人生の晩年(残光)に差し掛かった四人が、調和と不協和音を繰り返しながら、それぞれの運命を狂わせていく物語
この作品は、単なるスワッピングという題材を超えて、「長年連れ添った夫婦の間に横たわる、底知れぬ深淵」を描き出した作品です。
登場人物
淳史: 安定の中に空虚を感じ、最後はすべてを失いながらも、剥き出しの「生」を噛みしめる孤独な男。
由紀子: 夫さえ知らなかった「秘密」を抱え、他者との交わりの中で劇的に開花し、去っていった女。
健一と久美子: 淳史たちの日常を破壊する劇薬でありながら、彼ら自身もまた、その炎に焼かれていった共犯者。
この四人が奏でた旋律は、決して美しいだけではなかった。心に深く刺さる力強いものだった。
『残光の四重奏(カルテット)』
高橋淳史は、六十三歳という年齢を自らの肉体に感じさせない強靱さを持っていた。 定年という人生の区切りを打ち、妻の由紀子と共に移り住んだのは、信州・長野の静謐な森に佇む別荘だった。
朝、冷涼な空気を肺の奥まで吸い込みながら近隣の公園を歩く。午後は陽光が差し込む庭で土をいじり、あるいは書斎でページを繰る。時間の流れは驚くほど緩やかで、都会の喧騒が嘘のような、凪いだ湖面のような日々だった。
しかし、その穏やかすぎる日常の裏側で、淳史の心には言いようのない空虚が澱のように沈んでいた。
由紀子との結婚生活は四十年に及ぶ。そこにあるのは、積み重ねた歳月だけがもたらす「安定」という名の沈黙だった。かつて燃えていたはずの情熱は、いつの間にか形を変え、今や灰すら残っていないことに淳史は気づいていた。 深い絆はある。互いを頼りにはしている。けれど、交わされる会話は「明日の天気」や「近所のニュース」、あるいは「互いの血圧」といった、生活の表面をなぞるだけのものに終始していた。
同じ屋根の下で暮らし、同じ食卓を囲んでいても、そこに流れるのは夫婦の情愛というよりは、長年連れ添った「同居人」としての淡々とした空気だった。 現役時代、がむしゃらに仕事に打ち込んできた淳史にとって、ただ過ぎ去っていくのを待つだけの毎日は、自分という存在が少しずつ削り取られていくような焦燥感を伴っていた。
「自分は、まだ何かを求めているのではないか」
その「何か」が刺激なのか、あるいはもっと別の感情なのか、自分でも判然としない。ただ、胸の奥で燻り続ける欠落感だけが、静かな別荘の夜に重くのしかかっていた。
そんなある日の午後、静寂を破るようにスマートフォンのバイブレーションが響いた。 画面に表示されたのは、学生時代からの親友、佐藤健一の名だった。
「よう、淳史。久しぶりだな。一度、ゆっくり飯でも食わないか」
受話器越しに聞こえる健一の快活な声は、停滞していた淳史の意識を鮮やかに揺さぶった。互いに定年を迎え、それぞれの生活が変わった忙ことで疎遠になっていたが、健一は淳史にとって数少ない、本音で切り結べる相手だった。
「ああ、いいな。ぜひ会いたいな」
自然と声が弾んだ。その再会の場には、健一の妻である久美子も同席するという。 久美子は、太陽のような明るさを持った女性だった。若かりし頃、淳史が悩みを抱えていたときも、彼女はいつも気さくに耳を傾けてくれた。
健一との再会、そして久美子の弾けるような笑顔。 それらを思い浮かべた瞬間、淳史の胸の奥に、長く忘れていた仄かな温もりが灯った。それは、灰色の日常に差し込んだ、一筋の光のようでもあった。
健一夫妻との会食について切り出すと、由紀子は手元の家事に目を向けたまま、「そう、」とだけ言った。感情の起伏を削ぎ落としたような、淡々とした返事だった。
淳史はその余白に、否定も肯定もない冷ややかな静寂を感じて、胸の奥が少しだけ疼いた。それ以上言葉を重ねる気になれず、彼は独り、黙々と出かける準備を整えた。
待ち合わせのレストランに足を踏み入れると、そこには既に健一と久美子の姿があった。 二人の周りだけ、空気が柔らかく波打っているように見える。六十六歳になった健一は、今なお内側から溢れ出すような生命力に満ちていた。隣に座る久美子に向ける眼差し、そして久美子がそれに応える時の微かな微笑み。その親密な空気感に、淳史は言いようのない羨望を覚えた。
「久美子さんは、相変わらずお元気そうでいいわね」
食事の最中、由紀子がふと漏らした言葉には、どこか自嘲めいた響きがあった。
「私は最近、どうも疲れやすくて……」
その言葉を聞き逃さず、久美子が心配そうに由紀子の顔を覗き込んだ。
「由紀子さん、大丈夫? 私だって健一と喧嘩することくらいあるわよ。でもね、こうして向き合って話しているのが、一番の薬になるの」
久美子の屈託のない笑顔と、包み込むような優しさに触れ、淳史の強張っていた心がほんの少しだけ解けていくのが分かった。 食事が進むにつれ、淳史は自然と久美子との会話に没入していった。彼女の明るく、それでいて知性に裏打ちされた軽妙な語り口は、久美子が高校時代から持ち合わせていた魅力だった。思い出話に花を咲かせる時間は、淳史にとって、長い間忘れていた「心の渇き」を潤してくれる新鮮な水のようなものだった。
夜、別荘に戻ると、そこにはいつもの沈黙が待っていた。 帰宅するとすぐに由紀子はテレビの前に座り、静かに画面を見つめている。淳史は隣に腰を下ろし、流れていく映像を共に眺めていたが、意識はまだ、レストランの温かな光の中にあった。
あの健一と久美子の関係――。 互いを尊重し、言葉を尽くし、人生を謳歌しようとする二人の姿。
日常という名の平穏に戻ったはずの淳史の心には、消えることのない火種が残っていた。あの夜の刺激、そして久美子の笑顔。もう一度、あの輝きに触れたいという切実な思いが、暗い部屋の中で静かに、けれど確実に膨らんでいくのを淳史は自覚していた。
リビングに漂う沈黙を破ったのは、妻・由紀子の予期せぬ一言だった。 「スワッピング――夫婦を、交換するんですって」 その言葉が、耳慣れない異物として淳史の意識に突き刺さる。
「冗談だろう?」 淳史は震える声で一度だけ尋ねた。しかし、向き合った由紀子は目をそらすことなく、静かに首を横に振った。
「私も、最初は悪い冗談だと思ったわ」 由紀子は膝の上で指を絡ませ、ためらいながら言葉を紡いでいく。
「でも、久美子さんは本気だった。……そして、それを聞いているうちに、私もどこかで納得してしまったの。私たちは、あまりに長く同じ場所で、同じことだけを繰り返してきたでしょう? 凪(なぎ)のような毎日の中で、私自身も、心のどこかで強烈な刺激を求めていることに気づかされたの」
妻の独白は、淳史の胸の奥にある「空洞」を正確に射抜いていた。 四十年の歳月。それは確かな絆を築いた時間であると同時に、情熱という名の火を、穏やかな日常という砂で少しずつ埋め立ててきた時間でもあった。互いを知り尽くし、予定調和の中に安住する。それは平穏ではあったが、生きているという実感からは程遠いルーティンだった。
まさか、あの健一と久美子からの提案が、自分たちの日常を根底から揺さぶることになるとは。
「本気で、やってみるつもりなのか」
淳史の声は、自分でも驚くほど乾いていた。平静を装おうとしても、指先の微かな震えまでは隠せない。
「正直に言えば……まだ、自分でも想像が追いついていないわ」
由紀子は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと続けた。
