セピア色の記憶が歪むとき
口を開く前に、少しだけためらいがあることを告白しておかねばならない。これは、本来ならば誰の耳にも触れさせず、私自身の胸の奥底に、墓場まで抱えていくはずの澱(おり)のような話だからだ。
ことの始まりは、私が長年勤め上げた会社を定年退職し、あわただしい日常から解放された、まさにその時だった。以前から薄々感じていた妻との距離感は、私が家に常駐するようになったことで決定的なものとなり、「家庭内別居」という奇妙な静寂が、我が家を支配するようになった。
同じ表札のかかった一つ屋根の下に暮らしていながら、私たちが互いの存在を認識するのは、一日の中でほんのわずかな時間、朝食の席のみである。 カーテンの隙間から射し込む、まだ熱を持たない白々しい朝の光の中、食卓を挟んで向かい合う。だが、そこに視線が交わる瞬間はない。聞こえてくるのは、熱い味噌汁をすする音と、箸先が陶器の茶碗に当たる硬質な音だけだ。言葉は、とうの昔にどこかへ置き忘れてきてしまったようだ。必要な事務連絡以外、私たちの間に会話が生まれることはない。
かつてこの家を賑やかに彩っていた一人娘は、数年前に良縁を得て嫁いでいった。風の便りによれば、可愛い盛りの孫も生まれ、遠い空の下で彼女自身の温かい家庭を築いているらしい。娘のいなくなった部屋が、いつの間にか色のない物置部屋へと変わっていくにつれ、取り残された老夫婦二人を包む空虚さは、日増しにその密度を濃くしているようだった。
そんな空虚な我が家から逃げ出すように、私は週に一度、隣町へと足を運んでいた。
それは、定年退職という人生の区切りがもたらした、あまりにも長い余白を埋めるための、ある種の儀式のようなものだったかもしれない。
電車に揺られ、窓の外を流れる夜の街の灯りをぼんやりと眺める。自宅のある街から隣町へ移動するこのわずかな時間が、私にとっては「夫」でも「父」でもない、ただの「男」に戻るための変圧装置の役割を果たしていた。気づけばそんな生活も二年が過ぎようとしていた。
金曜の夜。一週間の澱(おり)を吐き出すにはうってつけの時間だ。 私はいつもの駅で降り、ネオンが水たまりに滲む歓楽街の路地を慣れた足取りで進む。目的のビルの古びたエレベーターに乗り込み、ドアが開くと、そこには馴染みの店の、少し鼻につく甘ったるい芳香剤の匂いが漂っていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
受付の男性スタッフが、愛想の良い、しかしどこか事務的な笑顔で私を迎える。二年通えば、私もここでは「常連」という顔を持てる。皮肉なことに、冷え切った自宅の食卓よりも、金を払って買うこの仮初めの空間の方が、今の私には奇妙なほど居心地が良かったのだ。
その夜、スタッフは声を潜めるようにして私に告げた。 「今日、ちょうど新人さんが入ったんですよ。まだ初々しいですが、なかなか評判が良いみたいでしてね」
「新人」――その響きが、マンネリ化していた私の情欲の底を、小さくつついた。二年もの間、同じような顔ぶれ、同じような会話、同じような行為を繰り返してきたのだ。たまには違う風を吹かせてみるのも悪くない。そんな軽い気持ちが頭をもたげた。
「そうか。……じゃあ、その新人さんでお願いしようか」
私は努めて平静を装い、さもついでといった風情で答えた。 案内されたのは、いつもの狭苦しい個室とは違う、少しだけゆとりのある部屋だった。壁紙の模様も、ソファの質感も、普段より上等な気がする。期待していないと言えば嘘になる。私はソファに深く腰を下ろし、これから現れるであろう見知らぬ女の姿を想像しながら、湿った掌を膝の上で静かに擦り合わせた。
まもなく、一人の女性が現れた。彼女の顔を見た時、懐かしい娘の親友の顔が浮かんだ。
思考する間もなく、口から言葉が漏れ出した。
「もしかして、かなちゃん?」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた気がした。
