怨歌情死考 「潮騒の夜に」
忘れられることではなく、忘れられないことを怖れた、すべての人へ。
そして、誰の記憶にも残らないだれかのために、今夜もひとつだけ、小さな灯を消さずにいる、名もないあなたへ。
第一話 真夜中の潮騒

潮の匂いは、人の記憶を呼び起こす。
理屈ではない。磯の塩気、傷んだ海藻、魚の腹を裂いたときのあの生臭さ——きれいでもなんでもない匂いの束が、なぜか心のいちばん柔らかいところを、針のように探り当てる。
その夜も、港町には重たい潮騒が満ちていた。
十一月の終わり。北風が海から吹きつけ、防波堤に砕けた波が白く立ちのぼっては闇に溶ける。立ちのぼった瞬間だけ確かにそこにあって、次の瞬間にはもうない。泡のように、約束のように。
遠洋漁業で栄えた町は、いまはもう、ゆっくりと海へ還っていく途中にあった。シャッターの下りた商店街。雨で文字の滲んだ旅館の看板。壁の腐った倉庫が、夜風を通すたびに低く鳴く。日が落ちると人影は消え、町は自分の輪郭を波の音に預けてしまう。
そんな町の片隅で、一軒のスナックだけが灯を点していた。
店の名は——『波止場』。
色褪せたネオンが風に揺れている。もとはピンクだったはずの光は、いまや赤とも橙ともつかない濁りになって、濡れたアスファルトの上に細く溶けていた。点いては消え、消えてはまた点く。それでも、ずっとそこにある。その頼りなさは、店の主に少し似ていた。
カウンターの奥で、美紗(みさ)はグラスを見つめていた。琥珀色の液体が半分。最後の客が出てから、もう一時間。柱時計の針は、午前零時をとうに越えている。
「……はぁ」
氷の溶けかけたグラスを持ち上げ、安物のウイスキーを喉へ流す。胃の奥がカッと熱くなる。けれどその熱は指先まで届かず、心は少しも温まらない。
「……馬鹿みたい」
誰にともなく呟いた声を、スピーカーの演歌がかき消す。失った男を嘆く歌。知らない港で誰かが泣いている歌。気がつけば、自分に似た歌ばかりを集めていた。
だが、いま美紗の耳に届いているのは、その歌ではなかった。
——遠くで鳴る、汽笛。
長く、尾を引いて、夜の底を渡っていく音。
むろん、本当に聞こえるはずがない。この町に鉄路はもうない。廃線になったのが東京から戻る前だったか後だったか、それすら曖昧になるほど昔の話だ。それでも、夜が静まり返るたびに——忘れようとするたびに、あの音が耳の奥でよみがえる。
二十年余り前の、雪混じりのあの夜。
修平と二人、着の身着のまま飛び乗った上りの夜汽車。窓の外を流れていく漆黒の田圃。ところどころに滲む農家の灯。深夜のホームに停まるたび、誰のものとも知れぬ足音が遠くで響いた。
美紗は二十三、修平は二十六だった。まだ何者でもなく、何者にでもなれると信じていた。そういう齢だった。膝の上で重なった彼の手は温かく、そのくせ少しだけ震えていた。あとから思えば、あれは武者震いではなく、ただの怯えだったのかもしれない。
「必ず幸せにする」
そう言って笑った修平の横顔。少し尖った輪郭。弱さを隠したがる男の、その尖り方が、美紗は好きだった。
目を閉じれば、声まで聞こえる。低くて、照れていて、それでも本気だと分かる声。あの夜だけは、信じられた。生まれて初めて、未来というものを。
そして——裏切り。
美紗はグラスを握りしめた。爪が白くなる。力を込めるほど、記憶は逆に澄んでいく。人の記憶というのは意地が悪い。嬉しかった瞬間も、引き裂かれた瞬間も、同じ解像度で残してしまう。いや、傷が深いほど、その一点だけが鮮明になる。
忘れたつもりだった。何百回も忘れようとした。酒に沈め、仕事で埋め、別の男の腕にすがったこともある。どれもうまくいかなかった。夜になると、波の返すように、すべてが戻ってきた。
あの朝。修平は「行ってくる」と言って出ていったきり、帰らなかった。電話は繋がらなくなり、アパートを訪ねれば見知らぬ人が住んでいた。手紙は宛先不明で戻ってきた。
しばらくして、風の噂に知った。
——彼は、別の女と結婚した。
地方の資産家の娘。父親は代議士で、後援会は東京でも名の通った組織だという。出世の階段を上るために選ばれた女。後ろ盾のない美紗には、初めから勝ち目などなかった。
捨てられた。ただ、それだけのこと。
二人で誓った未来も、肌を寄せた時間も、彼の人生からは一枚残らず破り取られた。一冊の本から、特定の章だけが、丁寧に剥がされたように。
「……最低な男」
吐き捨てる。けれど言葉とは裏腹に、胸の奥が痛んだ。肺のあたりが絞られるように痛い。こういうとき、美紗はいつも自分が分からなくなる。憎しみのはずなのに、痛みは悲しみに似ている。怒りのはずなのに、底には後悔が澱んでいる。
憎い。本当に、憎い。
それなのに、どうして今でも思い出してしまうのだろう。あの手の温かさを。あの声の照れを。あの尖った横顔を。
美紗は立ち上がり、カウンターを回って裏口の鉄扉を押した。
潮風が薄手のブラウスを突き抜ける。眼前には黒い海。満月に少し欠けた月が雲の切れ間から差し、波が動くたびに、その光が千々に砕けてはまた一枚に戻る。砕けて、戻る。そのくり返しだけが、いつまでも続いていた。
防波堤に当たる波。途切れない潮騒。誰かが泣き続けているようだ、と美紗は思う。だが泣き声にしては力が強すぎた。諦めにしては、激しすぎた。
その時、ポケットで携帯が短く震えた。メールの受信音。
こんな時間に誰だろう。冷えた指で画面を開く。送り主は洋介だった。
『店まだやってるか』
それだけ。
美紗は思わず吹き出した。あの男らしい。「元気か」でも「会えるか」でもなく、「店まだやってるか」。まるで灯りが点いているかどうかだけを確かめたいような訊き方。けれど洋介の場合、それは本当に、美紗の灯りを確かめたいだけなのだと、長い付き合いのうちに分かるようになっていた。
洋介は、近くの漁港を根城にする漁師だった。日に焼けた顔に細かい皺、年齢より老けて見える節くれだった手。無口で不器用で、酒ばかり飲んでいる。客の悪口を言わず、人の噂を運ばず、美紗が黙っていたい夜には、ただ黙って端の席に座っている。何年も前から、そうしてそこにいる男だった。