「でも、久美子さんの話を聞いて、私たちの関係に『何か』が必要な時期なのだと思えてならなかったの。もちろん、あなたが嫌だと言えば、この話はここで終わり。でも、もし、あなたも私と同じように感じているのなら……」
淳史は言葉を失い、ただ窓の外の闇を見つめた。 倫理観と、長年連れ添った妻への独占欲。それらが激しく火花を散らす一方で、心の片隅には、抗いがたい好奇心の芽が顔を出していた。
あの夜、レストランで見た久美子の眩いばかりの生命力。 もし、彼女の隣に座るのが自分だったなら――。
思考が危険な領域に踏み込むのを自覚しながらも、淳史の鼓動は早まっていた。正解などどこにもない。ただ、長野の冷涼な空気の中に、一度火がつけばすべてを焼き尽くしてしまいそうな、熱い欲望の気配が混じり始めていた。
誘い
久美子とは長年、家族ぐるみの付き合いを通して深い信頼を築いてきた。だからこそ、この誘いが決して卑俗なものではなく、彼女なりの切実な親愛の形であることは、淳史(あつし)にも理解できていた。
しかし同時に、この一歩を踏み出せば、これまでの穏やかで平穏だった生活が跡形もなく変容してしまうのではないかという恐怖が、波のように彼を襲った。
「正直に言って、どう答えを出せばいいのか分からない」
淳史は、絞り出すように本心を吐露した。
「興味がないと言えば嘘になる。だが……本当にこれでいいのか、自分を納得させる時間が欲しいんだ」
妻の由紀子は、静かに、深く頷いた。
「もちろんよ。急ぐ必要なんてないわ。私だって、まだ気持ちの整理がついているわけじゃない。ただ、こういう選択肢が私たちの前にあるのだと、あなたに知ってほしかったの」
その夜、淳史は一睡もできなかった。 由紀子との四十年に及ぶ歳月、健一と久美子との変わらぬ友情、そして、自分の中に芽生えた見たこともないほど毒々しく、かつ魅力的な刺激への渇望。それらが脳内で渦を巻き、淳史を深い闇へと引きずり込んでいく。 自身の選択が、これからの残された人生を決定的に変えてしまう。高揚と恐怖の狭間で揺れ動きながら、彼はまるで、自分という存在が別の世界へ滑り落ちていくような感覚に囚われていた。
数日後、再び席を共にした四人の夕食は、表面的にはいつものように明るく、和やかな雰囲気に包まれていた。 しかし、その薄氷の下には、耐えがたいほどの緊張と期待が渦巻いている。軽快な笑い声が響くたび、淳史はその裏側に潜む「これから起こること」への意識を強く感じずにはいられなかった。
食事が終わり、デザートの皿が下げられた頃だった。 ふいに、久美子が微かな、けれど確かな意志を宿した微笑みを浮かべて淳史に歩み寄った。
「――行きましょうか」
耳元で囁かれたその優しく、有無を言わせぬ誘い。 その瞬間、淳史の心臓は、これまでの六十三年の人生で一度も経験したことがないほど激しく、乱暴に鼓動を打った。
彼が今、まさに踏み越えようとしている境界線。 その向こう側にある現実が、容赦のない熱量を持って淳史の全身を貫いた。
一夜が明けて
長野の静謐な山間に佇む別荘。一夜が明け、窓から差し込む朝光は残酷なほどに澄んでいた。しかし、高橋淳史の心の中には、泥のように重く静かな不安が堆積していた。
四十年の歳月をかけて築き上げた「夫婦」という名の砂の城。このまま久美子と健一との危うい均衡を続けていけば、それが音を立てて崩れ去るのではないか。予感は、冷たい指先のように彼の背筋を撫でた。
「……どうするの?」
隣で由紀子が、震える声で問いかけてきた。 彼女の瞳には戸惑いの色が浮かんでいたが、その奥底には、今まで見たこともないほど濃密な欲望が鮮やかに揺らめいている。長年連れ添った妻でなければ、その微細な変化に気づくことはなかっただろう。聖域だったはずの彼女の内側に、他者の影が深く刻まれている。
「一度だけのつもりだったのに、またか……」
淳史は自嘲気味な笑いを噛み殺した。正論を言えば、ここで踏みとどまるべきなのだ。しかし、網膜には久美子の肌の温もりと、彼女が見せた大胆な一挙手一投足が鮮明な残像として焼き付いている。由紀子への罪悪感は確かにあったが、新たに芽生えた野性的な渇望は、良心の呵責を容易く凌駕していた。
そして、目の前の由紀子もまた、自分と同じ地獄を見つめているのだと淳史は気づく。彼女の沈黙は、健一と過ごした時間の余韻を反芻している証だった。
「淳史……実は私、健一さんともう一度一緒にいたいという気持ちを、どうしても抑えられないの」
視線を落とし、本音を漏らす由紀子。彼女の声には、関係が壊れることへの恐怖と、引き返せない快楽への期待が混在していた。
「……もう一度だけ、試してみよう」
淳史は静かに決断を下した。
「お互いがどこまで受け入れられるのか、それとも壊れてしまうのか。それを確かめるために」
その言葉は、自分自身への宣告でもあった。
第二夜の幕開け
扉が閉まる、乾いた音がした。その微かな残響は、淳史にとって日常という安全圏が完全に断絶された合図のように聞こえた。
久美子の待つ客間は、自分たちの寝室からわずか数メートルしか離れていない。しかし、一歩足を踏み入れたそこは、まるで異界だった。隙間なく引かれたカーテンが外の闇を拒絶し、枕元のスタンドライトが琥珀色の陰影を部屋に落としている。
空気の中に、由紀子の使う石鹸のような清潔な匂いとは異なる、ジャスミンのような甘く重い香りが漂っていた。
「淳史さん、そんなに遠くにいないで」
ベッドの端で微笑む久美子。シルクのナイトウェア越しに見える彼女の肩のラインは、六十代とは思えないほど滑らかだ。その潤んだ瞳が、淳史の理性を嘲笑うかのように光った。
『自分は、親友を裏切り、妻を差し出している』
その汚濁の感覚こそが、停滞しきっていた彼の生命を激しく燃え上がらせる薪となっていた。四十年かけて育てた「誠実な夫」という皮が剥がれ落ち、一人の男としての、浅ましいまでの渇望が剥き出しになる。
二度目の夜。久美子と向き合う淳史の体からは、初夜のような緊張は消えていた。一度互いの深部を知ったことで、二人の距離は残酷なまでに縮まり、互いの輪郭をなぞる指使いは驚くほど自然で、滑らかだった。
久美子の手が肌をなぞるたび、六十三歳の肉体が鮮やかに蘇っていく。淫靡で刺激的なひととき。しかし、喜びが頂点に達しようとするその瞬間、淳史の脳裏には、隣の部屋で妻を抱いているはずの健一の顔が不意に浮かび上がった。
親友が自分の妻と何を交わしているのか。その残酷な想像と、目の前の女が与えてくれる悦楽。二つの情念が混ざり合い、意識は混濁していく。
「もう、戻れない」
暗闇の中で誰にともなく呟いたその声は、久美子の吐息にかき消され、深い夜の底へと沈んでいった。
二夜にわたる「交換」を終えた翌朝、別荘のダイニングルームには、目を刺すほど鮮烈な朝日が差し込んでいた。
テーブルの上に並んだのは、湯気を立てるコーヒー、軽く焦げ目のついたトースト、そして地元の瑞々しい果物。いつもと変わらないはずの朝食の光景が、今の淳史(あつし)には、精巧に作られた舞台セットのように空々しく感じられた。
四人が揃って席に着いた瞬間、部屋の空気は密度を増し、逃げ場のない緊張感が全員を支配した。
「……よく眠れたかな、淳史」
健一(けんいち)が、何事もなかったかのような快活な声で口を開いた。しかし、その視線は淳史の目をわずかに避け、手元のコーヒーカップへと注がれている。淳史は、健一のその逞しい指先を凝視せずにはいられなかった。 (この指が、昨夜は由紀子の肌をなぞっていたのだ) そう思った瞬間、胃の奥がせり上がるような倒錯した感情が淳史を突き上げる。それは嫌悪感というよりは、親友と妻を共有したという、逃れようのない「共犯意識」の重みだった。