女は――いや、かなちゃんは、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、血の気の引いた唇をわななかせた。その華奢な肩が、小刻みに震えているのが見て取れた。
「おじ、さん……?」
蚊の鳴くような、それでいて私の鼓膜を劈(つんざ)くような、聞き覚えのある声。
間違いない。かなちゃんだ。娘のしのぶが小学生の頃、毎日のように我が家に出入りしていた、あの子だ。夏休みには必ず泊まりに来て、庭で花火をしたり、縁側でスイカの種を飛ばし合ったりしていた、あの快活な少女だ。
私の脳裏に、セピア色になりかけていた記憶が、鮮烈な色彩を伴ってフラッシュバックする。日焼けした笑顔。麦わら帽子。セミの声。そして、「おじさん、おじさん」と無邪気に私を呼ぶ声。
そのかなちゃんが、なぜ今、こんな場所にいる? 厚化粧の下に見え隠れする、かつての面影。だが、その瞳は、私の知る無垢な少女のそれとは異なっていた。どこか投げやりで、それでいて怯えたような、大人の女の目をしていた。
「嘘だろう……」
私は呻くように呟いた。
気まずいという言葉では表現しきれない、底知れぬ羞恥心と絶望感が、泥水のように私の内側から湧き上がり、全身を覆い尽くそうとしていた。私は、娘の幼馴染に、金を払って情欲を処理させようとしていたのだ。
吐き気がした。自分の浅ましさに、そして、運命の残酷な悪戯に。 私は、震える手でソファのアームレストを掴み、辛うじて身体を支えていた。この場から逃げ出したい。だが、足がすくんで動かない。
重苦しい沈黙が、部屋の中を支配した。壁にかかった安っぽい時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
張り詰めた糸が切れたように、かなちゃんは力なく、部屋の隅にあったパイプ椅子に腰を落とした。安っぽいビニール張りの座面が、彼女の細い体を受け止めて微かに軋んだ音を立てた。
彼女は膝の上で両手を強く握りしめ、視線を床に落としたまま、ポツリポツリと語り始めた。その声は、湿った部屋の空気に溶けてしまいそうに儚げだった。
「……三年前に、離婚したんです」
原因は、元夫の暴力だったという。かつて庭を駆け回っていた元気な少女の口から、「DV」という重い言葉が発せられたことに、私は胸をえぐられるような思いがした。 彼女には二人の子供がいた。養育費は、最初の数回が支払われたきりで、今はもう途絶えているらしい。昼間はスーパーのパートに出ているが、それだけでは家賃と光熱費、そして育ち盛りの子供たちの食費を賄うので精一杯なのだという。
「……だから、夜も働かないと、生きていけなくて」
彼女は顔を上げ、懇願するように私を見つめた。厚化粧の下の瞳が、涙で潤んでいるように見えた。
「お願いです、おじさん。しのぶちゃんには……絶対に言わないでください。こんなところで働いてるなんて知られたら、私……」
彼女は椅子から立ち上がり、私の前で深々と頭を下げた。その華奢な背中が、生活の重荷に耐えかねて震えているのが痛いほど伝わってきた。
その姿を見て、ようやく私の麻痺していた思考が動き出した。我に返ったのだ。 そうだ。言えるわけがない。私の方こそ、誰にも知られたくない秘密を抱えて、この場所にいるのだ。 もしも娘のしのぶが、父親が退職金と年金で風俗通いをしていると知ったら、どんな顔をするだろうか。軽蔑の眼差しを向けられるのは、火を見るよりも明らかだった。
私たちは、奇妙な形で「共犯者」になってしまったのだ。
「……ああ、わかってる。お互い様、だよな」
私が絞り出した言葉は、ひどく掠れていて、自分でも情けなくなるほど弱々しかった。 かなちゃんは、ゆっくりと顔を上げた。その表情には、安堵と、そして諦めが入り混じったような、複雑な色が浮かんでいた。