『もう閉店』
返すと、一分も経たずに画面が光る。
『そうか。寒いから風邪ひくな』
それきりだった。一緒に飲まないか、とも、何かあったのか、とも訊かない。美紗の領分を、決して踏み越えない。けれど確かにそこにいる、と伝えてくる。だから洋介の前では、息ができた。
凍えた体を温めようと、扉を閉めて店へ戻る。茶でも淹れようとカウンターへ向かったとき、点けっぱなしの壁掛けテレビから、ニュースの声が耳をかすめた。
「——続いてのニュースです。県が進める港湾再開発事業について、本日、国交省と関係議員による視察団の日程が発表されました」
何気なく、本当に何気なく、美紗は画面へ目をやった。
そして、時間が止まった。
報道陣に囲まれて笑っている男がいた。仕立てのいい黒いスーツ。整えた髪に、わずかに混じる白いもの。顎の線は昔より丸みを帯び、頬には細い線が刻まれている。齢を取った。確かに取った。
——だが、あの目だけは、別だった。
自信と冷たさと、人を惹きつける何かとが入り混じった目。カメラを見つめながら、その実、カメラを見ていない目。二十年余りという歳月を一息に飛び越えて、美紗はその目を、一瞬で見分けた。
修平だった。
グラスが手を離れた。
床のコンクリートに当たって砕け、琥珀色が散る。酒の匂いが、裏口から忍び込む潮の匂いに混じった。だが、その音は美紗の耳には届かなかった。
息が止まる。鼓動が速くなる。指先が冷えていく。喉の奥が絞られ、胸の中心から熱が広がる。
画面の中の修平は、淀みのない声で語っていた。
「地域活性化のため、全力で取り組んでまいります」
立派な言葉。立派な顔。泥ひとつついていない人生。スーツの胸では小さな記章が光り、両脇には取り巻きが並んでいる。初めからそういう生き物として生まれてきたかのように、何ひとつ無理のない佇まいだった。
液晶のおもてに、美紗自身の顔がうっすらと映り込んでいる。口は半開き、目は少し充血して。二十年後の自分の幽霊が、そこから自分を覗き返しているようだった。
画面の下に、テロップが流れる。
【来週、現地視察のため当町へ来町予定】
来る。
修平が、この町へ来る。自分が息を潜めて生きている、この狭い港へ。二十年余りの時を越えて、目の前に。
美紗の内側で、海の底に沈めたはずのものが、ゆっくりと浮かびはじめた。重石をつけて沈めたはずだった。冷え切っていたはずだった。それが、泥を払いながら水面へ上がってくる。
憎しみ。後悔。未練。怒り。
そして——愛。
どれとも区別のつかない、ひとつの感情だった。愛と呼べば愛、憎しみと呼べば憎しみ。名づけようとするたびに形を変える。けれど確かに、二十年余りのあいだ、美紗の中で一度も消えなかったもの。
風が強くなった。裏口から吹き込んだ一陣が、カウンターの紙ナプキンを散らし、演歌の旋律をわずかに歪ませる。遠い海で、霧笛が低く鳴った。過去の底から呼ぶ声のように。
美紗は黒い海を見つめた。砕ける波。揺れる漁火。どこまでも続く夜。
その唇が、ゆっくりと動いた。
「やっと……会えるのね」
声に出してみて、美紗は気づいた。それが問いでも、嘆きでも、呪いでもないことに。ただ、長く待っていた人にだけ言える、再会の挨拶の形をしていた。
美紗はしゃがみ込み、散らばったガラスの破片を拾い集めはじめた。鋭い縁が指の腹をかすめる。けれど、その手は、震えていなかった。誰かのこぼしたものを片づけるとき、彼女の手はいつもこうして静かになる。二十年余り、ずっとそうしてきたように。
——そのことが、何より恐ろしかった。
真夜中の港。割れたグラスの欠片が床に光ったまま、潮騒だけが、これから始まることのすべてを、とうに知っているかのように鳴り続けていた。
第2話:夜汽車の幻影

冬の海は冷たい。
水温のことを言っているのではない。灰色に沈んだ空、白く逆立つ波、肌を裂くように吹く潮風——そのすべてが、人の心の温度までいっしょに奪っていく。骨の芯まで届く冷たさは、やがて感覚を麻痺させ、最後には麻痺していることにすら気づかせなくする。美紗が二十年余りをかけて、ようやく覚えた冷たさだった。
その朝から、美紗は何も口にしていなかった。
昨夜のニュースを見てから、空腹という感覚がどこかへ落ちてしまっていた。胃は空なのに、何かが詰まっている。食べ物を思い浮かべるだけで喉の奥が塞がる。カウンターに頬杖をつき、コーヒーの碗を両手で包んでいた。熱はちゃんと指先に伝わってくる。けれど、温かいとは感じない。ただ熱いものが手のなかにある、それだけが分かった。
窓の外では、寂れきった町が、朝から妙な熱を帯びていた。
修平が来る日だった。
商工会の男たちが慣れないスーツで走り回り、役場の職員が視察ルートの路上のゴミを拾っている。普段は箒の入ったことのない商店街の通りを、作業員が掃いていた。錆びたシャッターに刷毛で塗装をやり直している店もある。大物政治家の来訪は、海に還っていきかけたこの町にとって、命綱を一本投げ込まれるほどの一大事だった。
旗を振りに行く者もいるだろう。握手の列に並ぶ者もいるだろう。
——誰も知らない。
あの男が何をしたか。この町の片隅で、一人の女が何を抱えて二十年余りを生きてきたか。
それでいい、と美紗は思った。知ってほしいわけではない。ただ、修平がここへ来る。その一点だけが、頭のなかを潮のように行き来していた。
昼過ぎ。
レースのカーテン越しに港を見ていた美紗は、ついにその姿を捉えた。
防波堤のそばに、場違いなほど磨かれた黒塗りの車が数台、音もなく滑り込む。周囲を固める警備の男たち。その中央の車から、恭しく開けられたドアの向こうへ、ゆっくりと降り立った一人の男。
——修平。
遠目でも、すぐに分かった。少し顎を引いた歩き方も。周りを引き寄せる笑い方も。視線を集めてしまう仕草も。何ひとつ、あの頃のままだった。
ただ、年を取った人間の顔には、その人間が何を選んで生きてきたかが滲み出る。