「ああ、静かだったからな。……健一の方こそ、どうだった」
淳史の声は、自分でも驚くほど低く響いた。
「最高に、充実した夜だったよ」
健一はそれだけ言うと、短く笑ってパンを口に運んだ。その言葉の含み、そしてその後の沈黙。ダイニングには、磁器の皿と銀のフォークが触れ合うカチリ、という硬質な音だけが、不自然なほど大きく響き渡る。
ふいに、由紀子が立ち上がり、久美子(くみこ)のカップにコーヒーを注ぎ足した。
「久美子さん、顔色がとてもいいわね。何か、いい夢でも見たのかしら」
由紀子の言葉は一見穏やかだったが、その瞳には、淳史さえ見たことのない妖しい光が宿っていた。昨夜、別の男の腕の中で開花したであろう何かが、彼女の纏う空気を決定的に変えていた。
「ええ、本当に」
久美子が、淳史に向けていたずらっぽく、しかし深い慈愛を含んだ微笑みを投げかける。
「長野の夜は、都会よりもずっと濃密なんですもの。淳史さんの……別荘の案内が、とても丁寧だったから」
『案内』という言葉に込められた隠語に、淳史は思わず息を呑んだ。 テーブルの下で、誰の足が誰に触れているのか。あるいは、誰もがその疑念を抱きながら、平静を装っているのか。
かつては信頼と親愛で結ばれていた四人の友人関係。しかし今、この食卓を囲んでいるのは、昨日までの「親友夫妻」ではない。互いの最も秘められた部分を晒し合い、欲望を等価交換した、四人の共犯者たちだった。
誰もが、昨日までの自分たちには戻れないことを確信していた。 トーストを噛み砕く音、コーヒーを飲み込む音、そして重苦しい沈黙。 降り注ぐ朝光の眩しさが、彼らの内側に刻まれた淫らな傷跡を、いっそ残酷なまでに鮮明に照らし出していた。
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二日間の密やかな狂乱を終え、淳史の運転するSUVは、長野の深い緑の中を別荘へと向かっていた。
車内には、エンジンの低い唸りとタイヤがアスファルトを叩く音だけが響いている。わずか四十八時間前と同じ空間のはずなのに、隣に座る由紀子との間には、目に見えない巨大な亀裂、あるいは濃密な「何か」が横たわっているように感じられた。
淳史はハンドルを握る手に力を込めた。バックミラーに映る自分の顔は、以前よりもどこか生々しく、毒気を含んでいるように見える。 助手席の由紀子は、流れていく車窓の景色をただ黙って見つめていた。その横顔は穏やかだったが、彼女の纏う空気からは、淳史の知らない「健一」の気配が微かに立ち上っているような錯覚に陥る。
「……ねえ、淳史さん」
静寂を破ったのは由紀子だった。その声は細く、しかし確かな熱を帯びていた。
「ああ」
「私たち、これからどうなるのかしら。あんなに静かな日々を求めてここに来たのに。……今、家に戻るのが、少し怖いの」
淳史は視線を前方に固定したまま、短く息を吐いた。
「戻っても、昨日までの家じゃないかもしれないな。……物理的な場所は変わらなくても、俺たちの見え方が変わってしまった」
由紀子がゆっくりと顔をこちらに向けた。その瞳には、羞恥や後悔よりも、もっと深いところにある「生の肯定」のような光が宿っていた。
「でも、不思議ね。あんなに不安だったのに、心の中がこんなに騒がしいのは……生まれて初めてかもしれない。私、健一さんと過ごしている間、自分が由紀子であることを忘れていた気がするわ」
妻が他の男との悦楽を肯定する言葉。それは淳史の胸を鋭く抉ったが、同時に、彼自身の内側に眠る「久美子の残像」を激しく刺激した。
「俺も同じだ」
淳史は白状するように言った。
「久美子さんの肌に触れている間、俺は君の夫ではなく、ただの飢えた男だった」
言葉にしてしまうと、すべてが決定的なものとして固定されていく。 二人の間に流れる空気は、もはや「熟年夫婦の情愛」などという綺麗な言葉では括れない。そこにあるのは、互いの裏切りを共有し、共犯者として手を取り合う、歪で、しかし剥き出しの絆だった。
別荘の白い壁が見えてきた。 かつては平穏の象徴だったその建物が、今は自分たちの欲望を閉じ込めるための檻のように、あるいは新しい人生を始めるための繭のように見える。
車がガレージに滑り込み、エンジンが止まった。 訪れた完全な静寂の中で、淳史は隣に座る「見知らぬ女」である妻の手を、そっと握った。その手は冷たかったが、握り返す力は驚くほど強かった。
「……行こうか。俺たちの、新しい日常へ」
その声は、森の静寂に吸い込まれて消えた。二人は重いドアを開け、もはや聖域ではなくなったはずの我が家へと、ゆっくりと足を踏み入れた。
玄関の鍵を閉める音が、いつもより重く響いた。 外の森のざわめきが遮断され、リビングには時計の刻む音だけが残される。数日前まで「安息の地」であったはずのこの場所は、今や二人にとって、あまりに広すぎ、そして静かすぎた。
淳史(あつし)は、窓際のソファに深く腰を下ろした。視線の先では、由紀子(ゆきこ)がキッチンで水をグラスに注いでいる。その何気ない立ち姿さえ、今の淳史には異質なものに見えた。健一(けんいち)が触れ、愛でたはずの肢体。その事実が、淳史の心臓を不規則に叩く。
「……ここに戻れば、全部が夢だったことにできると思っていた」
淳史が独り言のように漏らした言葉に、由紀子が振り返った。彼女はゆっくりと歩み寄り、淳史と対角線上の椅子に座った。グラスを持つ指先が、わずかに震えている。
「夢じゃないわ。……私の体の中には、まだ、あの夜の感覚が残っているもの」
由紀子の口から出たあまりに率直な言葉に、淳史は息を呑んだ。これまでの由紀子なら、決して口にしないような生々しい響き。
「健一は……どうだった」
訊いてはいけないと思いながらも、淳史の口を突いて出たのは、最も卑俗で切実な問いだった。由紀子は視線を伏せることなく、淳史をじっと見つめ返した。
「優しかった。……でも、あなたとは全然違う、激しい優しさ。四十年間、一度も見たことがない自分を、彼に引き出された気がするわ」
由紀子の言葉は、刃物のように淳史の自尊心を切り裂いた。しかし、その痛みと同時に、猛烈な昂ぶりが淳史の芯を貫く。自分の知らない妻を、親友が暴いたという背徳感。
「そうか。……久美子(くみこ)さんもそうだった。彼女は、俺が君に求めても得られなかった『熱』を、容赦なく注ぎ込んできたよ」
淳史は吐き出すように言った。今、二人の間に流れているのは、長年積み上げてきた信頼の言葉ではない。互いの「浮気」を目の前に突きつけ合い、その傷口をさらに広げるような、残酷なまでの真実だ。
「ねえ、淳史さん」
由紀子が身を乗り出した。その瞳は、暗い炎のように潤んでいる。「私たちは、壊れてしまったのかしら。それとも、ようやく始まったのかしら」
「どちらでもいい」
淳史は立ち上がり、由紀子の前に膝をついた。
「ただ一つ確かなのは、俺は今、これまでのどの瞬間よりも、一人の女としての君を激しく求めているということだ。他の男を知った君を、俺がまた塗り替えたいと思っている」
由紀子の喉が、小さく鳴った。彼女の手が淳史の頬に添えられる。その掌の熱は、先ほどまで握っていた車のハンドルよりも、ずっと生々しく淳史の肌に伝わった。