その夜、私たちは何もしなかった。 ただ向かい合って座り、一時間ほど言葉を交わした。部屋の隅で回る換気扇の低い唸り声だけが、時折途切れる会話の隙間を埋めていた。
彼女の子供は、小学三年生と年長さんだという。 「上の子がね、サッカー習いたいって言うんです。でも、スパイクとかユニフォームとか、揃える余裕がなくて……」 寂しげに笑う彼女の横顔は、かつての無邪気な少女のものではなく、生活に疲れた母親のそれだった。
私はかける言葉が見つからず、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。財布の中にある現金をすべて渡してやりたい衝動に駆られたが、それが彼女の自尊心を傷つけるかもしれないと思い、思い留まった。
逃げるようにして部屋を出て、受付で会計を済ませた。
「ありがとうございました。またお越しくださいね」
スタッフの男が浮かべた営業用の愛想笑いと、その明るい声が、私の耳にはひどく皮肉に響いた。二度と来るものか。あの薄暗い個室に、私の過去と現在の恥部が置き去りにされたままのような気がした。私は背後から追ってくる視線を振り払うように、雑居ビルの階段を駆け下りた。
店を出ると、夜風が火照った体に冷たくまとわりついた。 ネオンサインの毒々しい光が、水たまりに反射して揺れている。私は行き場のない、鉛のように重たい感情を腹の底に抱えながら、逃げるように駅へと向かった。 あの子が、あの狭い部屋で、生活のために見知らぬ男たちに体を許しているという現実が、私の胸をひどく締め付けた。
それでも、一度覚えた蜜の味と、そこから得られる束の間の解放感を、完全に断ち切ることはできなかった。 翌週には、隣の駅、さらにその向こうの街へと足を延ばし、別の店を探し求めた。だが、見知らぬ雑居ビルの前で足を止めるたび、私の心臓は早鐘を打つようになった。 ドアノブに手をかける瞬間、冷や汗が滲む。「まさか、また誰か知っている顔が……」。そんな妄想が、私の老いた体にまとわりつく影となった。新しい扉を開けるたびに襲う、身を焦がすような緊張感。それは、もはや楽しみとは程遠い、ある種の罰のようにも思えた。
そして、翌週の日曜日の昼下がりだった。 静まり返ったリビングで、スマートフォンが突然震え出した。画面に表示された「しのぶ」の文字を見た瞬間、嫌な予感が背筋を駆け上がった。恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし、パパ?」
娘の屈託のない声が、鼓膜を揺さぶった。
「あのさ、かなちゃんと会ったんだって?」
その瞬間、全身の血液が音を立てて足元から引いていくのを感じた。心臓が喉の奥で奇妙な音を立てて跳ね、息が止まる。視界がぐらりと揺れた。
「え……あ、ああ。そう、なんだ」
私は乾いた喉を鳴らし、裏返りそうになる声を必死に抑え込んだ。
「かなちゃんから連絡があってさ。パパに会ったって言ってたんだけど、元気そうだった?」
私は咄嗟に、用意していたわけでもない言い訳を口にした。
「ああ、駅前で、ばったりな。……元気そうだったよ」
自分でも驚くほど滑らかな嘘だった。
「そっか、よかった。かなちゃん、離婚して色々と大変みたいだからさ。パパも気にかけてあげてね。昔みたいに、うちにご飯食べにおいでよとか、声かけてあげてさ」
娘の声は、どこまでも優しく、そして残酷なほど無邪気だった。彼女は何も知らない。知るはずもない。父親がどんな場所で、どんな顔をして、彼女の親友と対峙したのかを。
あの薄暗い部屋で交わした、奇妙な共犯関係の約束。かなちゃんは、それを守り通してくれたのだ。「駅前でばったり会った近所の優しいおじさん」という、安全な配役を私に与えて、娘との会話を成立させてくれたのだ。
「……ああ、わかった。そうだな」
逃げるように通話を切ると、私はソファに深く沈み込んだ。スマートフォンを握りしめた手のひらが、嫌な汗でびっしょりと濡れている。 安堵よりも先に押し寄せたのは、吐き気がするほどの強烈な自己嫌悪と、かなちゃんへの底知れぬ申し訳なさだった。私は娘を騙し、そして、生活のために身を削っているあの子の最後のプライドと優しさに、タダ乗りしたのだ。