修平の顔には、傷がなかった。
後悔の皺も、苦悩の影も、罪悪感の澱みもない。目尻に穏やかに刻まれた笑い皺は、よく笑って生きてきた証だった。人に裏切られたことのない顔。あるいは——誰かを裏切ったことなど、はじめから覚えていない顔。
美紗は唇を噛んだ。
小太りの町長と握手を交わす修平。群がる報道陣。一斉に焚かれるフラッシュ。胸で光る小さな記章。傍らには若い秘書が張りついて、手帳に何か書きつけている。
窓枠にかけた美紗の手が、ゆっくりと木をつかんだ。爪が食い込む。指先が小刻みに震えていた。
「あんただけ……」
あんなに人を踏みつけて、あんただけが、そんな場所で幸せになったのね。
喉まで来た言葉は、声にならず、白い吐息になってガラスを曇らせただけだった。美紗はその曇りを見つめた。修平の姿が、それで一瞬、見えなくなった。
夕方。視察を終えた修平は、地元の有力者たちとの会食へ向かった。
その頃、美紗はいつものように『波止場』の灯をともしていた。けれど、訪れた常連の顔も、交わされる世間話も、水のなかで聞くようにくぐもって遠い。
「姐さん、どこか具合でも悪いんか」
年老いた客に声をかけられ、美紗はいつもの笑みを顔に貼りつけた。
「ちょっと寝不足なだけ」
「無理すんなよ」
笑うという動作が、これほどの重労働だと気づいたのはいつ頃だったか。あるいは最初からそうで、ただ年とともに、その重さを意識するようになっただけかもしれない。
時計の針が進む。客が一人、また一人と消えていく。
そのたびに美紗は窓を見、入口の扉を見た。氷を足しながら、グラスを磨きながら、自分が何を待っているのか分からなくなる。来るわけがない。あの男にとって自分はもう、いてもいなくても同じ人間だ。金を押しつけて追い払ったつもりでいるはずだ。
——そう言い聞かせながら、美紗はずっと扉を見ていた。
夜九時を回った頃だった。
カラン。
真鍮のベルが、静かな店内に高く鳴った。残っていた客の視線が入口へ集まり、そして何かを察したように、一人、また一人と目を逸らした。
扉の前に、修平が立っていた。
一人だった。秘書もいない。警備もいない。公式の日程を終えた、素の姿。仕立てのいい黒いロングコート。かつて美紗が指で梳いた髪には、白いものが混じっていた。目の下には細かな疲労が浮いている。それでも立ち姿は堂々として、こういう場所に踏み込んでも少しも臆さない。昔から、そういう男だった。
その目だけは昔のままだった。欲しいものを冷たく見定め、いま立っている場所の値を測るような目。視線が店内を一巡し、カウンターの奥の美紗で止まる。一瞬、整えられた表情がこわばり、すぐに政治家の作り笑いに覆われた。
「久しぶりだな、美紗」
その声だけで、体の芯が崩れた。少し低くなっている。けれど、まぎれもなく同じ声だった。笑ったときの声。怒ったときの声。そして——あの夜汽車のなかで「必ず幸せにする」と言ったときの、あの声。
美紗は答えなかった。
修平はカウンターへ歩み寄り、慣れた手つきで椅子を引いて座った。隣の客が空気を読んで腰を上げ、小声で勘定を済ませて出ていく。
「元気そうで安心したよ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
「安心……?」
「ああ」
「私をゴミみたいに捨てた人が、よく言えるわね」
修平の顔が曇る。だがすぐに、訓練された表情へ戻った。記者会見の罵声も、議場の追及も、この顔で越えてきたのだろう。
「昔の話だ」
「私には、昨日のことみたいよ。あの部屋に置いていかれた朝の寒さも」
美紗の手が動いた。グラスを取り、氷を入れる。体が勝手に仕事をする。どれほど動揺していても、手だけは酒を作ろうとした。長年の習慣というのは恐ろしい。けれど、ボトルには手を伸ばさなかった。空のグラスを、二人のあいだに置いただけだった。
修平は懐から、白い封筒を取り出した。
厚みがある。中身が現金だと、見ればすぐに分かった。カウンターの木目を滑らせるように置く。その仕草が、なめらかで、慣れていた。こういうことを、何度もやってきた手だった。
「受け取ってくれ」
美紗は動かない。封筒を見た。何も書かれていない白い封筒。このなかに、修平が彼女の二十年余りにつけた値段が入っている。
「これで、終わりにしてくれ」
「……何を」
「分かるだろう」
声が低くなる。
「俺には立場がある。家庭もある。来年にはもう一つ上のポストも約束されている。義父の耳に、その……昔の男女の話が入るのは、困るんだ。君にも、これからの暮らしがあるだろう」
その言葉を聞きながら、美紗は奇妙に冷えた場所にいた。怒るべきなのかもしれない。泣くべきなのかもしれない。けれど、感情はやって来なかった。ただ、目の前の男をじっと見ていた。
この男は、何も変わっていない。
変わっていないどころか、もっと悪くなっていた。二十年前は、消えるときに言葉さえなかった。いまは言葉がある。「終わりにしてくれ」「立場がある」「噂が困る」。言葉があるぶん、たちが悪い。その一語一語が、美紗という人間を、処理すべき案件として淡々と定義していた。
「金なら、一生困らないだけ出す」修平は美紗の沈黙を肯定と取ったらしく、尊大に言った。「だから、俺の目の届かないところへ消えてくれ」
消えてくれ。
その言葉が、胸のまんなかへ静かに刺さった。
美紗は笑った。涙は出なかった。あまりにも滑稽で——いや、あまりにも正確だったからだ。二十年以上憎み、二十年以上忘れられなかった男の正体は、はじめからこれだったのだ。
青春も、愛した時間も、流した涙も。この男にとっては、封筒ひとつで拭える程度の不始末でしかなかった。
ならば、最初からそうだったのかもしれない。あの夜汽車のなかでも。あの言葉のなかでも。あの、温かかった手のなかでも。
心のどこかで、ほんの僅かに期待していたのだと、美紗はそのとき気づいた。たった一言、「すまなかった」と言ってくれることを。その期待が、いま、音もなく折れた。
「帰って」