「……最低ね、私たち」
「ああ、最低だ。……だが、これほど自分が『生きている』と感じたことは、かつての平穏な日々には一度もなかった」
淳史は由紀子の腰を引き寄せ、彼女の唇を塞いだ。そこには、健一の影がまだ色濃く残っているかもしれない。しかし、その影さえも愛おしく、憎々しく、そして何より刺激的だった。
別荘の窓の外では、静かな雨が降り始めていた。浄化のための雨ではなく、二人の内側に燃え広がる欲望の火を、さらに密やかに、深く閉じ込めるための雨だった。
ーーーーー
別荘に戻ってからの数日間、二人の間には奇妙な沈黙が流れていた。 それは以前のような「語るべきことがない沈黙」ではなく、互いの胸の内にある巨大な秘密に触れないよう、慎重に足場を選んで歩くような、薄氷を踏む静寂だった。
昼下がり、リビングのテーブルに置かれた淳史(あつし)のスマートフォンが、短く震えた。 その振動は、静まり返った部屋の中で驚くほど鋭く響いた。ソファで読書をしていた由紀子(ゆきこ)が、ぴくりと肩を揺らし、視線を本から上げた。
淳史は画面を覗き込み、一瞬、呼吸を止めた。
『また来週、あのお店でどうかな。久美子も、二人に会いたがっている』
健一(けんいち)からの、簡潔で、逃げ道のない誘いだった。
「……健一からだ」
淳史の声は、乾いた砂のように掠れていた。彼はスマートフォンをテーブルの上に滑らせ、由紀子に見えるように置いた。 由紀子はゆっくりと立ち上がり、吸い寄せられるように画面を凝視した。その瞳の奥で、数日前の夜に見たあの「暗い炎」が、再びちろちろと燃え上がるのを淳史は見逃さなかった。
「……どうするの?」
由紀子の問いは、拒絶を孕んでいなかった。むしろ、淳史に背中を押してほしいと願うような、微かな期待が混じっている。
「断ることもできる。ここで止めれば、まだ『一時的な迷い』として、俺たちの日常の中に葬り去ることもできるだろう」
淳史は自分に言い聞かせるように言った。しかし、脳裏にはすでに久美子(くみこ)のあの芳醇な香りと、自分を翻弄した大胆な指先が鮮やかに蘇っていた。一度呼び覚まされた獣のような渇望は、理性の檻を内側から激しく叩いている。
「葬り去れるかしら」 由紀子が、自嘲気味に、しかし艶やかに微笑んだ。彼女は淳史の隣に座り、震える手で淳史の腕に触れた。
「私は、もう無理だと思う。……鏡を見るたびに、自分の顔が以前と違って見えるの。健一さんに触れられた場所が、まだ熱を持っているみたいで」
妻の口から出る、親友への情欲。淳史は激しい嫉妬を覚えたが、その嫉妬こそが、彼をさらなる深淵へと誘う劇薬となった。
「……俺も、久美子さんのことが頭から離れない。君と食事をしていても、本を読んでいても、あの部屋の琥珀色の光と、彼女の声が割り込んでくる」
淳史は由紀子の肩を抱き寄せた。二人は今、一つの「共犯関係」を、より強固なものへと更新しようとしていた。
「もう一度行けば、本当に戻れなくなるぞ。俺たちの四十年間が、ただの『前奏曲』に過ぎなかったことになるかもしれない」
「それでもいい……」
由紀子が淳史の胸に顔を埋めた。
「静かなだけの余生なんて、もういらないわ」
淳史はスマートフォンの画面を叩き、返信を打ち込んだ。
『分かった。四人で会おう』
送信ボタンを押した瞬間、淳史は自分が決定的な境界線を踏み越えたことを悟った。 外では長野の森が深く、静かにざわめいている。しかし、この別荘のリビングに流れる空気は、すでに熱く、淫らな期待に満ちていた。 日常という名の安全な岸辺は、もはや遠く霞んで見えなくなっていた。
戻れない快楽
三度目の会合に選ばれたのは、街外れにある古い洋館を改装した隠れ家のようなレストランだった。 琥珀色の柔らかな照明が、厚いベルベットのカーテンに遮られた静かな個室を照らしている。
淳史(あつし)と由紀子(ゆきこ)が扉を開けた瞬間、そこにはすでに健一(けんいち)と久美子(くみこ)が待っていた。
「待っていたよ、淳史」
立ち上がった健一の声は、旧友を歓迎するそれよりも一段と低く、親密な響きを帯びていた。かつての「友人」というラベルはもはや形骸化し、そこには互いの妻を抱いた男同士という、逃れようのない肉体的な契約だけが横たわっている。
淳史は健一の視線を受け止めながら、同時に隣に立つ久美子の姿を網膜に焼き付けた。 今日の久美子は、深いワインレッドのドレスを纏い、首元には控えめだが艶やかな真珠が揺れている。その肌の白さを、淳史はすでに知っている。昨夜、自分がどこに唇を寄せ、彼女がどんな声を漏らしたか。その記憶が、公衆の面前という背徳感とともに淳史の喉を乾かせた。
「お待たせしてしまったかしら」
由紀子が、淳史の隣でゆったりと微笑んだ。 その微笑みは、別荘での沈黙していた日々からは想像もつかないほど、豊潤で自信に満ちている。彼女の視線は真っ直ぐに健一へと向けられた。それは夫の親友に対する礼儀ではなく、一人の女が、自分の最深部を暴いた男に送る熱い合図だった。
四人が席に着くと、テーブルの上には見えない糸が複雑に絡み合った。
「乾杯しましょう。……私たちの、新しい日々に」
久美子がグラスを掲げる。クリスタルが触れ合う澄んだ音が、密室の静寂に波紋を広げた。 以前のような、当たり障りのない近況報告や健康の話題はもう出ない。交わされるのは、一見すると世間話だが、その裏側には特定の夜の情景を想起させる隠語が散りばめられていた。
淳史は、テーブルの下で久美子の足先が自分の靴に微かに触れたのを感じた。 その確信犯的な接触に、淳史の心臓が跳ねる。視線を上げると、久美子は平然とワインを口に含みながら、由紀子と楽しげに談笑している。 一方、健一は淳史と視線を合わせながらも、その指先は時折、隣に座る由紀子のグラスに触れる。まるで、彼女の所有権の半分を自分が握っているとでも言いたげな、静かな独占欲。
かつての「四人の友人」という均衡は完全に崩れ去っていた。 今ここにいるのは、二組の夫婦ではない。互いの存在を触媒にして、眠っていた野生を呼び覚まし合う、四人の共犯者たちだ。
「今日は、前回よりも少しゆっくりしていけそうね」
久美子の言葉に、部屋の温度が一段階上がったような錯覚を淳史は覚えた。 その言葉の真意を、四人の誰もが正確に理解していた。デザートの皿が下げられた後、どの部屋で、誰が誰と、どのような夜を過ごすのか。
淳史は、自分の中の道徳心が完全に沈黙し、代わりに、隣の部屋で健一に抱かれるであろう由紀子を想像して昂ぶる自分を、もはや否定しなかった。 地獄へ落ちるなら、四人一緒だ。 その確信が、淳史に奇妙な安堵と、抗いがたい悦楽をもたらしていた。
重い樫の木のドアが閉まり、廊下を歩く健一と由紀子の足音が遠ざかっていく。 淳史(あつし)と久美子(くみこ)だけが残された客室には、先ほどまでの喧騒が嘘のような、濃密な沈黙が降りた。
淳史は、窓際で夜の街を見下ろす久美子の背中に歩み寄った。彼女の肩から立ち上るジャスミンの香りが、淳史の理性をじわじわと麻痺させていく。しかし、振り返った久美子の瞳は、いつになく冷徹な光を湛えていた。
「淳史さん。……始める前に、伝えておかなくてはいけないことがあるの」
彼女の手が、淳史の胸元で止まった。その指先の微かな震えが、ただならぬ予感となって淳史の動悸を早める。
「……何だい」
久美子は一度視線を落とし、それから覚悟を決めたように淳史を射抜いた。