窓の外では、平和な日曜日の昼下がりが過ぎていく。どこかの家から、ピアノの練習曲が聞こえてくる。その穏やかな日常の風景が、今の私にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
あの夜、逃げるように店を後にしてから、私のスマートフォンには奇妙な「繋がり」が残った。かなちゃんのLINEアカウント。アイコンは、小さな二人の子供の後ろ姿だった。
最初のやり取りは、薄氷の上を歩くように慎重で、そして空虚だった。 深夜、家族が寝静まったリビングで、青白い画面に向かう。「お互い頑張りましょう」。彼女からの短いメッセージに、私は何と返すべきか迷った挙句、「困ったことがあったら連絡して」と打ち込んだ。それは、かつて彼女を娘のように可愛がっていた「近所のおじさん」としての精一杯の虚勢であり、同時に、あの薄暗い個室で彼女を買おうとした男の、浅ましい贖罪でもあった。 返信はすぐに来た。「ありがとうございます」。ただそれだけの、スタンプすらない素っ気ない一言だった。
画面を閉じるたび、古いアルバムのページをめくるような感覚に襲われた。庭先でビニールプールにはしゃいでいた、あの夏の日の少女。日に焼けた肌、麦わら帽子、弾けるような笑い声。その記憶の中のかなちゃんと、生活に疲れ、厚化粧の下で怯えた目をしていた現在の彼女の姿が、どうしても重ならない。胸の奥が、錆びた万力で締め付けられるように痛んだ。
それから、画面はしばらく沈黙を守っていた。季節が秋へと移ろい、街路樹が色づき始めた頃だった。 自分の住む町から知り合いのいないであろう離れた町の繁華街へと向かう電車に揺られている時、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。通知画面に表示された彼女の名前を見て、心臓が嫌な音を立てた。
「おじさん、ごめんなさい。急だけど、会いたいです」
その短い文字列を見つめたまま、私は一駅乗り過ごしそうになった。 ためらいがなかったと言えば嘘になる。これは、新たな泥沼への入り口ではないのか。金銭の要求か、それとも……。様々な憶測が頭をよぎった。だが、あの夜、今にも泣き出しそうな顔で「絶対に言わないで」と頭を下げた彼女の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。放っておくことなど、できるはずがなかった。
私は、自宅からも、かつて彼女が働いていた隣町からも離れた、少し寂れた地方都市の繁華街を指定した。ここならば、娘や妻の知る顔に、あるいは彼女の昔の知り合いに遭遇する確率は限りなく低いだろう。 週末の夕暮れ時、私は家族に行き先を告げず、一人、電車に乗った。窓の外を流れる見知らぬ街並みを眺めながら、私は自分が何をしているのか、自問せずにはいられなかった。私たちは、決して明るみに出してはいけない秘密を共有する共犯者として、再び顔を合わせようとしているのだ。
約束の場所は、駅前の喧騒から一本外れた路地裏にある、時代に取り残されたような古びた純喫茶だった。 飴色に変色したドアを押すと、カランコロンと乾いた鐘の音が鳴り、長年染みついた紫煙と、深く焙煎されたコーヒーの苦い香りが鼻腔をくすぐった。カウンターの中では、店の歴史そのもののような白髪のマスターが、サイフォンを前に身じろぎもせず立っている。
私は、店の最奥にある、観葉植物の影になった薄暗いテーブル席を選んだ。向かいに座るかなちゃんは、先ほどから冷めたコーヒーのカップの縁を指でなぞるばかりで、視線を合わせようとしない。厚化粧の下の肌は荒れていて、かつての健康的な輝きは見る影もなかった。