声は静かだった。震えていなかった。
「美紗——」
「二度と、その顔を見せないで。帰って」
修平は何か言いかけ、美紗の目を見て、止まった。一瞬、何かが揺れたように見えた。後悔か、罪悪感か、それとも単なる計算の迷いか。美紗には分からなかったし、もう、どうでもよかった。
やがて修平は舌打ちをして立ち上がった。封筒はカウンターに残したまま、大股で店を出ていく。扉が荒く閉まり、ベルが、来たときと同じ音で寂しく鳴った。
その音が消えた途端、美紗の膝から力が抜けた。
カウンターの縁にすがり、その場に崩れる。呼吸がうまくできない。胸が焼ける。怒りなのか、惨めさなのか、もう区別がつかない。声は出さなかった。出したら、本当に壊れてしまう気がした。ただ涙だけが顎を伝い、コンクリートの床に落ちていった。
白い封筒が、蛍光灯の下でぼんやりと光っている。美紗はそれをつかみ、カウンターの引き出しの奥へ押し込んだ。捨てることもできない。受け取ることも、もちろんできない。ただ、見えないところへ。それだけだった。
どれくらい経っただろう。入口の扉が、また静かに開いた。
洋介だった。
夜の漁を終えたばかりなのだろう。防寒着の肩が雨に濡れている。長靴のまま入って、入口のマットで足を拭く。冷えた海と、生臭く塩辛い潮の匂いを連れていた。なぜか、それで少しだけ息ができた。
洋介は、床にへたり込んだ美紗を見ても、驚かなかった。何があったかを問い詰めもしなければ、引き出しに押し込まれかけた封筒の端に目をやることもない。ただ黙ってカウンターの端のケトルを手に取り、湯の残りを確かめてスイッチを入れた。何年も通った男の、自然な手つきだった。
しばらくして、湯気の立つ茶を、美紗の前にそっと置く。彼女の指がかじかんでいることを、言わずとも知っているように。
「……飲め」
それだけだった。
美紗は涙に濡れた顔を上げ、その不器用な優しさに、泣きながら小さく笑った。
「変な人ね、洋介さんは。いつも、いちばん見られたくないときに来る」
「よく言われる」
洋介は視線を逸らして、短く答えた。
しばらく、二人の呼吸の音だけが店に流れた。外では風が増し、繋がれた漁船のロープが軋む音が、遠くから届いていた。
やがて、洋介が口を開いた。
「会ったんだな」
美紗は頷いた。
「ええ」
洋介はグラスに酒を注ぎ、ゆっくり飲んだ。急かさず、続きを促さず、ただそこにいた。いつも、美紗の領分を決して踏み越えない男だった。
「忘れろ」
「無理よ。あの人が生きているかぎり、私の時間は止まったまま」
洋介は目を伏せた。節くれだった指が、グラスの縁をなぞる。そして、めずらしく、声に熱を滲ませた。視線は手元に落としたまま。この男は昔から、大事なことほど、相手の顔を見ずに言う。
「……俺じゃ、駄目か」
美紗は息を呑んだ。
「あの男のことは忘れて、ここで生きればいい。俺もいる。海もある。——お前はもう、十分すぎるほど苦しんだろう」
飾りも、詩もない。ただ、本当のことだけが並んでいた。だからこそ、美紗の胸は引き裂かれるように痛んだ。
優しさは、ときに残酷だ。壊れた人間には眩しすぎる。差し出された手を、壊れた人間は取れないことがある。取ってしまえば、自分の壊れ具合とまっすぐ向き合わなければならないからだ。
「……ごめんなさい、洋介さん」
蚊の鳴くような声で言い、顔を伏せた。
洋介は、それ以上は何も言わなかった。責めず、慰めもしない。ただ立ち上がり、遠くの暗い海を見ていた。拒まれることを、はじめから知っていたかのように。
その夜、店を閉めた美紗は、奥の居室の古いレコード棚の前に座った。
何枚ものジャケットを指でなぞり、いちばん奥に眠っていた一枚を引き出す。長い年月、何度も捨てようとして、どうしても捨てられなかった一枚。積もった埃が、明かりのなかへ舞い上がる。美紗は息を吹きかけて、ジャケットを見た。
青と黒で刷られた、夜の海のような色。タイトルを見つめる。
——『怨歌情死考』。
上りの夜汽車のなか、片耳ずつイヤホンを分け合って、修平と擦り切れるほど聴いた曲だった。音楽が終わってもどちらもイヤホンを外さず、しばらくそのまま、揺れに身を任せていた。流れていく漆黒の田圃を見ながら、修平が言った。
——どちらかが行き詰まったら、死ぬときは一緒だ。
若さゆえの、甘く危うい戯言。雰囲気に流された言葉。修平はもう、覚えてさえいないだろう。今夜のあの目を見れば分かる。あの目には、覚えているものなど、何もなかった。
けれど、美紗だけは忘れていなかった。二十年余り、ただの一度も。
冗談として聞き流すことも、甘い口約束として流すこともできたはずなのに。どうして、これだけが消えなかったのだろう。
美紗はジャケットの埃を払い、レコードを盤に載せた。針を落とす。古いスピーカーから、ざらついた前奏が立ちのぼる。あの夜汽車の揺れと同じ拍子で。
その手は、震えていなかった。
割れたグラスを片づけるときのように。誰かのこぼしたものを拭うときのように。長い年月、いつもそうしてきたとおりに、静かだった。
——震えていない、ということ。それが、すべてだった。
二十年余り、忘れられなかったのではない、と美紗はようやく理解した。手放さなかったのだ。捨てられなかったのではない。取っておいたのだ。この曲を、約束を、まるで一枚の時刻表のように。いつか乗るべき夜汽車の、出発の時刻を記した。
窓の外では、ヒューヒューと風が鳴っている。引き裂かれた汽笛のように。遠ざかりもせず、近づきもせず、ただ同じ場所を走りつづける、どこへも行かない列車のように。
美紗はレコードに頬を寄せ、低く呟いた。
「そうね、修平。——約束は、果たさないとね」
その顔に浮かんだのは、狂気ではなかった。少なくとも、本人にはそう思えなかった。それはむしろ、長い旅路の果てに、ようやく地図を見つけた者の顔に似ていた。行き先を決めた人間の、静かで、穏やかな顔。
だから——よけいに、ぞっとするほど静かだった。