「健一のことよ。あの人、由紀子さんに……本気になり始めているわ」
淳史の思考が一瞬、停止した。スワッピングという遊びのルール――それは、あくまで肉体的な刺激を分かち合う「共犯」であり、心の根幹にある夫婦の絆は侵さないという暗黙の了解の上に成り立っていたはずだった。
「何を根拠にそんなことを。健一は、そんなに軽率な男じゃない」
「男の軽率さなんて、女のほうがよく分かっているわ」
久美子は自嘲気味に微笑んだ。
「昨夜、健一のスマートフォンを見てしまったの。……通知に表示された、由紀子さんからのメッセージを」
淳史の喉が、引き攣るように鳴った。 『また会いたい』といった類のものではない。久美子の口から語られたのは、さらに深い「秘密」だった。
「由紀子さん、健一さんにだけ話したんですって。淳史さんにも、四十年間一度も明かさなかった『ある過去』のことを。……そして健一は、その秘密を知ったことで、自分だけが彼女の理解者だと思い込んでいる」
「由紀子の……秘密?」
淳史は立ち眩みを覚えた。四十年間、自分だけが知っていると思っていた妻。その聖域に、健一が足を踏み入れ、自分さえ知らない鍵を手に入れているという事実。
「二人はね、私たちが知らないところで、もう何度も連絡を取り合っているわ。……淳史さん、あなたは気づいていなかったでしょう? 由紀子さんが別荘で庭いじりをしている時も、キッチンで料理をしている時も、その心は健一の言葉を反芻していたのよ」
久美子の言葉は、容赦なく淳史の胸を抉った。 目の前の久美子を抱くことで得られる悦楽。しかしその裏で、自分の妻が、親友の精神的な虜(とりこ)になりつつあるという恐怖。
「……健一は、由紀子さんを奪うつもりかもしれないわ。この『遊び』を口実にして、本気で彼女を連れ去る準備を始めている」
久美子の声が、淳史の耳元で残酷に囁かれる。
「淳史さん、あなたはどうする? ……すべてを捨てて由紀子さんを連れ戻す? それとも、私と一緒に、この地獄を最後まで見届ける?」
淳史は久美子の腰を強く引き寄せた。彼女の肌の熱を感じながらも、淳史の脳裏には、今まさに隣の部屋で健一に「秘密」を語り、その腕に身を委ねているであろう妻の姿が、鮮明な、そして耐えがたいほどの解像度で浮かび上がっていた。
この部屋の琥珀色の灯りが、淳史には血の色のように見えた。 もはや、ただの刺激を求める「ゲーム」ではなかった。 四人の人生が、音を立てて砕け散り、再構築されていく。淳史は、震える唇を久美子の首筋に寄せた。それは欲望というより、唯一残された『武器』に縋るような、必死の抗いだった。
久美子の唇が離れ、部屋に静寂が戻った瞬間、淳史(あつし)の耳は無意識に隣の部屋へと向けられていた。
一度意識してしまうと、壁の向こう側から漏れ聞こえる微かな予兆が、鋭い針のように彼の鼓膜を刺した。
「……聞こえる?」
久美子が淳史の首筋に腕を回したまま、低く囁いた。彼女の瞳には、淳史を試すような、あるいは共犯者の苦悩を愉しむような色が浮かんでいる。
壁を隔てた隣室から、まずは掠れたような健一(けんいち)の笑い声が聞こえた。それは、淳史が数十年聞き慣れた、親友としての快活な笑いではなかった。もっと深く、独占的な熱を含んだ、一人の「雄」としての響き。
そして、それに重なるようにして聞こえてきたのは、由紀子(ゆきこ)の声だった。
「――そう、そんなふうに言ってもらえたのは、初めて」
淳史は心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。 その声は、驚くほど艶っぽく、そして何より「安らいで」いた。自分と向き合っている時の義務的な返答や、長年連れ添った末の乾いた相槌ではない。まるで、何十年も閉ざされていた心の扉が、健一の手によって滑らかに開かれていくような、解放感に満ちたトーン。
淳史は、久美子の細い肩を抱き寄せながらも、意識のすべてを壁の向こうの「会話」に集中させた。
「……淳史さんには、内緒にしておいてね」
由紀子が微かに立てた、弾むような衣擦れの音。それに続く、健一の低い、宥めるような囁き。具体的な言葉までは判別できない。しかし、その「音の温度」だけで、二人の間に流れているものが単なる一時的な情欲ではないことが痛いほど伝わってきた。
『由紀子さん、健一さんにだけ話したんですって。淳史さんにも、四十年間一度も明かさなかった……』
先ほどの久美子の言葉が、淳史の脳内で呪詛のようにリピートされる。 今、隣の部屋で、自分の妻は健一の胸に顔を埋め、自分には決して見せなかった「空白の四十年間」を埋めているのだ。健一はそれを優しく受け止め、淳史が築けなかった深い魂の繋がりを、わずか数夜で完成させようとしている。
淳史は、久美子の肌に顔を埋めた。彼女の香水が鼻を突くが、意識は隣室の情景を鮮明に描き出してしまう。 健一の指が由紀子の髪をなぞる。由紀子がそれに身を任せ、自分には見せたことのない恍惚とした表情を浮かべる。
「あ……っ、健一さん……」
短く漏れた由紀子の吐息が、壁を通じて淳史の耳に届いた。 それは、彼が最も恐れていた「真実」の証明だった。
「淳史さん、こっちを見て。……あっちに行っちゃダメ」
久美子が淳史の顎を強引に引き寄せ、深い口づけを強いた。 隣室の親密な音を遮断しようとするかのような、激しい接触。しかし、淳史の心はもはや、この部屋にはなかった。 自分の妻を奪われ、親友に裏切られ、それでもなお、目の前の女を抱き、背徳の泥濘に沈んでいく自分。
淳史は目を閉じ、久美子を乱暴に抱きしめた。 壁一枚を隔てて繰り広げられる、二組の男女の剥き出しの生。 長野の静かな夜は、もはや絶叫さえも飲み込んでしまうほど、残酷で、淫らな静寂に包まれていた。
ーーーーー
ホテルの朝食会場に差し込む陽光は、昨夜の淫らな狂乱をすべて浄化しようとするかのように、白々しく、そして残酷なまでに明るかった。
淳史(あつし)は、先に席に着いていた久美子(くみこ)の隣で、重いコーヒーカップを口に運んでいた。昨夜、壁越しに聞いたあの由紀子(ゆきこ)の声が、今も耳の奥で疼いている。
そこへ、健一(けんいち)と由紀子が連れ立って現れた。
二人は、何食わぬ顔で「おはよう」と声をかけてきた。その表情には、不自然な強張りも、過剰な演技もない。しかし、淳史の目は、二人の間に流れる「決定的に変わってしまった空気」を瞬時に捉えた。
「由紀子さん、昨日は少し寝不足気味だったかな。ほら、今日はフルーツを多めに摂ったほうがいい」
健一が、ビュッフェから持ち寄った皿を、迷いのない動作で由紀子の前に置いた。 「ええ、ありがとう。健一さんも、あまり無理をしないでね」
由紀子がそれに応え、ふわりと微笑む。 そのやり取りには、長年連れ添った夫婦のような、あるいはそれ以上に密接な「呼吸の一致」があった。淳史が四十年間、一度も由紀子に対して向けたことのない、そして由紀子からも受け取ったことのない、澱みのない信頼と甘え。
淳史は、喉の奥が焼けるような感覚を覚えた。 ただの交換相手であれば、そこにあるのは気まずさや、あるいは一過性の興奮のはずだ。しかし、目の前の二人の間には、もっと静かで、強固な「一体感」が根を張っていた。
「淳史、どうした? 顔色が悪いぞ」
健一が、親友としての顔で淳史を覗き込む。その瞳の奥には、淳史の知らない由紀子の「秘密」を共有している男の、傲慢なまでの余裕が滲んでいた。
「……いや、少し寝つけなかっただけだ」