重苦しい沈黙が、二人の間を支配していた。私は、乾いた喉を水で潤すと、意を決して上着の内ポケットから茶封筒を取り出した。 中には、来る途中の銀行で下ろしたばかりの十万円が入っている。今の彼女にとって、それがどれだけの重みを持つのか、痛いほど理解していた。
私は無言のまま、テーブルの上を滑らせるようにして、その封筒を彼女の目の前に差し出した。生々しい茶色が、白いテーブルクロスの上でひどく目立った。
かなちゃんは、一瞬、ビクリと肩を震わせた。 「え、おじさん、これ……」 わざとらしいほど驚いたような声を上げ、戸惑ったように視線を泳がせたが、その瞳は封筒に釘付けになっていた。 ためらいは、ほんの一瞬だった。彼女の細く骨張った指が、封筒の端を掴む。その手は微かに震えていたが、すぐに力を込めて引き寄せ、安っぽいハンドバッグの底へと押し込んだ。
再び、沈黙が落ちた。今度は、先ほどよりもさらに重く、粘り気のある沈黙だった。私たちは「金」を介して、決定的な一線を越えてしまったのだ。かつての「近所の優しいおじさん」と「娘の友人」という関係は、音を立てて崩れ去った。
柱時計が、時を刻む音だけが響く。どれくらいの時間が過ぎただろうか。 不意に、かなちゃんが顔を上げた。その瞳には、生活に疲弊した女の、奇妙なほど冷めた光が宿っていた。
「おじさん、行きましょう」
その声は、感情が抜け落ちたように平坦だった。だが、そこには拒否できない引力が含まれていた。 私は、操り人形のように頷き、伝票を掴んで立ち上がった。
夕暮れの街は、家路を急ぐ人々や、これから夜の街へと繰り出す人々で溢れかえっていた。私たちは、他人行儀な距離を保ったまま、言葉もなく歩き出した。 かなちゃんの背中を追うようにして、細い路地を曲がる。そこには、周囲の古びた住宅街から浮き上がったような、毒々しいネオンサインを掲げた建物が待ち構えていた。
彼女はためらうことなく、表のきらびやかな自動ドアではなく、建物の側面に口を開けた、ゴミ箱の陰にある目立たない裏口へと向かっていく。まるで、人目につくことを恐れる夜行性の小動物のようなその慣れた仕草に、私の胸は再び激しい自己嫌悪と、それとは裏腹な、背徳的な暗い興奮で満たされた。 重い鉄扉を開け、カビ臭い薄暗い廊下へと足を踏み入れる瞬間、私はもう、後戻りはできないのだと悟った。
重い鉄扉が音を立てて閉まり、外界と隔絶された密室に、鼻をつく安っぽい芳香剤と、染みついた煙草の臭いが澱(よど)んでいた。
部屋に入った瞬間から、彼女はもう、私の知る「かなちゃん」ではなくなっていた。 かつて娘と無邪気に笑い合っていた少女の面影は、厚い化粧と、生活に疲弊した大人の女の、どこか投げやりな仕草の中に完全に埋没していた。彼女は慣れた手つきで衣服を脱ぎ捨て、事務的にシーツの上にあお向けになった。そのあまりにも即物的な態度が、私に、ここがどういう場所であり、私たちがこれから何をするのかを冷酷に突きつけた。
私は、臓腑をえぐるような強烈な背徳感に襲われ、吐き気すら覚えた。娘の幼馴染を、金で買ったのだ。だが、それと同時に、私の体の奥底から、どす黒く熱いものが這い上がってくるのを止められなかった。それは、超えてはならない一線を越えてしまった者だけが知る、昏(くら)い高揚感だった。禁忌を犯す興奮が、老いた私の血管を駆け巡り、理性などという薄皮を容易く食い破った。私は、罪悪感と情欲が混濁した泥濘(でいねい)の中で、彼女の痩せた体を貪った。
事後、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。 逃げるように裏口から路地へ出ると、街はすっかり夜の底に沈んでいた。先ほどまでの静けさが嘘のように、通りには毒々しいネオンサインが瞬き、仕事帰りのサラリーマンたちが赤い顔をして行き交っている。その健全な喧騒が、薄汚れた今の私にはひどく眩しく、そして疎ましく感じられた。
「それじゃあ、私、急ぐから」