針の進む音と、波が防波堤を叩く音だけが、闇のなかで重なっていく。砕けては返し、砕けては返す。何度砕けても、海は同じ場所へ戻ってくる。
夜汽車の幻影が、今夜もまた、美紗の頭のなかを走りつづけていた。
第3話:漁火の燃える夜

海は不思議だ。
昼のあいだは青く、緑に、ときに銀色に光って、人を慰めるような顔をしている。だが日が落ちると、海は別の生き物になる。色を失い、深さを増し、底の見えない暗がりへ変わる。波の音までが変わる。昼のそれは岸に寄り添う音だが、夜のそれは、何かを呑み込もうとする音だ。
とりわけ冬の海は恐ろしい。黒く、深く、冷たい。
それは人の心の闇を映す鏡のようだった。見たくない自分の顔が、そこに浮かんでいる。
修平が町を訪れてから、三日が過ぎていた。
そのあいだ、美紗は何事もなかったように店を開け続けた。客と笑い、酒を作り、常連の他愛ない話に調子を合わせる。
「姐さん、今日も綺麗だな」
「嘘ばっかり」
「ほんとだって。最近とくに色っぽくなった」
「おだてても、何も出ないわよ」
そう言って笑う。けれど、その笑みは仮面だった。誰も気づかなかった。美紗の胸の奥で、静かに燃え続けるものに。それは怒りではない。憎しみでもない。もっと暗く、もっと深い、愛と憎しみの溶け合った末に生まれた、破滅へ向かう一筋の熱だった。
客が帰ると、美紗はカウンターに一人座った。明かりは消さず、間接照明だけを残して、グラスの氷が溶けていくのを眺める。
三日のあいだ、ずっと同じことを考えていた。封筒をカウンターに置いた、あの慣れた手つき。荷物でも置くように、人の二十年余りを処理しようとした手。そして、あの二言。
——昔の話だ。
——若い頃の冗談だ。
昔。冗談。美紗にとっての今も、本気も、その二言で拭われた。
三日のうちに、美紗のなかの何かが、少しずつ固まっていった。怒りが固まるのでも、悲しみが固まるのでもない。もっと静かなものが、もっと深いところで、ゆっくりと結晶になっていく。名前のつけようのない、決意に似た何かだった。
その夜、美紗は一通のメッセージを送った。
携帯を手に取るまでに、ずいぶん時間がかかった。文字を打っては消し、また打つ。何度も繰り返して、最後に残ったのは短い二行だった。
『最後に話したいことがある』
『昔のことに、決着をつけたい』
送った瞬間、心臓が一度だけ大きく跳ね、それきり静かになった。
返事は、十分もしないうちに来た。
『どこだ』
美紗は、地名だけを返した。
『黒崎岬』
そして画面を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
引き出しを開け、奥から一本のナイフを取り出す。刃渡り十五センチほどの、小さなもの。台所で何年も使ってきた包丁を、研ぎ直しただけの代物だった。特別なものではない。
——けれど三日前から、毎晩、砥石にかけていた。
何のためとも考えないまま、ただ研いでいた。夜中に一人、砥石へ水を落とし、刃を当て、ゆっくりと動かす。金属が石を擦る細い音だけが、静まった店に響いた。刃はいま、鏡のように光っている。
それをコートのポケットに入れた。重みと、冷たさ。
姿見の前に立ち、映った女を見た。黒いコート。少し疲れた顔。目の下の薄い翳り。けれど、目そのものは澄んでいた。何かを決めた者の目。何かを失った者の目。あるいは——もう、失うものが何ひとつなくなった者の目。
「行きましょう」
鏡のなかの女に、美紗は小さく言った。返事はない。ただ、同じ口の動きで、同じ言葉が返ってきただけだった。
黒崎岬は、町外れの断崖だった。
昔から、世をはかなんだ者が身を投げる場所と噂される。百メートル近い絶壁の下では、荒波が絶えず岩を叩いている。冬のこの時期、訪れる者はいない。
美紗は車を降り、枯れ草の砂利道を歩いた。風が強い。小石が靴の下で鳴く。街灯はなく、月もない。厚い雲が空を覆い、どこまで歩けば縁なのかも見えないほど暗かった。それでも歩けた。何度か来たことがある。ずっと昔、まだ若かった頃に、一人で。あの夜の美紗も、今夜と同じ目をしていた。
——だが、あの夜は、引き返した。
今夜は、違う。
深夜零時。美紗は一人、断崖の先端に立っていた。
足元の先は、ただの闇。どこからが崖で、どこからが海なのか、境界が見えない。聞こえるのは波の音だけ。
それでも、海の一点だけが見えた。漆黒の闇のなかに、小さな灯りが無数に浮かんでいる。
漁火だった。
沖へ出た漁船の灯。風に揺れながら、静かに燃えている。一つひとつは小さい。だが集まると、黒い海に星屑を撒いたようだった。嵐が来ても消えぬよう、鉄の筐体に守られた灯り。どれほど風が吹いても、消えない。
そのどこかに、洋介の船があるかもしれなかった。あの男は今夜も漁に出ると言っていた。毎晩出る。嵐が来なければ、必ず出る。海に出て、魚を獲り、帰ってくる。それだけの一生。けれど、その一生には、ぶれがなかった。
美紗は目を閉じた。節くれだった手。日に焼けた顔。大事なことほど、顔を見ずに言う男。
——俺じゃ、駄目か。
あの言葉が、三日のあいだ、耳の奥に残っていた。打ち消そうとするたび、波の返すように戻ってきた。
駄目じゃない。本当は、分かっていた。あの男は本物だった。傍にいると、息ができた。
だが、それだけでは、どうにもならないものが美紗のなかにあった。二十年余りをかけて積もった何かは、誰かの優しさで溶けるほどの柔らかさを、とうに失っていた。岩になり、骨になり、美紗の内側を内側から作り変えていた。
目を開ける。漁火が揺れている。
その時、背後で足音がした。砂利を踏む、躊躇いがちな足取り。慣れない場所を歩く男の音。
美紗は振り返った。
修平だった。コートの裾を風がはためかせている。髪が乱れていた。いつもの整った姿ではなく、急いで来た者の、わずかに取り乱した姿。それでも背筋だけは伸びている。この男は、崩れても背筋だけは伸びている。それが修平という人間だった。
「こんな場所に呼び出して、何のつもりだ」