淳史は短く答え、視線を由紀子に移した。彼女は今、健一が勧めたオレンジを口に運んでいる。その所作一つに、健一の色が染み付いているように見えてならない。
かつて、由紀子が淳史に何かを頼むときは、どこか遠慮がちで、言葉を選んでいた。しかし今、彼女が健一に向ける視線は、まるで自分の半身を預けているかのように無防備で、潤んでいる。二人が示し合わせたわけでもないのに、ふとした瞬間に同じタイミングでカップを置き、同じ角度で窓の外を眺める。
その「共鳴」の質が、淳史を疎外した。
隣に座る久美子が、淳史の膝の上にそっと手を置いた。テーブルの下で、彼女の爪が淳史のズボンの上から食い込む。久美子もまた、夫と親友の妻が作り出している、あの踏み込めない「聖域」を冷徹に見つめていた。
「由紀子さん、本当にお綺麗になったわね。……健一の魔法かしら」
久美子の棘のある言葉に、由紀子は一瞬だけ頬を染め、それから隠そうともせずに健一と視線を絡めた。
「……ええ。自分でも驚くほど、心が軽くなった気がするの」
その言葉は、淳史の隣で発せられながら、淳史の存在を完全に通り越して健一へと届けられた。 朝食のテーブルの上には、トーストの香ばしい匂いとコーヒーの香りが漂っている。しかし、淳史の鼻腔を突くのは、もはや隠しようのない「崩壊」の予感だった。
自分の妻が、自分の親友と、自分には到達できなかった深淵で繋がってしまった。 澄み渡る朝日の中で、淳史は自分が、この四人の輪の中から真っ先に脱落しつつある「異物」のように感じられて、激しい眩暈に襲われた。
ーーーーーーーーーー
別荘へと続く山道は、昨日までの雨を吸い込んだ深い森の匂いに満ちていた。 淳史(あつし)が運転するSUVのエンジン音だけが、不気味なほど静かな車内に響いている。隣に座る由紀子(ゆきこ)は、流れていく白樺の林をぼんやりと眺めていた。その横顔には、朝食の席で見せたあの「満たされた女」の残照が、未だに消えずに漂っている。
淳史はハンドルを握る手に力を込めた。指の関節が白く浮き出るほどに。
「……何を話したんだ」
低く、押し殺したような声が沈黙を切り裂いた。由紀子は視線を窓に向けたまま、小さく肩を揺らした。
「え?」
「健一(けんいち)と、何を話したんだと言っているんだ」
淳史はアクセルを踏み込んだ。スピードメーターの針が跳ね上がる。
「久美子(くみこ)から聞いたぞ。お前、あいつにだけは『秘密』を話したらしいな。四十年間、俺にさえ一度も明かさなかったことを、あいつにはたった二晩でさらけ出したのか」
由紀子がゆっくりと顔をこちらに向けた。その瞳は驚くほど冷ややかで、同時に挑発的な光を宿していた。
「……久美子さんに聞いたのね。そうよ、話したわ。あなたには一生かかっても理解できない、私の奥底に沈んでいた記憶を、健一さんは黙って受け止めてくれた」
「理解できないだと?」
淳史は鼻で笑った。しかし、その内側では嫉妬の炎が猛烈な勢いで理性を焼き尽くそうとしていた。
「俺たちが積み上げてきた四十年に、あいつが入り込む隙間なんてないはずだ。それなのに……。何を、どんなふうに、あいつと行為をしたんだ! 答えろ!」
絶叫に近い問いかけ。淳史は由紀子の顔を見ることができなかった。 由紀子は、ふっと、憐れむような笑みを浮かべた。
「知りたいの? 淳史さん」
その声は、かつての大人しい妻のものではなく、異国の深淵から響いてくるような、淫らで冷徹な響きだった。
「健一さんは、あなたが一度も触れなかった場所を、慈しむように時間をかけて愛してくれたわ。……あなたが義務のように済ませていた時間を、彼は『儀式』のように大切に扱ってくれた。あなたの指が一度も辿らなかった私の身体の裏側まで、彼はその唇で丁寧に塗り替えていったのよ」
「黙れ……っ!」
「私、知らなかった。自分がこんなに激しい声を出す女だったなんて。健一さんの腕の中で、私は生まれて初めて『自分』を見つけた気がしたわ。……彼は、あなたが決して見ようとしなかった、私の孤独を抱きしめてくれたの」
淳史は、急ブレーキを踏んだ。 タイヤが路面を激しく擦る音が静かな山々に響き渡り、車体はガードレールの手前で激しく揺れて止まった。
静寂が、以前よりも重く車内を支配した。 淳史はハンドルに額を押し当て、荒い呼吸を繰り返した。由紀子の言葉の一つ一つが、毒の塗られた矢となって彼の全身を貫いている。
「……君は、あいつを愛しているのか」
震える声で尋ねた淳史に、由紀子は何も答えなかった。ただ、彼女の手が淳史の肩にそっと置かれた。その手は温かく、しかし、そこにはもう、淳史の知る「所有物としての妻」の温もりはなかった。
「淳史さん。私たち、もう『夫婦』という言葉には収まらないところまで来てしまったのね」
由紀子の指先が、淳史の首筋をなぞる。 その感触に、淳史は激しい嫌悪と、それ以上の、抗いがたい情欲を覚えた。 他の男の刻印を深く刻み込まれた妻。その事実が、淳史を狂わせ、同時に、彼女をこれまでの人生で最も魅力的な存在へと変えてしまっていた。
二人は、別荘に向かって再び車を走らせた。 もはや、目的地は安息の家ではない。互いの裏切りと、曝け出された真実が渦巻く、新たな戦場へと向かっていた。
ガレージに車を停め、別荘の重い扉を閉めた瞬間、淳史(あつし)の均衡は音を立てて崩れ去った。
薄暗い玄関ホール。雨を含んだ湿った空気が二人の間に滞留している。淳史は、靴を脱ぎ捨ててリビングへ向かおうとする由紀子の手首を、乱暴に掴んだ。
「淳史さん……っ、痛い」
「黙っていろ」
淳史の声は、もはや理性の範疇を越えていた。彼は由紀子を壁に押しつけ、その細い身体を自分の体温で塗りつぶそうとする。
リビングのソファに彼女を突き倒すと、淳史はその上に覆いかぶさった。窓の外では激しさを増した雨がガラスを叩いている。その規則的な音さえも、今の淳史には、隣室で聞いた健一と由紀子の「あの音」の残響に聞こえて冷や汗が流れた。
「健一の、どこが良かったんだ。……あいつに、どんなふうに触られた」
淳史は由紀子の服を剥ぎ取るように乱暴に扱いながら、彼女の肌に執拗に唇を寄せた。そこにはまだ、久美子が言っていた「健一の色」が残っているような気がしてならない。
「淳史さん、あなたは今……私を愛しているの? それとも、健一さんへの憎しみをぶつけているだけ?」
由紀子が下から淳史を仰ぎ見る。その瞳は、恐怖よりも、淳史を観察し、弄ぶような奇妙な静謐(せいひつ)さを湛えていた。その落ち着きが、淳史をさらに逆撫でする。
「どっちでもいい! 今、ここにいるのは俺だ。あいつじゃない!」
淳史は由紀子の首筋に深く、痕が残るほどに噛みついた。それは愛情表現というよりは、自分の所有物であることを刻み込もうとする野性的な儀式だった。 四十年間、大切に、壊さないように扱ってきた妻。しかし、今求めているのは、そんな綺麗な関係ではない。他の男に暴かれ、他者の秘密を抱えた「穢れた女」としての彼女を、さらに力で捩じ伏せ、征服したいという、浅ましくも強烈な欲望。
「……あなたのこんな顔、初めて見たわ」
由紀子が、淳史の背中に爪を立てた。その痛みが、淳史をさらに昂ぶらせる。
「ふふ、いいわよ。……塗り替えて。健一さんが私に刻んだものを、あなたが全部、上書きして。……できるものなら」