かなちゃんは、短くそう言うと、軽く頭を下げた。その声は、行為の最中のどこか演技がかった甘え声とは違う、生活者の、母親の声に戻っていた。彼女は十万円の入ったバッグを胸に抱え込むようにして、子供たちが腹を空かせて待つ小さなアパートへと、足早に雑踏の中へ消えていった。その後ろ姿は、哀れなほど小さく、そして強かだった。
私は一人、取り残された。 このまま電車に乗って、妻の待つ冷えた家に帰る気にはなれなかった。今、私の体にまとわりついているこの湿った空気を、家庭に持ち込むわけにはいかない。 私は、路地裏に赤提灯(あかぢょうちん)をぶら下げた、古びた居酒屋の煤(すす)けた縄のれんをくぐった。煮込みの甘辛い匂いと、酔客の話し声が渦巻く狭いカウンターの隅に身を滑り込ませる。 「瓶ビール、一本」 運ばれてきたビールを、グラスに注ぐのももどかしく喉に流し込んだ。冷たく、強い苦みが、乾いた食道を焼きながら落ちていく。それは、あの安ホテルの部屋の澱んだ空気を洗い流してくれるようでもあり、同時に、私の腹の底に溜まった取り返しのつかない罪の意識を、さらに重く定着させるようでもあった。
あれから、一月(ひとつき)が過ぎた。
私はまた、かなちゃんとホテルの一室にいた。 場所は前回とは違うが、安普請の壁紙も、鼻につく芳香剤と染みついた煙草の臭いが混じり合った澱(よど)んだ空気も、何ら変わりはない。変わったのは、私たちがこの空間に――そして、この行為に、慣れてしまったということだけだ。
シャワーの音が止み、バスルームのドアが開く。湯気と共に現れたかなちゃんは、濡れた髪をタオルで拭きながら、どこか事務的な様子で衣服を身に着けていく。その一連の動作には、もはや最初の頃の怯えや戸惑いは微塵もない。それは、生活のために体を売ることに順応してしまった女の、哀しいほどの逞しさだった。
もう、後戻りはできない。 最初の夜に感じた強烈な背徳感や自己嫌悪は、回を重ねるごとに麻痺し、今ではドブ川の底に沈殿するヘドロのように、私の心の奥底に重く居座っているだけだ。
私にとって、彼女はもはや単なる欲望の捌け口ではなくなっていた。 かつて娘と遊んでいた少女の面影と、今のやつれた女の姿が、私のの中で歪に融合し、奇妙な独占欲と、歪んだ庇護欲が芽生え始めていたのだ。これは恋などという甘美なものではない。もっと昏(くら)く、粘着質な感情だ。
だが、かなちゃんにとって、私は数いる「客」の一人に過ぎない。生活費という名の十万円を運んでくる、都合の良い老いた男。それが現実だ。 私は、胸の内に渦巻く身勝手な感情を、理性で必死に押し殺す。そんなものを彼女に向けたところで、困惑されるか、あるいは軽蔑されるだけだろう。だから私は、ただひたすらに、老醜を晒して欲望に身を任せる。それが、この部屋における私の唯一の役割なのだから。
帰り際、いつものように茶封筒を手渡すと、彼女は小さく頭を下げた。 「……それじゃ、また」 短い言葉の裏に、私たちは共通の強迫観念を共有している。 この関係は、絶対に誰にも知られてはならない。特に、私の娘であり、彼女の幼馴染であるしのぶにだけは。 もし露見すれば、私は家族からの信頼をすべて失い、かなちゃんは最後の居場所すら失うだろう。私たちは、この秘密を共有するという一点においてのみ、奇妙な連帯感で結ばれていた。
一人になり、電車に揺られながら、私は財布の中のキャッシュカードを指先で撫でた。 年金暮らしの身にとって、月々十万円の出費は、身を削るような重荷だ。預金通帳の残高は、目に見えて減っていく。それは、私の穏やかな老後が、確実に削り取られていく音でもあった。
破滅に向かっていることは分かっている。 それでも、私はまた、かなちゃんに連絡を取るだろう。 あの薄暗い部屋で、彼女の体に触れる瞬間の、脳が痺れるような快楽と、深い絶望の味を求めて。
貯金が底をつき、全てが終わるその日まで、私はこの泥沼から抜け出せそうにない。
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