苛立ちを隠そうともしない声。闇のなかでも、その顔はよく見えた。二十年余りかけて覚え込んだ顔は、わずかな光でも見える。年を重ねた顔。けれど、目だけは変わらない。昔から、自分しか見ていない目だった。
「来てくれたのね」
美紗の声は、夜の海に吸い込まれるほど静かだった。
「早く終わらせろ。俺も暇じゃない」
修平が腕時計に目を落とす。その仕草を見た瞬間、美紗のなかで何かが溶けた。昔なら、その仕草ひとつで胸が高鳴った。急かされても嬉しかった。忙しい人なのだと、誇らしくさえあった。
いまは、何も感じない。感じるのは、底の抜けた器を覗くような、冷たい虚しさだけ。
「覚えてる?」
「何をだ」
「夜汽車」
修平の眉が、わずかに動いた。その動きを、美紗は見逃さなかった。覚えている。覚えていないふりをしているだけだ。完全に忘れた人間の眉は、動かない。記憶に触れたときだけ、人の体はかすかに反応する。
「昔の話だ」
「そうね」
美紗は携帯を取り出し、画面に触れた。指先は、震えていなかった。
数秒後、静かな旋律が流れ出した。
——『怨歌情死考』。
古いレコードの音源。ノイズと、低いハム音が混じっている。何十年も前に刻まれた音楽が、傷だらけの質感のまま、夜の空気へ解けていく。風に乗り、哀しい旋律が海へ向かう。波に呑まれる。それでも、消えない。
修平の顔色が変わった。眉が、今度ははっきりと動いた。
「やめろ」
「どうして」
「くだらない」
「くだらない?」
美紗は笑った。乾いた笑いでも、悲しい笑いでもない。ただ静かな笑い。その笑顔に、修平は初めて違和感を覚えた。何かがおかしい。何かが、壊れている。この女は、泣きに来たのでも、怒鳴りに来たのでもない。
「私たち、この曲を聴きながら約束したわよね」
美紗が一歩、近づく。砂利が鳴く。
「——どちらかが行き詰まったら、死ぬときは一緒だって」
修平が一歩、退く。
「馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てる声には、力があった。政治家の声だった。「若い頃の、ガキの冗談だろう」
その瞬間だった。
美紗のなかで、最後の細い糸が切れた。本当に、音がした気がした。長い年月をかけて、かろうじて繋ぎ止めていた何かが、その一言で、静かに切れた。
冗談。
そうか。あなたにとっては、全部、冗談だったのね。愛も。未来も。約束も。私も。あの夜汽車も。片耳ずつイヤホンを分け合ったことも。流れていく田圃の闇を、二人で見ていたことも。
全部、冗談。
美紗は、静かに頷いた。
「そう。——そういうことなのね」
声は穏やかだった。怒りを抑えた穏やかさではない。長い問いに、ようやく答えの出た者の落ち着きだった。
ポケットから、ナイフを抜く。銀色の刃が、闇のなかで鈍く光った。月のない夜にも光るほど、三日かけて研いだ刃だった。
修平の顔から、血の気が引いていく。
「美紗……お前、それは……」
その声が、初めて崩れた。政治家の声ではなく、ただの、怯えた男の声になった。
「逃げないで」
一歩。また一歩。美紗が近づく。その顔には、微笑みが浮かんでいた。だからこそ、恐ろしかった。怒りでも、涙でもない。長い旅路の終着駅に、ようやく着いた者の顔。苦しみの終わる場所に立った者の顔。
「約束を、果たしましょう」
「正気か!」修平が後ずさる。足元の砂利が崩れる。「近寄るな!」
「どうして?」美紗が首を傾げる。その動きさえ、夢のなかのもののようだった。「愛してたのよ。——いまも、愛してる。だから、一緒に行きましょう」
修平は、全身を震わせていた。生まれて初めてだった。自分が支配できない相手に出会ったのは。これまで、どんな問題も金で片づいた。権力で押さえ込めた。頭を下げれば許され、涙を見せれば哀れまれた。感情を持つ人間には、必ずどこかに弱みがある。そこを突けばいい。それが修平の生き方だった。
だが、目の前の女は違った。失うものが、何もない。それどころか、失うことを望んでいる。金も、権力も、言葉も、何ひとつ通じない。
「誰か!」修平は闇へ向かって叫んだ。「助けろ!」
声は、荒れ狂う海に吸い込まれた。こんな場所に、こんな時間に、人は来ない。聞こえるのは、潮騒だけ。
そして、遠くの漁火。
月のない海の上で、揺れつづける無数の灯。その一つひとつの下に、命を懸けて漁をする人間がいる。生きることに迷いのない人間たちがいる。
美紗は、その灯りを見た。一瞬、目が止まった。
あのなかに、洋介がいるかもしれない。いま頃、網を引いているかもしれない。明け方に港へ戻り、魚を揚げて、また海へ出る支度をしている。繰り返しの一生。けれど、揺るぎのない一生。
——ここで、生きればいい。
揺れる漁火のなかから、あの声が聞こえた気がした。
なぜ、自分はあんな灯りになれなかったのだろう。
その問いが、ふと胸をかすめた。答えは、出なかった。
修平が、踵を返した。背を向けて、逃げようとする。その背中を見た瞬間、美紗の手が伸び、コートの袖をつかんだ。
「離せ!」
もみ合いになる。生き残ろうとする人間の力は強い。修平は身体ごとぶつかり、美紗の腕を振りほどこうとする。足元が崩れる。砂利が散る。
その時、空が裂けた。
雨が降り出した。最初は、頬に一粒、肩に一粒。誰かが躊躇いながら落とすような、ためらいがちな雨。それが一瞬で、世界を白く塗りつぶす豪雨に変わる。コートが重くなる。足元が泥になる。雨音が潮騒と重なり、すべてを呑み込む轟音になる。
風が唸る。海が咆哮する。断崖の上は、地獄のようだった。
二人は濡れながら、もみ合い続けた。修平の髪が乱れ、美紗の髪が顔に貼りつく。雨に視界が滲み、互いの顔が滲む。
——そのとき、嵐を切り裂いて、声が届いた。
「美紗ーーッ!!」
波の音より、風の音より、大きかった。何十年も海で働いてきた男の、腹の底から出た声だった。
洋介だった。砂利道を、雨のなかを駆けてくる。懐中電灯の光が、揺れながら近づく。
だが、距離があった。間に合わない。
その姿を見るなり、修平が必死に叫んだ。
「助けろ! 早く!」