その挑発的な言葉が、淳史の中で最後の一線を越えさせた。 淳史は由紀子の四肢を封じ、彼女を貪るように求めた。それはもはや、かつての穏やかな寝室の光景ではなかった。互いの裏切りを餌にして、嫉妬と情欲が複雑に絡み合う、泥濘(でいねい)のような交わり。
淳史は由紀子の中に自分を刻み込みながら、必死に彼女の瞳を覗き込んだ。 そこに見えるのは、自分か。それとも、まだ健一の残像を追っているのか。
「お前は俺の妻だ……俺だけのものだ……」
うわ言のように繰り返す淳史の言葉は、確信ではなく、縋るような祈りに近かった。 別荘の夜は深まり、雨音はすべてを隠蔽するように激しく降り続く。 淳史は、腕の中で激しく呼吸を乱す由紀子を抱きしめながら、自分たちがかつての「幸せな夫婦」には二度と戻れないことを、絶望的な恍惚とともに噛み締めていた。 そこにあるのは、純粋な愛ではなく、共犯と、独占欲と、修復不能な亀裂が生んだ、歪んだ情愛の形だった。
ーーーーーーーーーー
薄暗い朝の光が、寝室の厚いカーテンの隙間から、まるで無遠慮な侵入者のように差し込んでいた。
淳史(あつし)は、鉛のように重い身体をゆっくりと引き起こした。六十三歳の肉体にとって、昨夜の狂乱はあまりに過酷な代償を求めていた。節々の鈍い痛みと、使い果たした精根の代わりに残った空虚な倦怠感。
隣では、由紀子(ゆきこ)がシーツを胸元まで引き上げ、虚空を見つめていた。
「……起きたのか」
淳史の声は、ひび割れたガラスのように掠れていた。由紀子は答えず、ただゆっくりと身体を反転させた。その拍子に、シーツの端から彼女の剥き出しの肩が露わになる。
淳史の目は、そこに刻まれた「証拠」に釘付けになった。
彼女の白い首筋から鎖骨にかけて、淳史が昨夜、憎しみを込めて刻みつけた赤紫色の鬱血(うっけつ)が、生々しく浮かび上がっている。それは、彼が健一(けんいち)から彼女を奪い返そうともがいた、無様な征服欲の爪痕だった。
「……痛むか」
淳史が震える指先でその痕に触れようとすると、由紀子は避けることもなく、乾いた笑みを漏らした。
「ええ、痛いわ。……でも、鏡を見るまでもなく分かる。ここだけじゃないわよね」
由紀子は自らシーツを押し下げ、自身の身体を淳史の前に晒した。手首に残る指の痕、太腿に散った青い痣。それらはすべて淳史がつけたものだったが、彼女の瞳はそれらを「傷」としてではなく、まるで「勲章」を眺めるような、冷ややかで陶酔した光を湛えていた。
「これで……上書きできたと思っているの?」
由紀子の問いは、淳史の心臓を冷たく射抜いた。 淳史は彼女の背中に回り込み、そこに刻まれた自分の知らない「痕」を探した。健一が触れ、愛でたはずの場所。目に見える傷はなくとも、彼女の肌の質感、呼吸の間隔、そのすべてに健一の影が染み付いているように感じられてならない。
淳史は由紀子の背中に、自分自身の爪を立てた。昨夜の続きを求めるような激しさではなく、ただ、彼女の中に潜む他者の気配を掻き出したいという、執拗で退廃的な執着。
「……消えないな」
淳史は彼女の耳元で、絶望を孕んだ声で囁いた。
「いくら乱暴に抱いても、君の瞳の奥にいるあいつが消えてくれない」
「そうね」
由紀子は淳史の腕の中に身を預けながら、天井の一点を見つめた。「健一さんが私に教えたのは、痛みじゃないもの。……もっと静かで、深い、救いのような熱。それは、あなたがどんなに私の身体を傷つけても、決して届かない場所にあるのよ」
由紀子の言葉は、もはや淳史への拒絶ではなかった。それは、共に地獄の底まで墜ちていく共犯者への、最後の手向けのような慈悲だった。
二人は、乱れたベッドの中で、互いの傷を確認し合いながら、長い時間を過ごした。 かつてのような清潔な愛も、信頼も、そこにはない。あるのは、互いの裏切りを鏡のように映し出し、その歪みに恍惚を感じる、崩壊した夫婦の成れの果てだ。
窓の外では、雨上がりの森が蒸せ返るような緑の匂いを放っていた。 しかし、この部屋に漂うのは、古びた情愛が腐敗し、新しい毒に変わっていくような、甘く、重苦しい退廃の香りだった。
「淳史さん、もう一度だけ……あの人たちに会いましょう」
由紀子が、淳史の胸元で静かに言った。 淳史は答えず、ただ彼女の首筋の痣に、祈るように唇を寄せた。 もはや、止める術はなかった。傷つけ合うことでしか、自分たちの存在を確認できなくなった二人は、朝日が昇りきる頃、再び「四人の夜」を渇望し始めていた。
四人の夜
長野の森を、轟々とした重い雨が叩いていた。 別荘のリビングには、どこか葬礼(そうれい)を思わせるような、静謐で、それでいて狂おしいほど濃密な空気が澱(よど)んでいた。
四人が再び集結したその夜、もはや「挨拶」や「近況」を語る者は誰もいなかった。テーブルの上には、開けられたままの赤ワインが、凝固した血のような色を湛えて置かれている。
「……始めようか」
健一(けんいち)が、低く、支配的な声で告げた。その視線は淳史(あつし)を通り越し、隣に座る由紀子(ゆきこ)を真っ直ぐに射抜いている。由紀子もまた、夫である淳史の存在を忘れたかのように、陶酔した瞳でそれに応えた。
淳史は、由紀子の首筋に残る自分のつけた「痣」を見た。しかし、その痣さえも、健一という毒に侵された彼女を繋ぎ止める鎖にはならなかった。むしろ、その傷跡が、これから行われる「交換」の残酷さを際立たせるための装飾にさえ見えた。
「淳史さん、こっちへ」
久美子(くみこ)が、淳史の手を引いた。彼女の手のひらは、異常なほど熱を帯びている。 四人は、互いの視線を絡ませながら、ゆっくりと立ち上がった。誰が誰と、という確認すら不要だった。磁石が引き合うように、由紀子は健一の腕の中へ吸い込まれ、淳史は久美子の柔らかな身体を抱き寄せた。
廊下で交差する瞬間、淳史は見た。 健一が、由紀子の耳元で何かを囁き、由紀子がこれまで淳史に一度も見せたことのない、淫らで、しかし聖母のような清らかな微笑を浮かべるのを。
扉が閉まる音が、二つ。 それは、彼らが守ってきた「家族」という虚飾が、粉々に砕け散った終焉の合図だった。
客室のベッドに久美子を押し倒しながらも、淳史の意識は壁の向こう側へと狂ったように研ぎ澄まされていた。 雨音に混じって聞こえてくる、衣擦れの音。低い男の声。そして、由紀子の、あの絞り出すような吐息。
「集中して、淳史さん。……今、あなたの目の前にいるのは、私よ」
久美子が淳史の頬を両手で挟み、強引に唇を奪った。彼女の舌から広がるワインの渋みと、情欲の味。淳史は彼女を貪りながら、同時に、壁一枚隔てた向こう側で「完成」されていく、妻と親友の真実の交わりに絶望していた。
久美子の肌を爪が立つほど強く抱きしめる。しかし、その感触さえも、隣室で健一が由紀子の「秘密」を暴き、彼女の魂ごと奪い去っていく光景をかき消すことはできない。
「ああっ……! 健一さん、そこ……っ!」
壁を透過して届いた由紀子の絶叫。 それは、淳史との四十年間を、一瞬で無価値な灰に変えてしまうほどの熱量を持っていた。淳史はその声を聞きながら、久美子の中に自分を叩きつけた。
もはや、愛ではない。 そこにあるのは、互いの裏切りを供物(くもつ)として捧げ合う、血塗られた儀式だ。 四人の欲望が交差するたびに、部屋の空気は酸素を失い、代わりに窒息するほどの背徳感が充満していく。
淳史は、久美子の首筋に顔を埋め、獣のような声を漏らした。 涙なのか、汗なのか分からない液体が、シーツを汚していく。 彼は悟っていた。この夜が終われば、朝日が昇る頃には、自分たちはもう「人間」としての形を保てなくなっているだろう。
