今すぐ奪うわけにはいかないんだ」
 ひとみの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。けれど、瞬介は視線を逸らさなかった。10年前のように、夢や責任を言い訳にして逃げることだけは絶対にしないと、心に誓っていた。
「でも、聞いてくれ」
  瞬介は、昨夜ストーブの前で握りしめた彼女の小さな手を、もう一度強く包み込んだ。
「東京に戻ったら、必ず君を僕の人生に迎え入れる準備を整える。僕たちの10年を繋ぐための場所を、建築家として、一人の男として、必ず形にしてみせる。今度は絶対に、君の手を離さない」
 瞬介の目からも、熱いものが頬を伝って流れ落ちた。
「だから――少しだけ、待っていておくれ」
 その瞬間、小樽の港から吹き上げてきた風が、二人の間をすり抜けて雪を舞い上げた。 ひとみは涙を流したまま、瞬介の手をぎゅっと握り返した。言葉はなかった。けれど、その涙の奥にある瞳は、これまでにないほど強く、気高く輝いていた。 彼女は、10年前には決して見せなかった、心の底からの、そして世界で一番美しい笑顔を浮かべ、深く、深く頷いた。
 ジリリリリ――ッ!
 無情にも発車のベルがホームに鳴り響く。 瞬介は意を決して手を離し、列車のドアへと乗り込んだ。プシューと音を立てて分厚い扉が閉まり、外界と遮断される。 ゆっくりと、車体が動き出す。
 瞬介は窓ガラスに顔を近づけ、遠ざかっていくホームを見つめた。 そこには、並んで立つひとみと冬木の姿があった。冬木は静かに手を振り、ひとみは涙を拭うこともせず、去り行く列車をただまっすぐに見つめていた。
 列車が速度を上げる直前、ひとみが大きく息を吸い込み、唇を動かしたのが見えた。 二重のガラス窓に阻まれて、その声は瞬介の耳には届かない。 けれど、瞬介にははっきりと聞こえた。彼女がかつて硝子に込めた、そしてこれから始まる未来への、一途な誓いの声が。
『――必ず、ゆくよ』
 列車は白い煙を吐きながら、雪の小樽の町を離れていく。 北国の冬はどこまでも寒く、しばれるほどに厳しい。けれど、もう二人の心が冷え切ることは二度となかった。
 遠く離れた東京と小樽。 その物理的な距離が縮まるには、もう少しだけ時間がかかる。それでも、10年の歳月を越えて結び直された二人の絆は、どんなに離れていても、決して解けることはない。
 失ってしまった季節は二度と戻らない。けれど、大人の二人がこれから共に紡いでいく、新しい季節の始まりが、そこには確かにあった。
窓の向こう、雪雲が完全に払われた青空の先に、眩しい冬の太陽が、二人の行く末を照らすようにどこまでも高く輝いていた。そしてその輝きは、遙か遠く、瞬介が戻るべき東京の空へと、一筋の光の線となって真っ直ぐに続いていた。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次