その声に、美紗は、ふと笑った。とても悲しそうに。とても寂しそうに。
嵐のなかで、この男が呼ぶのは、自分の名ではなかった。助けを求めるその叫びの、どこにも、美紗の名前はなかった。
——二十年余り前も、そうだったのかもしれない。
あの朝、何も言わずに消えたとき。出世という列車に飛び乗ったとき。この男が呼んでいたのは、ずっと、自分のこれから手にする名前だけだった。そこに、美紗の居場所など、はじめから一文字もなかった。
「最後まで、自分だけ、なのね」
声は、雨に溶けた。聞いた者は、誰もいない。
それでも——洋介の声は、ちがった。
「美紗!」
嵐をくぐり抜けて、その声だけが、まっすぐに自分の名を呼んでいた。生まれてから今まで、こんなにも何度も、ためらいなく自分の名を呼んでくれた声を、美紗は他に知らなかった。
雨粒が、頬を流れる涙と混じる。海が荒れ、漁火が揺れる。どれほど吹かれても消えない灯り。岩に守られ、鉄に守られ、ただ静かに燃えつづける、無数の小さな灯り。
美紗のつかんだ手から、わずかに、力がほどけた。
ほんの、わずかに。
その隙を、修平が逃さなかった。袖を振り払い、泥に足を取られながら、岬の闇へ向かって走り出す。同時に、洋介の懐中電灯の光が、ついに二人を照らした。
光のなか、美紗は立ち尽くしていた。ナイフを握ったまま。けれど、その刃は、もう誰にも向いていなかった。ただ、雨に打たれ、漁火の遠い赤を映して、震えるように光っているだけだった。
「美紗」
すぐ後ろで、洋介の声がした。今度は、叫びではなかった。雨音に紛れそうなほど、低く、静かな声だった。
美紗は、振り返らなかった。
遠い海では、漁火が、今夜も消えずに揺れていた。携帯から流れていたはずの古い旋律は、いつのまにか豪雨に呑まれて、もう、どこにも聞こえなくなっていた。
最終話:情死の果て

雨は、すべてを押し流すように降りつづけていた。
黒崎岬の断崖を叩く風は、檻を出た獣の咆哮のようで、眼下の海は巨大な生き物がのたうつように荒れていた。波が岩を打つ音が、轟音となって崖の上まで届く。砕けた波しぶきが雨と混じり、もう、どこまでが雨でどこからが海なのか、区別がつかなかった。
風雨のなか、修平は地に膝をつき、なりふり構わず命を乞うていた。
「離せ……頼む、離してくれ! 金ならいくらでもやる! 何でもする! 言うことは何でも聞く!」
その声は、無様に震えていた。かつて人を見下し、都会の光の中を歩いていた大物政治家の余裕など、もう、どこにも残っていない。
美紗は、ただ静かに見下ろしていた。
「怖いの? 修平」
嵐の轟音のなかでも、なぜか彼女の声だけは、澄んではっきりと届いた。
「死ぬのが、そんなに怖い?」
「当たり前だ! 俺には未来があるんだ! 死にたくない、死にたくないんだよ!」
その剥き出しの言葉を聞いた瞬間、美紗の胸の奥で、最後の一片が、かちりと音を立てて嵌まった。
——ああ、そうか。
この人は、何も変わっていない。私を置いて消えた朝も、代議士の娘と並んで写真に納まった日も、いまこの瞬間も。ただ、自分だけが大切で、自分の未来だけを守りたい。二人で誓った未来も、重ねた時間も、私という人間の二十年余りも、すべては、この男が自分の人生を生きるための、使い捨ての道具にすぎなかった。
美紗は、修平の襟首をつかんでいた。
その手を、ほんの少し引くだけでよかった。雨に濡れた岩の縁は、すぐそこにある。二人で、あの夜汽車の続きへ——闇の底へ。二十年余り、捨てられずに研ぎつづけてきた約束が、いま、目の前にあった。
その時だった。
「美紗ーーッ!!」
嵐を切り裂いて、声が届いた。波の音より、風の音より、大きかった。何十年も海で働いてきた男の、腹の底から出た声。洋介だった。泥の道を、懐中電灯の光を揺らしながら、駆けてくる。
その声に、美紗は遠い海へ目をやった。
荒れる闇の底で、雨に打たれてもなお消えずに揺れている、無数の小さな灯り——漁火。鉄に守られ、岩に守られ、どれほど風が吹いても消えない灯り。かつて夜汽車の窓から、修平と肩を寄せて眺めた、故郷の灯と同じ光だった。まだ、互いの心に嘘のなかった頃の。
——どちらかが行き詰まったら、死ぬときは一緒だ。
二十年余り、美紗はその言葉を、一枚の時刻表のように胸に抱いて生きてきた。いつか乗るべき夜汽車の、出発の刻を記したものとして。
けれど、いま、ようやく分かった。
あれは、二人の誓いなどではなかった。あの男が、去り際に、私の足首にかけていった鎖だったのだ。この手を引いて修平を道連れにすれば、私は最後にもう一度、あの男に従うことになる。彼のために人殺しになり、彼のものになる。死んでなお、彼の人生の付属品になる。
それだけは——もう、嫌だった。
美紗は、襟をつかんだ手を、静かに開いた。
放した。
二十年余りかけて、どうしても放せなかったものを、雨のなかで、自分の意思で、手放した。
支えを失った修平が、岩の上へ無様に倒れ込む。そのまま這うように、命だけを抱えて、闇の奥へ逃げていく。一度も、振り返らない。最後まで、自分のことしか、なかった。
美紗は、一人、崖の縁に立っていた。
その顔には、微笑みが浮かんでいた。怒りでも、涙でもない。長い旅路の果てに、ようやく重い荷を下ろした者の、疲れ果てた、けれど穏やかな顔だった。手は、震えていなかった。割れたグラスを片づけるときのように。誰かのこぼしたものを拭うときのように。いつもそうしてきたとおり、静かだった。
「馬鹿だったな……私」
雨に溶ける、ほんの小さな呟き。
足元の濡れた岩が、崩れた。
「美紗ーーーーッ!!」
洋介が、文字どおり泥を蹴って飛び込んでくる。傷だらけの長い腕を、力のかぎり伸ばす。だが、届かない。ほんの数十センチ。指先が触れ合うかと思うほどの、その距離が、永遠よりも遠かった。
落ちていく刹那、美紗は、声のするほうへ顔を向けた。
二十年余りのあいだ、あの男が叫んだどの言葉にも、私の名前はなかった。けれど、いまこの瞬間、嵐の底からまっすぐに自分の名を呼んでくれる声がある。生まれてから今まで、こんなにも何度も、ためらいなく私の名を呼んでくれた人を、私は、ほかに知らない。