「……もう、壊れてもいい」
淳史の呟きは、隣室から聞こえてくる健一と由紀子の、重なり合う狂乱の叫びにかき消された。 別荘を包む長野の森は、ただ黙って、この四人の破滅を深い闇の中に閉じ込めていた。 引き返せない場所。戻るべき場所を自ら焼き捨てた四人は、最後の一滴まで互いを吸い尽くすように、終わりのない深淵へと墜ちていった。
朝日が差し込むダイニングは、もはや戦場の跡地のような静けさに支配されていた。
テーブルの上に残された、飲みかけのワイングラスと、冷え切ったコーヒー。窓の外では、昨夜の豪雨が嘘のように青空が広がり、長野の山々は残酷なほどに輝いている。しかし、その光は四人の顔に刻まれた深い疲労と、隠しようのない「喪失」を鮮明に照らし出すだけだった。
「……行こうか」
淳史(あつし)が、誰にともなく声を絞り出した。その声に、かつての威厳や力強さは微塵も残っていない。
四人は、重い足取りで玄関へと向かった。 荷物を車に積み込む間、誰も口を利かない。健一(けんいち)が由紀子(ゆきこ)のバッグを車に運び、一瞬だけ、二人の指先が触れ合った。その刹那、二人の間に流れたのは、淳史には決して立ち入れない、共犯者ゆえの深い「理解」の余韻だった。
由紀子は、別荘の扉を閉める前、最後に一度だけリビングを振り返った。 四十年の歳月を費やして築いてきた、穏やかで退屈な「幸せ」の残骸が、そこにはまだ浮遊しているように見えた。しかし、彼女の瞳には後悔の色はなく、ただ、すべてを焼き尽くした後のような、透明で虚ろな光が宿っていた。
カチリ、と鍵が回る音。 それは、彼らが戻るべき「日常」への扉が、永遠に閉ざされた音でもあった。
駐車場で、二台の車が向き合う。
「淳史、また……」
健一が言葉を切り出し、そして止めた。親友、という言葉はもはや、この場ではあまりに卑俗で、虚しい。健一の隣には、淳史を抱き、そして夫の裏切りを共に見届けた久美子(くみこ)が立っている。彼女の唇は固く結ばれ、その視線は遠くの森へと向けられていた。
「ああ。……元気で」
淳史の返事もまた、空虚に響いた。 淳史と由紀子を乗せたSUVが、砂利を鳴らして別荘を後にする。バックミラーの中で、健一と久美子の姿が次第に小さくなっていく。
車中、淳史はハンドルを握りながら、隣の由紀子を見た。 彼女の首筋には、淳史がつけた痣がまだ生々しく残っている。しかし、彼女の心は、もはや淳史の隣にはいなかった。彼女は、健一にだけ明かした「四十年前の秘密」を抱え、淳史の知らない別の場所で生き始めている。
二人がこれから向かうのは、かつての住まいだ。しかし、そこに待っているのは「夫婦」という名の空箱に過ぎない。 互いの裏切りを共有し、互いの底知れぬ欲望を暴き合い、そして互いを決定的に損なってしまった二人。
「淳史さん、窓を開けていいかしら」
由紀子が静かに尋ねた。淳史が無言で頷くと、窓から冷涼な山の空気が流れ込んできた。 その風は、由紀子の髪を乱し、車内に残っていた久美子の香水の残り香を、容赦なく外へと運び去っていく。
別荘地を抜ける坂道の途中で、淳史はふと、自分たちが失ったものの大きさに、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。 信頼、平穏、そして自分という男の誇り。 すべてを投げ打って手に入れたのは、消えることのない背徳感と、他者の肌の感触が染み付いた、震えるほどに孤独な肉体だけだった。
車は、国道へと合流し、都会の喧騒へと向かって速度を上げた。 背後にある長野の森は、四人の秘密と破滅を深く飲み込み、再び静寂へと戻っていく。 前を向いて運転を続ける淳史の頬を、一筋の涙が伝い落ちたが、彼はそれを拭おうとはしなかった。 隣に座る由紀子もまた、二度と戻ることのない「聖域」を見つめるように、ただ真っ直ぐに、朝の光に照らされたアスファルトを見つめ続けていた。
エピローグ
あの日から、五年という歳月が流れた。
淳史(あつし)は今、信州の別荘地からは遠く離れた、波音だけが単調に繰り返される房総の小さな町で暮らしている。かつての仕事の肩書きも、長年築き上げた地位も、そして「夫」という役割も、すべてはあの長野の深い森に置いてきた。
手元に残ったのは、最低限の家財と、幾ばくかの貯蓄、そして時折、古傷のように疼く記憶だけだった。
晩秋の午後の光が、海沿いの古びた喫茶店のカウンターに斜めに差し込んでいる。淳史は冷めかけた珈琲を口に運びながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。都会の喧騒からも、あの濃密な背徳の熱からも切り離された、凪(なぎ)のような日々。
ふいに、店の扉が開いた。
カラン、という乾いたベルの音とともに、一人の女性が入ってきた。 ベージュのコートを纏い、髪を後ろで緩く束ねたその背影を見た瞬間、淳史の心臓が、自分でも驚くほど激しく、乱暴に跳ねた。
(――由紀子か)
その歩き方、わずかに首をかしげる癖。それは、淳史が四十年間見続けてきた妻の面影そのものだった。しかし、彼女が連れの男性――自分よりも少し年下の、逞しい肩幅の男――に向けて微笑んだ瞬間、淳史は息を呑んだ。
その微笑みは、かつての穏やかで無機質な由紀子のそれではない。 あの最後の夜、壁の向こう側で健一(けんいち)に向けて放たれたであろう、一人の「女」としての、豊潤で、生々しい歓喜の色を宿した微笑みだった。
女性は淳史の視線に気づくことなく、奥の席へと消えていった。 ただの見間違いだ。自分があの日の亡霊を見ているに過ぎない。分かってはいても、淳史の指先は微かに震えていた。
由紀子(ゆきこ)とは、離婚届を提出して以来、一度も会っていない。 彼女がその後、健一と共に歩む道を選んだのか、あるいは一人でどこか別の深淵へ向かったのか、淳史は知らない。健一とも、久美子(くみこ)とも、あの日を境にすべての縁を断ち切った。
だが、今でも時折、夜の静寂の中でふと考えてしまう。 由紀子が健一にだけ明かした、あの「四十年前の秘密」とは何だったのか。 それは、淳史が彼女を「自分の所有物」だと思い込んでいた四十年間、彼女がずっと心の奥底に隠し持ち、彼には決して触れさせなかった、彼女自身の「核」だったのではないか。
結局、自分は彼女の本当の姿を、ただの一度も見ていなかったのだ。
淳史は窓の外の、冬を予感させる冷たい海を見つめた。 失ったものはあまりに大きく、取り返しがつかない。しかし、同時に彼は、自分の胸の奥に残っているあの「痛み」が、今の自分を支える唯一の重りであることも自覚していた。
あの退廃的な日々、四人で溺れた泥濘のような夜。 それらを経て、自分はようやく、虚飾ではない、剥き出しの「生」の終わり方に辿り着いたのかもしれない。
淳史はゆっくりと立ち上がり、会計を済ませて店を出た。 海風が、容赦なく彼の白髪を乱していく。 由紀子の面影は、もうどこにもなかった。ただ、遠くで鳴る波の音だけが、すべてを飲み込み、上書きしようとするかのように、どこまでも深く響き渡っていた。
淳史はポケットに手を入れ、一歩、また一歩と、誰も待っていない自分の家へと歩き始めた。 影が長く伸びる砂浜には、彼自身の足跡だけが、頼りなく、しかし確かに刻まれていた。


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