——ごめんね、洋介さん。
雨のなかへ、その姿が消えた。
ドオォン、と地響きのような音を立てて、白波が砕ける。海は、何事もなかったかのように、ただ傲然と、一人の人間をその底へ呑み込んでいった。あとに残ったのは、吹き荒れる嵐の音だけだった。
砂利道の途中で、修平はへたり込んでいた。両手を地につき、息を荒げ、唇を震わせ、目は焦点を失っている。
洋介は、振り返って、その男を見た。
何も言わなかった。何もしなかった。拳を握ることさえ、しなかった。この男を殴ったところで、何ひとつ戻らない。それだけのことだった。やがて遠くに赤いランプが滲む。誰かが通報したのだろう。海は、修平が来る前も、美紗が立っていたあいだも、いまも、ただ律儀に岩を叩きつづけている。人間のことなど、はじめから知らないような顔をして。
翌朝。
嵐は、嘘のように去っていた。
空はどこまでも青く、昨夜の狂乱が夢だったかと思うほど穏やかだった。港は静まり返り、それでも世界は動いていた。漁船が沖へ出ていく。エンジンの音が朝の空気を震わせる。鴎が鳴く。市場のほうから男たちの声がする。潮の匂い。いつもの朝の匂い。世界は、残酷なほど平然と回っていた。
洋介は一人、岬の先端に立っていた。夜明けからずっと、そこにいた。
捜索隊が崖を下りていくのを見ていた。無線の声を聞いていた。やがて隊員の一人が上がってきて、洋介の肩にそっと手を置いた。それだけで、分かった。洋介は頷き、目を閉じた。
まぶたの裏に、美紗の顔が浮かんだ。
初めてあの店に入った夜のことを思い出す。ずいぶん昔だ。カウンターでグラスを磨いていた美紗は、目が合うと、仕事用の笑みを向けてきた。きれいな笑顔だった。けれど洋介には、すぐに分かった。作り物だ、と。それでも、通いつづけた。理由は自分でも分からない。ただ、あの灯りのそばにいたかった。仮面の奥に何があるのか、見たかった。
時折、本物の顔が見えた。誰かの話に笑うとき。演歌の歌詞に、ふと遠い目をするとき。洋介が黙って隣に座る夜、肩から力が抜けるとき。
そういう瞬間のために、通いつづけた。
——届かなかった。とうとう、届かなかった。
崖の縁に、一台の携帯電話が残されていた。雨に濡れ、画面に細かいひびが入っている。それでも、まだ生きていた。洋介が拾い上げると、震えに反応するように、スピーカーから小さな音が流れ出した。
——『怨歌情死考』。
古いレコードのノイズを交えた、物哀しい旋律。針のはじける雑音とともに、朝の潮風に運ばれて、静かに響く。
洋介は、その場に膝をついた。砂利が膝に食い込む。痛かった。だが、それよりずっと深いところが痛かった。涙が出た。止まらなかった。この男が人前で泣いたことは、長い人生で一度もない。海で仲間を失ったときも、父が死んだときも、泣かなかった。泣き方を忘れたと思っていた。だが、いまは止まらなかった。
もっと早く気づいていれば。もっと早く走っていれば。あるいは、もっとずっと前に、ちゃんと言葉にしていれば。後悔には終わりがない。どこまでも遡れる。あの夜。あの言葉。あの沈黙。違う選び方のできた場所が、数えきれないほどある。
だが、海は何も答えない。遠い水平線が、朝日に染まっていく。赤から橙へ、橙から金へ。静かな海面に、その光が映っている。美しかった。残酷なほど、美しかった。
曲が終わる。携帯は止まらない。また、最初から流れはじめる。終わることのない夜汽車のように。どこへも行かず、誰も降ろさず、ただ同じ線路を走りつづける、幻の列車のように。
洋介は、いつかの夜の美紗の声を思い出した。カウンターで茶を飲みながら、独り言のように落とした言葉。
——私ね、忘れることが怖いんじゃないの。忘れられないことが、怖いの。
あのとき、洋介は何も言えなかった。言葉を持っていなかった。いまも、持っていない。
潮風が、頬の涙を撫でて、どこかへ抜けていった。優しく、どこか寂しい風だった。
洋介は立ち上がり、膝の泥を払った。携帯を握ったまま、もう一度、海を見た。広い海だった。どこまでも続く海だった。
「……もう、いいんだ、美紗」
声が震えた。
「もう、ゆっくり、眠れ」
返事はない。海は何も言わない。ただ波が寄せて、返して、また寄せる。何度砕けても、海は同じ場所へ戻ってくる。その繰り返しだけが、永遠に続いていく。
その日の夕方。漁を終えた洋介は、港から町外れの『波止場』へ歩いた。
鍵はかかっていなかった。中は暗く、冷たく、空っぽだった。カウンターも、グラスも、棚のレコードも、昨日のままそこにある。ただ、ひとつだけ足りない。
洋介は、しばらく立ち尽くしていた。それから、店先のスイッチに手を伸ばした。
ひび割れたカバーの色褪せたネオンが、ジジ、と音を立てて灯る。点いては消え、消えてはまた点く。風に煽られて、頼りなく明滅しながら、それでも、たしかにそこにある。生前の美紗が、毎晩そうしていたように。
この町は、じきに彼女を忘れるだろう。新聞の片隅の記事も、人の噂も、ひと冬のうちに潮に流される。世界は、美紗という人間など、はじめから存在しなかったかのように、平然と回りつづける。
——それが、何より、悲しかった。
だから洋介は、決めた。
漁から戻る夜ごとに、この店の灯をともそう。客は取らない。酒も出さない。ただ、誰も覚えていない一人の女のために、この一点の光だけは、消さずにおこう。かつて美紗が「あんな灯りになれなかった」と海の上の漁火を見つめたなら、せめて自分が、彼女のための灯りになろう。
ネオンが、ジジ、と鳴る。
港の闇のなかで、たった一つ、その光だけが、揺れながら燃えつづけていた。沖の漁火と同じように。どれほど風が吹いても、消えることなく。
そして、すべてを知る潮騒の音だけが、誰もいなくなった海辺に、いつまでも、いつまでも、低く鳴りつづけていた。
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